カテゴリ: 善い死の準備(◕‿◕✿)

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「家族に遺言せよ。おまえは回復せず、死が近づいている」(イザヤ38,1
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
7.救霊をなおざりにして死を想わないで生活した臨終者の抱く感情
 
②瀕死の罪人の空頼み
 
あぁ、死の時、信仰の諸真理は、どれほど明白に現われるでしょうか
 
しかし、悪い生涯を送り続けた人にとって
それは、この上もなく大いなる悩みの種となるのです
 
特に、神に身を捧げた人々にとっては、なおさらです
 
なぜなら、このような人々は
神に奉仕する様々な便宜や多くの時間を有していて
良い手本に接する機会も多く
より多くのインスピレーションを受けることができえたからです
 
彼らが、神の御前で、熟慮の末に
「自分は、他人を責めておきながら
その他人よりも、多くの悪をなしてしまっていた
世を棄てて奉献生活に入っていながら
この世の快楽、虚栄、誘惑を探し回っていたのだ」
このように白状しなければならない時
彼らはどれほど大きな苦悶をおぼえることでしょうか
 
これらの修道者たちは
神が自分に恵まれた光明をもってすれば
異教の人々でさえも聖人となりえたであったに相違ないと思い至る時
どれほど激しい良心の呵責にさいなまれることでしょうか
 
最後に、自分が信心業を軽視して
他の人々がこれを重んじているのを見て
鼻で笑ったり、女々しい者だとなじり
その一方で、傲慢や自愛心に好都合な
世俗的格言を自分が重視していたこと
苦しみを避けて、あらゆる気晴らしにふけることを追及していたこと
これらのことを想い出して、どれほど苦しい思いをいだくことでしょうか
 
死の時、私たちは
今まで、空費していた時間を、どれほど欲しがることでしょうか
 
聖グレゴリオは、その『対話』の中で、次のように物語っています
 
かつて、金持ちで不品行なクリザンスという人がいました
 
この人は、最後の時
悪魔が群れをなして自分の霊魂を捕らえに来たのを見て
「明日まで待ってくれ!頼むから時間をくれ!」と叫びました
 
すると悪魔たちは、口々にののしって言いました
「アホなことを言いやがって
おまえは、我々に時間を求めるのか?
そもそもお前は、その『時間』を使って悪を犯してきたんだ
今さら時間を要求したところで、もう残ってなんぞいないんだよ」
 
悪魔のののしりを聞いて、この人はなおも叫び続けました
 
そのそばには、その息子マキシムがいました
マキシムは修道者になっていました
 
瀕死のその人は息子がそばにいるのを見て叫びました
「私の子よ、私を助けておくれ
 あぁ、親愛なるマキシムよ、私を助けろ!」
このように叫び、火のように顔を赤らめて
床の上で狂ったように暴れ出し
そして、最期の痙攣と絶望の叫びと共に
彼の不幸な霊魂は、肉体を離れていきました
 
あぁ、この種の愚かな人々は
生涯の間、どれほどの情熱をもって、その悪徳に執着したことでしょう
しかし、死に臨んでは、彼らは目を開き
自分たちが、いかに愚かな者であったかを白状するのです
それでも、その時はもはや過去を償う望みも、ますます失うばかりなのです
そして、そのような状態で死ぬならば
その永遠の救いに関して、甚だしい不安と喪失感を残すのです
 
兄弟姉妹よ、あなたたちは、この話に目を通して
「それは事実なのだろう」と考えるでしょう
 
しかし、これが事実であるなら
これらの真理を知っていながら
時間があるうちに、これを善用しないのは
まことに甚だしい狂気であり不幸なことではないでしょうか
そして、死の時には
あなたがこの文面を読んでいたこと自体が
苦しみの剣と変わりえるのです
 
ですから、悔い改めに心を開きましょう
今はまだ、このような恐るべき死を避けることができます
 
その悔悛の機会を逸することなく
悔い改めの業に取り掛かりましょう
 
好機を逸してしまわないようにしてください
またの機会、来週、来月などと先送りにしてはなりません

「もし、今日、主の御声を聞きえたならば
 あなたたちの心を頑なにしてはならない」
 
神が、その憐れみをもって
今、あなたに送っているこの光明は
改心の最後の招きでない、と誰が断言できるでしょうか
 
私たちの死は確実であり
私たちの永遠の運命は、これに左右されるのです
 
愚かなことは、死が訪れることを把握していながら
これについて準備をしないことです
 
今、死の時になってなすに違いないことを想いめぐらし
その折に立てるに違いない決心を、今、立てるべきです
 
ある貴族が、神への奉仕のために
宮廷生活を棄てて、カール5世のもとを去る前日
皇帝は彼に「なぜせっかくの栄華を棄て去ってしまうのか」と尋ねました
すると貴族はこれに答えて言いました
「霊魂の救いを得るためには
不道徳な生活を棄て去り
死ぬまでに誠実に償いを果たしていかなければならないからです」
 


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「家族に遺言せよ。おまえは回復せず、死が近づいている」(イザヤ38,1
 


聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士


 
7.救霊をなおざりにして死を想わないで生活した 臨終者の抱く感情
 

①死に臨む罪人の恐怖と良心の呵責
 

数時間の生命しか残されていない病人のそばにいると想像してみてください
 
なんと可哀想な臨終者でしょう
昏睡、息詰まり、痙攣、冷汗など
さまざまな苦しみに苛まれています
 
その上、頭が極度に疲労していて、ほとんど何もわからず
ひと言も発することさえできません
 
しかし、これらの惨めさも
次の惨めさに比べれば、なんでもないのです
 
この人は、死のうとしていながら
自分の霊魂の行末について考えもせず
永遠の世界のために、自身の決算をととのえようとは思わないのです
 
医者や薬のことしか考えておらず
生命をおびやかしている病気から救われようと願っているのです
 
聖ラウレンツィオ・ユスティニアーニは
このような臨終者について、次のように語っています
 
「その人は、自分自身について心配する以外に、何もできない」
 
せめて、親族もしくは友人が、この可哀想な瀕死者に
死の危険について注意してくれたらよいのですが
親族も友人も1人として、死の近いことを警告したり
最後の秘跡を受けるよう勧める勇気もないのです
 
