カテゴリ: 教皇聖下の意向✿

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2019年 教皇聖下の祈りの意向
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 
 



1月 若者たち
 
若者たち、特にラテン・アメリカの若者たちが、マリアの模範に従い、福音の喜びを世界に伝えるために、主の呼びかけに応えることができますように。



 
2月 被害者たち
 
人身売買、強制売春、暴力の被害者たちが、想いやりをもって迎えられますように。
 



3月 キリスト者のコミュニティ
 
キリスト者のコミュニティ、特に迫害を受けているコミュニティが、彼ら自身、キリストの近くにいるということを感じ取ることができますように。また、彼らの有する権利が尊重されますように。
 
4月 紛争地域で活動する人々
 
他の人々の生命を救うため、自分の生命を危険にさらす、紛争地域における医療従事者たちと彼らの人道的協力者たちのために。
 
5月 アフリカの教会
 
アフリカの教会が、そのメンバーたちの責任ある関わりを通じて、アフリカの人々の間における一致のパン種となり、アフリカ大陸における希望のしるしとなることができますように。
 
6月 司祭たち
 
司祭たちが、彼らの生活上のつつましさとへりくだりによって、最も貧しい人々との連帯を、彼ら自身が積極的に深めていくことができますように。
 
7月 正義
 
正義を遂行すべき立場の人々が、誠実さをもって働くことができますように。そして、世界にはびこる不正が、決定権をもつことができなくなりますように。
 
8月 家庭
 
家庭が、祈りと愛の生活を通して、常に、より明確に、『人としての成長の真の学び舎』となることができますように。
 
9月 政治家たち、科学者たち、経済学者たち
 
政治家たち、科学者たち、経済学者たちが、世界の海洋環境保全のために、協力して働きかけていくことができますように。
 
10月 聖霊
 
聖霊の息吹が、教会内に新たな宣教的『春』をもたらしてくださいますように。
 
11月 コミュニケーションと和解
 
異なる宗教的コミュニティが、その生活を共に支え合う近東において、対話、出会い、和解の精神が、彼らの間で沸き上がりますように。
 
12月 幼い子供たち
 
全ての国が、幼い子供たちの未来について、特に苦しんでいる幼い子供たちのことを最優先に考えて、必要な措置を講じるための決定をなしていくことができますように。
 

 
 
Oratio Dominica
ex. Nova Vulgata
 
Pater noster, qui es in cælis,
におられる私たちの父よ、
sanctificetur nomen tuum,
あなたの御名が聖とされますように。
adveniat regnum tuum,
あなたの御国が来ますように。
fiat voluntas tua, sicut in cælo, et in terra.
あなたの御望みが天に行われるとおり、地にも行われますように。
Panem nostrum supersubstantialem
私たちの生命を保つために必要なパンを、
da nobis hodie;
今日、私たちにお与えください。
et dimitte nobis debita nostra,
あなたに負い目のある私たちを、どうぞお赦しください。
sicut et nos dimittimus debitoribus nostris;
私たちに負い目のある人々を、私たちが赦すのと同様に、
et ne inducas nos in tentationem,
私たちが誘惑におちいるのをおゆるしにならず、
sed libera nos a Malo.
むしろ私たちを悪魔から解放してください。
Amen.
アーメン。
  
 
天におられる私たちの父よ、
あなたの御名が聖とされますように。
あなたの御国が来ますように。
あなたの御望みが天に行われるとおり、地にも行われますように。
私たちの生命を保つために必要なパンを、
今日、私たちにお与えください。
私たちに負い目のある人々を、私たちが赦すのと同様に、
あなたに負い目のある私たちを、どうぞお赦しください。
私たちが誘惑におちいるのをおゆるしにならず、
むしろ私たちを悪魔から解放してください。
アーメン。





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2018年 教皇聖下の祈りの意向
(7月から12月まで)
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 


 
7月 司祭たちと彼らの司牧的奉仕
 
司牧的働きにおいて、疲労や孤独を経験する司祭たちが、主との親密さのうちに、また、彼らの兄弟である司祭たちとの友情のうちに、助けと慰めを見出すことができますように。

 


8月 家族という貴重な宝
 
エコノミストたちや政治家たちによる種々の広範囲に及ぶ決断が、家族を人類の貴重な宝の1つとして保護するものとなりますように。



 
9月 アフリカの青年たち
 
アフリカの青年たちが、彼ら自身の国々で、教育や労働に積極的に携わることができますように。

 


10月 奉献生活者たちの使命
 
奉献された男女修道者たちが、彼ら固有の働きにいそしみ、貧しい人々、軽んじられた人々、自ら声をあげることのできない人々のうちに寄り添うものとなることができますように。



 
11月 平和のための奉仕の働き
 
愛をこめた言葉遣いや対話が、いさかいをもたらす言葉遣いに対して、いつも打ち勝つことができますように。



 
12月 信仰伝達のための奉仕の働き
 
信仰伝達のための奉仕の働きに取り組む人々が、独自文化に接する彼らの対話において、現在の状況に適した言葉を見出すことができますように。
 


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フランシスコ教皇聖下
 
家庭に寄り添う教会
 
イエズスがそうなさったように、教会は
ジェネレーション・ギャップ、家庭内暴力、経済的困難、雇用不安などの
いくつもの家庭が抱える不安や緊張を理解し
旅の随伴者のように、彼らに寄り添います
 
心をくばる母親のように、教会は
私たちを愛して養われる神のうちに
揺るぎないものであることを、私たちに教えます
 
この『根本的な内的経験』、この『堅固な内的経験』は
人生で直面する全ての妨げや移り変わりにおいて私たちを助け
全ての悪を征服する善のうちにとどまらせ
私たちが聖人になることを可能にするものです
 
信仰は、家庭の中で伝えられるべきものです
私たち各々の限界を認めつつ、互いに助け合い
他者との喜びに満ちた調和における希望に向けて
開かれた心をもって祈るよう、私たちに教えてくれるものです
 
