カテゴリ: 恩寵と信仰者(◕‿◕✿)

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ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵~至聖なる三位が私たちのうちにお宿りになること~


恩寵は、神がみずからを、
ことごとく、そして永遠に表明なさる御言葉と、
御子によって完全に語られ、表明されるところでだけ、
私たちに神を認識させ、
また、神がみずからを、
永久に、あますところなく愛し、お与えになる、その聖霊によって、
完全に愛され、与えられるところにおいてのみ、
私たちに神を愛させ、受け入れさせるでしょう。

また、私たちの中においでになる神によって、
私たちは、神ご自身のために神を愛し、
愛徳によって神に神を与えるというほどに、
神を私たちの中に移し、所有するようになり、
聖霊の永遠の生命は、
こうして私たちの中に全うされるに至るのです。

ガリグゥ・ラグランジュ(P.Garrigou-Lagrange)は、
神の永遠の至福直観の中に生きる、選ばれた人々について、
次のように語っています。

「御父は、彼らの中に、その御言葉を生み、
 御父と御子は、彼らの中に愛を息吹き、
 愛徳は、彼らを聖霊に似たものとし、
 至福直観は、彼らを御言葉に似させ、
 御言葉は、自分がそのかたどりである御父に、彼らを似たものとする」	



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ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵~至聖なる三位が私たちのうちにお宿りになること~


私たちは、
御父なる神と、御子なる神の、
永遠の接吻と賜物である聖霊において、
永遠に愛し合い、抱き合われる、その同じ愛によって、
御父から愛されるのです。

つまり私たちは、
永遠の御子のうちに生み出されるのです。

なぜなら私たちは、
聖霊において愛されるからです。

聖霊が、
御父と御子を結ぶ絆であり、賜物であるように、
聖霊は、
御父とその養子たちを結ぶ絆であり、賜物なのです。

私たちは、聖霊と呼ばれる永遠の愛のうちに取りあげられ、
受け入れられます。

しかし、神である御子の場合には、必然的であるのに対して、
私たちの場合は、神の任意で、自由に、選定と選抜と、養子関係によるものであって、
さらに正確に言えば、
私たちは選ばれて、永遠の愛の中、聖霊の中に、取り入れられるのです。

その中に私たちを取り入れて、
私たちの存在の奥深くに活力を与え、
神の限りない愛に対する私たちの答えとして、
神に対する私たち自身の賜物、すなわち「愛徳」を伝えるのは、
この永遠の愛の働きなのです。

それは、私たちが神の愛に渡されて、神に与えられる、ということが、
私たちの力によるのではなく、
私たちの中に生きておられる聖霊によるものだからです。

私たちは、永遠の予定により、
御子~私たちは彼において生み出されます~と、
聖霊~私たちは彼によって選び出されます~とによって、
神に、私たち自身が与えられるのです。

私たちが内面で、
それを意識して自由に生きることができるようになるまでに、
恩寵が私たちに与えてくれるものとは、これなのです。

聖パウロはそのことを、
ローマ人に次のように言っています。

「神の愛は、私たちに与えられた。
 そして、私たちの中に生きておられる聖霊によって、
 私たちのココロに(私たちの存在の奥深く活力に)注がれたからである」(ローマ5,5)

永遠に渡る御父と御子の間にある賜物が、
全て、恩寵によって、私たちに分かたれるのです。



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ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵~至聖なる三位が私たちのうちにお宿りになること~


恩寵は、
神ご自身でない全てのものと同様に、
神の3つのペルソナの共同の作です。

しかし、そのことは、3つのペルソナが、
そのペルソナ的な関係のままに、3つとも私たちの中に生き、
その固有の生命の中に、私たちを引き入れて、
恩寵が私たちを3つのペルソナの各々と個人的関係におくことには、差し支えないのです。

超自然の養子関係は、恩寵によって、
神なる御子が、その本性において備えておられる親子関係を、
私たちにもお分けになり、
私たちを本当に御子の中におらせ、御子にあやからせて、
御子と共に、御父から生まれた子とするに至るのです。

