カテゴリ: 教皇聖下の声✿



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Vade Retro Satana,
サタンよ、向こうへ退け
Numquam Suade Mihi Vana.
虚しいものをもって私にささやくな
Sunt Mala Quae Libas;
お前の与えるものは悪に過ぎない
Ipse Venena Bibas.
お前がみずから、その毒を飲むがいい
 
 
フランシスコ教皇聖下
 
悪魔は強大な力をもって自らを現わします。
彼はあなたに種々のギフトをもたらすでしょう。
しかし、あなたは、その内にあるものが何であるかをわかっていないのです。
 
私は、10月の全ての日々に、ロザリオの祈りの結びに
『私たちはあなたの防御のもとへ』のアンティフォナを捧げるよう、
また、教会を分裂させることを望む悪魔の攻撃を撃退すべく、
大天使聖ミカエルへの祈りを捧げるよう、全ての人を、ふたたび招きます。
 
 
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Sub tuum praesidium confugimus
あなたの防御のもとへ私たちは逃れる
 
Sub tuum praesidium confugimus 
250年エジプトのパピルスのうちに見出された
ギリシア語の聖母への祈りをラテン語にしたものです
 
イメージ的には、聖母のマントの防御 praesidium のもとに
特に、あらゆる試練や逆境の際に
私たちの避難所として、そこに逃れて
聖母にかくまっていただく、といった感じの祈り文になります
 
現在、時課の典礼(聖務日課;教会の祈り)の終課の
結びの聖母賛歌のアンティフォナとして
他のアンティフォナ(Alma  Redemptoris Mater, etc.)と共に
時課の典礼書に掲載され
任意選択で用いられています
 
また、聖母の連祷に付加して唱えられたり
日本では、以前『終業の祈り』として文語で唱えられたりしていました
(長崎教区では今も用いられているようです)
 

 
Sub tuum praesidium confugimus,
あなたの防御のもとへ、私たちは逃れます。
Sancta Dei Genetrix.
聖なる神の御母よ、
Nostras deprecationes ne despicias in  necessitatibus,
逆境における、私たちの願いを軽んじることなく、
sed a periculis cunctis libera nos semper,
むしろ全ての試練から、私たちをいつも解放してください。
Virgo gloriosa et benedicta.
栄光に満ち、祝福されたおとめよ。
 
 
なたの防御のもとへ、私たちは逃れます。
聖なる神の御母よ、
逆境における、私たちの願いを軽んじることなく、
むしろ全ての試練から、私たちをいつも解放してください。
栄光に満ち、祝福されたおとめよ。
 
 
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聖ヨハネ・パウロ2
悪魔のいざないを退けるために神の助力を求めるべきこと
1986820日)
 
神から善いものとして創られたのに、自ら選んで神に背き
悪いもの、暗闇の王となった悪い堕天使がいることを知る私たちは
そのいざないにかからないように警戒しなければなりません
そのためキリスト者は、次のように願い求めるべきです
 
『私たちがいざないに負けることをお許しにならないでください。
 私たちを、悪から、そして、悪魔から解放してください。
 主よ、はじめから不忠実だったものが、
 私たちをも不忠実なものとなるよう、いざないをかけています。
 どうか、私たちが不忠実になるのをお許しにならないでください』。
 
霊戦は、その終わりに近づけば近づくほど、ますます激しさを増します
純粋な霊である悪魔は、強い力をもつ存在ですが
ただの被造物に過ぎず、その能力は無限ではなく
被造物としての限界があり、神の御旨と支配権に従属しています
 
私たちは、勝利をもたらす救い主キリストが
力強く守ってくださることを、確信しています
それは、私たちも勝利者となるためです
 
この勝利を獲得できるよう
神の愛の使者である善い天使たちは
力強く私たちを助けてくださいます
 

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大天使聖ミカエルへの祈り
 
天使聖ミカエルよ、霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。アーメン。
 
 
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教会の保護者聖ヨゼフへの祈り
 
これは大天使聖ミカエルへの祈り同様、レオ13世教皇ご自身が作成された祈り文で、1889815日レオ13世教皇は、回勅 Quamquam pluries によって、10月中のロザリオの祈りに、この教会の保護者聖ヨゼフへの祈りを唱えて、大いなる困難の渦中にあるカトリック教会のために、聖ヨゼフの取次ぎを求めるよう命じられました。
また、この祈りは部分免償が賦与されていて、19351213日及び1941310日付けで、通常3年の部分免償、毎水曜日には7年の部分免償、10月のロザリオの祈りの後に付加する場合も、7年の部分免償が付与されました。
(字数制限にかかるため、ラテン語原文は割愛しました)
 
いなヨゼフよ、私たちの苦難において、あなたによりたのみます。私たちは、あなたの最も聖なる妻の助けを求めるだけでなく、また、あなたの御保護をも、信頼して願い求めます。
私たちは、汚れないおとめ、神の御母と結ばれた、あなたの愛徳の故に、また、幼いイエズスを抱擁された、あなたの父としての愛情の故に、つつしんでお願いいたします。
イエズス・キリストが、その御血によって獲得された、遺産である私たちを、いつくしみ深く顧みてください。私たちの逆境に際し、あなたの力と働きによって、すみやかに助けられますように。
あぁ、神の家族の最も摂理的な守護者よ、イエズス・キリストの選ばれた子らを、見守っていてください。愛に満ち溢れた父よ、私たちのために、全ての誤謬と腐敗の伝染を防いでください。
私たちの最も力強い救援者よ、この暗闇の勢力との闘いにおいて、いつくしみ深く天上から、私たちに加勢してください。そして、かつて幼いイエズスを、生命の危機の極みから救い出されたように、今も、神の聖なる教会を、敵の偽りと、全ての災いからお護りください。
また一生涯の全ての日々、あなたの御守護のもとに私たちをかくまってください。こうして、あなたの模範と働きに支えられ、私たちが聖なる生活、敬虔な死を経て、天における永遠の至福にたどりつくことができますように。アーメン。
 
 


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大天使聖ミカエルへの祈り
 
 ランシスコ教皇聖下は、10月のロザリオの月において、ロザリオ後の聖母の連祷の結びに、大天使聖ミカエルの祈りを唱えるよう全教会に呼びかけられました。

この大天使聖ミカエルへの祈り文は、18841013日レオ13世教皇が、朝ミサ挙行後に、教会とサタンとの間に繰り広げられる戦慄すべき霊戦を幻視し、作成されたもので、おもに、ミサ後に、これをひざまずいて唱えるよう定められました。

この祈りは、1886年から1964年に至るまで、ミサ後に唱えられるよう義務づけられていました。

勘違いする人も多いようですが、義務が解かれただけであって、唱えること自体が禁止されたわけではありません。

むしろ、ベネディクト16世名誉教皇や聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって、この祈りをミサ後に唱えるよう推奨されてきました。

これを受けて、複数の大司教区や司教区において、ミサ後に、この祈りを唱えることが再導入されています。

なので、今は、義務ではありませんが、ミサ後に、各自任意で、唱えられることが勧められています。

もはや禁止された、などという誤情報を垂れ流す人は誰であれ、教会の想いを全く理解していないことを自ら露呈するものであり、霊戦において、悪魔側につく、偽りの扇動者になりさがっているということを認識し、その誤りをただすべきです。

なお、この祈りには、19321112日付けで、3年の部分免償が付与されています。
 
 
Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio,
contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium.
Imperet illi Deus, supplices deprecamur:
tuque, Princeps militiae caelestis,
Satanam aliosque spiritus malignos,
qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo,
divina virtute, in infernum detrude. Amen.
 
大天使聖ミカエルよ、
霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、
私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。
アーメン。
 
 
ご存知の方も多いでしょうが、カトリック中央協議会では、『教皇は「ロザリオの祈り」の最後に、古来の聖母への祈り「Sub tuum praesidium」と、悪との闘いでの保護と助けを願って「大天使聖ミカエルに向う祈り」を唱えるよう勧めています。』と記載しつつ、上記とは別の聖ミカエルの祈りを掲載しています。
 
 
祈り文が異なる、この誤った情報を掲載している中央協議会に対して、先日、ある外国人司祭が、クレームを入れたところ、『そちらの(教皇が要請した祈り文のほう)は、日本では浸透していないから。その大天使への祈りをする人は少ないでしょうから。』といったような理由から、協議会のサイトでは、教皇聖下が要請した祈り文とは異なる、別の祈り文を掲載している、とのことです。

「浸透していない」、「その祈りをする人は少ないだろうから」、本来の祈り文を載せないことにした、ということですが、そもそも掲載しなければ、信者の人々の間に、その祈り文について浸透しようがないし、掲載されていなければ祈りようがないでしょう

多くの小教区では、中央協議会のサイトに掲載したものを、プリントアウトして、自教区の信者さんたちに配布するでしょうから、ますます、本来の祈り文が忘れ去られ、浸透しなくなってしまうんじゃないでしょうか

むしろ、浸透させるために、また、その祈り文を祈る人を増やすために、本来の祈り文を、WEB上で掲載して、日本の信者さん一般に、周知させることが、カトリック中央協議会サイトの果たすべき役割なんじゃないでしょうか
 
現状、『教皇が唱えるよう勧めている』、としながら、教皇が勧めている祈り文を掲載せずに、教皇が勧めていない別の祈り文を掲載していることは、一般的に言えば、嘘情報だと揶揄されてもいたしかたないのかもしれません。。。
 
