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ベトレヘムの星が

バフォメット化してるプレゼピオが増えているかも

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今回の2020年版ローマの聖ペトロ広場のプレゼピオは

世界中の多くの信者さんたちから

かなり酷評されてましたね

 

今回のこけし風プレゼピオはさておき

昨年2019年版ローマの聖ペトロ広場のプレゼピオは

星がバフォメット風になっていたことは

facebookでも以前取り上げていました



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最近は

わかってか、わからないでか、は不明ですが

プレゼピオにかかげる星が

ベトレヘムの星というより

バフォメットの星(☆の逆さ状態)

といった感じの教会が

なんだか増えつつあります

 

今年のうちの所属教会のプレゼピオも

バフォメットの星状態でピカピカしてました


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サタニストは

それが意味することを知っているので

キリストへの愚弄と嘲笑のうちに

それを見てほくそえんでいるでしょうが

 

キリスト者たちは

司教も司祭も修道者も信徒も含め

およそほとんど気づいていないようです

 

無意識のうちに

悪霊の影響を受けて

サタニストが崇める

バフォメットの形で(☆の逆さ状態)

星をそのような風にしているのか

 

意味をよく把握している人物が、準備に関わって

それとなくそのようになるよう形を整えているのか

 

どちらなのかは定かではありませんが

お世辞にも良い兆候とは言えないです



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この投稿に気づいた人は

自分の所属の教会のプレゼピオの

ベトレヘムの星が

バフォメットの星になってないか

チェックしてみてください

 

星がバフォメット状態であれば

あえてサタニストたちを喜ばせたままにせず

バフォメット状態から通常の☆状態に変えるか

今後は星の形状そのものを変えるか

どちらかにするようにしてもらいたいです

 

というのも

彼らにとっては

星がバフォメットの状態は

十字架を逆さまにした状態と

同じ意味合いをもつからです

(主キリストに対する愚弄と嘲笑の意味)

 

そんな些細なこと

どうでもよかやんか、と思われるかもですが

 

たとえてみると

わからないからといって

キリスト者が、666のマークを身につけたり

プレゼピオの最上部に666をかかげたりしないですよね?

まして、右手や額に

獣の数字666を刻印しようとは思わないですよね?

 

見た目は些細なものですが

それが意味することは、とても看過できない部類です

 

それは、サタンのマーキングであり

「これは我々のもの、これは我々暗闇の所有物である」

という意味以外の何ものでもありません

 

ですので

内容はほぼ同義なので

バフォメットのピカピカのライト照明はやめましょう

 


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救い主の復活の神秘に参与する人は幸い
 
主の受難にあずからない人は
主の復活にあずかることはできない
 
Surrexit Dominus vere, alleluia.
主は、まことに復活された アッレルーヤ
 
たちの救い主イエズス・キリストは
私たちを愛し、私たちのためにご自分を死に渡し
その最も尊い御血によって、私たちを洗い清め
私たちをご自分の復活にあずかれるものとしてくださいました
 
実際に、その復活に私たちが参与するためにこそ
主は、私たち罪人に呼びかけられました
 
「悔い改めて、福音を信じなさい」
 
私たちはみな罪人です
悔い改めが必要ないほど
聖なるものとなっている人はどこにもいません
私たちは、神の御前において、みな罪人です
 
たしかに外面的には
表立った犯罪をおかす人は少ないかもしれません
 
しかし、日々の生活の中で
ある人は、思いの中で
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉を考え、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
また、ある人は、言葉によって
人の心や名誉を傷つけ、場合によっては人を自死に至らしめ
人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い言葉をまき散らして、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
また、ある人は、行ないによって
人を傷つけ、人を殺し、人を犯し、人を侮辱し、人を嘲笑し
悪い行ないを示して、その思い上がりと貪欲を増幅させ
自らを霊的な死の状態にとどまらせて
この世の悪の実現に協力し続けています
 
そのような振る舞いを続ける人は
たとえキリストの名を冠する『キリスト者』であったとしても
その実、悪魔の協力者であって
主イエズスの復活の参与者となることはできません