すなわち、御父は、必然的に神なる御子を生み、
そして任意に、私たちをお生みになるのです。

御父は、
永遠の御子が生まれた永遠の愛、永遠の親子関係を、
任意に、私たちのところにまで広げてくださるのです。

私たちに関して御父に寄せられたキリストの御言葉は、
すでに引用したとおりです。

「あなたが私を愛してくださるように、
 あなたは彼らをも愛しておいでになります。
 あなたが私を愛してくださったその愛が、彼らにもありますように。
 そしてまた、私が彼らのうちにいるように」(ヨハネ17,23-26)

「私は、あなたがお与えくださった栄光を、彼らに与えました。
 私たちが1つであるように、彼らも1つであるように」(ヨハネ17,22)

聖パウロは、エフェゾ人に書き送っています。
「私たちは、イエズス・キリストによって、
 また彼のうちに、養子とされるように予定されています」(1,5)

聖トマス・アクイナス司祭教会博士は言っています。
「養子関係は、
 実際に、永遠の親子関係にあずかることに他なりません」

このように私たちは、
御父なる神と、御子なる神の、
永遠の接吻と賜物である聖霊において、
愛されるのです。



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2258
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵~至聖なる三位が私たちのうちにお宿りになること~


神の啓示によれば、
神の内面的生命とは、
3つのペルソナ、すなわち、父による子の出生、
父と子による聖霊の賜物です。

もし恩寵が、
私たちに神の生命そのものを与えるものとすれば、
それは、父と子と聖霊とを、
私たちの中に生きさせ、宿らせることになり、
私たちを3つのペルソナの神殿となすことになります。

実に恩寵は私たちを、
認識と愛によって、神の3つのペルソナとの個人的関係におき、
生きた人々との間におけるのと同様に、
3つのペルソナと一致させ、
親交を結ばせるものであり、
また、認識と愛の対象として、
私たちの中に所有された父と子と聖霊によって、
私たちは喜びを与えられるのです。

「私を愛する人は、
 また私の父もその人を愛される。
 そして私たちはその人のところに行って、
 そこに住むであろう」(ヨハネ14,23)

このように私たちは、
3つのペルソナの生命の中に導かれ、
神の内面的生命に引き入れられ、
キリストが私たちのために、次のように求めるほど、
神の生命は真に私たちの生命となるのです。

「父よ、あなたが私の中におられ、
 私があなたのなかにあるように、
 みなが1つになりますように」(ヨハネ17,21)

だから神は、私たちのなかに、私たちは神のなかにあって、
私たちはお互いに、父が子の中に、子が父のなかにおいでになるように、
私たちに分かたれた聖なる3つのペルソナの一致そのものによって、
1つになるのです。

父を源とする神の生命を、
残らずいただいて生きる、この神の家族は、
全被造物の目的です。



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2255
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵からくる神の認識と愛


今私たちは、
恩寵によって神化された人間の生命がどんなものであるかを知りました。

それは、神を知り、神を愛して、
神と共に生きる神殿の中のように、彼自身の中に生きる内面的生命です。

またひいては、知り、愛する対象として、
絶対無限の、そして完全な喜びである神を、
あらゆる親交によって摑んだ神を、
自分自身の中に所有する内面的生命です。

私たちが創造されたのは、
認識と愛の、この内面的生命のためであり、
神を知り、神を愛して、神と交わす、この内的親交のためです。

「何のために私たちはつくられたのですか?」

この問いに対して、
多くの現代人は答えます。
「この世界に働きかけて、地上を変革するためです」

しかしカトリック要理は、答えます。
「神を知り、そして愛するためです」

あぁ、なんということでしょう!
おろかな人々の精神は、
外面的なことや活動のこと、地上的な楽しみのことで、頭がいっぱいになっています。

しかし、彼らがつくられた目的の真実の生命は、彼らの中にあり、
彼らは自分の中に、認識し愛すべき神を、知り、愛することによって、
彼らの内面で、共に生きようとなさる神をもっているのに、それを無視するとは!