母親としての教会
 
福音においてマリアは、いつも『イエズスの母』として記述されています
彼女の母親としての優しさは
受胎告知の初めから、福音全体を通じて強調されています
 
この特質は、教会の教父たちによって
早期から注釈されていました
そして、この特質は、教会にも当てはめられていました
 
教会は女性的です
なぜなら、教会も、花嫁も、文法性が女性だからです
 
そして彼女(教会)は母親です
彼女は生命をもたらすからです
 
花嫁であり母親である教会
そして教父たちは、さらに進んで
あなたたちの霊魂もまた、キリストの花嫁、母親である、と述べます
 
この見解は、教会の御母であるマリアに由来しています
この見解のうちに、私たちは
教会の、この女性的特質を理解することができます
 
この女性的特質が教会に失われた時
教会は、自身のアイデンティティを失います
 
そして、単なる慈善団体やフットボール・チームに似たもの
全くもって教会ではないものとなってしまいます
 
重要なことは、教会が女性となること
花嫁としての特質、母親としての特質をそなえることです
 
私たちがこのことを忘れてしまう時
それが男性的な教会である時
この女性的特質なしには
それは、愛のない、豊かさのない、孤独のうちに生活する
古びた独身男性の残念な教会になってしまうでしょう
 
女性なしには、教会は、前に歩を進めることはできません
なぜなら彼女(教会)は女性だからです
 
そして、この女性としての特質は、マリアに由来するものです
なぜなら、イエズスが、教会がそうであるよう望まれたからです
 
母としての教会は
優しさという小道にそって歩んでゆきます
 
優しさは、抱擁、沈黙、注視の上智という言葉を知っています
それは、同情を抱くことを知り、沈黙することを知っています
 
教会のメンバーとなるこの道を生き抜こうとする霊魂や人もまた
それが彼であれ彼女であれ、母親のようなものとして
同じ小道にそって歩んで行かなければなりません
 
その時、その人は
優しさ、想いやり、微笑み、愛に満ちたものとなります
 
家庭の美しさ
 
『神は、創造の初めから、人を男と女に造られ
人は、父母を離れ、その妻と結ばれ
2人は1つの肉になる』
 
1つの肉
とても力強い御言葉です
 
家庭には種々の困難が生じていることは事実です
そこには、子供たちの問題、夫婦間の口論や喧嘩など
さまざまな問題があるでしょう
 
しかし、重要なことは、1つの肉のうちにとどまることです
そうすれば、あの問題、この問題、その問題も克服することができます
 
そして、その克服は
彼らの婚姻の秘跡のためだけのものではなく
むしろ、教会のためのものでもあるのです
 
秘跡はたしかに私たちの注意を引きよせます
「ごらん、愛することができるだろう」
 
そして、愛は、あなたたちの全生涯にわたり
あなたたちが愛のうちに生きることを受け入れるよう促します
 
喜びにおいても、悲しみにおいても
子供たちの問題があろうとも、自分たち自身の問題があろうとも
そうしたことがあっても、いつも前に進んでいけるように
病気の時でも、健康の時でも
どのような時でも、いつも前に進んでいけるように
 
これは実に美しいことです
 
男性と女性は、神のイメージと似姿のうちに創造されました
そして、このことから、結婚も同様に、神のイメージになりえるものです
このことは、結婚をとても美しいものとします
 
婚姻は、他の全ての人々にとって
静かな説教、日々の説教のようなものです
 
このことがニュースにならないことは、悲しむべきことです
新聞やTVのニュース番組では、このことをニュースとみなしません
カップルが、一緒に多くの年月を過ごすことは
なかなかニュースとして扱われません
 
スキャンダル、離婚、別居
これらが価値あるニュースとみなされます
時には、より大きな悪を避けるために、別居の必要もあるでしょう
 
神のイメージはニュースとして扱われません
しかし、これは結婚の美しさです
彼らカップルは、神のイメージであり、似姿です
そして、これこそ、私たちのニュース、キリスト者のニュースです
 
結婚と家庭生活は、容易ではないでしょう
忍耐は、カップルにとって
男性と女性の両方にとって、最も重要な善徳です
 
主が、教会と社会に
結婚についての、より深い、より美しい理解をもたらしてくださいますように
それによって私たち全てが
『神のイメージと似姿が、結婚のうちに現存している』という事実について
その真価を認めて、再考してゆくことができますように
 

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2018年 教皇聖下の祈りの意向
(1月から6月まで)
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 
 


1月 アジアにおける宗教的少数派の人々
 
アジア諸国におけるキリスト者たちや、その他の宗教的少数派の人々が、完全な自由のうちに、彼らの信仰上の敬神行為を果たすことができますように。
 



2月 腐敗に対して『ノー』と言えるように
 
物質的、政治的、霊的権力を有する人々が、腐敗のいかなる魅惑に対しても抵抗することができますように。

 


3月 霊の識別の形成
 
教会が、個人的段階においても共同体的段階においても、霊の識別の速やかな形成の必要性を、正しく把握することができますように。
 



4月 経済的諸問題に責任を負う人々のために
 
エコノミストたちが、いかなる排他的な経済論理をも拒絶するための勇気を抱き、新たな方策開拓への取り組みを把握することができますように。

 


5月 信徒の使命
 
信徒たちが、現代世界の抱える諸問題に、独創性をもって応えることにより、彼ら特有の使命を遂行することができますように。

 


6月 ソーシャル・ネットワーク
 
ソーシャル・ネットワークが、他者との相違を認め合い、他者への尊敬を促す包括性に向けて、歩みを進めるものとなりますように。
 
 

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フランシスコ教皇聖下
 
神の優しさ
 
神の優しさは、全ての被造物の上に注がれます
 
父親がその子供に語るように
神は私たちに語りかけてくださいます
 
あたかも私たちに子守唄を歌い聴かせるかのように
その抱擁のうちに私たちの不安を取り除こうとなさいます
「恐れてはならない。私があなたを助けてあげよう」
 
神の優しさとは、このようなものです
神は、私たちにとって、父親であり母親でもあります
 
幾度となく神は私たちに語りかけます
「たとえ母親がその子を忘れたとしても、私はあなたを決して忘れたりしない」
 
神はご自分のふところに、私たちを抱きかかえてくださいます
 
神は、このような語らいのうちに、私たちも理解できるようにと
ご自分を小さなものとして、私たちに差し出されます
 
私たちが神に信頼することができるようにと
「アッバ、父よ」と私たちが呼びかけることができるようにしてくださいます
 
父でいてくださること
それが、神の優しさです
 
時に、神が、拳で私たちを打つことも真実です
実際、神は、威厳に満ちた御方です
しかし、その優しさのうちに私たちに寄り添い、私たちをお救いになります
 
このことは1つの神秘であり
最も美しい事柄の1つです
 
神は威厳に満ちた御方でありながら
ご自分を小さなものとして私たちに差し出されます
その小ささにありながらも
その偉大さをおやめになることはありません
 
ご自分を小さなものとする偉大さ
それは、偉大な小ささです
 
クリスマスは、このことの理解について、私たちを助けてくれる機会です
そのまぐさ桶に、小さな神がおられます
 
神的とは何でしょうか?
最も神的なこととは何でしょうか?
最大のものに限定されず、最小のものの中にも含まれることです
 
大きな事柄を恐れないでください
しかし、小さな事柄をも心にとめるようにしてください
 
このどちらもが、神的なことです
 
神は私たちを助けてくださるだけではありません
神は私たちに喜びの約束を交わしてくださいます
それは偉大な収穫であり
それに向けて歩めるよう私たちを支えてくださいます
 
神は、義の父であるだけでなく、パパでもあります
 
私が主についてこのように話すことができるでしょうか?
それとも、そのように話すことを恐れるべきでしょうか?
 