みな瀕死者を悲しませまいとして
これについて語るのを拒むのです
 
しかし、みなが黙っていても
病人は、家族の心配そうな様子に気が付くものです
 
医者が頻繁に診察し、しばしば劇薬を用いるのを見て
その可哀想な霊魂は、動揺と恐怖に陥ります
 
そして、いろいろな不安、良心の呵責、絶望の誘惑に襲われ
心の中で「あぁ、このまま死んでいくかもしれない」とつぶやくのです
 
最後に悲しむべき知らせがもたらされます
「家族に遺言を。あなたは回復せず、死が近づいています」
 
その時、その心の中はどうでしょうか
「あなたの病気はもう治りません。最後の秘跡を受け
神様と一致して、この世を去りましょう」
このように聞かされた時
どれほど悲しんで叫ぶことでしょう
「この世を去れというのですか
何もかも遺し去れというのですか
この家、この別荘、この親族、この友人
あの集会、あの遊戯、あの楽しみを去れというのですか」
 
そうです
全てに別れを告げなければならないのです
 
すでに公証人が、そこに来ています
その手で運命の言葉を綴るのです
「私は遺棄する。。。私は遺棄する。。。」
 
死にゆく人は何を持ちゆくことができるでしょうか
みすぼらしい死装束だけで
この装束も、まもなく墓の中で朽ち去り
あるいは遺体と共に焼かれ去るだけなのです
 
周囲の人々は涙にくれ、友人たちは黙して自分を取り囲み
ひと言も発する力もなく、見つめているのを見て
どれほど暗く絶望的な考えが、この罪人の霊魂をかき乱すことでしょう
 
しかし、この嵐の中にあって
いつになく激しい良心の呵責にさいなまれる時
どれほどの苦悩を感じることでしょう
 
なぜなら、天からの勧めや光明に逆らい続け
聴罪司祭の忠告も聞かず、立てた決心も守らず
これらを棄て去って、送り続けた不道徳な生活を
まざまざと思い浮かべるに違いないからです
 
その時、その人はこう言うに違いありません
 
「自分はなんと不幸なのだろう
 神からこれほどの光明を受けていながら
 自分の良心を糾明して痛悔する時間を与えられていながら
 自分はそのことをしなかった
 
 今、自分は死に直面している
 あの機会を避け、あの愛情を棄て、毎週告白するのは
 自分にとって難しいことではなかったではないか
 
 たとえ、それがどんなに難しいことであったにしても
 自分の霊魂を救うために
 どんなことでもしなければならなかったはずではないか
 霊魂こそ、自分の全てではないか
 
 あぁ、あの時、あの決心を守っていたならば
 自分は今どんなに幸福であったろうか
 
 ところが自分はそうしなかったのだ
 今はもう、そうする時ではないのだ。。。」
 
生涯の間、良心をおろそかにしていた人が
死に臨んで抱く感情は
地獄に落ちた霊魂の感情に似ています
 
地獄においては、罪のために罪を嘆くのですが
この嘆きは、何の効果もなく、また、慰められもしないのです
 

  



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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
6.罪人の死
 
③神は、罪人が悪い死を遂げるであろう、と警告される
 
神は、罪を犯し続ける者が悪い死を遂げるであろう、と警告してやまない
 
主は仰せられる
「その時、彼らは私を呼び求めるが、私は答えない
彼らは私を探し求めるが、私を見出すことができない」(箴言1,28
 
「災いが彼の上に臨んだ時
  神はその叫びを聞かれるだろうか」(ヨブ27,9
 
「天に座す方は笑い、主は彼らをあざける」(詩編2,4
 
聖グレゴリオは言います
「神があざける、とは、憐れみを注ぐのをおやめになることを示します」
 
「復讐も報復も私のもの
彼らに備えられた時は速やかに訪れる」(申命記32,35
 
神は他にも多くの箇所で同じ警告を発しておられます
それなのに罪人は
死の時に、神が赦しと天国を与える
という明白な契約を結んでいるかのように
平然と、心配もなく、罪の生活に埋没しています
 
神は、罪人が、いつ改心しても
これを赦す、と約束されています
 
しかし神は、1度も
罪人に死の際に回心する恵みを与える、とは約束されていません
 
その反対に、罪の中に生活し続ける人が
罪のうちに死ぬべきことを、しばしば予告しておられます
 
主はしばしば仰せられています
「おまえたちは罪のうちに死ぬだろう」
 
また、神は、ご自分を探すことを
死の時まで放棄し続ける人には
ご自分を見出すことができないであろう、と言明しておられます
 
それゆえ可能な間に、神を探さなければなりません
「主を求めなさい。見出すことができるうちに
呼びかけなさい。近くにおられるうちに」(イザヤ55,6
 
そうです。どんなに探しても
見出すことのできない時が来るにちがいないのです
 
あぁ、哀れな盲目者たちよ
あなたたちは改心を、死の時まで延ばしていますが
その時では、もはや改心できる時ではないのです
 
オレアステルは言います
「善をなす時間がなくなってはじめて
  善をなし始めようと考える人がいる」
 
神は全ての人を救おうと望んでおられます
しかし、頑迷に罪にとどまる人を処罰されるのです
 
罪の状態にある不幸な人が
脳溢血におちいり意識を失った場合
そばにいた人々は、この人が秘跡を受けず
悔悛のしるしも示さないで死ぬのを見て
どれほど悲嘆することでしょうか
 