 
自由意志による選択

復活への歩み もしくは 腐敗への歩み
 

リストの復活にあずかりたいと望む人は多いですが
その受難にあずかりたいと望む人は少ないのが現状です
 
人はみな、この人生の中で
思い、言葉、行ない、作為、不作為によって
自ら蒔いたものを、自らが刈り取ります

ある人は、復活への歩みを進めてゆき
また、ある人は、腐敗への歩みを進めてゆきます
 
人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けに協力しながら、自身のうちに神の国を形造り
永遠の天国に入ってゆきます
 
そして、その生命の国は終わることなく
神の寵愛と祝福に包まれて、永遠の至福に参与するものとなります
 
また、人は、自らの人生の歩みのうちに
神の恩寵の助けを拒絶しながら、自身のうちに悪魔の国を形造り
永遠の地獄に入ってゆきます
 
そして、その死の国は終わることなく
悪魔の憎悪と呪いに縛られて、永遠の腐敗に参与するものとなります
 
人は必ず死を迎え
神の裁きの座の御前に
自らのありさま、自身の歴史的歩みの全てを、さらすことになります

また、最後の審判において
人は、各々のありさまで、自らをおおやけにさらすことになります

ある人は、祝福されたものとして、その栄光体の輝きと芳香のうちに
また、ある人は、呪われたものとして、その腐敗体の醜悪さと悪臭のうちに

 

悔い改めの業は 復活への小道

悪魔を喜ばせるものではなく
神を喜ばせるものとなりなさい
 

たちは、悔い改めの業をとおして
神に立ち帰り、その復活に参与する機会が与えられています

しかしながら、悪魔を喜ばせる人は多く
神を喜ばせる人は少ない、というのが現状です

あなたは、傲慢、横柄、不敬、諸悪徳によって悪魔を喜ばせるものではなく
むしろ、謙遜、痛悔、敬虔、諸善徳によって神を喜ばせるものとなりなさい
 
悔い改める罪人
神の赦しに自らをさしだす人は
主キリストの過越の神秘によって
その復活の栄光にあずかることができます
 
悔い改めを先延ばしにする永遠のリスクを考慮するならば
人は、この世にあるうちに、神に立ち帰り
自らを悔い改めのうちに浸し
神の憐れみに自らを差し出し
あらゆる罪に死んで
自らのうちにある悪への傾きを矯正し
実質的な賠償を含む全ての償いを果たしてゆくほうが
永遠の死への歩みにとどまり
安逸の幻想のうちに、霊的無為のうちに過ごすよりも得策です
 
そして、思い、言葉、行ないを
神のお望みにそくしたものとしていくために
謙遜な祈りを捧げ
日々の犠牲を甘受し
誠実な償いを果たし
心からの愛徳や想いやりを実践し
この世に善を広げるものとなり
敬虔に秘蹟にあずかり、典礼を忠実に挙行し
神から与えられた、この人生の時間の中で
主キリストがもたらしてくださった成聖の恩寵を
より豊かなものとしてゆくことが必要不可欠です
 
そのようにすることにより
神の恩寵の助けによって、私たちのうちで
私たち自身の『古い人』から抜け出す Exodus が実現し
この世においては、霊的に、主の変容 Transfiguratio にあずかり
キリストの神秘体の生きる肢体
生きるエウカリスツィア Eucharistia となり
 
のちの世においては、栄光の肉体をおびて
主の復活 Resurrectio にあずかり
神秘体の御母、教会の御母である幸いなおとめマリアと共に
全ての天使、聖人、聖女と共に
終わりない至福のうちに、神の寵愛と祝福に包まれて
永遠に生き続けることができるでしょう
 
なぜなら、いつくしみ深い主の赦しの御腕は
罪人である私たち1人ひとりに向けて
常に、飽くことなく、惜しみなく、開かれているからであり
悔い改める私たちへの主の憐れみの全能は、永遠に及ぶからです
 
実際、主の復活の神秘は
私たちにもたらされた、神の憐れみと赦しの具現化そのものです

全能の主は
惨めなものを憐れまないことがおできになれません
 
その神化された人間性において
私たちの人間性を、死と罪の腐敗から引き出してくださった
主イエズス・キリストの言い尽くしがたい復活の神秘はたたえられますように
今も、いつも、世々に至るまで。アーメン
 

Confitemini Domino, quoniam bonus,
quoniam in saeculum misericordia eius.
 

