カテゴリ: プロテスタントのありがちな誤解

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道徳の権威は何に由来するか?


人間の道徳に権威があるとは思えません。
プロテスタントは、ルターの事よりも、ただ聖書に書いてある事を重んじます。
マリア像も拝まないし、キリスト像も拝みません。
ただ問題は、66巻だけが聖書としている点。
旧約聖書外典を認めるプロテスタント教会は一つも見たことありません。

上記意見は、
善業や道徳についていただいた記事コメでしたが、
なんだか話がすりかわりそうだったので、
とりあえず記事にしておきます。

コメを出してくださった勇気に感謝しますが、
そこに誤謬を交えられては、ここの閲覧者にとって不利益となるので注意されてください。

事実に反する自論の展開については、自ブログでヨロシクです。


☆   ☆   ☆   ☆   ☆


「人間の道徳に権威があるとは思えません」とのことですが。。


道徳観倫理観については、そもそも良心の拘束があります。
すべきこと、してはならないこと、これについては良心の促しがあります。
倫理的良心は、人が正しい道に導かれるようにするための、個別的な神の促しです。

人のココロに存在する倫理的良心は、
時宜に応じて、善を行ない、悪を避けるよう、人に命じます。

倫理的良心は、正しい選択を承認し、悪い選択を咎めて、
具体的にどのような選択をすればよいかを判断します。

良心は、最高善である御方~神~に準拠した真理の権威を明らかにします。
賢明な人は、良心の声に耳を傾けることによって、神の御声に従うことができます。

それゆえ、道徳は良心に根ざすものであり、
神の権威に由来するものですから、
人は、良心の促しである道徳の権威~神の権威~に、つまり『ココロの法』に従うべきです。

人は、単に、知るだけ、信じるだけ、ではなく、
良心の促しに従って行動すべきであり、
『主よ、主よ』と言うだけでなく『神の御旨を行なうこと』が、人の救いに求められているのです。

これが、聖ヤコボの言う『生ける信仰』と『死せる信仰』の違いです。
確かに、悪魔も、神を知り、おそれおののいても、神が促す善業を行なうことはありません。



「プロテスタントは、ルターの事よりも、ただ聖書に書いてある事を重んじます。
 マリア像も拝まないし、キリスト像も拝みません。」とのことですが。。


プロテスタントは、
いわば自由解釈の人々です。
ですので、それぞれの教団の中でも、いろいろな考えが混在しています。

自由解釈を推進し、提唱したのが、たまたまルターというだけで、
『我~自分の考え~』を曲げたくない、自由に都合に合わせて解釈したい信念を持つ人々です。

みながみなルターの考えではないでしょうし、
その違いは、さきの記事に次ぐものの中に記載する予定でした。

あと、カトリックの教導権に対抗する、という思考から、
『プロテスタント』と呼称されることを望む人々です。

プロテスタントは、
聖書についての、『自分の考え』を最高の権威とする性質をもっています。
ですので、カトリックに賦与されている教導権を認めません。

聖書そのものというより、
聖書を読んだその人の考えが、至高の信条となるのです。

その自分の考えを、おのおのが重んじています。

ですので、教えの解釈も、人によってバラバラです。
これが実際のところです。

プロテスタントにおいて、事実を直視したくない人々は、無知のままにとどまろうとします。
さらに一歩進んで、自己防衛のために、虚偽を吹聴しようとする悪いクセがあります。

プロテスタントによるカトリックについての虚偽情報の代表的なものが、
『カトリックはマリアを拝む』『像を拝んでいる』『聖体?偶像礼拝だ』という主張ですが、
これらは明らかに事実に反する主張であり、
社会的に言えば、『不実告知によって』、
カトリックを学ぼうとするものの前に妨げをおくものです。
プロテスタントの常套手段といえるでしょう。

僕は当初、プロテスタント教会で学びましたが、
尋ねてもいないのに、カトリックはこうだああだ、と吹聴されていました。
今思えば、はっきり言って迷惑です。



「ただ問題は、66巻だけが聖書としている点。
 旧約聖書外典を認めるプロテスタント教会は一つも見たことありません。」とのことですが。。


それを決めたプロテスタントが、
66という数字にこだわりがあったのかもしれませんが、
もともと自由に選別したものでしょうから、何とも言いようがありません。

プロテスタントの実態に関する情報をありがとうございます。


プロテスタントにありがちな、いつもながらの誤った意見が含まれていたので、
「それについては関連書庫や記事を見ておいてください」ぐらいにしておいて、
見過ごそうかと思いましたけど、たまたま時間が取れるので記事にしました。

僕のブログの書庫『プロテスタントのありがちな誤解』に書いておいた記事を、
ちゃんと読んでくれていれば、聖母や聖画像についてのカトリックの考えを尊重して、
上記の誤ったコメを入れて、こちらをわずらわすこともなかったでしょう。

コメる前に
もう少し配慮してもらえればな~と思います。

社会的に『気が利かない』コメは
なるべく控えていただきたいものです。

ただ、今回の件は、カトリックのことやプロテスタントの違いのことが、
いまいちわからない人には、ちょっとぐらいは参考になると思います。

詳細をお知りになりたい方は
『プロテスタントのありがちな誤解』の記事をお読みください。

追記;この記事自体を『プロテスタントのありがちな誤解』に移動させます。


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プロテスタントのありがちな誤解

カトリックは、聖書のみでもなく、個人の気ままな解釈でもない



ロザリオは聖書にでてきますか?
あのような器具、物質を使って祈ることの意味は聖書にときあかされてますか?