20181011日追記
 
本記事のコメント欄に記載しているとおり
カトリック中央協議会サイトは
20181010日付けで、口語訳の Sub tuum
口語訳の本来教皇聖下が要請された大天使聖ミカエルへの祈りを
併せて掲載してくれるようになりました


WEB上で声をあげないよりも、声を上げたほうが
良い結果をもたらすんだなということをあらためて感じました✥
 
ちなみに Sub  tuum に関しては
『神の御母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます。
 いつ、どこでもわたしたちの祈りを聴き入れ、
 御助けをもってすべての危険から守ってください。アーメン。』
を掲載してしまっていますが


その祈り文だと、ざっくりとした意訳のような雰囲気の文章ですし
Virgo gloriosa et benedicta という聖母への結びの呼びかけも
欠落してしまっているので
(非難ではなく、原文と比した現実的指摘です)
 
それを掲載するなら、むしろ中央協議会自身の教皇ツイートの口語訳
@chuokyo_pope
 神の母聖マリア、あなたの保護のもとにわたしたちは逃れます。
 わたしたちが助けを必要とするとき、その願いを退けず、
 すべての危機より、いつもわたしたちをお救いください。
 栄光に満ち、祝福されたおとめよ  2018102日』
を掲載したほうが
ラテン語原文の意味を、省略なしにあらわす忠実な内容なので
とても良いんですけどね~


前回は『文語の枠』にこだわって
今回は『引用掲載の枠』にこだわってしまったのでしょうか?


『祈りの友』からの引用掲載を優先し過ぎて
せっかくの、自前の、忠実で、素晴らしい翻訳ツイート文があるのに
それを本文で紹介掲載しないまま
スクロールしまくらなければ見えないような
すみっこのすみっこに放り出したままにしてしまうなんて


詰めが甘いというかなんというか
ん~~~なんだかもったいない感じです✥



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聖パウロ6
悪魔について
 
代の教会にとって、第1に必要なものとは何でしょうか?それは、悪魔と呼ばれている悪から護られることであり、これこそ第1に必要なものです。
何よりも道徳上の悪がこれほどはびこり、様々な手段を用いて、人と神を攻撃しているのに、それでもなお楽観的でいられるでしょうか?
私たち自身のうちにも、私たちの世界にも、暗闇に包まれた敵意をもつ扇動者である悪魔がいて、罪は、この悪魔の干渉によって始まり、完成されています。
悪魔は、れっきとした実在であり、霊的で、堕落した存在者、他のものさえ堕落へと導く、生きている存在、恐るべき現実、恐怖を巻き起こす現実です。
もし、この現実を認めない人がいるとすれば、その人は、聖書の教えからも、教会の教えからも、離れてしまっているのです。
また、この霊的存在者を、抽象的な悪の人格化に過ぎない、などと考える人もまた、聖書と教会の教えから離れてしまっているのです。
私たちの敵の最たるもの、最大級の誘惑者、これが悪魔の正体です。
もちろん、全ての罪が、悪魔の直接的ないざないとは限りません。とはいえ、いつも、精神的努力によって自分自身を警戒しない人は、悪魔のなすがままに、身をまかせて、救いを危うくしてしまうのです。
では、どのようにして悪魔から護られるのか?悪魔の活動を妨げるには、どのようにすればよいか?それは、罪から私たち自身を守ること、それ自体が、見えない敵から私たちを護ることです。
従って、決定的な防衛力は、神の恩寵以外には何もないのです。それゆえキリスト信者は、武装する戦士、しかも警戒を怠らない強い戦士でなければなりません。
そのため、悪魔の、ある種の攻撃を防ぐための戦法として、イエズスご自身が仰せられたように、祈りと共に断食も必要になります。
                    (1972年11月15日)

「この種のものは、祈りと断食によらなければ、追い出すことができない」
(マルコ 9,29

 
聖ヨハネ・パウロ2
大天使聖ミカエルの祈り文について
 
んにち、この聖ミカエルの祈りは、エウカリスツィアの祭儀の結びに、もはや唱えられなくなってしまっていますが、どうか、この祈りを忘れてしまわないようにしてください。暗闇の力に対抗するため、また、この世の霊に対抗するため、霊戦における助けを得るために、この祈りを唱えるよう、私は全ての人を招きます。
1994424日)
 

大天使聖ミカエルよ、
霊戦において、私たちをお護りください。
悪魔がもたらす、あらゆる不道徳や罠に対する防御となられてください。
神が悪魔を咎めてくださるよう、
私たちはつつしんで願い求めます。
そして、天軍のプリンスであるあなたが、
霊魂たちの破滅のために、この世を徘徊している
サタンや、その他の邪悪な霊たちを、
神的力によって、地獄に突き落としてくださいますように。
アーメン。
 
 


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イエズスの聖心の福者マリア・セラフィナおとめ
 
記念日;3月24日
 
心の福者マリア・セラフィナは、1849年9月11日イタリア、トレントのイメルで生まれ、クロティルダ Clotilde Micheli と名づけられ、3歳の時、トレント司教から堅信を受け、1858年初聖体の際、奉献生活への強い憧れを抱き、しばしば長時間ひざまずいて聖体礼拝のうちに過ごすことが多くなり、幼い頃から神秘的な体験や私的啓示を受けていたが、その中で、1867年8月2日、小教区聖堂での聖体礼拝の際、天使たちに囲まれた幸いなおとめマリアが福者のもとを訪れ、至聖なる三位への特別な礼拝のための修道会発足の召命を促された。
友人と共にヴェネツィアに赴き、ドミニコ・アウグスティノ司祭(のちのヴェネツィア総大司教、枢機卿)に助言を求めた際、新しい修道会発足に向けた計画を進めるよう励まされ、修道会則の草案を促されたが、自分には困難で自分はその器ではないと怖れを抱き、1867年パドヴァに移るが、そこでも霊的指導者たちから新しい修道会の基盤作りを促された。
1878年両親が福者の知らぬ間に縁談を進めていたことがわかり、その縁談から逃れるため、ドイツのエプフェンドルフに移住し、聖エリザベト姉妹会が運営する診療所で看護師として働いたが、1885年両親の死を機に、自らの生き方を問うため、1887年5月、姪のジウディッタの協力を得て、徒歩でローマ巡礼を行ない、8月ローマの汚れない愛徳姉妹会に入り、『マリア・アンヌンツィアータ』という名前を選び、1888年アナーニ教区に属するズグルゴラ修道女院の院長を務めるが、フランシスコ・フスコ司祭の助言を受けて姉妹会を退会した。
1891年カゼルタへ赴き、そこでフィロメナ・スカリンジやその他の若い女性たちと共に共同生活をするための家を建て、カゼルタ司教エンリコ・デ・ロッシの支援を受けて、ノチェーラ・インフェリオーレ近郊で、1891年6月28日、天使たちの姉妹会を創立し、5名のおとめたちと共に修道誓願を立てて、修道名に『聖心のマリア・セラフィナ』を選び、フランシスコ・フスコ司祭を会の霊的指導者とし、至聖なる三位への礼拝の信心を推進し、見棄てられた孤児たちや貧しい病者たちの世話、青少年たちの霊的育成を推進し、天使たちにならう奉献生活に努めた。福者が院長を務める間に、修道女院を15箇所もうけ、現在その修道院は50箇所に広がり、イタリア、ブラジル、インドネシア、ベナン、フィリピンに及んでいる。
1895年頃から福者は病気に苦しむが、治療に意を用いることはせず、自身の奉仕職に努め続けた。ある日、ある神学生が福者に面会を求めてきたが、病気に伏していた福者を煩わせまいとして断った修道女たちに向けて、その神学生が獣のような遠吠えと共に怒号を浴びせだしたため~その神学生は7位の悪魔に憑依されていた~、福者は彼に(実際は悪魔に対して)静かにするよう命じて、十字架のしるしを通じて、憑依されていた神学生の悪魔祓いを行ない、その神学生を悪魔から解放させた。
1911年3月24日ベネヴェントのファイッキオで帰天した。2011年5月列福。
 
地獄の幻視
 
883年11月10日夕刻、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世が主催したマルティン・ルター(1483.11/10-1546.2/18)誕生400周年の祝賀ムードでアイスレーベン(現在のルターシュタット・アイスレーベン)一帯は満たされていたが、福者はこの祝賀に興味はなく、その地域にある各教会を見つけては聖体礼拝をすることを常としていて、日も暮れて暗くなっていたが、この日もそのようにするため、ある教会を訪れた。しかしそこは扉が閉まっていたため、祈りのひと時をもつため、入り口の階段でひざまずいた。
福者は、そこが、カトリック教会ではなくプロテスタント教会であることに気づいていなかった。福者がひざまずいて祈りを捧げていると、守護の天使が目に見える姿で福者に現れて告げました。
「立ち上がりなさい。ここはプロテスタント教会です。マルティン・ルターは、その傲慢のゆえに処罰されました。それは致命的な大罪であり、カトリック教会に敵対して反乱を起こしたからです。彼がどこで処罰されているか、また、彼がその傲慢の罰として、どのような苦しみの痛みを受けているかを見なさい」。
すると、福者は、激しい怒りの渦のうちにある、おびただしい霊魂の痛々しい拷問を幻視しました。
その渦のような獄の穴の底に、悪魔に取り囲まれ、ひざまずかされているマルティン・ルターがいて、彼の頭は大きな釘のようなもので突き刺され、ハンマーのようなもので酷く打ち叩かれていました。
 