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Oratiovero quae solis labiis sit,
祈りが、単に口先だけのものであれば、
nonest ante Deum acceptabilis.
神の御前に受け入れられるものにはなりません。



Oratio diabolum fugat,iram Dei placat,
nostram viam dirigit,et ad regnum Dei perducit.
Radulfus Ardens
 
祈りは、悪魔を敗走させ、神の怒りを和らげ、
私たちの歩みを正し、神の国に導き入れる。



ラドゥルフォ・アルデンスは
フランス、ポワトゥーのボーリューの貴族の家庭に生まれ
哲学、神学を学び、30歳前に神学博士となり、学校で教鞭をとり
著名な優れた説教者となり、神学や倫理を体系的に解説し
Summa de vitiis et virtutibus』や『Speculum universale』を著し
1190年からイギリスのリカルド1世の宮廷司祭としての職務を果たし
1200年帰天した。




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Jean Daujat

愛のまなざしである祈り
 
もし私たちが、神に向かう愛のまなざしのうちにとどまらないならば、私たちの思い、言葉、行ないも、神への愛であることが不可能です。
 
この神に向かう愛のまなざしだけが、私たちが思い、話し、行なう全てのものの動機として、神への愛を与えることができるのです。
 
この神に向かう愛のまなざしは、祈りの基本と本質となるもので、私たちを神の愛の要求に注意深くさせ、警戒を行なわせます。
 
したがって祈りは、キリスト教的生活に主要な、根本的手段なのです。私たちがキリスト信者として生きるのは、祈りによって、ただ祈りによってのみです。
 
祈りは、神に向けられた認識と愛のまなざし以外の何ものでもありません。
それゆえキリスト教的生活においては、注意を最大限に要求する仕事をしている時でさえ、愛のまなざしを決して背けることのない最愛の人と共に生きるように、神と共に生きることです。
 
最愛のものと共に生き、そのもののために何かをしている時、それをよく行なうために、全ての心遣いを、その仕事に向ければ、その時、心の内的まなざしは、最愛のものから遠ざかるでしょうか?
 
決してそんなことはありません。なぜなら、最愛のもののためにしている仕事に、注意の全てを向けているのは、確かに、その人に対する愛によってだからです。したがって、その時、仕事にそれほど専念するのは、最愛のもののためであって、最愛のものに向かう愛の内的まなざしのうちにとどまりつつ、仕事に集中するのです。
 
ですから、キリスト教的生活は、私たちが何を行なうにしても、よく行なうように専念し、注意深いことを要求します。
 
もし、それを悪く、あるいは不注意のうちに行なうのであれば、それを行なう動機としての神への愛が、私たちに甚だ不足していることになるでしょう。
 
  祈りの偉大な師である人々、聖ベネディクト、聖女ジェルトゥルーディス、聖ベルナルドは、祈りは全て教会の行為である、と教えています。
 
祈りは、この世では、信仰と希望のうちにあり、永遠の生命では、神の直観と所有のうちにあります。
 
したがって祈りは、神への認識と愛の内的生命であって、永遠の生命が、充分に開花させるであろうものの見習い、下ごしらえ、始まりとして考えられます。
 
私たちは祈りによって、信仰と希望の中で、すでに、永遠の生命となるであろうものを生きるのです。
 
祈りは、この世における私たちの生活の基礎であり、本質であり、また他の一切のものがそこからあふれ出る源ですから、この世にある他の何ものよりも、祈りを尊重し、愛さなければなりません。
 
私たちから、この世の一切のものが奪い去られても、何ものも私たちから引き離すことのできない祈りが残り、この祈りによって、私たちのうちに生きておられる神との愛の内的親密さのうちに、すでにこの世から生きるからです。
 
 

 
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Ascendit fumus incensorum de orationibus sanctorum
de manu angeli coram Deo.
(Ap 8,4)
 