「ロザリオは聖書にでてきますか?」

投げかける質問の内容からして、
基準がズレているようです。


「聖書のみ」の気持ちは、わからないでもないですが、
発想を凝り固まらせないほうが良いと思います。

どんな分野にせよ、ある程度、人間の裁量に任されていますが、
聖書では、人間に与えられた能力を、濫用させないための、
最低限の指針が示されているのみです。

だから、全ての事例を、聖書に当てはめようとする試みは、
少々、乱暴と言えるでしょう。

創世の状況にしても、
人類の起源、その原罪にしても、
人にわかりやすい言葉や比喩を、聖書は用いているのみです。

だから、何でもかんでも文字通りに全てを判断しようとすれば、
誤断を生み出してしまいます。


まず、ロザリオは、私たちのココロに、
聖書を思い起こさせる祈りであり、
つまり、私たちの内面に聖書を出させる祈りであり、
私たちに、救い主の聖福音を、生き生きと味わわせる祈りです。

だから、聖書とロザリオを対立させたり、
ロザリオを、聖書から切り離した考えを持つことは、誤りです。

ロザリオそのものについて、
聖書に書いていないからイケナイことだとか、
そのような発想を持つことは、短絡的な誤りであり、乱暴な主張~言いがかり~です。


ロザリオは、
言わば、聖福音の主要な神秘を、イメージ的に解説する祈りであり、
聖書における神の御言葉の、文字に表されない、優しく、そして深い味わいです。



「~は聖書に」「聖書には~」

スタートラインが異なるので、
伝わるかどうかはわかりませんが。。

ちなみに「聖書にときあかされて」とありますが、
そもそも、何でもかんでも全てが聖書に書かれているわけではありません。
使徒たちも、全てが聖書に書かれているとは説明していません。
むしろ、記載されていないもののほぅが多いことを示しています。

そもそも救い主の言動も、
聖書に収録されているのは、
重要な事柄についてであって、
使徒や福音史家が、神の霊感により、
記載の必要性があるものだけをピックアップしたものです。

それ以外については、聖伝に保存され、
教会の教導権が聖霊によって解釈します。


キリストの教えは、
聖書のみではなく、聖伝にも保全されており、
また、重要な事柄の決定に際しては、
キリストが、使徒ペトロとその後継者に委ねられた教導権にあります。


聖伝とは、
イエズス・キリストと使徒たちが、口伝えに教え、
その後、代々に渡って変更なく、教会を通して継承され、
私たちの時代にまで伝えられた、
書き記されていない神の御言葉です。

聖伝は、カトリックの教えの解釈者であり、擁護者です。

それは、聖書ができる前に聖伝があったからであり、
聖伝の中には、聖書に明らかに記されていない真理もあり、
また、聖書の中にも、聖伝を重んずべきことが記されているからです。

使徒聖パウロは証言します。

「私たちが、言葉によって教えた伝えを、
 また、手紙によって教えた伝えを、あなたたちは守りなさい」(Ⅱテサロニケ2,15)

さらに、教会は、聖伝によってのみ、
どの書物が、聖書の正典に属するかを、
はっきり知ることができるのです。



「あのような器具、物質を使って祈ることの意味は聖書にときあかされてますか?」

まず、モノを使って祈る、ということは、
人の便宜上のことであり、
感覚を有する人にとって、
その有益性からして、ふさわしいことです。

聖書には、古来から、
物質を使用して祈ることが、
多々記載されています。

それは人間が、感覚を有する被造物であり、
また、感覚の助けを必要とする被造物だからです。


人が、器具や物質を使って祈り、神が喜ばれた事例は。。

アベルによるものとして、
羊の初子を脂身と共に、祈りを捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われた羊も脂身も物質です~

ノエによるものとして、
箱舟の作成、祭壇を造り、焼き尽くすいけにえを捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われた箱舟も祭壇も、いけにえに供された動物も物質です~

アブラハムによるものとして、
各地に主のための祭壇を造り、それと共に祈りを捧げたこと、

至高の神の司祭であり、サレムの王メルキゼデクによるものとして、
パンとぶどう酒とを、いけにえとして、祝福の祈りのうちに捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われたパンもぶどう酒も物質です~

ヤコブによるものとして、
枕石を立石にして、油を注いで、祈りを捧げたこと、
また、イスラエルとされた際も、立石、注ぎのいけにえ、油を用いて祈りを捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われた石も油も物質です~

モーゼによるものとして、
杖を使用して、数々のしるしを行ない、神を讃えたこと、
また、祭壇を造り、12の立石を立て、焼き尽くすいけにえとして雄牛を用い、
鉢にその血を入れ、契約の書を読み上げ、祭壇と民衆に血を注いだこと、
~神への崇敬や祈りに使われた杖も、祭壇、石、動物、鉢、書物も物質です~

さらにモーゼによるものとして、
聖所、聖櫃、ケルビム像、燭台、幕屋、青銅の座、祭壇、ともし火、香、青銅の蛇、
また、アアロンとその子らの使用するものとして、
数々の宝石をちりばめた祭服、
胸当て、エフォド、肩当て、マント、烏帽子、
これらの器具や物質を使用して神への崇敬を表わし、祈りを捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われた器具、ケルビム像から祭服に至るまで、みな物質です~

ダヴィドによるものとして、
祭壇を造り、焼き尽くすいけにえを捧げたこと、
チタラを使用して、爪弾きながら、神への賛美を歌い、祈りを捧げたこと、
~神への崇敬や祈りに使われた祭壇も動物も、そして楽器も物質です~

これら多くの事例からしても、
あらゆる器具や物質を使用して、
神への崇敬が表わされることが、既に聖書の中で解き明かされています。


ロザリオに限らず、私たちはあらゆる事物を使用して、
祈りや神への賛美に供することができます。

使徒聖パウロは証言します。

「あなたたちは、神の畑であり、神の建物である。
 神の聖所は、聖なるものである。あなたたちは、その聖所である。
 だから、食べるにつけ、飲むにつけ、何をするにも、
 全て、神の栄光のために行ないなさい」(Ⅰコリント3,9&16;10,31)
 