 
大勅書Exsurge Domineで指摘されたマルティン・ルターの誤謬

95箇条の命題におけるルターの誤謬のいくつか
(ex. デンツィンガー・シェーンメッツァー 『カトリック教会 文書資料集』)
 
告解には、痛悔、告白、償いの3つの部分があるというのは、聖書にも教父たちの教えにも基づいていない。
痛悔(良心の糾明を含む)によって、人は偽善者となり、もっと悪い罪人になる。
全ての大罪を思い出すことは不可能だから、全ての大罪を告白しようと考えてはならない。
告白をする人が痛悔していなくても、司祭が本気でなく冗談で赦したとしても、自分は赦されたと信じる人は、本当に赦されている。
免償は信者を迷わせるための信心深い詐欺であって、役に立たない。
自罪の罰の赦しのために、免償は何の役にも立たない。
免償が有益なもの、霊的に役立つもの、と信じる人はだまされている。
完全に行なわれた善業は、小罪である。
煉獄の存在は、正典に含まれる聖書から証明できない。
煉獄の霊魂は、罰を恐れている間は絶えず罪を犯している。
 
記のマルティン・ルターの主張は、カトリック教会の赦しの秘跡の否定、良心の糾明・痛悔・免償・善業・煉獄の否定、また、煉獄の霊魂への侮辱を含んでいます。
 
そのため、プロテスタントには、叙階の秘跡もなく、そのため、聖餐式はあっても、聖変化させる司祭がいないので、実質、聖体の秘跡もなく、また同じく、罪の赦しを与える司祭がいないので、赦しの秘跡もなく、そのため、信者は秘跡的赦免を受けられませんし、教会の有する霊的宝庫がプロテスタントには閉ざされてしまっている、というのが現状です。
 
カトリックのエキュメニズム
 
トリック教会のエキュメニズムとは、プロテスタント諸教会との兄弟的で友好的な対話を通じて、彼らのカトリックへの帰正を促すものであって、カトリック信者がプロテスタント諸派の教えに染まることを意図したものではありませんし、カトリックがプロテスタント化することでもありませんし、プロテスタント諸派に、「あなたたちはあなたたちのままとどまっていてイイんですよ。私たちと仲良くやっていきましょう」と見せかけの表面的な仲良しアピールの自己満に浸ることでもありません。
 
回心の必要のないプロテスタント信者はいません。
また、回心の必要のないカトリック信者もいません。
回心の必要のない人は、どこにもいません。
 
カトリックのエキュメニズムを誤解して、『カトリックの教えを裏切る行為』として、対話を促す教皇庁を否定するのもおかしな振る舞いであり、心の偏狭さを示しています。
というのも、自己開示的で抱擁的対話なしに、相互理解を介した、『真理への気づき』が、対話相手にもたらされないからです。
それは、放蕩息子の帰還を、いつくしみ深い抱擁のうちに祝宴を催した父親に対する、兄の心の狭さと同じ振る舞いです。
 
また、聖座の歩み寄りの意図を誤解して、地方教会の司牧者が、カトリックの教えをないがしろにしてプロテスタント諸派に迎合するのもおかしな振る舞いであり、霊魂の救いへの無関心を示しています。
というのも、真理の教えを明確に示さず、誤謬を誤謬のままに放置することは、『真の愛徳』にもとるからです。
それは、物質的に飢えた人に助けをもたらす一方で、霊的に飢えた人には、助けを与えずに放置するようなものであり、霊的慈善とは真逆の振る舞いです。
 
いずれも両極端な誤断に過ぎず、より多くの霊魂を救いの小道に立ち帰らせたいと望まれる、神のいつくしみを反映させるものとは異なる姿勢です。
 
カトリックのエキュメニズムは、兄弟的交わりや相互理解を深めることを通じて、真理の小道に人々を向かわせ、立ち帰らせるための、司牧者たちや信徒たちに向けた、聖霊の愛と想いやりの呼びかけです。


«Paenitemini et credite Evangelio»
 

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フランシスコ教皇聖下
 
良心の糾明は、心戦を戦い抜くために、必要不可欠である
 
イエズスは、私たちに回心を呼びかけておられます
 
そして、この回心とは
悪魔に対する戦いを意味していますし
また、自分自身の心に対する戦いをも意味しています
 
悪との苦闘は
あなたに快適さをもたらしませんが
しかし、あなたに真の内的平和をもたらします
 
イエズスが地上に放とうと望まれた炎は
自らを変えることへの呼びかけを示すものです
 
自らを変えること、それは回心です
それは、肉体、霊魂、全てを含む回心です
 
自らを変えることは
メイクアップのように表面的な変化をもたらすことではなく
聖霊がもたらす内的刷新です
 
自身のうちで聖霊が働きかけられるようにしなければなりません
それは、自分との闘いを意味していますし
実際、戦わなければなりません
 
安逸をむさぼるキリスト者は、戦おうとしません
そのような人々は、キリスト者ではありません
彼らは生温さを示しています
 
内的平和のためのピルなどありません
ただ聖霊だけが、霊魂の内的平和をもたらすことがおできになり
キリスト者に霊的強さをもたらすことがおできになります
 
日々の良心の糾明が、このことの助けとなりえます
敵の蒔いた病魔、世俗化という名の病魔と戦う助けとなりえます
 
悪魔に対して繰り広げられたイエズスの闘いは
遥か遠い昔の出来事のもの、いにしえの悪に対するものではなく
それは、今、現代の出来事のもの
全ての日々、こんにち現出している悪に対するものです
 
イエズスが、私たちの心の各々にもたらそうとされる炎をもって
私たちのうちに入ることがおできになるよう
私たちは、日ごとに自分自身に問いかけなければなりません
 
私は、世俗化から遠ざかるため、また、罪から遠ざかるため
恩寵に向けて、なんらかの努力をなしているだろうか?
 
私は、聖霊が、私のうちで働くことができるよう
聖霊のための場を、差し出しているだろうか?
 
私たちの生活上の種々の問題は
真理を押し黙らせることでは解決されません
 
真理は私たちに告げています
イエズス・キリストは私のうちに炎をもたらすために来られ、戦われる
それなのに私は何をしようとしているのだろうか?
 
自他に回心をもたらすためには、想いやる心、忠実な心が必要です

想いやりは、つねに愛に由来するものです
忠実さは、神の御言葉への忠実さのことです
 
 
 



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愛を注ぐべき人、愛を必要とする人に対して
あなたの想いやりを拒んではならない
 
 
フランシスコ教皇聖下

あなたたたちの心を開きなさい
掟の厳格さのうちに逃げてしうまうことのないように
 
神は、この世界を創造されました
なぜ神はこの世界を創造されたのでしょうか?
それは、愛のため
それは、神の善の充満を、他のものに、与え、分かつためでした
 
人類の再生のために
神は、その御独り子を送り、事物を正そうとなさいました
 
醜悪を美麗へと、誤謬を真理へと、罪人を義人へと
御子において、全てを刷新しようとなさいました
 
38年間、病に伏す人を、イエズスは、安息日に奇跡的に癒されました
「私の父はいつも働いておられ、私もまた、いつも働く」
イエズスがこのように仰せられた際
律法学士たちはイエズスにつまずき
このために彼を殺そうと望みました
 
なぜでしょうか?
 
なぜなら、賜物としての神の働きかけを
彼らは受け入れることができなかったからです
 
彼らはただ単に、神のうちに正義のみを見ようとしていました
 
「これは『掟』なのだから」
 
彼らはいくつか、より多くの取り決めを設けていました
 
彼らは神の賜物に向けて心を開くかわりに
500あるいはそれ以上に、彼らが設けた『掟』の厳格さのうちに
逃げ場をもとめて隠れようとしました
 
彼らは賜物を受け入れるすべを知ろうとしませんでした
その賜物は自由のうちにのみ受け入れられるものでした
 
彼らの厳格さの性質は
神が私たちに与えてくださる自由への不安によるものです
 
キリスト者は、愛の奴隷であって、義務の奴隷ではない
 
聖福音は私たちに伝えています
「このため、彼らはイエズスを殺してしまおうと望んだ」
 
あえて安息日に癒しの奇跡を示された意図は
父が、賜物としてのこの奇跡を起こされたのだから
父の賜物は受け入れられるべきである
ということでした
 
私たちはこのために、今日、父なる神に向かい賛美を捧げます
 
「主よ、あなたは偉大な御方です
私はあなたをとても愛しています
あなたがお与えくださったこの賜物のゆえに感謝しています
あなたは私を造り、私を救い、私を新たにしてくださいました」
 
これは、賛美の祈り、歓喜の祈りであり
私たちがキリスト教的生活の喜びを受けた祈りです
 
それは排他的でもなく、悲壮的でもなく
賜物を受け入れるすべを
決して知ろうとしないような人の祈りでもありません
 
そのような人々は
賜物がもたらされる際の自由を恐れています
 
そのような人々は
単に義務を遂行するすべのみを知ろうとするばかりで
しかも、それは閉鎖的な義務にすぎません
 
そのような人々は
義務の奴隷であって、愛の奴隷ではありません
 
あなたが愛の囚われ人になる時、あなたは自由なものになります
それは、実に、美しい束縛です
 
しかし、そのような人々は
そのことを理解しようとしないのです
 
どのようにして神の贖いと赦しの賜物を受け入れるべきかを自問してください
 
この場所、その時
主の2つの奇跡があります
それは、創造の奇跡、贖罪と再創造の奇跡です
 
どのようにして私はこの賜物
神が私にお与えになるこの賜物を受け入れたらよいのでしょう?
 