ある人々は問いかけます
「神の優しさの神学的な位置づけとはどんなものですか?」
「神の優しさというものを、どこで見出すことができますか?」
「神の優しさが最も顕著な場とは、いったい何ですか?」
 
それは、傷です
それは、私たちの傷であり
それは、神人キリストに刻まれた御傷です
 
私の傷においても、あなたの痛みにおいても
あなたが主の御傷のうちに、自分の傷を見出す時
神の優しさを見出すことができます
 
私たちは、その御傷によって癒されました
 
善いサマリア人のことを想いかえしてみましょう
強盗に襲われ、誰からも見棄てられた人を哀れに想って近寄り
傷口に油とぶどう酒を注いで手当てをして
宿屋に連れて行き、介抱のための費用を払い、その人を助けました
 
ここに、神の優しさの神学的な位置づけがあります
 
私たちの傷
そこに神の優しさが注がれる最も顕著な場があります
 
主はご自分の優しさのうちに浸されるよう
私たちを招いておられます
 
『さぁ、私のもとにおいで。
あなたの傷を私に見せなさい。
私が、それらを癒してあげたいのだ』



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2017年 教皇聖下の祈りの意向
(7月から12月まで)
 

これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 
 


7月 キリスト者としての信仰から遠ざかった人々のため
 
信仰から離れてしまった私たちの兄弟姉妹たちが、私たちの祈りと福音の証しを通じて、主の憐れみに満ちた親しみと、キリスト教的生活の美を、再び見出すことができますように。
 



8月 アーティストたちのため
 
 私たちの時代のアーティストたちが、彼らの才気を通じて、全ての人々に、被造物の美についての気づきを、促すことができますように。
 



9月 宣教奉仕における小教区教会のため
 
 宣教の精神によって活気づく私たちの小教区教会が、信仰と愛徳の目に見える交わりの場となることができますように。
 



10月 労働者たちや失業者たちの正当な権利のため
 
全ての労働者たちが、ふさわしい敬意をもって扱われ、その正当な権利が守られますように。また、失業者たちが、共通善に貢献する機会を適切に受けることができますように。
 



11月 アジアにおける福音の証し人としてのキリスト者たちのため
 
 アジアのキリスト者たちが、その言葉と行ないにおいて、福音の証しをもたらすものとなり、特に他宗教の人々との対話と平和、そして相互理解を推進することができますように。
 


12月 高齢者たちのため
 
各家庭やキリスト教的共同体によって支えられる高齢者たちが、信仰伝達や新しい世代の形成のために、彼ら自身の智恵と経験を活かしていくことができますように。
 
 
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フランシスコ教皇聖下
 
キリスト者に星占いなどは必要ありません
 
神は、75歳のアブラハムに、自分の国、故郷、父の家を離れるよう命じられ
アブラハムは、主が導かれるままに歩みました
 
ここに、キリスト者としてのライフスタイルを見出すことができます
そのライフスタイルには、3つの特質があります
それは、自己放棄、約束、祝福です
 
キリスト者になる、ということには
自分自身から抜け出すという特質が、いつも、含まれています
それは、十字架上のイエズスご自身の自己放棄の反映となるものです
 
自己放棄
 
「あなたの国、あなたの家族、あなたの父の家を離れなさい」
 
そこには、いつも、前に進んで行く必要性が示されています
その初めの一歩を踏み出す必要性が示されています
 
旧約聖書や福音書には
前に進んで行くよう呼びかけられた預言者たちや弟子たちについての
種々の物語やエピソードの記述で満たされています
 
キリスト者は
神のために、執着を捨てて、自分自身さえも放棄するほどの
キャパシティを持たなければなりません
そうでなければ、本物のキリスト者とは言えません
 
約束

アブラハムは、信仰のうちに、主に従いました
彼は、神が約束された地を受けるため
未知らぬ土地へと出て行きました
 
キリスト者は
未来を予測するための星占いを読んだりはしません
 
キリスト者は
水晶や手相をのぞきこむ占い師の助言を求めたりもしません
 
キリスト者は
神がその約束の成就を示された小道に
神によって導かれるままに、彼自身をまかせます
 
私たちは、男性であれ女性であれ
アブラハムが新しい土地に向かって歩んだように
神の約束に向かって歩んでいます
 
アブラハムは家を建てず、テントをもうけ
神を信頼して、その旅路を歩む姿を示してくれています
 
彼は、主に礼拝を捧げるための祭壇をもうけては歩みを続けました
彼は、いつも、前に向かって進みゆく人でした
 
キリスト者としての旅路は
毎朝、新たに始められます
主に信頼をよせて、多くの予期しない出来事にも心を開きます
 
予期しない出来事には
自分にとって、良いこともあれば、悪いこともあるでしょう
しかしながら、私たちは、いつも、それらに心を開いていなければなりません
 
というのも、私たちは、神が私たちを安全な場所に連れ行くために
神が私たちのために特別にあらかじめ備えていてくださる地に連れ行くために
それらの出来事が起こるのをお許しになるからです
 
祝福
 
キリスト者としての他の特徴とは
彼もしくは彼女が、いつも、祝福をもたらすものとなる
ということです
 
キリスト者は
主ご自身のことや、他者のことについて
どのような時も、善良に語ります
 
そして、彼らの歩む小道を前進することができるように
いつも、神の祝福を求めます
 
これこそ、キリスト者としての生活パターンです
 
なぜなら、全てのキリスト者は、どのような平信徒も例外なく
他者を祝福し、神や他者について良く話さなければならないからです
 
あまりにもしばしば
私たちは、私たちの隣人についての悪口を話しがちです
 
神が、私たちの父アブラハムにおいて示された
生活のための教訓に従おうとする代わりに
 
私たちは、悪いことのために
私たちの舌を、あまりにも激しく振り動かし過ぎです
 

立ちどまらずに前に進んで歩み続けること
主があしらわれるままに、私たち自身から抜け出すこと
主の約束に信頼すること
祝福のうちに品行方正でいること
 
キリスト者としての生活を深めることは
実に、このようにシンプルなものです





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2017年 教皇聖下の祈りの意向
(1月から6月まで)
 