「あなたたちが、言葉と行ないとをもってすることは全て、
 キリストによって、父なる神に感謝しつつ、
 主イエズスの御名によって行ないなさい」(コロサイ3,17)

私たちはあらゆる事物を使用して、神に賛美を捧げることができます。
食べものも、飲みものも、私たちのからだも、
神への祈りやいけにえに使用できるのです。


ただ、あらゆる事物を用いる中で、
炊事、食事、掃除、勉学、労働など、
自身の本性から直接には、神に栄光を帰さない業は、
業をなす当人の目的、意向によってのみ、神に栄光を帰するものです。

「これとは反対に、
 直接に、神の栄光を表わす業があります。

 それは、この業をなす当人の意向によってばかりでなく、
 業自身の本性からして、神の聖心にかなうのです。

 この業の直接の目的は、
 それを構成している素材と同様、超自然的です。

 ミサ聖祭や秘跡の執行などがそれに該当します。
 聖務日課もこれに属します。

 これらの業は、神のまなざしから見れば、
 それをなす人の内面的心構えを別にしても、
 それ自身の内在的価値のために、
 他の全ての業にまさっているのです」(福者コルンバ・マルミオン修道院長)

祝福されたロザリオやメダイも、
さらに言えば、悪魔祓いも、後者に属します。


私たちカトリックが使用する、
十字架、聖堂、聖像、聖画、聖水、聖香油、
典礼書、聖務日課書、ロザリオ、メダイも、
それ自身の内在的価値のために、
神への崇敬を表わすものに他なりません。

聖書には、
キリストが使徒ペトロたちに、
ご自分の群れを指導するための、ご自分の権能を委ねられたことが記載されています。

それは、キリストを信じる群れが、
牧者のいない群れとならないようにするため、
ご自分の愛の統治の道具として、使徒とその後継者たちを、
「神の奥義の管理者(dispensatores mysteriorum Dei)」(Ⅰコリント4,1)に定めて、
救いの業であるキリストの司祭職を、世の終わりまで継続させるためです。


「もし全身が目であれば、聞くところはどこなのか?みなが使徒か?」(cf,Ⅰコリント12)

キリストの神秘体である教会には、
教えに携わる教導教会(教皇・教皇と一致する司教)と、
教えを受ける聴従教会(全ての信者)の区別が、キリストによって定められました。

そのためキリストは、
「あなたたちの言うことに聞き従う人は、私の言うことに聞き従う人であり、
 あなたたちを拒む人は、私を拒むのである」と仰せられたのです。

そのため信仰宣言で、
Credo in sanctam Ecclesiam catholicam(聖なるカトリック教会を信じます)とあるように、
教会の教導権を信じることも、私たちは表明しているのです。

神への崇敬に供されるこれらの聖具は、
キリストが使徒ペトロとその後継者に保証された、
聖霊の指導のもとにある教会の教導権によって、
特に歴代の教皇によって、認められ、推進され、推奨されているものです。



ロザリオは、聖福音全体の要約です。

(教皇パウロ6世 『Marialis cultus』より)







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プロテスタントのありがちな誤解


スペインの聖ヤコブのねむる聖堂は立派な建物ですが、
これも偶像ではないのですか?


偶像でも何でもありません。
『祈りの家』のようなものです。

前にも書きましたが。。

偶像礼拝(崇拝)とは、
神でないものを神とすることです。

それは、人間が、ある被造物を、
たとえば悪霊(悪魔崇拝)、権力、快楽、金銭、動物などを、
神の代わりに尊敬したり、神の代わりに崇拝する際に生じるものです。

これが「偶像礼拝(崇拝)」の定義です。

ちなみに、
「たたえること=礼拝」ではありません。

偉人や知人のお墓参りをする人がいるからといって、
そのお墓や建物を指して、
「これは偶像だから!」と言って、墓石を打ち倒す人がいるでしょうか?

人々が集う『祈りの家』があるからといって、
その人々が集う『祈りの家』を指して、
「これは偶像だから!」と言って、家ごと撤去する人がいるでしょうか?

人々が、その偉人のゆかりの地を訪れて、関連施設に入場したからといって、
そのゆかりの地の関連施設を指して、
「これは偶像だから!」と言って取り壊す暴挙に出る人がいるでしょうか?

思い込みで打ち倒し、撤去し、取り壊す暴挙。。
思い込みで「これも偶像だ!あれも偶像だ!それも偶像だ!」と暴言を繰り返す。。
いたら、ある意味コワィですよね。
その人は警察に逮捕されると思います。

もしこれら(お墓・祈りの家・関連施設)が偶像であるなら、
あなたはお墓を立てられませんね。
あなたにゆかりのある施設も破壊しなければなりませんね。

もし、祈りを捧げる人々が参列して集う家や施設が「偶像」なら、
祭壇にあなたの写真が飾られた葬儀や葬式さえ、挙行できませんね。
祭壇に自分の写真を飾らないように遺言書をしたためなくてはならなくなりますね。

偶像の危険性があると認識しているのですから。

ちょっと厳しい表現ですが、
自分の身になって置き換えると、
偶像でないことがよくわかると思います。

ところで、カトリックの聖堂は全世界にありますが、
殉教者や聖人にゆかりのある地に建てられるケースが多いです。

たとえば、聖堂は、
聖母マリアや大天使聖ミカエルが出現した地や、
使徒たちや殉教者たちが殉教した地や、そのお墓の上や、
聖人や聖女が活躍した場所や、その聖なる遺体が安置されている場所にあります。