聖ベルナルドは、ある朝、香炉を手にした天使たちが、修道者たちの聖歌隊に赴くのを見ました。その天使たちは、修道者たちの祈りを、主に捧げる香として香炉の中に各々入れていました。そして、天使たちが香炉をくゆらせると、熱心な人々の心からは、とても甘美な芳香がただよっていました。しかし、怠惰で眠そうにしていた人々の心からは、不快で吐き気をもよおす悪臭がただよっていました。
 


 
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Eucharistic Devotion, the Fountain of the Catholic Faith
カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心
 
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母の日ということで
聖母に感謝
いつもありがとうございます✿
 
あと、本日は世界召命祈願日です
 
 
5月ならファティマの聖母像じゃないか?と思われるでしょうけど
たまたま僕のところに、巡回の聖母像という形で訪れてくださったので
今回はRosa Mysticaの聖母の画像です。
 
僕に回してくださったショコラさん、ありがとうございます✿
 
Rosa Mystica としての聖母は、
福者となる予定の教皇パウロ6世聖下の出身地
ブレシア教区モンティキアリでご出現になり、
司祭や修道者の刷新を望まれ、祈りと犠牲と償いを呼びかけられました。
 
 
 
 
 
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聖人たちは、イエズスによって聖化された、謙遜な罪人たちのことです。
 
教皇フランシスコ聖下のお話の抜粋
 
 
聖人たちとは、英雄たちではなく、
イエズスに従って、謙遜と十字架の道を通って、
イエズスによって聖化された罪人たちのことです。
 
なぜなら、誰であれ、
自分自身で聖化することができないからです。
 
聖性はイエズスの賜物です。
 
福音書には多くの聖人たちの模範が記載されています。
7位の悪魔を祓われたマリア・マグダレナが、
ローマへの徴税で人々から金銭をごまかしたマテオが、
またザケオや多くの罪人と称された人々が、
そして教会の迫害者であったサウロが、キリストに選ばれたことが、
そこに記載されています。
 
このように聖性の最初のルールが、全ての人に示されました。
聖性のルールとは、
私たち自身(我)をなくせばなくすほど、
キリストが力を発揮するようになる、ということです。
 
子供のようになって、イエズスに従うことです。
 
英雄たちと聖人たちとは異なります。
多くの聖人たちの生涯の終わりは、
偉大な聖人ほど、とても謙遜なものでした。
 
神の戦士たちの生涯の終わりは、
病に倒れたり、イエズスのようにへりくだることです。
これこそ偉大な聖性の道です。
 
日ごとの十字架を担うこと、
日常的な十字架、シンプルな十字架を担うことです。
 
私たちがこのような道を通らないならば、
私たちが聖人となることはできないのです。
 
 
 
 
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なお、2014年10月19日に、教皇パウロ6世聖下が列福されるとのことです✿
 
 
第2ヴァティカン公会議を継続し、各憲章を公布して、現代教会の刷新を促し、
『神の民のクレド』を表明して、信仰の諸神秘を細部にわたり総括し、
典礼書のMISSALE ROMANUMやLITURGIA HORARUMを公布して、
教会の典礼の宝庫を、より多くの人々に開示する機会を増やし、
それまでの部分免償の年数上限を撤廃し、
部分免償の賦与をより一層豊かなものにし、
幸いなおとめマリアを『教会の御母』『福音宣教の星』と呼称し、
聖母信心、特に、家庭でのロザリオを推奨し、
世界召命祈願日を制定し、国際的規模での一致した召命の祈りを促進し、
「神の神殿にまでサタンの煙が入り込んできている」と公に述べて、
悪魔の働きかけが、教会内部にしのび込んできていることに注意喚起し、
多くの反発を受けながらも、
回勅『Humanae Vitae』をもって生命の尊厳の再考を促し、
無許可でジワジワ広まりつつあった手による拝領に対して、
教令『Memoriale Domini』をもって、
舌による伝統的方法が維持されなければならないと結論づけ、
いろいろな意味で、教会内外から『反対を受けるしるし』となられた教皇様です。
 