もし私がそれを神の賜物として受け入れるならば
どのようにして私は、被造物を愛し
被造界の秩序のために心配りをすればよいのでしょう?
 
「あなたが神の賜物のことを知っていたならば」
 
どのようにして私は
神が私にお与えになる贖いと赦しを受け入れて
御独り子と共なる子として
私が形成されるにまかせればよいのでしょう?
 
それは、自由に伴う優しさや想いやりでしょうか?
 
それとも、閉鎖的掟の厳格さに隠れてしまうことでしょうか?
その掟は、条文の強調によって
より一層『安全』なものとして提示されがちです
 
しかしながら、そのようなことは喜びをもたらしません
なぜなら、彼らは、あなたを自由にはしないからです
 
私たち1人ひとり
ベテスダで彼が経験した2つの奇跡について考えてみましょう
 
創造の奇跡
そして、より一層偉大な再創造の奇跡について
 
主が、この偉大な出来事について
私たちに理解させてくださいますように
 
そして、世界を創造される前に
主が、それを行なおうとされた理由を
私たちに理解させてくださいますように
 
主が、愛されたのです
 
私たちへの主の愛を、理解するように努めて、言いましょう
「主よ、あなたは偉大な御方です。
ありがとうございます。ありがとうございます!」
このようにして、主に向かい、前に進んで行きましょう
 


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神による再創造
~奔放から悔悛へ 誤った自由から真の自由へ~
 
コルトナの聖女マルガリータ 悔悛女
 
Die 22 februarii :
S. Margaritæ de Cortona, pœnitentis
 
 
コルトナの聖女マルガリータは、1247年イタリア、トスカナのラヴィアーノの農家に生まれ、7歳で母をなくし、モンテプルチアーノの貴族の若者と駆け落ちし、18歳から27歳までの9年間誤った愛人生活を送り続けた。
1274年愛人が殺されて、その無残な屍を見て改心し、息子と共にモンテプルチアーノを離れ、悔悛者として父の家に戻ろうとしたが拒絶され、コルトナに赴いた。
聖女はいまだ肉の誘惑を克服するために困難を感じていたが、ある日曜、ラヴィアーノに戻り、ミサ中聖女の過去のつまずきを公に謝罪し、介護で生計を立て、『憐れみの家』Poverelleと呼ばれる貧しい病者のための病院を建て、フランシスコ会第3会員となり、憐れみの聖母の共同体をつくる。
息子は数年後にフランシスコ会に入り、聖女は聖体の神秘と主の受難と聖心への特別な信心をもち、みずからに厳しい償いを課した。
聖女に対して疑いと中傷がなされたが、人々への指導と和睦と平和のために尽力し、29年にわたる悔悛の業の実行に励み、1297222日帰天した。1728年列聖。


Collecta
Deus,qui famulam tuam Margarítam
de  perditionis via ad salutis tramitem
misericorditer  deduxisti :
eadem  nobis miseratione concede ;
ut,quam prius errantem sectari non erubúimus,
mox pœnitentem  impigre sequi gloriemur.
Per Christum  Dominum nostrum. Amen.
 
神よ、あなたは、あなたのはしためマルガリータを、
破滅の道から救いの小道へと、憐れみのうちに導き入れられました。
その同じ憐れみのうちに、私たちに恩寵をお与えください。
かつて恥じ入ることなく迷いの道に足を踏み入れていた私たちが
のちに悔悛の道に努めて歩むことを誇りとすることができますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
 
Vel :
 
Deus,  qui non vis mortem peccatoris,
sedut magis convertatur et vivat :
concede  propitius ; ut, sicut beatam Margaritam
ad  tibi devote serviendum
a  peccatorum laqueis eripuisti ;
ita  nos illius precibus et imitatione,
culparum  vinculis liberati,
pura  mente tibi servire valeamus.
Per Christum  Dominum nostrum. Amen.
 
神よ、あなたは罪人たちの死を望まず
むしろ、回心して、生きることを、より一層望まれます。
いつくしみ深く私たちにお与えください。
幸いなマルガリータが、罪の罠から解放されて
あなたに献身的に仕えていったように
その祈りと模範によって、私たちも過ちの鎖から解放され
清められた想いのうちに、あなたに仕えることができますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。
 


 
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フランシスコ教皇聖下
 
キリスト教的生活とは
サタン、世俗、肉の衝動に対して
絶え間ないバトルを繰り広げるようなもの
 
悪魔は現実に存在しており
私たちは真理の武具のうちに
悪魔に対して戦いを挑まなければなりません
 
キリスト教的生活は
サタンの誘惑に対して防がなければなりませんし
強さと勇気を要求するものです
 
それはキリスト教的生活の3つの主要な敵
悪魔、世俗、肉の衝動に対する継続的な霊戦です
 
私は、自分自身を誰から護らなければならないのでしょうか?
私は何をしなければならないのでしょうか?
 
聖パウロは私たちに教えてくれています
「神の武具を身につけなさい」
 
それが意味するところは
防御としての神の働きであり
サタンの誘惑に対抗するための助けを受けることです
 
これは確かなことでしょうか?
 
誘惑に対抗することなしに
私たちに強さをもたらし、私たちを守る神の武具を身につけることなしに
霊的生活はありえませんし
キリスト教的生活もありえません
 
聖パウロは強調しています
私たちのバトルは、小さな事柄ではなく
むしろ、この世の支配的な権勢と能力に対する事柄であり
換言すれば、悪魔とそのフォロワーたちに対する事柄です
 
今の世代は、実に多くの人々が
悪魔が単なる作り話、象徴、概念、悪の概念に過ぎないと考えています
 
しかしながら、悪魔は現実に存在するものであり
私たちは、悪魔と戦わなければならないのです
 
聖パウロは私たちにこのことを教えています

単に私が言っていることではありません!

神の御言葉が、私たちにこのことを教えているのです
しかし、私たちはこのことを十分に確信していません
 
聖パウロは偉大な神の武具について
いくつかの異なる表現を用いて言及しています
 
「真理のうちに立ち続けるために
あなたたちの腰帯を引き締めなさい」
 
真理こそ、神の武具です
 
それとは対照的に
悪魔は、嘘つきであり、嘘つきたちの父です
そのため私たちは
真理を私たちの味方として、彼と戦わなければなりません
 
聖パウロは
神のうちに常に信仰を保つ重要性を強調し続けます
それは悪魔との霊戦を戦う際に
私たちにとっての盾のようなものです
 
悪魔は、私たちに花々を放つのではなく
その代わりに燃え立つ矢を放っています
 
人生は、軍事的努力を要するものです

キリスト教的生活は、戦闘です
しかも、美しい戦闘です
 
なぜなら、私たちの人生のあらゆる段階において
神が勝利者として現れてくださる時
私たちに喜びを、偉大な幸いを与えてくださるからです
 
その喜びとは
主が、救いという主の無償の賜物のうちに
私たちにおいて勝利者となられる喜びのことです
 
しかし、私たちはみな
このことにいささか愚鈍な状態です
そうですよね?
 
私たちは、この霊戦において
私たちの衝動や、さまざまなタイプの誘惑を
自らに入り込むことを許し
それに流されるままになってしまっています
 
それは、私たちが罪人だからです
私たちはみな罪人たちです!
 
しかし、落胆しないでください
勇気と強さを抱いてください
 
なぜなら、主が、私たちと共におられ
私たちのうちで私たち自身の勝利に力添えをしてくださるからです


 
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回心の恩寵に抵抗してはならない
うわべの糾明でごまかさず 自分自身を直視する謙遜さが大切

主よ、あなたの力を奮い立たせ
偉大な善徳のうちに、私たちの助けに急いでください
こうして、私たちの罪のゆえに妨げられている回心が
あなたのいつくしみの恩寵のゆえに早められますように
 
私たちは各々の心の中に
神の恩寵に抵抗する妨げをもっています
 
その妨げには種々のタイプがあり
その1つには、善意の信仰心から生じる『明らかな障害』があります
 
それはサウルのケースのようなもので
彼がイエズスによって回心させられる以前に
「自分が神の意志を行なっているのだ」との確信のゆえに
実際のところ、彼は恩寵に抵抗していたのでした
 
ただ、この明らかな障害は
回心の恩寵に開かれうる、という点において
健全なものの部類です
 
しかし、最も危険な障害は
人々のうちに隠れている障害です
というのも、彼らはそれらを外面的に示すことがないからです
 
私たち各々は
恩寵に抵抗する私たちなりのものを有しています
 
しかしながら、私たちはそれを直視しなければなりませんし
私たちは、主が私たちを浄めるに任せなければなりません
 
その最も危険な障害のタイプは
ステファノが、律法学者を告発したものの部類です
 
律法学者たちは、神の栄光を求めて
その現れを待ち望んでいたにもかかわらず
その一方で、自分たちの中にある障害を隠し通そうとしていました
 
ステファノによる告発の言葉を聞いた人々は
心の中で激しく怒り、彼に向かって歯ぎしりし
彼に襲いかかり、石を投げつけました
 
ステファノは、彼らの隠れた障害を告発したことで
その生命を絶たれました
 
私たちはみな
隠れた障害をもっています
 
私たちは
私たち自身の性質を深く糾明しなければなりません
 
自分をごまかす人々は
自身の隠れた障害に触れようとせず
糾明をいつもうわべだけでやめてしまい
回心のプロセスを放棄してしまいます
そう、いつもです!
 