しかし、もし、この人が、意識を回復して
赦しを求め、痛悔の祈りを唱え始めるのを見るならば
みなはどれほど喜びに包まれることでしょう
 
実際、神と和解する時間を与えられていながら
頑迷にも、罪の中に生き続けることほど愚かなことはありません
 
しかも、罪に罪を重ね、突然の死に見舞われ
悔悛することができないままに死ぬ危険をおかすのです
 
ところが、このような悲しむべき死に襲われ
罪の中に世を去る危険をおかすものが、どれほど多くいることでしょう
 
「精確な秤と目盛りは主のもの」(箴言16,11
 
私たちは、神が与えてくださる恩寵を数えようとしません
しかし神は、これをはかり、これを正確に計算されます
 
そして、もしも恩寵を軽蔑して、そのはかりを超過するならば
その罪人を遺棄され、これを罪の中に死なせるのです
それゆえ改心を死の時まで延ばす者は不幸です
 
聖アウグスティヌスは言います
「病人の悔悛は、病的な悔悛である」
 
聖イエロニムスは言います
「罪の中で生活し
罪から抜け出るのを死の時まで先送りにした10万人のうちで
実際に、神の憐れみに浴して救霊を全うした者は
辛うじて1人あるかないかである」
 
聖ヴィンチェンツィオ・フェッレールは言います
「悪い生活を送り続けて後に、善い死を遂げることは
死者が復活するよりも、大きな奇跡を必要とする」
 
そもそも死の時まで罪に愛着していた者が
どうして罪を痛悔することができるでしょうか
 
聖ロベルト・ベッラルミーノは次の出来事を証言しています
 
聖人は、ある日、臨終の病人のもとに呼ばれたので
その病床で痛悔の行為をなすよう勧めました
 
すると、この人は「痛悔というのがわからない」と答えました
そこで聖人は、これを丁寧に説明し始めました
 
しかし病人は聖人の説明を遮って、こう言いました
「神父さん、あなたが何を言っているのか私にはよくわかりませんし
 そういったことも、私のためにはなるとは考えていません
 もうけっこうですから」
 
敬虔な枢機卿である聖人は、この話に次のように付言しました
「その人は、そのまま、あまりにも明白な滅びのしるしを残して
  死の門をくぐってゆきました」
 
聖アウグスティヌスは言います
「罪人は生涯の間、神を想うことを故意に怠っていたのですから
その臨終に際して、自分自身についての永遠を考えることはできないでしょう」
 
使徒聖パウロは言います
「思い違いをしてはいけません
  神は人から愚弄されることはないのです
  人は、自分の蒔いたものを刈り取ります
  自分の肉という畑に種を蒔くものは、肉から滅びを刈り取り
  霊という畑に種を蒔くものは、霊から永遠の生命を刈り取るのです」
 
実際、生涯の間、神の掟を軽蔑しておきながら
永遠の幸いの報いと栄光をわがものにしようと考えるのは
あまりにも神を馬鹿にした態度です
 
神は馬鹿にされることはなく
その人が、この世で蒔いたものを、来世で刈り取らせになるのです
そして、肉の恥ずべき快楽を蒔いたものは
いつか、腐敗、惨めさ、第2の死を、永遠に刈り取るに違いないのです
 
キリスト信者よ、兄弟姉妹よ
他の人々にとって真実なことは
私たちにとっても、また真実なことです
 
よくよく考えてみなさい
もしも、あなたが今、医師に見放され
意識もおぼろになり、死の苦しみに襲われ、まさに死のうとしているなら
自分の良心を整理するために、もう1か月、もう1週間、もう1日と
時間や猶予を神に祈り求めることになるでしょう
 
ところが神は、その時間や猶予を
まさに、この今、あなたに与えておられるのです
 
だから神に感謝をしてください
そして、すみやかに、過去の隠れた罪や過ちを悔い改めて
誠実に告白し、真摯に償いを果たし
恩寵の状態で、あなた自身の死を迎えることができるよう
あらゆる手段を講じてほしい
 
なぜなら、あなたに死が訪れる時には
おそらく、もはや時間も猶予も手段もないに違いないからです
 



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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 
 
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
 
6.罪人の死
 
 
②臨終の罪人の苦悩
 
 
あぁ、臨終の床にある哀れな罪人の苦悩は
いったいどれほど強烈で深刻なものでしょうか
 
まず、地獄の悪魔に悩まされるに違いありません
 
この恐るべき敵である悪魔は
死の時、すなわち霊魂が地上を去ろうとする時
これを滅ぼそうとして、全力をあげて努力します
 
なぜなら、この霊魂を我ものにするには
わずかの時しか残っておらず
この時を逃したならば、永久に失わなければならないからです
 
『自分にはわずかな時しか残されていないのを知り
  激しい怒りをもって
  お前たちのところにくだって行ったからである』(黙示録12,12
 
しかも、臨終者の霊魂を滅ぼすために
誘惑に来る悪魔は、1位ではなく、大挙して押し寄せるのです
 
『そこには荒れ野の獣が伏し
家々にはみみずくが溢れ
駝鳥が宿り、雄山羊の姿をした悪魔がそこで踊る』(イザヤ13,21
 
ある悪魔はこう言うでしょう
「心配はいらない、きっと治るだろう」
 
すると、もう1位の悪魔はこう脅すでしょう
「おまえは長きにわたり、神の声を聞こうとしなかったではないか
今さら泣きついて憐れみを受けられるとでも思うのか」
 
第3の悪魔はこうなじるでしょう
「おまえは機会を見つけては他人の財産や名誉を損ない尽くしてきた
それらをどうやって償うつもりなんだ」
 
第4の悪魔はこう叫ぶでしょう
「おまえがなしてきた告白は無効であり汚聖ではないか
まことの痛悔もなく、遷善の決心もなく
あの罪もこの罪も隠してきたではないか
今になって騒いでもだめなんだよ
救いはあきらめろ」
 