それらの聖堂はみな、巡礼地として、
各々が、聖人や聖女たちの足跡や模範に想いをよせ、
より一層神に近づけるように、あるいは回心のために、
その取次ぎを願い、あるいはいただいた恵みに感謝を示すために、
毎年多くの人々が訪れている、祝福された地です。

神が、ご自分への礼拝に役立つものとして、
また、ご自分に栄光を帰するために役立つものに関して、
旧約時代から、ある特別な像を造るよう、神のしもべたちにお命じになられたことは、
前にも書きましたので、その像がどのようなものであったかの詳細は省きます。

神は新約において、
ご自分を人間の感覚でも把握できるようになさいました。

それは、神の御言葉の受肉です。
神が、私たちの感覚においても把握されることを望まれたのです。

神の御子キリストの受肉は、
聖画像を用いて、永遠の世界を仰ぎ見るための新しい「道」を開いてくださいました。

聖画像を敬うものは誰でも、
それに表現されているものを敬うのです。

その対象となるのは、キリストのものだけでなく、
神の御母マリア、天使、全ての聖人も含まれています。

カトリックが聖画像に払う尊敬は、崇敬であって、
神にのみ捧げられる礼拝ではないのです。

「かつては、からだも顔もない神を、
 画像によって表すことは、全くありえませんでした。

 しかし、神が受肉されて、人間と共に生きられた今、
 私は、神について、私が見たものの画像を造ることができるのです。
 私たちは、その御顔の中に、
  主の栄光を眺めることができるのです」(ダマスコの聖ヨハネ司祭教会博士)

「敬神徳による聖画像への崇敬は、
 聖画像そのものに向けられるのではありません。
 聖画像を通して、人となられた神に向けられるのです。

 画像に過ぎない聖画像に対して示される態度は、
 聖画像そのものに向けられるのではありません。
 その聖画像のもととなっている御方に向けられるのです」(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)


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神はこれに、
さらに歩を進められます。


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聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ司祭の聖遺体(1581-1660年)
聖画や聖像は、神への想いを、
私たちに、感覚を通じて飛翔させるために役立つものとして、
人間の手で、造られますが。。

神は、ご自分の力によって、
人間には成しえない方法をもって、
聖人や聖女たちのそのままの像を、特別な寵愛をもって保存されます。


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聖ピオ・ピエトレルチーナ司祭の聖遺体(1887-1968年)
神は、ご自分に仕えたある人々のからだを、
その死後、腐敗させないまま、この世に保存しておられるのです。


http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/IMG_01791.JPG
聖女カタリナ・ラブレ修道女の聖遺体(1806-1876年)~不思議のメダイで有名~
全能永遠の神は、
カトリック教会が、偶像崇拝に陥らないことを、よくご存知であり、
カトリック教会を信頼し、ご自分の聖なる御業を委ねておられるのです。


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セッツェの聖カルロ修道士の聖遺体 (1613 -1670年)
神は、この腐敗しない遺体の奇跡をもって、
カトリック教会が聖人や聖女の像を作成することについて、
ご自身が認めておられることを、
すぐれた方法をもって、雄弁に語り、示しておられるのです。


https://livedoor.blogimg.jp/sacerdosaeternus33/imgs/5/9/5982867a.jpg 
聖女ベルナデッタ修道女の聖遺体(1844-1879年)~ルルドの祝福された水で有名~





♡ ♡ ♡ ♡ ♡https://livedoor.blogimg.jp/sacerdosaeternus33/imgs/e/7/e70321d1.jpg


プロテスタントのありがちな誤解


マリア様をたたえるのは
マザーテレサの功績をたたえるような感じですか?


たたえるという意味合いでは同じような感じで似ていますが、
たたえる段階においては異なります。

というのも偉業は
人それぞれ異なるからです。

この世においても、それぞれの功績には、
同じたたえるにしても、異なる段階があります。
功績の段階における違いは、天国においても異なります。

そのため、
たたえることについては変わらなくとも、
全く同じようにたたえる、ということではないのです。

「みなが使徒か?みなが預言者か?。。」(Ⅰコリ12.29)

神は、教会に序列を置かれたのです。

この違いがあることは、
個性の違いにも通じています。

聖母マリアの功績は、
在天の聖人たちのうちでも群を抜いて秀でていますから、
マザーテレサと同じ段階の賞賛ではありません。

あなたが天国に入った時、あなたへの人々からの賞賛と、
マザーテレサへの賞賛が異なるのと同じです。

こぅいぅ言い方をしてすぃませんが、わかりやすくするため。。

マザーテレサへの賞賛を、
あなたへの賞賛と、同じ段階に引き下げるとしたら、
それこそ、マザーテレサに対して、不正ではないでしょうか?

それとも、自分もマザーテレサと同じ賞賛を受けなければ、気がすまないでしょうか?
もしそのように感じるとしたら、単なるたとえだけでも憤りを感じるとしたら、
謙遜が不足している証拠です。

もちろん、このように感じられることはないと思いますが^^
上記記載は、明確に「違い」を理解していただくための、
違いを肌身で感じていただくための、スパイスみたいなものと考えてください。

僕はあなたを嫌っているわけではありませんし、
嫌っていたら、時間をさいてわざわざ説明もしませんし、
どぅでもいいことで時間の無駄だ、として、無関心でいたでしょう。
本来、自分で調べればわかる範囲のことでしょうから。