十字架の聖ヨハネは叫んでいます。
「このような栄光のために造られ、
 また予定によってそれを楽しむはずの霊魂たちよ、
 あなたたちは何を考えているのか?」

私たちの内面にある恩寵の栄光は、
すなわち、残らず与えられた神ご自身の栄光は、
どうして私たちの注意と願いを、残らず引きつけてしまわないのでしょう?

イスラエルの地上的復興、
すなわち、この世の外面的働きに一生懸命だった使徒たちに、
イエズスはお答えになりました。

「神の国は、
 実に、あなたたちの中にあるのだ」(ルカ17,21)

ユダヤ人のように、イエルザレムで礼拝すべきか、
それともサマリア人のように、ガリジム山で礼拝すべきか、
このように尋ねるサマリア人に、イエズスはお答えになりました。

「これから人々は、霊と真実の礼拝者となるであろう」
すなわち、生きた神殿となった彼らの霊の内面における礼拝者となるであろう、と。

死は、私たちを、
この世のあらゆる善から引き離すでしょう。

そして、時の終末は、
地上の変革のために、この世で外面的に行なわれた働きによって築かれたものを、
一切廃止するでしょう。

しかしながら、
神の認識と愛による、私たちの内面的生命は、
永遠に続くでしょう。

それこそが、
私たちの霊魂の不死の生命をなすものです。

恩寵にだけ依存して、
大罪により自分自身で故意に滅ぼす以外には、絶対に滅びることのない、
神を知り、神を愛するという親交による内面的生命は、
この世のいかなる力をもってしても、
決して到達することのできないものです。

人々は、
私たちを捕らえ、
拷問し、殺すことはできるでしょう。

しかし人々は、
神を知り、愛して、私たちの中に所有されている完全な喜びと、限りない栄光を、
奪い去ることはできないのです。

人々は、私たちを牢獄におしこめて、
あらゆる人間存在、特に司祭や秘蹟から隔てることはできましょう。

それでも私たちは、
決して孤独にはならないのです。

私たちは決して独りぽっちではありません。

なぜなら私たちは常に、
私たちと共に、また私たちの中に、
認識と愛の対象としていき、かつお宿りになられる、
神の3つのペルソナをもっているからです。

そして私たちは、
3つのペルソナを知り、愛して、
その一致と親交に生きるためにのみ、実在しているのです。



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2252
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵からくる神の認識と愛


前述のとおり、
認識と愛とは、
対象を認識し、愛して、
認識され愛された対象を、自分のなかに所有し、認識し、愛する主体のなかに、
その対象が存在することです。

だから恩寵は、
私たちの本性に備わっていないもの、人間的本性がもつことのできないものを、
私たちに、実際に与えるものです。

つまり、
認識と愛の対象として、
私たちのなかに存在する神を、
私たちが神について持つ認識の中に、私たちを神にひきつける愛の中に、
あらわれてくる神を、私たちに持たせるのです。

アンティオキアの聖イグナツィウス司教の言葉によれば、
このようにして私たちは「神の運び手」「テオフォロイ」となるのです。

聖パウロは絶えず繰り返します。

私たちが、神の生きた神殿であり、
この神殿の中に、神が知られ、愛されて、
その中に、神が生き、宿られるのです。

このように認識する、ということは、
人が認識することによって所有し、
知っている全ての存在で、
自分自身の存在を富ますことであり、
また、認識によって、
自分の中に所有し知っていることの大きさまで、
自分自身を拡大させることです。

恩寵は、
全く、私たちが知り、自分の中に所有する神的存在の無限の大きさまで、
私たちの人間的存在を拡大させるものです。

すなわち、神について私たちがもつ認識によって、
神ご自身がみずからを残らず私たちにお与えになるのです。

もし愛が、
愛される対象への「賜物」の動きによって、
愛する存在を、彼自身と彼の限界から引き出し、
愛される存在の中に引き入れ、
その大きさにまでふくらませるものとするならば、
恩寵は実際に、
愛によって私たちを自分自身とその限界から脱け出させ、
「賜物」の動きの中に引き入れて、
神的存在の無限の大きさにまで、
私たちの人間的存在を拡大させるのです。