次に臨終者は、それらの罪に取り囲まれるでしょう
悪は、邪悪な人を、その死にあたり、捕らえて放そうとしないでしょう
 
聖ベルナルドは言います
「そうです、彼らの罪は、武具をつけた捕縛者のように叫んでいます
 『我々をつくり出したのは、おまえなのだから、おまえを離れはしない
  我々はあの世までおまえにつき従い
  おまえと一緒に、至高の審判者の前に引き出されるのだ』」
 
哀れな罪人は、これらの敵から逃れようと焦るでしょう
けれども、そのためには、これらを憎まなければなりません
 
心を尽くして神に立ち帰らなければなりません
しかし、その精神はかすみ、心は頑なになっているのです
 
『主は、滅びゆく民に、憐れみを示されなかった
  彼らは自らの罪のゆえに全滅した
  これら全てのことは、主が頑なな心の諸国の民に対してなされたことで
  多くの聖なる人々によって心を動かされるということもなかった」(シラ16,9
 
聖ベルナルドの語るところによれば
生涯の間、悪になじんでいた罪人は
死の間際に滅びの状態から出ようと努めても、成功せず
その嘆かわしい状態のまま自身の悪に押しつぶされて死ぬことになる
最後の時に至るまで罪を愛した罪人は
最後の時まで滅びの危険を愛したのだから
神が、この不幸な人の危険な状態のまま放置して生き永らえさせたことは
正義のあしらいでもある、ということです
 
聖アウグスティヌスも言います
「罪を去る前に、罪から去られる人があります
  罪に親しむ人が、死に際して、真剣に罪を憎むことは極めて困難です
  というのも、その時その人は、自発的に行動するのではなく
  いわば強いられて行動するようなものだからです」
 
ゆえに、頑強に悪に執着し続け
神の御声に逆らい続ける罪人は、不幸です
 
『その心臓は石のように硬く、臼の下石のように硬い』(ヨブ41,16)
 
忘恩者!
彼らは神の招きを聴こうとせず
その御声に心を動かされるかわりに
生涯の間、鉄砧が金槌で叩かれて硬くなるように
その心はますます頑なになったのです
 
そのため正義の罰によって
その生命の終わりになっても
片足を永遠の世界に踏み入れていながらも
心を改めようとしないのです
 
そうです、頑なな心は
最後の時に至るまで、取り拉がれるのです
 
あぁ、罪人は、死の際、神に向かって叫ぶでしょう
けれども神は、これに対して突き放されるでしょう
 
「あなたは私をうち棄てて被造物を愛したではないか
なにゆえ今となって私に依り頼もうとするのか
あなたの悩みの時が来たからといって
私が立ち上がり、あなたをかばう義理がどこにあるのか
あなたは被造物に向かって叫ぶがよい
被造物に助けを求めるがよい
それらこそ、あなたが祀り上げてきた神々ではないのか
それならば、それらの神々が立ち上がって、あなたを救うべきだろう」
 
主が、このように語られるのは
彼らが主に依り頼んだとしても
まごころから回心する気が実際にはないからです
 
聖イエロニムスは言います
「私は長年の経験によって
一生の間、悪い生活を送り続けた人は
決して善い死を遂げることがない、と確信しています」

 
福音を信じる人は多いが
悔い改める人は少ない

心からの悔い改めをもってこそ
はじめて福音を真の意味で信じるものとなれます

神のうちに永遠に生きることを望むものは
今、罪をうち棄てて、神に立ち帰り
神の恩寵に協力して、善良な生活を送るよう努めなければなりません
 


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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 

 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士

 
6.罪人の死


 ①罪人は突然死ぬ。突然死でなくとも、改心は極めて困難である
 

現在、罪人は、死の追憶、死の想いを遠ざけ
放逸な生活の中に、わずかな平和を味わおうと努めています
 
けれども、決して、この平和を味わうことができません
まして、死の苦悶に襲われ、永遠の世界に入ろうとしている時は
罪深い良心の呵責を免れることはできないのです
 
臨終の苦悶のさなかで平和を求めるが
しかし、平和をもつことができない
 
そうです。彼らは平和を求めるでしょう
しかし、罪に満ち、この蝮のような罪に責め苛まれる霊魂が
どうして平和を見出すことができるでしょうか
 
それまで、イエズス・キリストの掟や愛を軽蔑してきた霊魂が
いざ、イエズス・キリストの裁きの御前に出頭しなければならない時になって
どうして平和を見出すことができるでしょうか
そうです。煩悶に煩悶を重ねるよりほかにないのです
 
死が近いことを告げられると
この世の全ての事物を棄て去らなければならないことを考えて
良心の呵責に襲われて
自分が時間を空費したことや
自分の時間もやがて終わりを迎えることや
神の審判の厳しさや
悪人に課せられる永遠の不幸など
これら全ての考えが、あたかも、その精神を打ちひしぎ
苦悩の中に沈みこませる恐るべき嵐のように
臨終の罪人の上に押し寄せるに違いないのです
 