しかしながら、そのようなケースにおいて
自分を変えるプロセスが生じることについて
私たちは、恩寵に逆らわずに、静かに
自分を恩寵に明け渡さなければなりません
 
とある団体、あるいは、とある家族において
自分を変えるプロセスについて考える時
私は、あなたたちがこのように言うのを耳にします
 
「でも、そのためにはなかなか種々の妨げがあります」
 
その種の障害は
私たちを前に進ませようとされる主に
歯止めをかけようとするために
悪魔によって、そこに置かれたものです
 
隠れた障害には3つのタイプがあります
 
1つ目は
『中身を伴わない言葉』の障害です
 
これについては福音朗読の中に、それを垣間見ることができます
『私に向かい「主よ、主よ」という者がみな、天の国に入るわけではない』
 
また、ぶどう畑に働きに行くよう
父から促された2人の兄弟のたとえ話の中にも、それを見出します
 
当初、長男は、「イヤです」と突っぱねましたが
その後に思い直して、働きに行きました
その一方で、「イイですよ」と言っていたはずの次男は
結局、働きに行かないままでした
 
愛想よく、YESYES、と言いながらも
実際は、NONONO、という振る舞いは
多くの無駄なYESです
 
YESと言いつつ
何かを変えようとしないことは
中身を伴わない言葉による反抗です
 
2つ目は
『正当化する言葉』の障害です
 
その障害は
自分のことを絶えず正当化しようとする人々に見受けられます
 
彼らはいつも
変化させることに反発するための理由を見つけ出します
 
あまりに多くの許容は
神の善いアロマの放散ではありません
それは、悪魔の悪臭を野放しにすることです
 
キリスト者は
自分自身を正当化する必要などありません
 
キリスト者は
神の御言葉によって義とされるからです
 
この種の反発は
自分の立場を正当化しようと企てて用いられる言葉の反発であり
主が示されたことに従おうとしない時に用いられます
 
3つ目は
『非難の言葉』の障害です
 
私たちが、他者を非難する時
自分自身を見ようとしていません
 
このようなケースにおいて
ファリザイ人と徴税人のたとえ話で示されたように
私たちは、回心と恩寵に抵抗しているのです
 
それらは、たとえばマジノ線や他の同様な出来事のような
単に抵抗の大きな歴史的行為のたとえにとどまりません
それらは毎日、私たちの心の内側で起こっている出来事なのです
 
恩寵への抵抗は、ある意味で、良いしるしでもあります
というのも、それは、主が
私たちのうちで働こうとなさっていることを示すしるしだからです
 
私たちが恩寵を受け入れるようにするため
障害となっているものを打ち崩すようにと
主は、私たちを招いておられます
 
主がおられるところ
そこには十字架があります
 
その十字架は
小さなものもあれば、大きなものもあります
 
最終的に贖いをもたらす十字架や主に対して
各々における抵抗はあるでしょう
 
そのような障害がある時に
私たちは恐れてはなりません
 
むしろ、主の助けを願い求めて
私たちがみな罪人に過ぎない事実を認めることが大切です
 

主よ、あなたは私に光を与えるともしび
私の闇を照らす神
私はあなたによって土塁に迫り
私の神によって城壁を乗り越える
 
主の教えは完全で、魂を生き返らせ
主の諭しは変わらず、私の精神に知恵を与える
主の定めは正しく、私の心を喜ばせ
主の戒めは清く、私の目を輝かせる
 
まことに、あなたのしもべは、これによって教えられ
これを守れば、大きな報いがある
誰が自分の過ちを悟ることができようか
隠れた罪から、私を清めてください
 
また、あなたのしもべを引き留めて
高ぶるものへ走らないようにし
彼らが私を支配しないようにしてください
そうすれば、私は汚れることなく
大きな咎を免れることができます
 
私は自分の罪をあなたに告げ
罪咎を隠しませんでした
私は言いました
「いと高き御方よ、ありのままに打ち明けます
 主よ、私の咎を」
その時、あなたは私の罪の咎を赦してくださいました
 
私の口の言葉が、あなたの望みにかない
私の心の思いが、御旨にかないますように
私の岩、私の贖い主である神よ


栄光が、聖父と、聖子と、聖霊にありますように
初めのように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン



 
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イエズス・キリストの神秘のうちに深く分け入るために必要なこと
 
私は、御父の御前にひざまずき
祈りを捧げます
御父が、ご自分の栄光の豊かさに従って
内なる人に働きかける、ご自分の霊によって
あなたたちに力を与え、強めてくださいますように
cf ; エフェゾ3,14-16
 

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フランシスコ教皇聖下
 
イエズスを知るのに
カテキズムでは十分ではなく
私たちに必要なもの、それは祈りです
 
カテキズムそれ自体では
イエズスを真に知るためには十分ではありません
 
私たちには、祈りが必要です
私たちには、礼拝が必要です
私たちには、罪人としての私たち自身の自覚が必要です
 
私たちには、祈りが必要です
 
私たちは、どのようにすれば
キリストを知ることができるでしょうか?
 
私たちは、どのようにすれば
あらゆる知識を超える主の愛の深みを、理解することができるでしょうか?
 
キリストは聖福音のうちに現存しています
そして私たちは、聖福音を読むことによって、キリストを知ります
 
私たちはみな、このようにします
少なくとも、ミサに行く時、聖福音を耳にします
 
また、キリストがどんな御方であるのかを
カテキズムの学びにおいて、私たちに教えられます
 
しかしながら、これだけでは十分ではないのです
 
イエズス・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するために
私たちは、全てに先立って、祈りをする習慣に、身をおくことが必要です
 
聖パウロが、ひざまずいて祈りをしたようにです
「父よ、イエズスを知るために、私に聖霊をお送りください」
 
私たちには、礼拝が必要です
 
しかし、真にイエズスを知るためには
ただ祈り、それ自体だけで十分でもなく
聖パウロが、この『神秘』を崇めることを、祈りに加えたように
私たちの知識を超える、この神秘を悟るための恩寵を
主から授けていただけるよう
霊における崇敬、礼拝を捧げることが必要です
 
このような崇敬の習慣、沈黙における崇敬、礼拝なしに
私たちが主を知ることは不可能です
 
私の思い違いでないなら
この礼拝の祈りは
私たちキリスト者によって
最も過小評価されていると思います
 
礼拝の祈りは
私たちがほとんどしていないことの1つです
 
私があえてこのように言うのを許してください
 
主の御前で
あなたの時間を、無駄に、費やしてください 
イエズス・キリストの神秘の御前で
あなたの時間を、無駄に、費やしてください 

主を崇めてください
沈黙のうちに、そこにとどまり
礼拝の沈黙を捧げてください

彼こそ、私の救い主であり
そして私は、彼を崇めるのです
 
※教皇聖下が、あえて「無駄に」と言われたのは
おそらく、祈り自体に時間を費やすことや
聖体礼拝のために聖櫃の前にとどまり続けることを
無駄事のように考えて軽んじる信者たちへの皮肉の表現でしょう
 
私たちには、罪人としての私たち自身の自覚が必要です
 
また、キリストを真に知るためには
私たち自身がどんなものであるかを知ることが必要です
 
その帰結として
私たち自身を罪人とみなすことに慣れるようにしてください
 
私たち自身を告発することなしに
私たちが真に崇敬を捧げることはできません
 
祈りによってイエズス・キリストの神秘のうちに深く分け入る
 
底知れず限りない海、イエズス・キリストの神秘のうちに
私たちが深く分け入るためには
 
何よりもまず、祈りを深めることが必要不可欠です
 
「父よ、聖霊を私にお送りください。
 聖霊が、イエズスを知るために、私を導いてくださいますように」
 
ついで、神秘の崇敬
主の神秘のうちに身をおいて、主を崇めることです
 
そして、自分自身を糾弾することです
「私は汚れた唇のものです」(イザヤ6,5
 
聖パウロが、エフェゾの人々のために願い求めた恩寵
キリストを知り、キリストが私たち自身にもたらされる恩寵
 
主が、私たちに、この恩寵を豊かに注いでくださいますように
 


 
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人々は、あなたたちを会堂から追放するだろう
そればかりか、あなたたちを殺す人々がみな
自分は神に仕えているのだ、と思い込む時が来るだろう
彼らがこのようなことをするのは
父をも私をも知らないからである
(ヨハネ16,1-3
 