神はみずから、
この愛の動きにおける自分自身との完全な通じ合いの中で、
私たちを残らず自分の中に取り入れてくださるのです。

こうして、恩寵による人間存在の神化の説明ができたわけです。

人間が、本体的に神になることはできません。

したがって神の本性が、私たちに分かたれるのは、
私たちの本体によるものではなく、
認識と愛によるものなのです。

恩寵によって、私たちが神と一致するのは、
本体的な一致ではなく、
認識と愛の世界における一致なのです。

神学用語で言えば、
恩寵によって人間は「実体的に(entitotive)」神になるのではなく、
「意向的に(intentionaliter)」神になるのです。

そういうわけで、超自然的生命は、
知恵と意志を備える存在にだけ可能なのです。

私たち人間の知恵と意志とは、
神そのものを認識し愛する、自然的能力ではありません。

しかしそれは、認識し愛する能力ですから、
恩寵によって、神そのものを認識し愛する能力を、
超自然的に受けることができるのです。

恩寵は、
認識し、愛する能力に根をおろすのでなければ、
人間存在に接ぎ木されることができません。

だからそれは、
人間本性に反するものではなく、
また、それを滅ぼすものでもありません。

それどころか、
私たちの本性を神化するために、
認識し、愛する、その本質的能力の中に、
私たちの本性を取り入れ、受け入れます。

ゆえにそれは、
認識と愛の全く神的な働きの中に、
私たちを実り多いものとするのです。

ペギー(Peguy)は、
詩的直観によってそれを摑み、
「自然性の木と、恩寵の木は、1本となり、
 自然性に接ぎ木された恩寵が、その木に、神の果実を実らせる」
と表現しています。



記事の「テオフォロイ」(神の運び手)は
聖書に出てくる「テオフィロ」(神の愛されしもの)とは異なります。

成聖の恩寵を有する信徒は
神の内在する神殿として、彼に接する人々に、
神を感じさせる、神をもたらす、神を知らせる、という主旨で
「神の運び手」と表現されています。

このような意味で
現代の一般的な「テオフォロイ」は、マザーテレサが有名でしょう。

聖女は、見捨てられた人々、失望しかけた人々のもとを訪れて
人々に「神の愛」を触れさせ、もたらしました。

神の愛の宣教者会を創立した聖女は、神の愛を人々に運び、知らせ、
人々のココロに神の愛をもたらした、まさに「神の運び手(テオフォロイ)」と言えます。

聖女のうちに、キリストが生きておられ、
人々は、その神の愛の働きに触れたのです。

第2ヴァティカン公会議文書の表現によれば
成聖の恩寵を有する教会は、世界に対する「救いの普遍的秘蹟」であり、
成聖の恩寵を有する信徒は、恩寵によって、霊魂の救いをもたらす、神の働きの道具因となります。



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2249
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵からくる神の認識と愛


前述のとおり、恩寵は、
神の認識の固有の対象とされているものを、
私たちの人間的認識の対象として与えます。

それは、
神の全実体と神的完全の全てとしての、神ご自身です。

そして恩寵は、
私たちの人間的意志に、
愛の対象として、
神の意志に固有の対象とされているものを与えます。

それは、無限の神的善として、
神ご自身のために愛される神ご自身なのです。

このようにして恩寵は、私たちを神化し、
神の本性そのものを成しているものに、私たちをあずからせ、
子供たちが父親と分け与えあうように、
認識と愛のあますところない深交により、
私たちが神ご自身を、神ご自身のために認識できるようにして、
そして愛する神との完全な生命の共有の中に、
私たちをおくのです。



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2246
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
恩寵からくる神の認識と愛