フランシスコ教皇聖下は
2017年からの毎月の祈りの意向について
基本的に1つの祈りの意向を据えて
毎月第1主日に『当月の喫緊の意向』を追加表明する
そのような形に変更されました
 
 


1月 キリスト者の一致
 
全てのキリスト者が
教会的交わりの回復のために
祈りと兄弟愛のうちに努めることによって
また、人類が直面する取り組みに連携するために
協働することによって
主の教えに忠実なものとなることができますように
 
1月の喫緊の祈りの意向
 
これほどまでに冷え切った大寒波の日々に際して
私は、厳しい寒さや、しばしば無関心にさらされている
道端で生活する全ての人々に想いをよせるよう
みなさんを招きたいと思います
私たちは彼らのために、主に向かって祈りをお捧げいたします
彼らを支援するよう、人々に温かい心を、主がお与えくださいますように

 


2月 苦悩する人々のための慰め
 
苦悩する人々、特に、貧困者、難民、軽んじられた人々が
彼らを迎え入れてくれる居場所を見出すことができますように
また、私たちの共同体において、慰めを受けることができますように

 
2月の喫緊の祈りの意向
~生命の神聖さ~
 
使い捨ての文化の論理が横行する中にあって
共に生命の文化を推進させていきましょう
 
私たちは
妊娠中絶の危険のさなかにある
子供たちのために祈ります
それに加えて
人生の終わりを迎える人々のためにも祈ります
 
1人ひとりの生命は神聖なものです!
 
そのため
誰も遺棄されたりしてはなりませんし
また、愛によって、生命の重要性が擁護されなければなりません

 

 
3月 迫害されるキリスト者たちのためのサポート
 
迫害されるキリスト者たちが
全教会からの、祈りや実際的な支援によって
サポートを受けることができますように

 
3月の喫緊の祈りの意向
 
アリッチャにおける3月10日金曜日まで行なわれる
静修(黙想会)に参加する私と私の協力者たちのために祈りを捧げてください
 


 
4月 青少年たち
 
青少年たちが、彼らにおける種々の召命に
寛大に応えることができますように
また、司祭職、もしくは、奉献生活において
神に彼ら自身を捧げることについての真摯な熟考のうちに
寛大に応えることができますように


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4月の喫緊の祈りの意向
 
コロンビアの土石流被災者たちのために
コンゴ民主共和国、ヴェネズエラ共和国、パラグアイ共和国の平和のために




 
5月 アフリカのキリスト者たち
 
アフリカのキリスト者たちが
憐れみ深いイエズスに倣い
和解、正義、平和のための預言的証し人として
自らを差し出すことができますように



 
6月 各国のリーダーたち
 
各国のリーダーたちが
多くの罪のない人々を犠牲にする武器の取引を終わらせるために
彼ら自身の確固とした約束を果たすことができますように
 


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フランシスコ教皇聖下
 
神の優しさと、その愛のふるまい
 
主は、私たちを探すことを決しておやめになりません
神は、私たちを救うためなら、どんなことでもなさいます
 
主は、私たちを断罪するために来られたのではなく
私たちを救うために他なりません
 
主は、私たちを個別的に、その各々を愛しておられます
主は、私たちの名をご存知であり
私たちがどのようなものであろうとも、私たちを愛しておられます
 
失われた羊は、コンパスを持たず
病んだ心を持っています
 
失われた羊は、主から遠くに走り去り
その内なる暗闇を満たそうとします
 
主は、そのような状態の羊のこともご存知であり
その失われた羊を探し求めることを決して怠りません
 
ユダに対する主の忍耐強い姿勢は実にシンボリックです
 
福音において、ユダは完全に失われた羊であり
いつも他者のうちに何らかのあら探しをするような辛辣な心をもち
いつも主の意向から離れていました
 
彼は他者への優しさを知ろうともせず
不満に満ちていた人でした
 
ユダは、その心の暗闇のうちに
群衆への思いやりから、かけ離れていたからです
 
そのような暗闇は、往々にして
人を二重生活へと導きます
 
痛ましいことに
多くのキリスト者は
司祭でさえ、そして、司教でさえも
その同じ暗闇に導かれて、二重生活を送っています
 
ユダ自身、最初の司教たちの1人であったのです
 
プリモ・マッツォラーリ司祭は
(※聖ヨハネ23世から『聖霊のトランペット』と称された司祭)
失われた羊としてのユダについて、こう問いました
 
「兄弟ユダよ、おまえの心で何が起こっていたのか?」
 
私たちは、失われた羊のことを理解する必要があります
私たちも、各々が
失われた羊としての『何か』を、それぞれもっているからです
 
その『何か』とは、多くの過ちというよりも、むしろ心の病であり
私たちを迷える羊にさせるもの、悪魔が蝕むものです
 
それは、ちょうど、ユダが
その心のうちに分けられていったようなものです
 
最終的にユダは、彼自身の二重生活によって
共同体に危害を加えることとなりました
 
彼が自分で蒔いた悪を見た時
彼の心の暗闇のゆえに、そこから走り去りました
 
彼は光を探しましたが
主の光を探したのではなく
クリスマスデコレーションのような飾られた偽りの光に向かい
絶望の中に飛び込んでいったのです
 
主は善良な御方であり
彼は失われた羊を探すことを、決しておやめになりません
聖書は、そのように私たちに教えています
 
ユダは自分の裏切りを後悔して首を吊りました
 
主は、聖書における、この「後悔」という文言から
彼をそれ相応にあしらわれたと、私は信じています
 
そのような霊魂に対しても
神の愛は、その最期の瞬間に至るまで
回心のための働きかけをなされておられたのだと思います
 
これは、私たちへのメッセージであり
誠実に悔い改めようとする私たちに
再び喜びがもたらされるという良い知らせです
 
ですから私たちは
主のうちにこそ、慰めを見出すように努めるべきであって
その他の慰めに向かう逃避主義者になってはならないのです
 
イエズスが、失われた羊を見出された時
彼は、その羊に咎められるべきことが多いからといって
その羊を侮辱したりしません
 
イエズスは、オリーヴの園で
裏切りと卑怯なふるまいをなすユダに対してさえ
「友よ」と呼びかけられました
 
これは神の想いやりです
 
この主の想いやりを知ろうとしない人は
キリスト教の教義を知らないままです!
 