このようにして罪人は
全く、落ち着きを失い、希望を失い、この世を去るのです
 
アブラハムは、神の約束を信じて
人間的には全く希望を奪われていながらも、神に希望し続けました
これは、アブラハムの大いなる功徳です
 
「アブラハムは、望みのない時、望みを抱いて、信じました」(ローマ4,18
 
これに反して、盲目な罪人は
希望にさからって希望するばかりでなく
信仰にさからって希望します
なぜなら、神が、頑迷な者に対してなさった脅しを、軽蔑するからです
 
彼らは、悪い最期を遂げることを恐れます
けれども、悪い生涯を送ることを恐れません
 
そんな彼らが、突如、雷に打たれたり、事故にまきこまれたり
あるいは、喀血したり、あるいは、卒倒したり、急死しないと
誰が保障することができるでしょうか
 
たとえ死に際して、改心の時間があるとしても
それを用いて、彼らが実際に回心すると、誰が保障できるでしょうか
 
聖アウグスティヌスは、自分の悪習を棄て去るのに
12年間もかけて、それと戦わなければなりませんでした
 
いつも良心の促しを拒絶していた罪人が
臨終の時、激しい苦しみ、頭痛、最後のあがきのさなかにあって
容易に、真実に、神に立ち帰ることができるでしょうか
 
私は、ここで「真実に」と言います
というのも、ただ口先だけの言葉や約束では足りないのであって
心の底から発する悔い改めの言葉と約束が必要だからです
 
あぁ、それまで、自分の霊魂について配慮しなかった気の毒な病人は
審判と地獄と永遠の苦しみとを想い
罪に覆い尽くされた自分の真実の姿を眺める時
いったいどれほどの恐怖と苦悩に襲われることでしょうか
 
次第に頭がぼんやりとなり、意識がかすみ
全身が死の苦しみに悶えている時
このようなことを思い浮かべて
いったいどれほどの煩悶に陥ることでしょうか
 
外面的に告白し、いろいろな約束をして
泣き叫び、神の憐れみを祈り求めるでしょうが
実際のところ、自分が何をしているのかさえ、わからないのです
 
しかも、このような煩悶と良心の呵責、苦悩と恐怖のうちに
彼らはこの世を去るのです
 
ある著述家は言いました
「臨終の罪人の祈り、嘆き、約束は
敵の手に捕らえられ首をしめられて
殺されかけている人がするような嘆願や約束に似ています」
 
神の恩寵を喪失している時、最後の病気にかかり
そのまま、永遠の世界に移る人々は
まことに不幸なものであるとしか言いようがありません
 


  




 
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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
5.死の時は不確実である
 
③死の時は不確実であるがゆえに その準備をのばすのは危険である
 
 
「あなたたちも準備しておきなさい」
 
主は、私たちの死が近づいた時に
準備するよう命じられたのではありません
 
いつも準備しておくようにと、私たちに命じられたのです
 
人は実際、自分に死が訪れた際に混乱を極めている時
自身の複雑な良心を整理することは、不可能に近いのです
 
このことは、理性が私たちに教えているところのものであり
この臨終時の混乱は、準備しなかったことへの罰でもあります
 
神は、その時、赦しを与えるためではなく
私たちが主の恩寵に対してなしてきた侮辱を復讐すべく
来られるのです
 
主は仰せられます
「復讐するのは私であり、各々に私が報復する」
 
聖アウグスティヌスも叫びます
「救霊を全うすることができたにもかかわらず
これを望んでこなかった人は
その日その時、望もうとしてもできない
これは、正義の罰にほかならない」
 
ある人は考えるかもしれません
「その時になったとしても、改心して霊魂の救いを得られるかもしれない」
 
しかし、答えてほしい
あなたは「この中に飛び込んでも死なないで助かるかもしれない」
などと根拠なく放言して、深い井戸の中に、身を投じるだろうか?
 
罪の結果とは、実に奇怪なもので
精神を盲目にしてしまい、理性を失わせてしまうのです
 
人間は、肉体に関しては、利口に推理します
ところが、霊魂に関しては、馬鹿になるのです
 
兄弟姉妹よ、あなたが読んでいるこの黙想は
あなたにとって、神の最後の警告であるかもしれないのです
 
急ごう
自分の死に向き合い、その準備を整えよう
 
準備していない状態で
不意に死に襲われてはならないのです
 
主が私たちに、死の時を隠されたのは
私たちに、毎日、死を準備させるためなのです
 
聖アウグスティヌスは言います
「私たちが、自分の死を知らないのは、私たちの毎日を聖化するためです」
 
聖パウロは
「恐れおののきつつ」私たちが救霊を全うするよう忠告しています
 
聖アントニーノの語るところによれば
シチリアのある王は、その臣下の1人に
自分が王位にありながら悩まされている恐怖をわからせようと思って
その臣下を、自分の食卓に座らせました
 
ところが、この臣下の頭上には
細い紐で吊るされた剣がぶらさがっていました
そのため臣下は
わずかな食物しか口にすることができませんでした
 
私たちはみな
同じ危険にあっています
 
なぜなら、死は、いつでも、その剣を私たちの上に落とすことができ
私たちの永遠の運命を決すべき一撃を与えることができるからです
 
この事は、永遠に関する重大事です
 
「木は南に倒れても北に倒れても
倒れたところに、そのまま横たわる」(コヘレト11,3
 
もし、神の恩寵に浴している時、死を迎えることができるならば
私たちの喜びは、どれほど大きいものとなるでしょう
 
その時、私たちはこのように言えるでしょう
「あぁ、これでもはや神を失うことはなく、私は永遠の至福へと過ぎ越すのだ」
 
しかし、もし、罪の状態にある時、死に襲われるならば
私たちの絶望は、どれほど恐ろしいものとなるでしょう
 
その時、私たちの霊魂は、絶望のうちに叫ぶに違いないでしょう
Ergo  erravimus ! 私たちは間違いを犯した!
あぁ、この間違いは、もはや償うことができない!
私たちは永遠に滅びなければならないのだ。永遠に!」
 
スペインの使徒、アヴィラの聖ヨハネは
この事を考えて、震えおののきました
 
彼は自分の死が近いことを告げられた時
「あぁ、私にはもう少し準備する時間が必要です」と叫んだそうです
 
また、アガトン修道院長も、長年の苦業生活を送ったのち
「私はどうなるのだろう。誰が神の審判を知ることができようか」
と言いつつ死んでいきました
 
聖アルセーヌも、死が近づいた時、震えおののき
弟子たちがそのわけを尋ねると、次のように答えました
「子らよ、私は今日はじめて、この恐れを感じているのではありません
私は生涯の間、一時も、この恐れを感じないことはありませんでした」
 