前述のとおり、
恩寵は、私たちに神の生命そのものを生きさせます。

神の生命。。
それは、神ご自身の完全な知識と、
神ご自身の完全な愛です。

完全な存在は、
天使的被造物または人間的被造物の限られた知恵にとっては、
おしはかることのできない未知の暗闇であるとしても、
その完全な存在自身は、
全く明らかで、透明で、輝きわたるものであり、
神は認識と光によって、みずからを把握し、洞察し、理解し、所有します。

すなわち神は、
自分自身の完全な認識の上に立っておられます。

このことは、いかなる被造物にも不可能なことであって、
全く神に固有のものとされるのであり、
このように、完全に、みずからの全実体とみずからの完全性の全てを、
神みずから知る、ということは、
全く、神としての本性と生命を成しているものです。

すなわち、神的存在それ自身が、神的認識の対象であり、
被造物のどんな認識の対象でもなく、
このように、自分自身を完全な認識の対象とすることは、
神の本性に固有とされるものです。

同じく、無限の存在は、
天使的、人間的な全ての被造物にとって、近づきがたいものであって、
神を源とする賜物によってのみ、神を愛することができ、
直接神ご自身を愛することはできないのです。

完全に自分自身を所有する神は、
自分自身のための完全な愛なのです。

このことは、限りのあるいかなる被造物にも不可能なことであって、
神に固有のものであり、
みずからの全実体と、その神的完全の全て、その無限の愛の全てを、
このように自分自身のためにみずから愛する、ということは、
神としての本性と生命を成しているものなのです。

すなわち神的存在は、
それ自身で、神的意志の固有な対象であり、
創造されたいかなる意志の対象でもなく、
このように、自分自身を完全な愛の対象とすることは、
神的本性に固有のものなのです。

ここに神の本性と生命に固有とされるものがあります。
恩寵が、私たちに分かち与えるものとは、このことです。

恩寵は、
神がみずからを知り、愛される、そのままの、その神的実体としての神ご自身を、
私たちが知り、愛しうるものとして、
神の生命そのものを、私たちに与えるのです。

すなわち恩寵は、
もはや被造物を介しての人間的方法によらず、
その賜物のためでもなく、
私たちがただちに、神ご自身に達して、神を知り、神を愛することにより、
認識と愛によって、
神の絶対無限の完全な喜びを所有できるような神的方法によって、
私たちをして、神を知り、愛することができるものとするのです。

なぜならこの喜びは、
認識と愛において、
神の無限な完全を、あますところなく所有することにあるからです。



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2241
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
神は愛してくださる~恩寵の起源~


神のご意図は、
次のように示され、これにより私たちは、
自分が何のために創られたかを知ります。

すなわち、神は、
ご自身がそれである絶対の、無限の、そして完全な喜びを、
私たちにも、持たせるために創り、
また神は、みずからを私たちに与えることだけを望んでおられます。

このようにして、今や、
私たちの生命の意味と目的とが明らかとなりました。

それは、私たち人間の背丈に限られた、人間的幸福ではないのです。

それは、完全にわがものとなった神、
すなわち、絶対の、無限の、そして完全な喜びなのです。

それは、人間の自然的完全でもなく、
また人間本性の完全な発展でもなく、
現代人が言うような人格の開花でもなく、
神の子の完全、私たちの中にある神の生命の豊かさ、
神ご自身の完全な所有なのです。

キリストが参上の説教の中で、
キリスト教生活の憲章を、私たちにお与えになられた時、
私たちがいかにあるべきか、
何のために造られたかということを、
この憲章の中心と根底に置かれました。

彼が私たちに命じられたのは、
人間的完全ではありません。

「あなたたちの天の父が完全であられるように、
 あなたたちも完全でありなさい」

だから、
それは、少しも人間的完全ではなく、
神的な完全であり、
私たちの中に、神の生命そのものを所有するという完全です。

私たちの超自然的運命の奥義は、
このように解き明かされているのです。

しかし、神の生命の所有については、
なお大きな難解が残されています。

また、恩寵によって設けられた、
私たちの中の根源的な、そして本質的な聖性は、
どのようにして神の生命へ、
またそれから生じる神の働きへと開花し、実るか、
という研究が残っています。