違いについて、もぅ1つたとえますと、
あなたの母は、いつまでもあなたの母です。

あなたが大きくなろうとも、あなたが母親になろうとも、
あなたは、依然として母の子です。

あなたの母としての彼女の立場は、
神が定められたもので、
決して変わりません。

あなたが母親になったからといっても、
立場の違いが、依然として残ります。

同じ母といっても、
あなたの母、という点に違いがあるのです。

この違いは、
互いへの尊重を促します。

だから、たたえる意味合いにおいては同じでも、
たたえる段階においては異なるのです。

しかしながら、
人それぞれの功績における天国での栄光の段階は違っても、
神は、みなそれぞれに対して、同じように際限なく愛しておられるのです。

天国においては各々の違いがありながらも、
同じ神の愛に包まれて、神の愛と憐れみをたたえています。

在天の聖人は、地上の人々から立ち昇る賞賛を、決して自分のものとはせず、
ひたすら至高の神に捧げて、神に栄光を帰しています。

音の違いがあることによって、
メロディが作り上げられるように、

在天の天使や聖人たちの歌声は、
言い尽くしがたい調和を生み出し、

神の完徳への各々の歌声の違いは、
感動に溢れるメロディを織り成し、
この上なく壮麗で崇高な、美しいシンフォニーを奏でるのです。

これがカトリックの信仰です。

違いがあることは、
とても素晴らしいことだと思いませんか?


http://media.imeem.com/m/-WUHdcvi_4/



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プロテスタントのありがちな誤解


どうしてカトリックは、マリア様の絵や像を置くのですか?



それは、愛しているから
尊敬しているからです。

私たち人間は感覚を有していますから、
恋人同士でも、視覚を通じて、その人の微笑みを見なければ、
聴覚を通じて、「愛してる」との声を聴かなければ、実感としてわかないでしょう。
これが肉を持つものの実際です。

愛する人の写真が身近にあれば、
しばしばそれを見つめて、
それを通じて、愛する人にココロのまなざしが向けられます。

私たちは人間であって天使ではありません。
私たちは感覚の助けを受けながら、対象に向かいます。

それを通じて、
私たちのココロのまなざしは
よりいっそうたやすく天に向けることができるのです。


これは、自分が愛する人の写真、
自分が尊敬する人の写真のようなものと考えて差し支えないです。

あなたは愛する人の写真を眺めたり、
自分の身近に置いたりしないのでしょうか?

人は、愛する人の写真を、
身近に置くものではありませんか?
それは悪でしょうか?

子供の写真、親の写真、
親友の写真、仲の良い友達の写真を、
額やフレームの中において飾ったりしたことはないでしょうか?
アルバムを保存していないでしょうか?
携帯電話の待ち受け画面に登録することはないでしょうか?

絵画の才に長けている人であれば、
自分の愛する人、物やペット、自分が感動した風景を、
自分の筆で、絵にするでしょう。

彫刻家であれば、
自分の愛する人、自分が感動した風景や物やカタチを、
自分の彫刻技術で、像に仕上げるでしょう。

さらに言えば
どのような身分の人であれ
たとえなんらの才能や技術がなくても
自分のイメージの中で
自分の愛する人、自分が感動した風景や物やカタチを、
自分の想像力を用いて、鮮明に、あるいはぼんやりとでも、
自分独特の抱くイメージ(抽象的世界の造形)で、
その愛する対象を造り上げるでしょう。


愛する対象を、尊敬する対象を、感動する対象を、
自分の身近に見えるカタチにしたからといって
物に過ぎないそれそのものを、礼拝する人はいないでしょう?

それがはたして
偶像礼拝になるのでしょうか?
なりませんよね?

「見えるカタチ=偶像」ではありません。
「見えるカタチ=礼拝」ではありません。

画像にあるカタチを見て、
近くにいる本人を差し置いて「その人、本人だ」などと思い込む人はいません。
そのような人がいると決めつけるなら、人をあまりにも小馬鹿にしているのでしょう。


また、これをあえて偶像礼拝だと決めつけるなら、
単なる「言いがかり」でしかありません。

これが偶像礼拝になるのなら。。

写真も、画像も、絵画も同じものとして扱われるでしょう。
あるイメージを、ある見える像を、そこに焼き付けているからです。

自分が映った写真等も、
他者によって偶像礼拝行為がなされないようにするために、
あなたはそれを回収しなくてはなりませんね^^

愛のまなざしをもって他者の写真をみつめることが偶像礼拝になるのなら、
自分を愛してくれている人のもとから、
何としてでも回収しなくてはなりませんね。

所持、所有すること自体が偶像礼拝に直結するとの前提であるならば、
偶像礼拝行為がなされていないとは言い切れないのでしょうから。。

あなたは、あなたを撮影した写真、あなたが映っている写真を、
それを所持する人々に、「偶像礼拝になるから処分してくれ」と、
親戚宅やら知人宅やら学校関係やら会社関係をめぐりめぐって、
過去の想い出の写真から、写真つき年賀はがきに至るまで全て、
逐一回収して処分しなければなりませんね。
偶像礼拝の可能性を撲滅するために。

さらに突き詰めれば、
目に見えるものを偶像視するなら
目に見えないココロのまなざしにおけるイメージさえも「偶像」という結論になります。
ココロの中で、イメージの中で「像」を作っていることになるからです。

あなたの主張のとおりに、画像を、写真を、絵画を置くことが、偶像礼拝になるのなら、
上記結論~ココロの中でさえ姿かたちなどのイメージを造ってはならない~に至るはずです。


ところで、神は眼に見えるものの像の作成について、
何でもかんでもNGとしたわけではありません。

神への礼拝に寄与するかいなか、
これがポイントです。

神は、ご自分への礼拝に反しうるものを禁じて、
モーゼを通じて、このように告げられました。

「主が火の中から話しかけられた時、
 あなたたちには、何の形も見えなかった。
 それゆえ、各種の刻んだ形を、自分たちのために造ってはならない」(申命記4.15-16)