特に、聖ヨブは、死を想い、おののき恐れました
「神が(裁きに)立ち上がられる時、私はどうすればよいのだろうか
神がお調べになる時、私は何と申し開きすればよいのだろうか」(ヨブ31,14
 
あぁ、私の神よ
あなたほど、私を愛してくださったかたがあるでしょうか
それなのに
あなたほど、私から軽蔑され、侮辱されたものがあるでしょうか

あぁ、イエズスの御血よ、御傷よ、私の希望よ
私に赦しをもたらしてください
 
永遠の御父よ、私の罪をごらんにならず
イエズス・キリストの御傷をごらんになり
私の救いのために苦しみの極みを味わい
ご自分を死に渡された御方のゆえに、私を憐れんでください

あなたに背いたことを心を尽くして悔やみ
私は犯した罪を、いかなる悪にもまして忌み憎みます

あなたを愛させるために私を創造された御方よ
私の大きな過ちを赦し、あなたを愛するものとして
あなたの最愛の御子の贖いの御血のうちに、私を新たにしてください

私の贖い主イエズスよ
私があなたの愛のうちにいつもとどまることができるよう
あなたの御傷の中に私を隠し
あなたから引き離すあらゆる悪から、私をお護りください
 
マリアよ、私の御母、私の信頼よ
あなたによりたのむ全ての人のための避難所よ
私のために、イエズスに取り次いでくださいますように



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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 
 
聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
5.死の時は不確実である
 
②死の時は不確実であるがゆえに準備を怠ってはならない
 
主は、私たちが滅びることをお望みになりません
 
主は、私たちに生活を改めるよう絶えず勧め
時に、処罰をもって恐れを抱かせられます
 
「もし人が悔い改めないならば
神は剣を研ぎ澄まされる」(詩編7,13
 
悔い改めようとせず、少しも死のことを考えず
まだまだ何年も生きながらえると思いこみ
すっかり安心しきっていた時に
突如として死に襲われた人々が、どれほど多くいるでしょうか
 
「人々が、平和だ安全だと言っている、まさにそのような時に
あたかも妊婦に陣痛が始まる時のように
彼らに破滅が突然襲いかかり
誰もそれから逃れられない」(1テサロニケ5,3
 
「あなたたちも悔い改めなければ
みな同じように滅びるだろう」(ルカ13,5
 
神の御言葉は、なぜこのように脅されるのでしょうか
それは、私たちに悪い行ないを改めさせ
それによって、悪い死を回避させるために他なりません
 
聖アウグスティヌスは言います
「あなたたちに向かい、用心せよ、用心せよ、と叫ぶ人は
あなたたちの生命を殺害しようと考えていないことは確かである」
 
それゆえ、あなたの人生の総決算の日が訪れる前に
良心の咎めを整理する必要があります
 
キリスト信者よ、兄弟よ
もしあなたが今日死ななければならず
あなたの永遠の運命が
今宵を待たないで決定されなければならないとしたら
あなたは決算書を提出する用意ができているでしょうか
 
もしできていないなら
全てをなげうってでも
1年、1か月、あるいは、わずか1日だけでも
猶予を願いはしないでしょうか
 
神は、今、この猶予を与えてくださっているのです
あなたはなぜ、これを活用して、良心の糾明を入念にしないのでしょうか
 
この日があなたにとって
実際に最後の日となる、ということはありえないでしょうか
 
「主に立ち帰るのを遅らせてはならない
1日、また1日と、先送りにしてはならない
さもなければ、主の怒りは突如として臨み
報復の時に、あなたは滅ぼされてしまうだろうから」(シラ5,7
 
兄弟姉妹よ、霊魂の救いを得るためには
あなたは罪から遠ざからなければなりません
 
私たちは、いつか、罪と別れなければならないのですから
なぜ、たった今、これと決別しようとしないのでしょうか
 
聖アウグスティヌスは言いました
「遅かれ早かれ、そうならなければならないのに
 なぜ、たった今、そうならないのだろうか」
 
死の時まで待とうと考えているかもしれませんが
頑迷な者にとっては
死の時は赦しの時ではなく
むしろ裁きの時となってしまうのです
 
最後まで不悔悛な者には
主は、報復の時、厳正な裁きをくだされます
 
もしも誰かに大金を貸している場合には
必ず証文を取るにちがいありません
そのわけは、どんなことが起こるかわからないからです
 
ところで、あなたの霊魂には
莫大な利子(罪の負債)がついているのです
それなのに、どうして同じように用心しないのでしょうか
 
どうして、あなたの霊魂についても
どんなことが起こるかわからない、と言わないのでしょうか
 
あの金を失ったとしても、まだいくらかあるでしょう
たとえ全財産を失ったとしても
これを立て直す希望は残っているでしょう
 
しかし、罪を痛悔せず、償いさえ眼中にない状態のまま
死を迎えて、自分の霊魂を滅びるままにしてしまうなら
その時、あなたは全てを失うのであり
しかも、これを取り戻す希望は、永遠に、全く失ってしまうのです
 
あなたは、所有する全財産について、詳しく調べ上げています
思いがけない時に死んだとしても
相続や墓の心配をしないよう備えています
 
しかしながら、もし、あなたが恩寵を失ったまま放置していて
重大な罪の負債をかかえこんだまま、突然、死に襲われたなら
地上的な財の備えが、あなたの永遠にとって何の価値があるでしょう
あなたの霊魂の永遠の運命は、もはや取返しもつかないものとなり
永遠の生命を台無しにしてしまうことになってしまうのです
つまり、あなたは永遠の死を
地獄の悪魔や悪霊たちの醜悪と消えることのない炎と蛆と共に
深い苦しみと歯ぎしりのうちに、世々に味わわねばならなくなるのです
 