主の想いやりを受け入れようとしない人は
失われてしまいます!
 
私たちが見出すべき慰め
それは、神の優しさです
 
神の優しさ
それは、私たちを救い
その教会のふところに、私たちを立ち帰らせてくれます
 
主が、私たちに
私たち自身の罪を真摯に認めさせる恩寵をお与えくださいますように
そして、その優しさをもって
私たちに真の慰めをもたらしてくださいますように
 


 
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教皇聖下の祈りの意向
2016年12月
 
世界共通の意向: 「子ども兵士」の撲滅
「子ども兵士」という不正な実態が、一刻も早くこの世界からなくなりますように。
 
福音宣教の意向: ヨーロッパ
ヨーロッパの人々が、喜びと希望の日々をもたらす福音の美しさ、すばらしさ、真理を再発見することができますように。
 
 


最も洗練されたテクノロジーが発展したこの世界においてさえ
武器が売買され、それらが子供兵士たちの手に渡っている現状です
 
子供たちの尊厳が大切にされて
このような形の隷属を終わらせるために
私たちはできる限りのことを全て行なわなければなりません
 
あなたが誰であれ、もし私のようにあなたが駆り立てられるなら
私のこの祈りの意向にあなたも加わるようにしてください
 
このような子供兵士たちのスキャンダルが
この世界から取り除かれますように




 
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教皇聖下の祈りの意向
2016年11月
 
世界共通の意向: 難民を受け入れる国々
 移民や難民を数多く受け入れて連帯を示している国々が、その努力にふさわしい支援を見いだすことができますように。
 
福音宣教の意向: 司祭と信徒の協働
 それぞれの小教区で、司祭と信徒が、落胆することなく協働して、教会への奉仕に励むことができますように。
 


 
フランシスコ教皇聖下
 
はたして1つの国だけで
移住を強いられた人々の問題に対処することができるでしょうか?
 
私たちは、他者を受け入れることについての
無関心や恐れから脱却しなければなりません
 
あなた自身、もしくは私でさえ
その他者の立場になりえたことであるからです
 
この私の祈りのリクエストに加わってください
 
移住を余儀なくされる数多くの人々や避難民たちを受け入れる国々が
連帯を示そうとする彼らの尽力のために
必要なサポートを見出すことができますように
 
 
 
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Die 4 novembris :
B. Helenæ Enselminæ, virginis
 
 
福者エレナ・エンセルミーナは、1207年イタリア、パドヴァの貴族の家に生まれ、幼くしてキリストの花嫁になることに憧れ、アッシジの聖フランシスコの清貧と愛徳の熱意にうたれ、122012歳で清貧のクララ会に入り、アルチェッラでアッシジの聖フランシスコ自身からヴェールを受け、沈黙、祈り、断食、清貧、手仕事に励み、122610月聖フランシスコが帰天すると、1227年パドヴァの聖アントニオ(記念日;613日)の定期的訪問のうちに、神学的教育や完徳についての霊的指導を受けた。
18歳の時、足、眼、口の重い病となり、失明し、寝たきりとなり、この試練の十字架の苦しみを英雄的な愛徳のうちに、十字架につけられた主と結ばれた。
しばしば恍惚状態のうちに天の栄光や煉獄の浄化を幻視し、苦しみを煉獄の霊魂の解放のために主に捧げ、聖体拝領以外に食物を摂らずに過ごし、1231114日帰天した。
アルチェッラの福者の墓を訪れた数多くの病者は、福者の取次ぎによって奇跡的に癒された。
その聖遺体は、1509年パドゥアからフィレンツェに移され、1810年ナポレオン戦争時に聖アントニオ大聖堂に移され、195755日アルチェッラの聖域Santuario dell'Arcellaに移され、至聖所の左側のガラスケースに納められ安置されている。
ヴェネツィアの聖グレゴリオ・バルバリゴ枢機卿(記念日;618日)による列福推進を介して、16951029日インノチェンツィオ12世教皇により列福。
 
Collecta
Deus,  recte valentium et ægrotantium salus,
神よ、健常者の支え、病者の救いである御方よ、
qui  beatam Helenam Virginem tuam
あなたは、あなたの幸いなエレナおとめを、
mira  in morbis fortitudine,
種々の病状における驚くべき強さと、
morumque  innocentia decorasti :
汚れない生活習慣で飾られました。
eius  nobis intercessione concede ;
その取次ぎによって私たちに恩寵をお与えください。
ut ægritudines  et adversa patienter tolerantes,
私たちが、種々の病苦や逆境を忍耐強く耐え忍び、
mortalis  vitæ emendationem
死すべき生命の矯正と、
et æternæ  salutem consequamur.
永遠の救いを、いただくことができますように。
Per Christum  Dominum nostrum. Amen. (MR 1862)
私たちの主キリストによって。アーメン。
 


 
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教皇聖下の祈りの意向
2016年10月
 
世界共通の意向:  ジャーナリスト
 
ジャーナリストが、仕事をする上で、常に真実を尊重し、倫理に忠実な姿勢を保つことができますように。
 
福音宣教の意向: 世界宣教の日
 
世界宣教の日にあたって、全てのキリスト者の共同体で、福音の喜びが新たにされ、その喜びを告げ知らせる責任を思い起こすことができますように。
 





フランシスコ教皇聖下
 
真理への敬意と 力強い倫理的感性による 崇高なモチベーションをいだく
 

私はしばしば思いめぐらしています
 
出会いの文化の奉仕のために
はたしてメディアは、どのように据えられることができるでしょうか?
 
人間性と地球における共通善のために
歩み寄りを導き出すための情報を、私たちは必要としています
 
私のこの祈りのリクエストにどうぞ加わってください
 
ジャーナリストたちが
その職務を遂行する際に
真理への敬意と、力強い倫理的感性によって
常に、動機づけられますように
 
この祈りのリクエストを広めるため
あなたも、私の手助けをしてくれませんか?
 