しかし神は、神への礼拝に反するものを禁じたのであって、
神への奉仕に役立つものを造るように命じられました。

神はその同じ旧約時代においてさえ、
人々をご自分へ立ち帰らせるため、
また、ご自分の崇敬に役立つものとして、
つまり、人となられた御言葉による救いを象徴的に現すものとして、
像や刺繍(青銅の蛇・契約の箱・ケルビム像)の作成を命じられたのです。

「燃える蛇を1つ造り、旗印の上につけなさい」(民数記21)
「純金の2つのケルビムを造りなさい」(出エジプト記25)
「ケルビムをその幕の上に織り出しなさい」(出エジプト記26)

それゆえ神は、眼に見えるものの像の作成について、
何でもかんでもNGとしたわけではないのです。


青銅で造られた蛇

民はモーゼのところに来て言った。
「主と、あなたを非難して、私たちは罪を犯しました。
 この蛇を私たちから遠ざけてくださるよう、主に祈ってください」
モーゼが民のために祈ると、主は仰せられた。
「燃える蛇を1つ造り、旗印の上につけなさい。
 噛まれてから、それを眺める人は、みな生きるだろう」
モーゼが青銅で蛇を造り、旗じるしの上につけると、
蛇にかまれたものはみな、この青銅の蛇を眺めて、生きるのであった」(「民数記21.7-9)

。。この出来事は、青銅の産地プノンの近くで起こりました。
  蛇が「燃える」と言われた理由は、毒で熱病を引き起こしたからです。
  旗じるしの上につけられた青銅の蛇は、
  十字架につけられた救い主イエズスの前表でした。
  つまり、青銅の蛇は「救いのしるし」となったのです。

ケルビム像

主はモーゼに仰せられた。
「私が彼らの間に住めるような聖所を造りなさい。
 それを造るには、私があなたに示そうとしている幕屋と設備の模型にならって、
 正確に造りなさい。アカシアの材木で聖櫃を造りなさい。純金の「贖いの場」を造りなさい。
 贖いの場の両方に純金の2つのケルビムを造りなさい。
 ここ、贖いの場の上から、私はあなたに現われよう。
 あなたは幕屋を、10の幕で造りなさい。
 ケルビムをその幕の上に織り出しなさい」(cf,出エジプト25.1-22&26.2) 


ニケアの公会議(787年)において
人となられた御言葉の神秘に基づいて、
聖画像の崇敬は、正当であると宣言されました。

「聖画像を敬うものは誰でも、それに表現されているものを敬うのである」

その対象となるのは、キリストのものだけでなく、
神の御母マリア、天使、全ての聖人も含まれています。

カトリックが聖画像に払う尊敬は、崇敬であって、
神にのみ捧げられる礼拝ではないのです。


聖トマス・アクイナス司祭教会博士は『神学大全』の中でこぅ言います。

「敬神徳による聖画像への崇敬は、
 聖画像そのものに向けられるのではありません。
 聖画像を通して、人となられた神に向けられるのです。

 画像に過ぎない聖画像に対して示される態度は、
 聖画像そのものに向けられるのではありません。
 その聖画像のもととなっている御方に向けられるのです」


カトリックにおいては、
キリスト、聖母マリア、聖人などの聖画や聖像の作成や崇敬を認めていますし、
イメージの中でキリストや聖母や聖人を想い浮かべてお祈りすることが推奨されています。

それらはみな、
神への愛を鼓舞することに寄与するからです。

神はキリストにおいて、
私たちの眼に見えるものとなられましたから、
つまり、私たちの感覚においても把握されることを望まれましたから、
私たちの感覚にうったえる聖画や聖像を認めておられるのです。
それらが、ご自分への礼拝、崇敬、祈りに奉仕するものであることを、ご存知だからです。



「そのしるしに向き直る人は、
 眺めたそのものによって救われたのではなく、
 全ての人の救い主であるあなたによって、救われたのです」(智恵16.7)




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プロテスタントのありがちな誤解


カトリックではマリア様をたたえてるのは、
偶像礼拝(崇拝)ではないのですか?


マリアをたたえることが偶像礼拝(崇拝)であるとの主張は、
大いに間違っています。

聖母マリアをたたえることは、
そもそも偶像礼拝にあたりません。

「たたえること=礼拝」ではありません。


まず、神を礼拝(崇拝)するとは、
神によらなければ存在することはない「被造物の虚無性」を、
尊敬と絶対的な服従のココロをもって認めることです。

これが「礼拝」の定義です。

神を礼拝するとは、
マリアの賛歌Magnificat(ルカ1.46-55)の中における、マリアのように、
神をたたえ、神をあがめ、自らはへりくだって、
神が偉大なことを行なわれたこと、
その御名が尊いことを、感謝を込めて宣言することです。

唯一神の礼拝は、
人間を、自分自身の殻から、罪の奴隷状態から、
この世の偶像崇拝から、私たちを解放するものです。


偶像礼拝(崇拝)とは、
神でないものを神とすることです。

それは、人間が、ある被造物を、
たとえば悪霊(悪魔崇拝)、権力、快楽、金銭、動物などを、
神の代わりに尊敬したり、神の代わりに崇拝する際に生じるものです。

これが「偶像礼拝(崇拝)」の定義です。


「たたえること=礼拝」ではありません。

人が人をたたえることはごくごく自然なことではありませんか?


自分の子供が~親でもいいですが~
たとえばスポーツ選手でも物理学者でも俳優でも大統領でもいいですが、
誰しも、後世に残るほどの素晴らしい業績や功績をたてた人々を
たたえ賞賛し褒めちぎるではありませんか?

子供の喜びは親の喜び、親の喜びは自分の喜び、
同胞の喜びもまた、自分の喜びとなります。

偉業を成し遂げた人をたたえるからといって、
賞賛や祝辞をおくる人が、偶像礼拝することにはならないですよね?