死後ただちに行われる神の裁きの座の御前にあって
次の宣告を耳にすることほど恐るべきものはありません
 
「呪われたものよ、私から離れ去り
悪魔と、その使いたちのために用意されている永遠の炎の中に入れ!」
 


  


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『あなたたちも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである』
(ルカ 12,40
 

聖アルフォンソ・デ・リゴリオ司教教会博士
 
5.死の時は不確実である
 
①死の時は不確実であり、死はほとんどいつも不意に訪れる
 
私たちはみな、死ななければなりません
これは絶対に確かなことです
 
それでは、いつ死ななければならないでしょうか
私たちはそれを知らないのです
 
イディオタは言いました
「死ほど確かなものはない。けれども死の時ほど不確実なものはない」
 
兄弟よ、あなたと私がこの世を去って
永遠の世界に入るべき、年、月、日、時間、瞬間は
既に決まっているのです
 
しかし、私たちは、それについて何も知りません
そのため、イエズス・キリストは
私たちに、いつも準備しておくように求めておられるのです
 
聖パウロは
死が、こっそり来るべきことを告げられました
「主の日は、夜の盗人のようにやって来る」(1テサロニケ 5,2
 
イエズス・キリストは、私たちの思いがけない時に訪れて
私たちをお裁きになることから
つねに目覚めているよう命じられました
 
『あなたたちも用意していなさい。
 人の子は思いがけない時に来るからである』(ルカ 12,40
 
聖グレゴリオの言うところによれば
神が私たちに、死の時を隠されたのは、私たちのためです
 
「神が私たちを、この不確実の中に残されたことにより
いつも、死に備えさせようとお望みになられたからです」
 
このように死は、いつ、いかなるところで
私たちの生命を奪い去るかしれないのですから
私たちは、いつも、どこにおいても
死を待っていなければなりません
 
聖ベルナルドは言いました
「死は、いたるところで、あなたを待っています
 それゆえあなたも、いたるところで死を待たなければなりません」
 
私たちは、死ななければならないことをよく知っています
しかし不幸なことに、大部分の人は
死を遥か遠くに押しやって
これを見ないようにするのです
 
どんなに老いぼれた人も
どんな重病にかかっている人も
まだ、3年4年は生きられるだろうと思っています
 
しかし、今日、今この瞬間にも
どれだけ多くの人が、不意に、死を迎えていることでしょうか
 
ある者は、静かに座ったまま
ある者は、歩きながら
ある者は、眠りながら
死の門をくぐっているのです
 
これらの人々のうち、誰一人として
このような不意の死を遂げるなどと思ってもみなかったでしょうし
また、彼らが死んだ日に、まさか死ぬなどとは考えもしなかったでしょう
 
今年、この世を去った人々のうち、1人も、今年死ぬことを
こんなにも早く命の終わりを迎えることを想像したものはいなかったでしょう
 
実際、ほとんどみな
思いがけなく死を迎えたのです
 
兄弟姉妹であるキリスト信者よ
悪魔があなたに向かって
「明日、告白すればよいではないか」と言いながら
罪を犯すよう、あなたをそそのかす時
あなたは悪魔に向かい
「今日のこの日が、私の一生の最後の日であるかもしれないではないか」
と答えてやりなさい
 
もしも実際に、自分が神を裏切ろうとしているこの時が
自分の一生の最後の時であったとしたら
あなたにはこの世で償いをなす時はないことになります
 
そうなれば、永遠の世界において
あなたの運命は、いったいどうなるでしょうか
 
どれほど多くの罪人たちが
有毒な快楽を味わっている時、死に見舞われて
永遠の地獄へと堕ちていったことでしょう
 
「誰も自分の時がいつ来るかを知らない
魚が不運な網にかかり
小鳥が罠にかかるように
人の子らもまた、災いの時が突然襲うと
それにかかってしまう」(コヘレト9,12
 
「災いの時」とは
罪人が神に背いている時と解釈すべきです
 
悪魔は言うでしょう
「大丈夫だ。あなたはそのような不幸に陥ることは決してない
 神は憐れみなのだから、安心して、今は罪を楽しむがよい」
 
しかしあなたは自問しなければなりません
 
「もし、私が、神の憐れみを濫用した上で、罪を犯し
 不意に死に見舞われる不幸に陥れば
 私の永遠の運命はいったいどうなることだろうか
 不意に悔い改めないまま死んでしまえば
 私の住まいは永遠に地獄ではないか。永遠に!」
 
 
生ける神の御手に落ちることは恐ろしいことである
(ヘブライ10,31
 
  
もっと悪いことが、あなたに起こらないように
もう罪を犯してはいけない
(ヨハネ5,14
 
 
 

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4.死が確実であること


     『人間は1度だけ死んで、後に審判を受ける、と定められている』(ヘブライ9.27)


3.死は確実だから、一時の幸福ではなく永遠の幸福を確保しよう

死は確実である。
あぁ、神よ、キリスト信者はこれを知り、これを信じ、これを目撃している。
それなのに大多数の人々は、どうして死をすっかり忘れて、
決して死ぬことがないかのように生活しているのだろうか。

実際、死後、天国も地獄もないとしても、
人間は、彼らが示しているほどの無関心をもって生活することはできないに違いない。
その結果、彼らは、いかにも自堕落な生活を送っているのである。
兄弟よ、もしあなたが余生をキリスト信者らしく送りたいと思うならば、
いつも、死を、目の前に思い浮かべなければならない。