フランシスコ教皇聖下
 
聖霊は迫害のさなかにおいてさえも証し人を強められる
 
私たちは、聖霊の強さのうちにおける、主の証し人です
 
イエズスは、力強く踏みとどまるよう
弟子たちを招いておられます
 
というのも、迫害が襲いかかることによって
ご自身の証し人が生み出されるからです
 
噂話や中傷などの小さな迫害から
より大きな類いの迫害に至るまで
教会の歴史は、迫害で満たされています
 
イエズスは、証し人としてのキリスト者が
払うべき犠牲について仰せられます
 
「人々は、あなたたちを会堂から追放するだろう
そればかりか、あなたたちを殺す人々がみな
自分は神に仕えているのだ、と思い込む時が来るだろう」
 
聖霊に強められたキリスト者は
生きておられる主の証し人として
復活された主の証し人として
私たちのただ中におられる主の現存の証し人として
祭壇に降られて、その死と復活のうちに挙行される主の証し人として
自分自身を差し出します
 
キリスト者は、聖霊の助けによって、その日常生活において
その業が示す歩みのうちに、多くの証しをもたらします
 
それは、キリスト者としての、絶え間ない証しです
 
しかし、多くの場合、このような証しは
周囲からの攻撃を引き起こし
周囲からの迫害を引き起こします
 
イエズスのもとに私たちを導き入れる聖霊は
現存しておられる主が、他の人々に知られるようにと
私たちを駆り立てます
 
それは言葉によってではなく
むしろ、その生きる証しを通してです
 
聖霊が、イエズスの証しをもたらしてくださるよう
私たちの心の中に来てくださるよう願い求めることは善いことです
 
聖霊に祈りましょう
 
「主よ、私がイエズスから離れてしまうことがないようにしてください。
 イエズスが教えられたことを、私に教えてください。
 イエズスが仰せられ、なされた御業を、私に想い起こさせてください。
 それらのことの証しをもたらせるよう、私を助けてください。
 世俗的なもの、安楽なもの、嘘の父に由来するもの
 この世のプリンスに由来するもの、罪が
証しをたてる歩みから、私を取り去るのをお許しにならないでください」
 


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『エクソシスト』 ガブリエーレ・アモルト司祭
1925. 5.1 - 2016. 9.16
 
聖書が語るように
私たちは、終わりの時に生きています
そして獣は、猛威をふるいつつ働きかけています
 
サタンの煙は、どこにでも入り込みます
 
悪魔が、全ての指導者たちを誘惑すること
特に、教会の指導者たちを誘惑することに、疑いの余地はありません
 
しかし、教会を統治しておられるのは聖霊です
私はそのことに感謝しています
 
というのも、教会内における、あらゆる離教、裏切りにもかかわらず
地獄の門が、ペトロに勝つことはないからです
 
たしかに悪魔は、いくつかの戦いにおいて
教会内における重要なものを獲得することはできるでしょう

しかしながら
悪魔は、この霊戦に勝つことはできないのです
  


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ベネディクト16世名誉教皇
 
聖体を敬う特別なしるし
 
聖体において私たちのうちにおられる神の神秘への感覚の深まりは
聖体を敬う特別なしるしによって表わすことができます
 
私は、感謝の祈りの中心部で
ひざまずく姿勢の重要性のことを考えています
 
全ての人は、自分が、神の限りない御稜威の御前にいる
という自覚をもち、また、その自覚を表わさなければなりません
 
さらに、聖体拝領後に
感謝を捧げる貴重な時も、おろそかにしてはなりません
 
神が、つつましい秘蹟のしるしのうちに
私たちのところにまで来ておられるからです
 


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聖ヨハネ・パウロ2世教皇
(記念日;10月22日)
 
聖体を、私たちのやり方に合わせるのではなく
私たちのあり方を、聖体に合わせるべき
 
エウカリスツィアは、光の神秘です
この秘蹟の重要性が無視されてはなりません
 
聖体を、私たちの次元におとしめる誘惑に
私たちは、常にさらされています
 
しかし、私たちこそ、この神秘の次元に向けて
自分自身を開かなければならないのです
 
聖体は、偉大な賜物であり
それを曖昧にしたり、軽んじたりすることは
決して許されません
 
ミサを捧げる時も、ミサ以外で聖体を礼拝する時も
そこにはキリストが現存しておられる
という生き生きとした意識を育てる特別な必要性があります
 
この現存の神秘への無頓着や無関心の行為を
さらには世界中の多くの場所で
私たちの救い主が忍耐しておられる屈辱や汚聖を
私たちの信仰と愛によって償うために
聖体のうちに現存されるイエズスの御前にひざまずきましょう
 
Oratio
Deus, dives in misericórdia,
神よ、憐れみにおいて豊かな御方よ、
qui beátum Ioánnem Paulum, papam,
あなたは幸いなヨハネ・パウロ教皇を、
univérsæ Ecclésiæ tuæ præésse voluísti,
あなたの全教会の指導者とすることをお望みになりました。
præsta, quæsumus, ut, eius institútis edócti,
私たちはつつしんで願い求めます。その確立された教えによって、
corda nostra salutíferæ grátiæ Christi,
私たちの心が、キリストの救いをもたらす恩寵で満たされ、
uníus redemptóris hóminis, fidénter aperiámus.
人間の贖い主との一致に向けて、大胆に開くことができますように。
Qui tecum vivit et regnat in sæcula sæculorum. Amen. 
御子は、あなたと共に生きておられ、支配しておられます。世々に至るまで。アーメン。

 パパさまのツイート
↓↓↓
 (英語版)
 


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キリスト者は どのようにして 地の塩 世の光たりえるのか
 
フランシスコ教皇聖下

祈りは キリスト者の重要な聖務
 
イエズスは、弟子たちに向かい仰せられました
 
「あなたたちは地の塩、世の光である」
 
キリスト者は、塩となり、光とならなければなりません
ただし、それは自分のためにではなく
他者に味わいをもたらす塩、他者を照らす光とならなければなりません
 
塩がなくなってしまわないために
また、ランプの光をともす油が底をついてしまわないために
キリスト者として、何をしなければならないでしょうか?
 
キリスト者が、光を生じさせるバッテリーとなるもの
それは、祈りです
 
多くの事柄をこなすことができても
多くの愛徳の働きをなすことができても
教会のために、カトリック大学、学校、病院のために
多くの偉大なことを成し遂げることができても
たとえ教会の功労者としてのモニュメントと共に褒賞されたとしても
もし、祈りがなおざりにされていたなら
それらの働きは、暗闇や薄暗いあかりでしかありません
 
祈りは、キリスト者としての生活を光り輝かせるものです
 
祈りは、してもしなくてもよい、という類いのものではなく
祈りは、キリスト者の重要な聖務です
 
父なる神への礼拝の祈り
至聖なる三位一体への賛美の祈り
感謝の祈り
神への嘆願の祈り
祈りは、単に口先ではなく
心から溢れ出るものでなければなりません
 
地の塩という点につき、キリスト者がそのように呼ばれうるのは
他者に塩気をもたらす際に、まさに地の塩となります
 
福音のメッセージと共に
他者の生活に、味わいをもたらすために
多くの事柄に、味わいをもたらすために
『自分自身を与えること』
これはキリスト者としての、あるべき態度です
 
塩は、用いられてこそ、有益であって
自分だけにおしとどめておくものではありません
それは、他者に与えるべきものです
 
これは興味深いことですが
塩についても、光についても
他者のためであって、自分のためではない、ということです
 
塩は、それ自身に味わいを与えません
光も、それ自身に照らしを与えません
 
もちろん、私たち自身を惜しみなく与え続けてしまえば
塩や光が尽きてしまうのではないだろうか、と心配になるでしょう
 
しかし、そこに神の力が注ぎ込まれるのです
キリスト者としての立場は
洗礼によって神から私たちに与えられた塩としての立場だからです
それは、決して尽きることのないギフトです
 
明るく輝く光を
自分たちだけにとどめようとする誘惑を退けてください
 
それは、『スピリチュアリティの鏡』であり
自分自身だけに、光を輝かせようとする『悪いうぬぼれ』です
 
他者を照らすことで、光であり続けてください
他者に味わいをもたらすことで、塩であり続けてください
 
あなたたちの光を、自分を与えることによって、人々の前で輝かせてください
そのようにするならば、彼らは、あなたたちの善良な働きを見て
天におられる、あなたたちの父に栄光を帰するようになるでしょう
 


 
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無関心の文化を克服し、出会いの文化を築き上げる
 
イエズスはナインという町の門のところで
独り息子をなくしたやもめを見て
同情につき動かされ、「もう、泣かなくてよい」と仰せられて
棺に近づいて、手を触れて
死んでいた独り息子を生き返らせました
 
人々はしばしば、お互いに、彼ら自身、自分のことばかり考えていて
他者を見ては見ても、よく見ることもなく
聞き流すことはしても、耳を傾けることもありません
 
出会いとは、そんなものではありません
ナインでの出来事は、私たちに、出会いとは何かを問いかけています
 
神人と、ある婦人との出会い
生きておられる神の独り子と、死んでしまったある独り息子との出会い
そこに喜びの声が沸き上がりました
 
イエズスと、イエズスに従う人々と
町の門から出ようとする婦人に伴って泣いている人々との出会い
門を出ていく人々と、門から入る人々との出会い
羊たちの重なり
これは、お互いが影響を与え合う私たちの歩みにおける
私たちの出会いを反映している出来事です
 