あなたも誰かをたたえたこと、ほめたこと、
偉業を成し遂げた人と同じ喜びを、自分も共有したことがあるはずです。

逆に、無関心であること、
無反応であることのほぅが不思議だと思います。


神の御子による贖いの御業に、
最も親密に、惜しみなく協力したマリアに、
感謝をすること、ほめたたえることは、悪でしょうか?

この世に生命をもたらした自分の親に、
感謝を示さない人、敬わない人は、
この世においてさえ、「親不孝者」と呼ばれます。


上記内容を少し言葉を変えてみましょう。ほとんど同じですが^^

カトリック教会が、聖母マリアをたたえることは、
偶像礼拝ではありません。

誰かが素晴らしい働き、業績、功績をなしたならば、
人はその人をたたえますし、賞賛しますし、敬います。

子供が立派な人に成長し、素晴らしい功績をなした時、
その親は、とても誇りに思い、その子供を皆の前でほめたり、たたえたりします。

さて、その親は、
その子供を「偶像礼拝」していることになるでしょうか?

どぅですか?
なりませんよね?
これと同じようなものです。


カトリックでは三位一体の神を礼拝し、
神がお与えくださった聖母を敬うのです。


人は、親を敬いますが、
親を礼拝したりしません。

礼拝しないからといって、親を毛嫌いするでしょうか?
礼拝しないからといって、親を軽蔑したり軽視してよいでしょうか?

生命をもたらした親に対して、
感謝もしない、敬いもしない、
そんなことをすれば、神様はどぅ思われるでしょう。。


十字架上のキリストは仰せになりました。
「ごらん、これはあなたの母だ」(ヨハネ19.27)

聖母は、キリストの御母、
キリストを信じる全ての人々の御母、
恩寵の生命の御母なのです。

神の御子の御母であるマリアを敬わないほうが、
不自然ではないでしょうか。


聖書を見てみましょう。
マリアをたたえる良い事例がありますから。(cf, ルカ1.28&42)


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①神から遣わされた天使は、マリアをたたえています。

Ave, gratia plena,
Dominus tecum. benedicta tu in mulieribus.

おめでとうございます、恩寵に満ちあふれた御方よ、
主は、あなたと共におられます。あなたは女たちの中で祝福されています。


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②キリストの先駆者、洗礼者聖ヨハネの母、聖女エリザベットは、
神である聖霊に満たされて、聖霊の促しのうちに、マリアをたたえています。

Benedicta tu inter mulieres,
et benedictus fructus ventris tui.

 あなたは女たちの中で祝福されています。
 また、御胎内の御子も祝福されています。


これでも、まだ「マリアをたたえることが偶像礼拝になる」と主張するのでしょうか。



ごらんなさい
神から遣わされた天使が、
マリアをたたえています。

ごらんなさい
神である聖霊に満たされた婦人が、
聖霊に促されて、マリアをたたえています。

カトリック教会が、マリアをたたえることが、
偶像礼拝になると、本気で思っているのでしたら、
よくよくお考えいただきたい。

天使はマリアをたたえているが、偶像礼拝でしょうか?
聖霊に満たされた婦人はマリアをたたえているが、偶像礼拝でしょうか?

決してそうではありません。
主の御母をたたえることは、偶像礼拝ではありません。


③また、カナの婚礼において
婚礼の給仕たちが、主の御母に主への取次を願い、主がそれに応えられて
ご自分の時が来ていないと仰せになりつつも、御母の取次いだ願いを叶えて
水をぶどう酒に変える奇跡を行なわれています。(cf, ヨハネ2.1-11)

永遠の真理である神の御言葉が、御母の取次を認めているにもかかわらず
僭越にも、あえてそれを非難しえるような人がいるでしょうか?


私たちが、主の御母に願うこと、祈ることは、正しく敬虔なことです。

ごらんなさい
聖霊の神感によって記された聖書には
人々のマリアへの願いと、マリアによる主への取次と、
その感嘆すべき効果が示されています。

神の御言葉である聖書は
雄弁にも、マリアの取次の有効性を明確にしています。

カトリック教会が、聖書の示す模範に従って
マリアに取次を願うことが、偶像礼拝でしょうか?

決してそうではありません。
主の御母に取次を願うこと、取次を祈ることは、偶像礼拝ではありません。


天使の模範があるのに、
婦人を通じてなされた聖霊の模範があるのに、
マリアをたたえないままでいるとは、いったいどぅいぅことでしょうか?

天使の模範よりも、
聖霊の促しよりも、
あなたの判断(「マリアをたたえることは偶像礼拝だ」)のほうが
すぐれているというのでしょうか?

マリアをたたえることが、
偶像礼拝に当たらないことは、
おわかりいただけたことと思います。

また、マリアをたたえるのを妨げる行為が、
いかに聖書に反しているのか、
おわかりいただけたことと思います。

聖母マリアをたたえないことは、
キリスト者として、むしろ不自然なことなのです。


旧約において「あなたの父母を敬いなさい」と命じられた神は、
新約において、ご自分の模範を通じて、
私たちに、聖母をたたえることを教え、聖母を敬うことを望んでおられるのです。





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プロテスタントのありがちな誤解

あるプロテスタント牧師とのやりとり


「カトリック」検索をしていた時、この記事↓を見つけて唖然としました。
(松田優作さん風に。。。「なんじゃ こりゃ。。!?」ってな感じで笑)


 (記事作成者A氏~プロテスタント牧師~によるカトリックについての記事の抜粋)

 カトリック教会へ行くと、宗教画とか、
 キリストの像、聖母マリヤの像、聖人の像そういうものが非常に多いです。
 マリヤの神性を信じない、プロテスタントには、マリヤを拝む習慣はありません。