「はい、そのように心がけます」
 


 
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フランシスコ教皇聖下
真理を愛し、人間の尊厳を尊重するジャーナリストとなるように
ex  Vatican Radio
 
ジャーナリズムとは
社会に多大な影響を与える数少ない職業の1つです
 
ジャーナリストは
ある意味、歴史の最初の一行を書く人々であり
その役割の重要性と責任は大きく
その職務において
自由で多様性ある社会を実現するための大黒柱となりえるものです
 
このような重要性を持つジャーナリストたちの仕事と現実を
あらためて考えてみたいと思います
 
ジャーナリストに必要な要素は
真理を愛する者である、ということです

真理を愛するとは
ただ真理を示すだけでなく、その真理を生き、証しすることです
 
それは信仰をもつ、もたないの問題ではなく
自分と他者に対して、正直でいられるかどうかということです
 
コミュニケーションの中心は、関係性であり
不誠実さの上には、ジャーナリズムだけでなく
いかなる関係性をも築き上げることも持続させることもできません
 
私はジャーナリストたちに
プロフェッショナル性を生きることを期待しています
 
経済的、政治的、その他、様々な利害関係に押し潰されることなく
人間の社会的側面を成長させ、真の市民性を育むために
真理を探究する努力を続けていってもらいたいと思います
 
また、報道関係者たちには
人間の尊厳を尊重するようにと願います
 
悪を糾弾することは、合法的であり、また必要なことでもありますが
その一方で、不当に名誉を傷つけられた人々は
一生それを背負うことになってしまいます
 
そのため、報道は、常に、人間の尊厳を尊重したものでなくてはならず
それを個人や民族を傷つけるための武器とすることがないように
注意を払っていってもらいたいと思います
 
ジャーナリズムが
共通善を構築し、和解を促し
衝突を遠ざけ、分裂を収め
出会いの文化を推進する道具となることができますように
 


 
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フランシスコ教皇聖下
 
私たちはみな、遅かれ早かれ、霊的な暗夜を経験する
 
霊的荒涼は、私たち全てに起こりえることであり
それによって、人は、より強められることもできますし
より弱められたりすることもあるでしょう
 
霊的暗夜の感覚、失望、疑念、生きる望みの喪失、
出口の見えないトンネル、各々の心、各々の思いにおける動揺。。
 
霊的荒涼は
まるで私たちの霊魂が押し潰されたかのように
私たちに感じさせます
 
「私はもうやっていけない。もう無理だ。
もう生きたくもない。死んだほうがましだ。
こんな風に生きるぐらいなら、死んだほうがいい」
 
これは、ヨブの苦しみの吐露です

私たちの霊魂が
たとえ息が詰まるほどの悲しみをもたらす状況においてさえも
私たちは理解しておく必要があります
 
これは、私たちみなにおいて起こるものです
強い人にも、そうでない人にも、私たちみなに起こります
私たちの心で起こりえることを、私たちは理解する必要があります
 
では、家族の悲嘆、病魔、私たちを押し潰す出来事
このような暗闇の時を経験する時
私たちはいったい何をなすべきなのでしょうか?
 
人々のうち幾人かは
睡眠薬を服用して問題から逃れようとしたり
1杯、2杯、3杯か4杯グラスをかたむけて
酔いで忘れることで、問題から彼ら自身の注意をそらそうとします
しかし、これらの方法は、本質的な助けにはなりません
 
それよりもむしろ
霊的荒涼に対処すべき方法は、祈りです
 
私たちの様々な苦悩から逃れるために
薬物に依存したり、アルコールに酔いしれたりすることよりも
むしろ、沈黙や祈りこそが
私たちの最も深い暗闇の時を克服するための有効な方法となります
 
私たちが生ぬるい時、落胆する時、望みがないかに思える時
そのような状況から抜け出す最良の方法は、祈ることです
 
神が聴き入れてくださるまで
ヨブが昼夜祈りのうちに叫んだように
徹底して、祈りの叫びをあげることです
 
それは、神の聖心のドアを力強くノックする祈りです
 
「主よ、私の霊魂はトラブルで氾濫しています
私の人生は地獄に引き寄せられています
私は穴に落ち込む人々のうちに数えられています
私は強さをもちあわせていません」
 
私たちは幾度、このような無力感を味わってきたことでしょう
しかし、ここに祈りが沸き上がります
 
私たちの主ご自身が
このような悲惨な時に、どのように祈るべきかを教えてくださいました
 
「主よ、あなたは、私を穴の深みに沈められました
私の上に、あなたの怒りが重くのしかかっています
主よ、私の祈りを御前に至らせてください」
 
これが祈りであり
私たちを深刻に押し潰す、私たちの暗闇の時、最も悲惨な時
最も冷え切った時、最も打ちひしがれた時に
私たちがなすべき真の祈りです
 
そして、その祈りは
ヨブが、その子らと共になしたように、解決の糸口をもたらすものです
 
そう、子供のような信頼をもって、祈りを捧げましょう


沈黙し、寄り添い、祈ること
 
ここで、沈黙の重要性を考えてみたいと思います
 
暗闇の時を迎えている人々に対して
沈黙し、寄り添い、祈ることは
真の友人としての正しいふるまい方です
 
一方で、このような暗闇の状況下にある人々に対して
お決まりの忠告の言葉の石を投げかけたり、説き伏せようとすることは
その人々の心に深い傷を負わせてしまうことになります
 
私たちは、全てに先立って、まず第1に
私たちが暗闇にあって、希望もなく
私たち自身、なぜそうなのかと問いかける時
私たち自身の霊的荒涼の時について、把握しなければなりません
 
第2に、詩編88(87)が
私たちの暗闇の際にどのように祈るべきかを教えているように
私たちは主に向かって祈るべきです
「主よ、私の祈りを御前に至らせてください」
 
第3に、病魔に苦しんでいる人
あるいは、その他の種類の困難な状況下で苦しんでいる人
荒涼の感覚を経験している人
そのように苦しんでいる人に、私たちが寄り添う時
私たちはむしろ沈黙すべきです
 
しかし沈黙とは言っても
愛の祈りを伴わない沈黙
寄り添うことのない沈黙
抱擁のない沈黙ではありません
 
そして私たちは、その際に
結局何らの助けにもならないような
お決まりの忠告の言葉の石を投げかけたり
その人を説き伏せようとすべきではありません
 
そのようなことは得てして
その人の心に深い傷を負わせてしまうことになるからです
 
主が、私たちに
これら3つの恩寵を与えてくださるよう祈りましょう
 
私たち自身が霊的荒涼を、よく理解することができる恩寵を
霊的荒涼を感じることで苦しみにあえぐ時に、祈ることができる恩寵を
戦慄すべき悲しみの時を過ごしつつ霊的荒涼で苦しむ人々に対して
私たちが寄り添うすべを知ることができる恩寵を
主が、いつくしみ深く、私たちにお与えくださいますように
 


 
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教皇聖下の祈りの意向
2016年9月
 
世界共通の意向: 人間中心の社会
私たち一人ひとりが、共通善のために、また人が常に大切にされる社会の建設のために、尽くすことができますように。
 
福音宣教の意向: 福音宣教の使命
秘跡にあずかり、みことばを黙想することによって、キリスト者が福音宣教の使命をより深く自覚できますように。


 

人間性は危機に直面しています
 
それは単に、経済上や金融上におけるものばかりでなく
環境上、教育上、道徳上、人間そのものの危機です
 
私たちが危機について語る時
私たちは種々の危険について語ります

しかしながら、むしろ種々の機会について語るべきではないでしょうか
 
では、それは一体どのような機会でしょうか?
 