 
 
 
 
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子よ、あなたの苦しみを、私に委ねなさい
 
 
 
もしあなたが苦しむのなら、
あなたと共に苦しむために、私が、そこにいることを知りなさい。
 
それは、あなたの苦しみにおける、私の十字架の再現となる。
 
あなたの苦しみを、私にゆだねなさい。
全てにおいて、私によりかかりなさい。
 
その時あなたは、私の受難の愛に結ばれるだろう。
 
もし私の抱くあなたへの愛を信じるなら、
いかなる苦しみでさえ、あなたにとって甘美なものとなるだろう。
 
 
(フランスの神秘家ガブリエル・ボシスへの主の語らい)
 
 
 
 
 

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愛のはかり
 
愛は、兄弟姉妹の貧しさに対して、どのように接しているかによってはかられる
 
 
 
人は、目に見えるところで判断しがちですが
神は、目に見えない内面をごらんになられます。
 
物的に貧しい人に想いやりを示す人は多いですが
霊的に貧しい人に想いやりを示す人は少ないです。
 
貧しさには、
物質的な貧しさだけでなく、
精神的な貧しさもあれば、
霊的な貧しさもあります。
 
想いやり、優しさ、いつくしみの愛徳は、
外面的に貧しい人、内面的に貧しい人、霊的に貧しい人に向けて、
想い(祈り)、言葉(優しい声かけ)、
行ない(物的慈善、霊的慈善)によってあらわせます。
 
主キリストは、
あたかも聖体のパンの外観のもとに、ご自身を隠しておられるかのように、
弱く貧しい人のうちに隠れておられ、
それらの最も小さな兄弟姉妹のうちに、
私たちがどのように彼らに向き合っているかをごらんになられます。
 
彼らに対してなされたことを、
主は、あたかもご自分に対してなされたものとしてお受け取りになられます。
 
私たちに求められるのは、
彼らへの無関心な態度、さげすみ、噂話のネタにすることではなく、
物的・霊的な施し、想いやり、微笑みにおける抱擁です。
 
 
 
Verbum Domini
 
 
善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、
悪い人は、悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す。
 
人は、裁きの日に、
自分が語った全ての無益な言葉について、
弁明しなければならない。
 
あなたは、自分の言葉によって義とされ、
また、自分の言葉によって断罪される。
 
 
その時、王は、自分の右側の者に言う。
 
『祝福された者たちよ、私のもとに来て、私の国を受け継ぎなさい。
 あなたたちは、私が飢えていた時に、私に食べさせてくれた。
 渇いていた時には、私に飲ませてくれたし、
 旅をしていた時には、私のために宿を貸してくれたし、
 裸同然の時には、私に衣服をまとわせてくれたし、
 病気で倒れた時には、私を看病してくれたし、
 私が獄につながれていた時には、私を慰問してくれた。
 
 あなたたちによく言っておくが、
 これらの私の兄弟姉妹にしてくれたこと、
 しかも、最も小さな者の1人にしてくれたことは、
 つまり、私に、してくれたことなのである』。
 
また、王は、自分の左側の者にも言う。
 
『呪われた者たちよ、私から離れ去り、永遠の火に入れ。
  あなたたちは、私が飢えていた時に、私に食べさせようともしなかった。
 渇いていた時に、私に飲ませてくれず、
 旅をしていた時に、宿を貸してくれず、
 裸同然の時に、私に衣服を与えてくれず、
 病気で倒れた時に、看病もしてくれず、
 私が獄につながれていた時に、訪れてもくれなかった。
 
 あなたたちによく言っておくが、
 これらの最も小さな者の1人にしなかったことは、
 つまり、私に、しなかったことなのである』。
 
 
 

 
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いつもココロに微笑みを♪
 
☆神の人間性であるイエズスの愛が、いつも私たちのうちで燃えますように☆
 
 
ゆるせない人をゆるしなさい。
ゆるせる人の過ちをゆるしたところでなんのすぐれたことがあろうか。
あなたたちは、あなたたちがゆるしたくないと思うような人をゆるしなさい☆
 