先日、僕のブログに
公開投稿で「なぜカトリックはマリアを礼拝するのですか」などという
意味不明な書き込みがあったので。。

いったいプロテスタントではカトリックについてどぅいぅ教え方をしてるんだ!?
と気になっていましたから

ちょうどこの記事に遭遇して
誤謬のソース(ウスターソースじゃないょ笑)を見せつけられた思いがしました。

また、今後も僕のブログに、意味不明な根拠のない批判コメが入れられるのは困る、と思い、
今回、記事作成者にコメってみました。(以下は、そのやりとりです)



「マリヤの神性を信じない、プロテスタントには、マリヤを拝む習慣はありません。」って。。

カトリック検索からこの記事におじゃましましたが。。

この記述では、
まるでカトリックが「マリアを神としている&拝んでいる」といった内容ですね

びっくりです

カトリックは聖母をキリストの御母として敬ってはいても
人を人として敬っているだけで、
拝んでもいないのに、
「神性を信じてる」とか「拝んでる」とか
とんでもない偽りの記載ですよね~

こんなことしてイイんですか?

このように不特定多数の閲覧者がいる中で
誤解を招くような記載をし続けて平気なのですか?

あなたの考え(神性&拝む)が思い込みでないかどぅか
直接カトリック教会に尋ねてみてください

前提を誤れば
結論も誤ります

あなたも
自分がしていないことを
さもしているかのように
おおっぴらに言い広められたら
どうですか??? 



 記事作成者ノーコメント

(前述のコメが全て削除される)



カトリック中央協議会で上記内容を確認して
自分の記載が勝手な思い込みで
誤りであることがハッキリしたならば
ちゃんと訂正なり、したほぅがイイですよ 

事実に反する記載は。。

宗教してるとか、信仰してるとかの段階ではなく
それを度外視した上で
社会通念からしていかがなものでしょうか?

素朴な疑問です

記事内容作成については
ほんとうに考え直されたほぅがよいと思いますよ

頭の片隅にでも置いておいてください 



記事作成者:

「ご身分をお明かしください。」

 (前述コメは全て削除) 



身分ですか?

私はカトリックの一般信徒ですよ

カトリックになる前は
プロテスタント教会(日本基督教団の教会)で学びました

カトリックについてプロテスタントで聞かされていたこととは
全然違いましたのには正直ショックでしたし
エキュメニズムとかいって、
カトリックから、プロテスタントへの歩み寄りの動きもあるようですが。。

カトリックに関するあなたのような考えをもっている人がいることに、
今さらながら、かなりびっくりでした。

私がどうこう言ってもあなたに受け入れ態勢がないようなので
「カトリック中央協議会」に問い合わせしたらよいと思います

この前のコメのように「神性」「礼拝」につき事実確認されたらよいと思います

そして、事実に反する記載である、と自分自身で確認したら
訂正したらよいと思います

いたってシンプルなことです。

はっきり言っておきますけど

カトリックがマリアを神としているとか
礼拝してるとか拝んでるとか

おもいっきり嘘八百ですよ 

カトリック信徒の意見だから、といって
聞き入れないで 確かめもしないで
そのまんま放置することは
あまりすすめられたものではありません

身分でどぅこぅ
それは 人をわけへだてするものの考え方になるからです

事実に反してるかいないかの確認なわけですから
前述のとおり
これは信じる信じない以前の問題であり
良識の問題ですよね
一社会人としての。

間違いだと把握したら
訂正すればいいじゃないですか

別に謝れとも要求していない
問題箇所を訂正しておけばそれで済むことです

シンプルです

こころを頑なにせず
よく考えてください 

根拠のない(拝む)主張は、無責任です。
その情報を鵜呑みにする人に被害が及びます。

カトリックはその教えの普遍性のゆえにもカトリックです。
カトリックはいまだかつて神以外の被造物に礼拝(拝む)を捧げてこなかったし
これからもまた同じです。
カトリックは昔も今も
聖母、天使、聖人を拝んだりはしていません。

していないのに、
したとするならその根拠も提示すべきではないでしょうか。

本当の批判というものは
正当な根拠に基づいてなされるべきものです。



記事作成者:

「とりあえず、該当箇所を削除します。

 あなた様が「はっきり言っておきますけどカトリックがマリアを神としているとか

 礼拝してるとか拝んでるとかおもいっきり嘘八百ですよ 」とステイトして下さって、

 本当に良かったです。

 そうだと分かって幸いでした。

 私の認識不足でした。 」


(前述コメは全て削除) 




プロテスタントからよくある質問


マリアは神ではないですよね?

当たり前です。神ではないです。

カトリックでは、マリアを人として尊敬していますが、
いまだかつて神として礼拝したこともなく、そのようなことも教えていません。

最近、プロテスタント系の方から、
「カトリックはマリアを神としている」とか、
「マリアを拝んでいる」などという言いがかりをつけてきて、少々呆れています。

誰があなたに、そのような嘘を、
事実に反する情報を教えたのでしょうか?

それとも、あなたがそのように自分で考えて、
誰かにそのように伝えているのでしょうか?

「カトリックではマリアを神としている」などという嘘が、
いまだに一部のプロテスタントの間でまかりとおっているようですが、
とんでもない間違った主張です。



誤解や偏見、根拠のない批判を取り除くことって。。精神的にストレスがたまりますけど
誤謬の根は、少しずつでも、排除していきたいですね。
誤った情報を鵜呑みにする人が、それをもとにカトリックを侮辱する人が、少しでも減りますように(祈)


「認識不足」
便利な言葉ですが
プロテスタントの方々は確認を徹底されてください。


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