それは、連帯を結ぶ、という機会です
 
来て、私を助けてください
 
全ての人のために、私たち各々が、共通善に貢献し
人格が中心に据えられる社会の建設に貢献することができますように
 


 
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※被造物を大切にする世界祈願日(9月1日;日本では9月第1日曜日)


あぁ、貧しい人々の神よ、この地上において見捨てられた人々、忘れられた人々、あなたのまなざしにおいて貴い彼らを救うことができるよう、私たちを助けてください。
あぁ、愛の神よ、この地球上の全ての被造物のための、あなたの愛の道具として、この世界があり、そこに私たちの居場所があるということをお示し下さい。
あぁ、憐れみの神よ、私たちがあなたの赦しを受け取り、私たち共通の家の至るところに、あなたの憐れみをもたらすことができますように。
Laudato si!アーメン。




私たち各々が、共通善に貢献し
人格が中心に据えられる社会の建設に貢献することができますように
 
カトリック教会のカテキズム
 
人類の召命とは、神の似姿を示し
御父の御独り子の似姿に変えられることです
 
人間には、社会生活が欠かせません
他の人と交わることによって
また、互いに役立ち合ったり、対話し合ったりすることによって
人間は、その諸能力を発揮させ
自分の独自性を開花させるタラントンを実らせなければなりません
 
社会の各共同体は、それぞれの目的によって性格づけられ
特有の規則に従わなければなりませんが
あらゆる社会制度の起源、主体、目的は
ペルソナとしての人間であり、また、そうでなければなりません
 
社会は、人間の召命の実現のために
物質的次元や本能的次元を、内面的次元や精神的次元のもとに置く
という正しい価値の序列を尊重すべきです
 
愛は、最も重要な社会的おきてです
愛は、他者とその権利とを尊重します
 
愛は、正義の実践を要求し
愛だけが、私たちに、それを実践できる力を与えてくれます
愛は、自分を捧げる生き方を促します
 
個人の善は
人間の社会的本性のゆえに
必然的に共通善に結ばれています
他方、共通善は、個人を考慮することなしに、決定されません
 
共通善には、3つの本質的要素があります
 
第1に、個人を、その人であるがゆえに、尊重することです
たとえば、正しい良心に従って行動する権利
プライバシーを守る権利
宗教の分野を含めた正当な自由を享受する権利
これらを行使する諸条件を整えることを
共通善は要求します
 
第2に、共通善は、集団の社会的安寧と発展を求めます
権威者は、それぞれの人が、真に人間らしい生活を送るために必要なもの
たとえば、食料、衣服、健康、仕事、教育や教養、適正な報道
家庭を作る権利などを手に入れやすくなるよう図らなければなりません
 
第3に、共通善には、平和
つまり、正しい秩序の持続や保全という内容が含まれています
したがって、権威者は、適正な手段を用いて
社会とその構成員との安全を図らなければなりません
共通善こそが、個人や集団の、合法的防衛権の土台になるものです
 
事物の秩序は
人間の秩序に従属すべきであって
その反対であってはなりません
 
人間の秩序は
真理を土台として
正義の上に建てられて
愛によって生かされます
 
社会正義は
人間の超越的な尊厳を、尊重することなしには得られません
人間こそが
社会が目指すべき究極の目的だからです
 
人間は、本質的に、人格としての尊厳と
それに由来する人権という点で平等です
 
基本的人権に関する全ての差別は
それが、社会的差別であろうと、文化的差別であろうと
性別、人種、皮膚の色、地位、言語、宗教に基づくものであろうと
神の意図に反するものであり
克服し、排除しなければなりません
 
人々における相違は
年齢、身体的能力、知的能力、倫理的能力
各自が経験した交流、富の分配などに由来して、現れてきます
そのように、タラントンは
人それぞれ同等に配分されているのではありません
 
このような相違は
神のご計画に基づくものであり
神は、各自が自分に必要なものを、他者から受けることを望まれ
また、特別なタラントンを持つ人が、これを必要とする人々に
その恩恵を分かち与えることを望まれます
 
このように、相違は
寛容、好意、分かち合いを促し、これを義務づけます
 
相違はまた
諸文化が、相互に豊かにしあうための刺激ともなるものです
 
連帯は、きわめてキリスト教的な徳です
物的なものの分かち合いをしながら
それ以上に、霊的宝の分かち合いを実践させてくれるものです
 


 
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シエナの聖女カタリナおとめ教会博士
共通善のための各々のタラントンの相違について
 
他者との善の分かち合いについて、神は仰せられます
 
「あなたたちは、隣人を自分自身のように愛さなければならない。
 
 隣人への助けは、
 私への愛ゆえに、隣人に対して抱く愛から発するものでなければならない。
 
 この愛は、祈り、言葉、助言によって隣人を助けることを義務づけ、
 状況や要求に応じて、霊的援助や物的援助をもたらすことを義務づける。
 
 もし、援助のための具体的な手段をあなたたちが持ち合わせないなら、
 せめて望みを抱かなければならない。
 
 人は、隣人のために私に捧げるはずの祈りや敬虔な望みを捧げないなら、
 私の恩寵を失うと共に、隣人の期待を裏切ることになるからである。
 
私はいくつかの善徳を、
 ある人に多く、また他の人に多く、
 ある人には慈善を、ある人には正義を、
ある人には謙遜を、ある人には賢明を、
 それが他の善徳に比べて、際立っているように見える方法で分配し、
 各々の霊魂の種々の段階に応じて分配する。
 