 
 

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Never kill your neighbor with words
あなたの隣人を 言葉で殺してはなりません
 
フランシスコ教皇聖下
 
 
神がおられるところに
憎しみはなく、羨望もなく、嫉妬もなく
人を殺すことのできるゴシップもありません
 
 
かつてナザレトの人々は
嫉妬と羨望のゆえにイエズスを殺そうとしました。
 
しかしながら、このようなことは2000年前の出来事であるばかりでなく
私たちの共同体において、私たちの心の中において
毎日、引き起こされています。
 
たとえば誰か新しい人が共同体に加わると
人々はその初日に、彼のことを良く言います。
その次には、彼のことを、そんなにも良くは言いません。
その後には、彼について、よくない噂や悪口を言い広め始めて
最後には、彼を引き剥がしてしまうのです。
 
『兄弟を憎む人はみな、人殺しです』
 
私たちはよくない噂を用いることで
私たちの兄弟を、言葉によって殺し
私たちの共同体、私たちの家庭を
幾度も、『地獄』にしてしまっているのです。
 
心に悪が蒔かれ
羨望のために、他の人々について悪く話すことによって
共同体も家庭も、破壊されてしまうことになります。
 
私たちは軍事的武器による犠牲者を見て
しばしば平和について語ります。
 
しかし、私たちは
『悪口、よくない噂』といった日常的武器についてこそ
深く省みなければなりません。
 
全ての共同体は、主と共に生きるもの
天国のようなものにならなくてはならないのです。
 
共同体の中に、家庭の中に、国内でも、世界でも
平和がはぐくまれるように、主と共にあるよう努めなければなりません。
 
主がおられるところ
羨望もなく、犯罪もなく、憎しみもなく、嫉妬もなく
兄弟愛が、そこにあるはずです。
 
あなたの隣人を言葉で殺してはなりません。
 
 
 
上記の教皇聖下の言葉は
現場である教会共同体において
現実に起こっている事実に目を向けて言及しておられます
 
聖ヤコボは言います
 
どんなに小さな火でも
大きな森を燃やすことができます。
 舌は火です。
舌が全身を汚し、人生の車輪を燃やし
 自らも地獄の炎によって燃え立たされてしまっています。
 舌が、疲れを知らない悪のようになってしまっていて
 人に死をもたらす毒で満ちてしまっています。
 舌で、主であり父である御方を誉めたたえていながら
 その舌で、神にかたどられ創造された人々に呪いを浴びせるのです。
 兄弟たちよ、このようなことがあってはならないのです。
 
 
教皇聖下が指摘されたように
人々にとって『天国のようなもの』であるべき教会共同体が
人々にとって『地獄のようなもの』となってしまえば
いったい何の意味があるでしょうか
 
実際、これまで教会共同体において
多くの信者が、よくない噂を広められて、悲しみ、傷つき
そして教会共同体を離れていってしまいました
 
時に言いがかり的なもの、時に全く身に覚えのない作り話
時に事実を誇張されたもの、時にプライバシーを損なう冷やかし
そのような毒をもった言葉によって
居場所をなくしてしまった方々もいるでしょう
 
たしかに本人の至らなさもあるでしょうが
教会共同体は、弱いもの、傷つきやすいものに対して
好奇心や偏見のうちに
『噂話に興じる場』 『他者の傷口に塩をぬりたくる場』 となるべきではなく
いつくしみと包容力のうちに
『想いやりの場』 『癒しをもたらす場』 となるべきでしょう
 
 
私たちは
よくない噂や悪口や無視の毒薬ではなく
祈りと微笑みと包容力の良薬で
主の最も小さな兄弟を大切にするべきだと思います
 
 
人は、もっていないものを与えることができません
 
自分が他者への愛や配慮をもっていないと気づいたなら
それを抱くことができるよう
心の謙遜さと柔和さを、主の聖心に、まず願い求めてください
 
そして、もし、自分の言動で
教会共同体から兄弟姉妹を遠ざけてしまったことがあるのなら
離れてしまった彼らの心の傷の癒しのために
日々の祈りの意向の中に
その償いの意向を加えて
心からの悔い改めのうちにお祈りを捧げるほうが
それを全く度外視して自分の好みの信心にふけるより
あなたにとって遥かに有益であり、有効な償いとなるものです
 