イエズスは、同情につき動かされました
 
キリストが感じられた同情は
私たちがストリートで可哀想な誰かを目にした際に
すれ違いざまに「なんて悲惨なんだろう」と言うことと同じではありません
 
イエズスは、通り過ぎようとはなさいません
むしろ、同情につき動かされました
 
主は、真の出会いのために
その婦人に近づいていって、奇跡を起こされました
 
これこそ福音的な出会いです
 
この福音的な出会いにおいて
私たちは、イエズスの優しさを見るだけでなく
出会いの実りの豊かさを見ています
 
出会いの実りの豊かさは
悲しむ人々に喜びを取り戻させ
神をほめたたえさせるに至ります
 
ところが、私たちは
無関心の文化に慣れっこになっています
 
私たちは、神の子としての彼の尊厳、彼女の尊厳
生きている人格としての尊厳を
回復させるための出会いの文化を築き上げるよう努力し
実り豊かな出会いの文化をつくり上げる恩寵を求めるべきです
 
私たちは、この世界における災害を目の当たりにしても
私たちは、対岸の火事のように思い
無関心に慣れっこになっています
「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々、どんな感じで苦しんでいるんだろう」
そして、何事もなかったかのように普段の生活を続けます
 
出会いにおいて
私たちがよく見ようとしないなら
ただ軽く眺めるだけでは十分ではありません
そうではなく、よくよく見なければなりません
私たちが立ち止まらないなら
私たちがよく見ようとせず、触れようとせず、話しかけようしないなら
私たちが出会いの機会を逸することになり
出会いの文化の構築の助けとなることができません
 
私たちの家庭において
夕食のテーブルでの食事中に
TVを見ている人々もあれば
スマホの返信に夢中になっている人々もあります
各々が、真の出会いに無関心になっています
 
社会の心である家族でさえ
そこに真の出会いがないのです
 
イエズスがなさったように
出会いの文化のための努力を惜しまないようにしましょう
 
パッと見るだけでなく、よく見てください
ただ聞き流すだけでなく、よく耳を傾けてください
ただ会って、過ぎ行くだけでなく、立ちどまってください
単に「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々」と言うだけでなく
私たち自身が、同情につき動かされるがままにしてください
 
そして、近くに引き寄せ、触れて
その出会いのひとときに
親身になって、心のこもった言葉を語りかけてください
「もう、泣かないで」
そのようにして、人生の一滴の愛をもたらすようにしてください
 


 
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コルカタの聖女テレジア

祈り、そして、与えなさい
 
なによりも、まず祈りなさい
 
祈ることは、愛することと同じだからです
 
注がれる神の愛に、心を開いてください
神は、あなたたちを優しく愛してくださいます
 
神からいただいたものは
錠をかけて、しまいこんでおくものではなく
人々と分かち合うためのものです
 
自分のうちに貯めこめば貯めこむほど
他者に与える機会を逸してしまいます
 
私たちは、与えることを学ばなければなりません
 
貧しい人々の惨めさ、物質的な貧しさだけでなく
その精神的な傷口にも、手当てをすることが必要です
 
私たちが、彼らに寄り添い
その悲しみを分かち合う時
私たちは、彼らの人生に神をもたらし
彼らもまた、神に近づいて、癒されるのです
 
イエズスは、私たちと出会いに来られます
私たちのほうからも、進んでイエズスをお迎えいたしましょう
 
 

 
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福音宣教のあり方 その意味するところ

フランシスコ教皇聖下
 
福音宣教は自慢するものでもなく暗唱する務めでもない
 
悲しむべきことに、今日のキリスト者の幾人かは
その奉仕職において
まるで職業司祭か職業信徒であるかのような生活を送り
自らの働きについて自慢しながらこう言います
 
「これは自慢話になるかもだけど、私は自分を誇りに思う」。
 
こうして彼らは、福音を単なる役割に過ぎないもの
あるいは自身の傲慢の要因にさえしてしまいます
 
「私は福音の説教に出向いていくんだ。
そして多くの人々を改宗させるために教会へ連れていくんだ」。
 
これは、あまりにも傲慢の要因でしかありません
福音宣教は、単に改宗させるためのものではありません
 
福音宣教は、流れ作業でもなければ
福音の暗唱作業に引き下げるものでもなければ
改宗を迫るようなものでもありません
 
このようなことは、真の福音宣教ではありません
 
聖パウロは福音宣教についてこう言います
「私が福音を宣教しても、私の誇りにはなりません。
それは私にとって必要な、委ねられた務めだからです。
私は空を打つような拳闘もしません。
私は自分の体を打ちのめし、それを奴隷のように引き回します。
他者に福音を告げ知らせておきながら
自分が失格者になってしまわないためです」。
 
キリスト者は1つの義務を有しています
それは、イエズスの聖名をもたらすために
心から溢れる必然性のような説得力を、自らのうちに持つということです
 
それでは、私たちが福音を宣べ伝えるに際して
どのようなスタンスを取らなければならないのでしょうか?
 
それは「全ての人に対して全てとなる」ことです
 
ですから、あなたたちも行って
他者の歩みを共有してください
彼らが、その固有の歩みにおいて信仰のうちに成長するよう
彼らの信仰の旅路の同伴者となるようにしてください
 


 
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福音宣教は 証をもたらすものであって多くの言葉を必要としません
 
私たちは相手の立場に立って判断しなければなりません

もちろん、それは、相手の歩みに染まるという意味ではなく
その歩みのうちにある相手に寄り添うという意味です
 
クラクフのワールド・ユース・デイでの
青少年たちとの昼食の際
ある少年が私に問いかけました
 
「僕の親友は神を信じようとしない無神論者なんですが
彼に対してどのような言葉をかけてあげたらいいですか?」
 
それは良い質問です
私たちはみんな、人々が教会から離れてしまっていることを知っています
では、私たちは、彼らにどのように語りかけるべきでしょうか?
 
ごらんなさい
君がなすべきことは、君自身、質問の最後に言いました
それは、彼に何かを語りかけてあげることです!
 
そうすることを始めてください
そうすれば、彼は、君が日頃していることを見て
それについて、君に尋ねてくるでしょう
 
そして、彼が君に質問を投げかけてきた時に
彼にまた、そのことについて説明してあげてください
 
福音宣教とは、このような証をもたらすことです
 
「僕は、僕がなすべき歩みを、生きようとしているんだ
だって、僕は、イエズス・キリストを信じているからだよ」
 
そして、好奇心に満ちた目で
「でも、なんで君はそんなことをするんだい?」
と尋ねてきたら、こう答えてください
 
「だって、僕は、イエズス・キリストを信じて
イエズス・キリストを宣べ伝えているからそうするんだ
もちろん、言葉でも言い表す必要があるけれど
それは単に言葉じゃなくて、自分の生活によって言い表すんだ」
 
これこそ福音宣教です
 
私たちは福音を無償で受けたのですから
これを無償で行ないます
 
恩寵、救い
これらは購入するものでもなければ、販売するものでもないからです
 
それは無償です
私たちは、それを無償でもたらさなければなりません
 
キリストを宣言することは
信仰に生きることであり
神の愛を無償でもたらすことです
 
聖ペトロ・クラヴェールは
宣教師であり、福音の説教者でした
彼は、自分の将来を、説教のために捧げようと考えました
そのように考えていた時
彼は、アフリカから売り飛ばされて奴隷となった人々を目の当たりにしました
その時、主は、彼に問いかけました
「見棄てられた人々のそばに寄り添ってくれないか?」
 
この人は、彼が宣べ伝える福音に、まごつくことがありませんでした
彼は福音宣教を暗唱作業に引き下げることなく
改宗を迫ることさえしませんでした
 
彼は、彼自身の行動によってイエズス・キリストを宣言し
奴隷たちに親身になって語りかけ
彼らと生活を共にして、彼らのように生きました
 
教会には、彼のようにふるまう多くの人々がいます
彼らは自分のことよりも、イエズス・キリストを宣言することに身を費やします
 
兄弟姉妹たち
私たちもみな、この福音宣教の義務を有しています
 
もちろん、それは、お隣さんたちの家々をノックして回って
ドア越しに、「キリストは復活されましたよ!」と言って回ることを意味しません
 
それは、信仰生活のうちに生きることであり
優しさ、愛情をもって、会話をすることであり
 
論争で、勝ちにこだわることではなく
見返りを求めずに福音をもたらすことです
 
神が、私たちにお与えになられたように
何らの見返りも求めずに福音をもたらすこと
それこそ、福音宣教の意味するところです

 
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ゲッセマニのルドヴィコ司祭
Thomas Merton
傲慢は私たちを偽物にし、謙遜は私たちを本物にする
 