 それは、その霊魂が、おもだった善徳を、
他の善徳よりも、実行する多くの機会に出会うからである。
 
 私にとっては、
 からだにとっても、霊魂にとっても、
 必要な全てのものを、人に与えることは可能であった。
 
 しかしながら、
 肉体的な善の分配に関して、
 私は極めて大きな不平等に基づいた。
 
 私は、各々が必要な全てを掌握するのを望まなかった。
 
 というのも、人々が、それらの不足のゆえに、
 必然的に、相互に、愛徳を実行する機会をもてるようにするためであった。
 
 それゆえ、各々は、互いに求め合い、
 私から受けた恩寵や賜物を分配するための、私の協力者となるのである。
 
 それゆえ人は、好むと好まざるとによらず、
 愛徳を実行する必要性からのがれることはできない。
 
 これが、あなたたちを、異なる状態や異なる段階においた理由であり、
 あなたたちが私の愛徳の実践の協力者であることの理由である。
 
 私の愛の絆につながる人は、
 その状態に応じて、他者にとって有益なものとなることができるのである」。
 


 
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カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心
 

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教皇聖下の祈りの意向
2016年8月
 
世界共通の意向: スポーツ
 スポーツが、友情を育むよい機会となり、世界平和に貢献することができますように。
 
福音宣教の意向: 福音を生きる
 キリスト者が、福音を生き、信仰を証しし、隣人への愛のうちに誠実に生きることができますように。




 
スポーツは
全ての人々の間に、平和な世界の実現のための
出会いの文化を築きあげることを可能にさせてくれます
 
私は、スポーツが、人間の尊厳を学ぶ機会として
兄弟愛を促進させる1つの手段に変えられてゆくことを想い描いています
 
この祈りの意向のうちに
ご一緒に、心のエクササイズをしていきませんか?
 
それらスポーツが
人々の間のフレンドリーな出会いをもたらす機会となりますように
また、それらが、世界の平和に寄与するものとなりますように
 


 
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フランシスコ教皇聖下
ex Vatican  Radio
 
平和と、寛容、和解を渇望する世界において
オリンピック精神が、参加者、観客、全ての人々に
『戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおす』 ことを励ましますように
 
そして、皆がメダルよりもさらに貴重な賞牌
すなわち、文化・民族・宗教の違いを超え
全ての人が人類家族の一員として認められる
連帯に満ちた文明を目指すことができますように
 

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べネのひとりごと
  
教皇聖下は、スポーツが
国家間や民族間、個々の人間同士の間にある
意識的で、閉鎖的な『心の壁』、接点のなかった『敵意』を
競技の出会いの中で、それらを打ち崩していくことを望んでおられるようです
 
また、スポーツでの出会いを通じて
互いの健闘を称え合い、互いの努力を認め合い
スポーツが、互いの相違、環境や経験、言語や人種を越えた
『平和の架け橋』となることを、望んでおられるようです
 
そのため、単にスポーツを
不正を行なってでも賞を勝ち獲ろうとする
個人や国家の自己満足の手段とするのではなく
また、国家間の融和を促すスポーツに
過剰な民族主義のスローガンで
敵意を煽り立てる手段とするのでもなく
自分を誇示して他者を蔑む手段とするのでもなく
 
距離的にも、心の意識的にも、遠い存在であった人々が
互いに、同じ場所、同じ時間、同じ鼓動を共有する中で
互いの友情をはぐくむ貴重な機会ととらえることを望んでおられるようです
 
また、そのスポーツを終えて、それぞれの国や場所に戻ってのちも
そのスポーツを通して得られた人格的交わりの経験をもとに
人々に根づいた誤解や不信や敵意を
解きほぐしてゆくための『平和の働き手』となれるよう
人々の心に、スポーツを通じた平和の種が蒔かれるよう
それが、ひいては国家間の平和につながるよう
祈り求めていく必要があるのでしょうね
 
さまざまな不正や敵意が明らかになる中で
また、さまざまな悲しい事件が絶え間なく続く中で
私たちの人間的な努力や働きかけには限界がありますが
その力と働きにおいて際限のない神に、信頼と希望をよせて
この世界に最も必要な恩寵を注いでくださるよう
恩寵の御母、憐みの御母である幸いなおとめマリアの取次を願い求めます
 

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フランシスコ教皇聖下
厳格さは 心の弱さのしるし
 
偽善的心をもつ人々は
真理についての興味をもっていません
 
彼らの唯一の関心事は、順風にうまくのろうとすることだけです
そのため彼らには一貫性がなく、見かけ上、取り繕うだけです
 
彼らは外見上、強そうに見えますが
実際はサイコロのようなもので
その心は非常に弱く、彼らが信じているものを知ろうとしません
 
彼らの生活の外的部分は、しっかり規律正しくあるように見えるでしょう
しかし、その心は異なります
彼らは、強さと厳しさの『皮』で覆われた、弱い心です
 
ファリザイ人たちは言います
「私たちの教えでは、○○だ」
「私たちの教えでは、○○となっている」
 
外見的に、彼らは厳格なようですが
その心は、腐敗し、その腐敗のために弱り、よどんでいます
 
イエズスは
彼らの偽善を、日和見主義として糾弾しました
 
人々への広く寛大な心、憐み深い受容の心を
主が、私たちにお与えくださるよう願いましょう
 
教会は 母であって 厳格な社会ではない
 
「子よ、ごらん、これは、あなたの母だ」
 
イエズスは、私たちを孤児にしておかれません
イエズスは、私たちに母親を与えてくださいました
 
私たちには母親がいます
その母親は、私たちと共にいて、私たちを守り、私たちに寄り添い
困難や恐るべき時においても、私たちを助けてくださいます
 
これが、マリアの母性です
ついで、そこから、教会の母性がもたらされます
 
教会は、私たちの母です
聖にして母である教会は
洗礼によって、私たちを産み
その共同体で、私たちをはぐくみ
優しさと想いやりをもつ母性的態度で、私たちを抱擁します
 
この母性的フィーリングをもたない教会共同体は
あたかも、厳格な社会であり
人としての温かみが欠落した社会であり
孤児を放置するようなものです
 
教会は、私たち子らにとって、母親となるべきであり
母親のように、私たち1人ひとりの全てを受け入れるべきです
 
私たちの御母マリア、私たちの母である教会を想う時
母性的ふるまいを、そこに見出します
 
この母性愛は、理解、想いやり、赦し、優しさ
これら受容の態度によってもたらされるものです
 
母性愛のあるところ
そこに、生命があり、そこに喜びがあり、そこに平和があり
私たちは平和のうちに成長していきます
 
この母性愛が、全て欠如した時
教会には、教えと規律だけが残り
もはや人々は、微笑むことを知らなくなるでしょう
 
「子よ、ごらん、これは、あなたの母だ」
 
教会は、私たち子らにとって、母親となるべきであり
母親のように、私たち1人ひとりの全てを受け入れるべきです
 


 
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