前述のとおり、
恩寵とは、
神を知り、愛する力、
私たちの中に宿る至聖三位である、ということを知る必要があります。



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2235
ジャン・ドージャ司祭
神の賜物である成聖の恩寵~超自然的生命~について 
神は愛してくださる~恩寵の起源~


恩寵とは何かということを知った今、
なぜ神は、こうした賜物を私たちにお与えになるのか、
なぜ神はそれを分かって、私たちを神的本性にかなうものとなさったのか、
このような疑問がのこっています。

しかし、私たちの出発点となってきたヨハネの章句は、
すでにその答えをよせています。

「私たちが神の子と称されるほど、
 御父が、どれほどの愛を私たちにお与えになったかを見なさい。
 私たちは神の子です」

超自然的生命の啓示は、
同時に、神が私たちを愛しておられる、という啓示でもあります。

また、キリスト教の本質的メッセージは、
神が人々を愛しておられる、
ということを人々に告げることです。

ご降誕の夜、天使たちは、
「ご好意の人々に平安」すなわち、神から愛される人々に平安、
と宣言し、それを告げました。

旧約聖書ではすでに、預言者イエレミアの口を通して、
神が霊魂に向かって次のように宣言された時、
このことを告げています。

「私は、あなたを、永遠の愛をもって愛する。
 だから私は、あなたを私の憐れみに引き寄せる」(31.3)

聖福音の中で、
御子なる神が、私たちについて、御父なる神に向かって言われるのを聞きます。

「あなたが私を愛してくださるように、
 彼らをも愛しておいでになります」(ヨハネ17.23)

私たちに対しては、直接次のように言われました。

「あなたたちが私を選んだのではなく、
 私が(私の愛の中に)あなたたちを選んだ」(ヨハネ15.16)

そのことを聖パウロは説明して、次のように言っています。

「憐れみに富む神は、
 私たちを愛されたその大いなる愛によって、
 罪のために「死んでいたわれわれを、キリストと共に生かされた。
 あなたたちが救われたのは、恩寵によるのである。
 キリストと共によみがえらせ、
 共に、天にすわらせてくださった。
 それは、キリスト・イエズスによってであり、
 未来の世々に、キリスト・イエズスにおいて、
 われわれに与えられる憐れみにより、
 その恩寵の絶大な富をあらわすためであった」(エフェゾ2,4-7)

恩寵は、
神の自由な先導であり、
ここから、全ての超自然界は生じます。

なぜなら、それは、
愛の先導だからです。

神秘の第1源泉は、ここにあるのです。

神は、私たちをつくり、
人間本性および、それに伴なう知恵と自由という、あらゆる完全性をもって、
私たちに実在をお与えになりました。

そればかりでなく、
ご自身の神的本性、神的生命を分かち与え、
神にある全てのものを、私たちに所有させ、
神が絶対的で無限な、また完全な喜びであられるように、
私たちにも、その喜びを所有させるため、
神の存在の全てをお与えくださるほどに、
私たちを愛しておられるのです。

神は、私たちが御父について全てを知り、
御父をわがものとし、
御父にある全てを分け前として受け、
御父との完全な親交と親密の中に、子としてたてられ、
私たちを、生命と愛を、神と完全に共有して生きさせるほど、
それほどに私たちを愛しておられるのです。

恩寵は、
神と人間との生命の共有です。

神の生命そのものが、
私たちに分かたれるからです。

恩寵は、
人間と神との間の、
愛のやりとりです。

恩寵を受けた霊魂は、
愛によって自分を妻と選んだ夫として、神を語り、
「私は私の愛する御方のものであり、
 私の愛する御方は、私のものである」(雅歌6.2)と歌うことができます。

また聖書に従い、典礼や神秘家たちは、
人間と神のあいだの婚礼というこの典型を、たえず繰り返します。

神は、私たちの存在の全てを与えるばかりでなく、
ご自分をも私たちにお与えになります。

すなわち、創造主は、
ただ与える愛だけでなく、
みずからを与える愛なのです。



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