死を思い浮かべて判断をなし、決意する人は、
事物を立派に評価し、自身の行為を立派に律することができるのである。

死を思う時、
私たちは地上の全ての事物から心を離すことができる。

聖ラウレンツィオ・ユスティニアーノは言っている。
「生命の終わりを見つめるものは、
 この世の事物を愛さないだろう」

使徒聖ヨハネは言う。
「世にあるもの、それは肉の欲であり、目の欲であり、生活のおごりである」

世間が私たちに提供することのできるもの、
それは五官の快楽、富、地位であり、これが全てである。
しかし、これらはやがて灰と化し、
墓の中で蛆に喰われるべきものであることを思う者は、
これら全ての宝を軽視するのである。

実際、聖人たちは、死を思い浮かべていたがために、
この世の全ての宝を軽視していたのである。

聖カロロ・ボッロメオは、いつも死を思い浮かべることができるように、
1個の頭蓋骨を机の上においていた。

カルディルナ・バロニオの指輪にはこのように刻まれていた。
「memento mori」(死を思え)

サリュスの司教、尊者アンティナは、ドクロの上に、
「私は、お前のようであり、お前は私のようになる」と記し、
これをいつも目の前においていた。

ある聖なる隠遁者は、臨終の際、小躍りして喜んだ。
その理由を尋ねられた時、彼は答えて言った。
「私はしばしば死を思いめぐらしていました。
 ですから死は、私にとって未知のものではないから、
  恐れず、むしろ喜びでさえあるのです」

旅人にとって、旅先の国々で豪奢な暮らしをなすことしか考えず、
そのため一生涯、定住する国で惨めな暮らしをしなければならないとすれば、
いかにもおろかなことではないか。

さて、地上に暮らすわずかの月日を、快楽のうちに過ごし、
永遠に住むべき来世において、不幸なものとなるのは、
まことに狂気の沙汰ではないか。

あるものを借り受けていたものは、
間もなくこれを返さなければならないと考えて、
あまりこれに執着しない。

実際、この世の財産は、
全て借り物に過ぎない。

これに執着するのは、いかにもおろかなことではないか。
なぜなら、間もなく手放さなければならないからである。

実際、私たちは、死によって、全てを奪い去られる。
この世の全ての宝、全ての富は、
最後の息、葬式、墓穴で終わるのである。

あなたが建てた家も、
やがて他人の手にうつらなければならない。

あなたの肉体は、公審判の日まで、
墓の中にとどまるだろう。

あなたの肉体は、公審判後、
あなたの霊魂のとどまっていた天国もしくは地獄にうつる時、
はじめて、この墓を抜け出るのである。








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4.死が確実であること


     『人間は1度だけ死んで、後に審判を受ける、と定められている』(ヘブライ9.27)


2.死は確実だから、善い死を遂げるように生きよう

Statutum est (宣告された)
私たちはみな、死を宣告されている。
これに疑いの余地はない。

聖チプリアヌスは言った。
「私たちはみな、首に縄をかけられて生まれる。
 そして、人生の歩みをはこべばはこぶほど、
 死に近づくのである」

親愛なる兄弟よ、
私たちは生まれた時、洗礼台帳に登録されたように、
いつかは死者の台帳に登録されなければならない。
今日あなたは、亡き父、亡き叔父、亡き弟、と呼んでいる。
あなたの死後、生き残った人々も、
あなたを同じように呼ぶにちがいない。
あなたは他人の死を弔う鐘の音を、幾たびとなく聞いた。
他の人々も、あなたを埋葬する鐘の音を聞くにちがいない。

もしも刑場にひかれる死刑囚が、
ふざけたり、笑ったり、左右をキョロキョロ眺めたり、
観覧、祝宴、気晴らししか考えなかったりするのを見たならば、
あなたは何と言うであろうか?

しかし、あなたは、たった今、死に向かって歩いているのである。
では、あなたは何を考えているであろうか。

そこにある墓穴、神の正義によって裁かれたこの友人、あの親族を眺めるがよい。
死刑囚にとって、絞首台にぶらさがり、すでに死んで硬くなった友人を見ることは、
なんと恐るべきことではないだろうか。
これらの死骸を眺めよ。
その各々は、あなたに向かってこう叫んでいる。
「昨日は私だが、今日はあなただ」
あなたの死んだ両親、その書類、その家、その床、
彼らが残した衣服もまた、同じことを叫んでいる。


いつかは死ななければならないこと、
死んだならば、
永遠の楽しみか、永遠の苦しみにおちいらねばならないこと、
この永遠の幸福と、永遠の不幸とは、
死の瞬間に決定されることを知っていながら、
善良な死を保証するための決算準備やあらゆる手段を講じようとしないのは、
何というおろかなことであろう。
何という奇怪なおろかさであろう。


私たちは、突然、思いがけない時に、
死に襲われた人々の運命に同情する。
それなのに、自分については、何ゆえ準備を怠るのだろうか。
地震や落雷などの天災、交通事故、全く考えられないような事件の被害。。
同じようなことが、私たちにも起こりうるのである。

要するに私たちは、
遅かれ早かれ、予見した時、あるいは不意に、
病死など覚悟をしている時、あるいは思いもよらぬ時、
死ななければならない。
刻一刻と、私たちは死刑台、
すなわち、私たちをこの世の外に投げ出すべき、
最後の病気や事故に近づいているのである。


各世紀は、
家、広場、都会が、新しい住民によって満たされ、
先住民たちが墓の中に塵となって消えうせるのを見る。
私たちの先人たちが、その生涯を終わったように、
あなたも私も、現在生きている者のうち、
ただの1人も、この世にいない時が来るであろう。

私たちはいつか永遠の世界に入る。

しかも、この永遠の世界は、
私たちにとって、終わりない楽しみの輝かしい日か、
それとも、終わりない苦悩の恐るべき夜か、
このいづれかである。
その中間はありえないのである。
これは確かであり、信じるべき真理である。
すなわち私たちは、2つの永遠のうち、
どちらか1つを譲り受けるのである。









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