この世で見出される罪、悪、暴力
これらと同じものが、私たちの心の中に隠されています
 
この世の汚れは
ある意味、汚れた私たち自身の心を写し出したものである、とも言えます
 
私たちはみな、何らかの形で
この世における戦争や紛争の責任を負っています
 
私たち各々の犯す罪や過ちが
悪魔の業に加担し、悪魔を力づけてしまうのです
 
ですから、まず、各々が
自らの大きな過ちを認めて、悔い改めるべきです
 


 
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フランシスコ教皇聖下
 
疎外をもたらす悪魔の子としてではなく
平和をもたらす神の子として生きる
 
悪魔は、教会に打撃を与える2つの武器を所有しています
その主要な武器は、疎外であり、もう1つは金銭です
 
悪魔は、舌によって
疎外をもたらす誹謗中傷によって滅ぼそうとしています
誹謗中傷の傾向はテロリズムの傾向と同じです
 
他者の悪口を言いふれ回る人は
破滅をもたらすゴシップ爆弾を放り投げるテロリストです
 
この種の分裂と戦うよう願います
というのも、分裂は
悪魔が、地方教会や全教会を滅ぼすための武器だからです
 
祈りと悔い改めのうちに、神の恩寵に信頼して
困難の際に乗り越えるよう心がけてください


平和はギフトです
しかも、それは、私たち自身
それを毎日手がけなければならない築き上げるギフトです

それは小さなことのうちに築き上げるもの
日々の生活における些細なことの積み重ねです
 
たしかに、美しい言葉を並べて平和を語ることで
素晴らしい国際会議を取りまとめることもできるでしょう
しかし、それだけでは不十分です
 
もし、あなたの小さな事柄のうちに、平和を築き上げようとしないなら
あなたの心のうちに、平和がなかったとしたら
あなたの家族のうちに、平和がなかったとしたら
あなたと隣人との間のうちに、平和がなかったとしたら
あなたの職場のうちに、平和がなかったとしたら
あなたが世界を平和にすることなどできはしないでしょう


今日、あなたの心はどうでしたか?平和でしたか?
もし平和でないなら、平和について語る前に
あなた自身の心を、まず平和にしてください
 
今日、あなたの家族はどうでしたか?平和でしたか?
もしあなたの家族、教区、共同体に平和をもたらせなかったなら
どうして世界に十分な平和をもたらせるでしょうか
 
私たちのお互いの心はどうでしたか?平和でしたか?
私たち家族の各々はどうでしたか?平和でしたか?
 
私たち自身のうちに、まず平和を確立すること
それこそが、世界平和を実現させるためのものです



 
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Sanctissimi Nominis Mariæ.
 
マリアの至聖なる御名


記念日:9月12日


幸いなおとめマリアの仲介への感謝
 
聖ヨアキムと聖女アンナは大天使が彼らに告げられたとおりに生まれて20日目に、2人の愛娘をマリアと名づけた。


おとめの名をマリアと言いました。海の星maris stellaの意味に解され、おとめである聖母に実に合致するこの御名について話しましょう。彼女が星にたとえられるのはきわめてふさわしいのです。なぜなら、星が光を出しても、みずからの性質を変えないように、おとめも、みずからを傷つけることなく、御子を世に送り出されたからです。光線が星の輝きを損なうことがないように、御子もおとめの清さを傷つけることがないのです。
彼女は、ヤコブから出た、かの気高い星であり、その光は、全世界を照らし出すのです。その輝きは、高いところに至り、低いところに及びます。また、地上を照らし、肉体よりも精神をあたため、善徳を育てて、悪の力を挫くのです。実に彼女こそ、この広大な海原をあまねく照らす崇高な星であり、その功徳によって照らし、その模範によって輝くのです。
誘惑の嵐が吹きすさぶ時、苦しみの暗礁に乗り上げる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。傲慢、野心、中傷、嫉妬の波にのまれる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。短気、貪欲、肉欲が、心の舵を奪おうとする時、マリアにまなざしを注ぎなさい。罪の重さで心が震え、良心の叱責で圧される時、審判の恐ろしさにおののき、嘆きの深み、絶望の淵に呑まれる時、マリアに想いをよせなさい。危険に遭う時、困難を感じる時、疑念に悩まされる時、マリアに想いをよせて、マリアを呼びなさい。その御名を、口から絶やさず、心から離さないようにしなさい。
そうして、その祈りの助けを求めて、その生活の模範からそれないようにしなさい。彼女につき従えば迷うことなく、彼女に願えば失望することなく、彼女に想いをよせれば誤ることなく、彼女が支えるなら倒れることなく、彼女が守るなら恐れることなく、彼女が導くなら疲れることなく、彼女がいつくしみを注ぐなら救いの港に至るでしょう。
(聖ベルナルド修道院長教会博士)


  あぁ、マリアよ、あなたの崇高で感嘆すべき御名は、神の宝庫から出されたものです。三位一体の神は、御子イエズスの御名に次いで、全ての名にまさるこの御名を、あなたにお授けになりました。さらに神は、この御名に、尊厳と力とを賦与なさり、天上においても、地上においても、地獄においても、全ての被造物が、この御名を聞いただけで、これを崇め敬い、その御前にひざまずくことをお求めになられたのです。
神の恩寵を見出したいと望む人は誰であれ、恩寵の発見者Inventrix gratiæであるマリアのもとに行きましょう。マリアは、ご自分が、神によって、憐れみの御母として立てられたことをお忘れになりません。
ところで、悲惨のないところに、憐れみの必要性があるでしょうか?この世の母親でさえ、らい病にかかった子供を、いやだからと言って、これを捨ておくことはしません。ましてマリアは、いかなる罪人であろうと、彼女に祈り求める者を、決して退けられないのです。
マリアの御名、それは、実に、難攻不落の天守閣のようなものです。罪人は、そこに避難しさえすれば、救われます。この天守閣は、全ての罪人を、たとえどれほど大きな罪人であろうと、たとえどのような罪を犯した者であろうとも、永遠の死から、これを防ぎ、守るのです。
(聖ラウレンツィオのリカルド神学者)


Oratio.
Concede, quæsumus, omnipotens Deus,
ut cunctis gloriosum beatæ Mariæ Virginis 
nomen celebrantibus,
misericordiæ tuæ beneficia ipsa procuret.
Per Christum Dominum nostrum. Amen.

全能の神よ、私たちはつつしんで願い求めます。
栄光に満ちた幸いなおとめマリアの御名を喜び祝う全ての人が、
あなたの憐れみの顕現であるマリアご自身の配慮に委ねられますように。
私たちの主キリストによって。アーメン。


主の祈り(1回) アヴェ・マリア(10回) 栄唱(1回) ファティマの祈願(1回)
 


 
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理想主義やファリザイ的厳格さにではなく、教会の健全な現実主義に従う
 
フランシスコ教皇聖下
 
虐げや侮辱に走るのではなく、寛容と和解に努める
 
イエズスが私たちに求めておられるのは
寛容さや聖性であって
それこそが、全てにおいて前に進ませ
私たち自身の殻を抜け出させて、他者への愛にまなざしを向けさせるのです
 
これこそが、私たちを害する理想主義や掟の厳格さから
私たちを自由にさせてくれるものです
 
イエズスは、私たちの人間性のことを、よくご存知です
私たちが誰かと口論してしまったなら
いつでも、和解の機会を模索するよう求めておられます
 
主は、私たちに健全な現実主義を教えておられます
 
「私たちは完全にふるまうことはできません」
と何度も言いたくもなるでしょう
しかし、こう言うように努めてください
「私たちができることは何でもしよう。そして不和を解決しよう」。
 
これがカトリック教会の健全な現実主義です
 
教会は、「これか、もしくは、あれか、どちらでもかまいません」
とは決して教えません
それはカトリックではありません
 
教会は私たちにこのように言います

「これをして、あれをしてみてください」
「完全になれるよう努めてください
あなたたちの兄弟と和解してください
彼を侮辱してはいけません
彼を愛しなさい
たとえ問題があるにせよ、争いで関係性を崩さないために
不和をなくすよう極力努めてください」
 
これがカトリシズムの健全な現実主義です
 
「これか、もしくは、何もしないか、どちらでもかまいません」
カトリックはこのように言いません
これはカトリック的ではなく、異端的です
 
イエズスは、いつも私たちに伴うすべをご存知です
イエズスは、私たちに理想をもたらすと共に
理想に向かう同行者となってくださいます
 
イエズスは、掟の厳格さの鎖から、私たちを自由にしてくださいます
そして、私たちにこのように仰せられます
「あなたにとって、できる限りの段階まで、あなた自身がんばってみなさい」
 
イエズスは、私たちのことを
私たち自身が知るよりも、とてもよくご存知です
 
イエズスは、私たちの主であり
このように私たちを諭してくださいます



 
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イメージ 2

 
私たち自身の間における和解は、ささやかな交渉の聖性です
 
私たちが偽善を回避するようにと
また、私たち自身の間における論争を
極力回避して調和をもたらすために
私たちができることを何でもするようにと
イエズスは、どれほど熱心に勧めてくださることでしょう
 
これに関する私の表現について、少し奇異に感じるかもしれませんが
私はこれを、『ささやかな交渉の聖性』と表現したいと思います
 
「たしかに、私には全てのことを果たすことはできないでしょう
でも、私は全てのことを果たしたいと望んでいます
あなたとの調和を築きたいと思っているし
互いが侮辱しあうことは極力避けたいです
争いに拍車をかけたくないし
私たちお互いが平和のうちに過ごせるようにしたいと思います」。
 
イエズスは、偉大な人格者です
イエズスは、私たちを、その全ての惨めさから解放してくださり
カトリックとは相容れない理想主義から、私たちを自由にしてくださいます
 
私たちの主が、私たちに教え諭してくださるよう願いましょう
 
まず第1に、あらゆる厳格さから免れることができますように
そして、私たちが、自分の殻を抜け出して
他者への愛のまなざしを向けることができますように
 
また、私たちが礼拝し、賛美を捧げる神ご自身が
私たちに教えてくださっているように
私たち自身の間における和解を実現するために
私たちが、できる限りの段階まで努力して
互いの調和に至ることができますように



 
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