他者への愛徳にもとる行為は
その同じ他者への愛徳によって償われるべきだからです
 
 
 
 
Caritas patiens est, benigna est caritas,
愛徳、それは忍耐である。寛大さ、それが愛徳である。
non æmulatur, non agit superbe, non inflatur,
愛徳は、競おうとせず、横柄な態度をとらず、高ぶらない。
non est ambitiosa, non quaerit, quæ sua sunt,
人に媚を売らず、自分の利得を求めない。
non irritatur, non cogitat malum,
憤ることなく、悪い考えを抱かない。
non gaudet super iniquitatem,
不正を喜ばず、
congaudet autem veritati ;
真実を共に喜ぶ。
omnia suffert, omnia credit,
全てを受け入れ、全てを信じ、
omnia sperat, omnia sustinet.
全てを希望し、全てを耐え忍ぶ。
Caritas numquam excidit.
愛徳は、決して失われることがない。
Sectamini caritatem.
愛徳を追い求めなさい。
Omnia vestra in caritate fiant.
あなたたちに関わる全ての事柄を、愛徳のうちに行いなさい。
 
 
 
 
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シリアと中東と全世界の平和のための断食と祈りの日
 
教皇聖下からの要請
 
平和は、私たちが推進し、守らなければならない、最も貴い賜物です。
平和のための努力の鎖は、全ての善意の人を1つに結びつけます。
私は、全カトリック教会と、カトリック以外の全てのキリスト信者
あらゆる宗教の信者、そして信仰をもたない兄弟姉妹の皆様に
強く切迫した呼びかけを行います。
 
私は全教会に対して、平和の女王であるマリアの誕生の記念日の前晩
97日を『シリアと中東と全世界の平和のための断食と祈りの日』と定めます。
 
カトリック以外のキリスト者の兄弟、他宗教の信者、そして善意の人々も
できるかぎりこの行事に参加してくださるようお願いします。
 
97日、ここサンピエトロ広場で
午後7時から午前0時まで、祈りと悔い改めの心をもって集まり
愛するシリアのため、また世界のあらゆる紛争と暴力地域のために
この平和の賜物を神に祈り求めます。
 
人類は、平和の業を見ることを
また、希望と平和の言葉を聞くことを必要としています。
 
全ての部分教会にお願いします。
この断食の日を行うことに加えて、この意向に基づく典礼を挙行してください。
 
 
マリアよ、あなたの助けによって
暴力と紛争と戦争に対して
私たちが、対話と和解と愛の力をもって立ち向かうことができますように
 
御母よ、あなた助けによって
私たちが、平和を見いだすことができますように
 
マリアよ、あなたの子らである私たちを助けてください
この困難な時を乗り越えて
日々、あらゆる状況において
真の出会いと平和の文化を築くことができますように
 
平和の女王であるマリアよ
私たちのためにお祈りください
アーメン
 
 
アヴェ、マリア
恵みに満ちた御方
主はあなたとともにおられます
あなたは女のうちで祝福され
ご胎内の御子、イエズスも祝福されています
御子は十字架の貴い御血によって
私たちに和解と平和をもたらしてくださいます
神の御母、聖マリア
私たち罪人のために
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン
 
 
 
 
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教皇聖下の要請に従い
当日のミサ聖祭、聖務日課、私的信心、断食は
上記の意向で、教皇聖下に心を合わせて
平和の女王である幸いなおとめマリアの取次ぎを願い
平和の王である主イエズスの聖心の愛にお捧げいたしましょう
 
 
 
 
平和を願って
 
cf, 『毎日のミサの友』
 
 
入祭唱
 
神は仰せになる。
「私の思いは、災いではなく、あなたがたに平和を与えることである。
私に乞い願い、祈り求めるなら、私はそれを聞き入れる」
 
集会祈願
 
正義と平和の源である神よ、
あなたは争いを憎み、思い上がる者を打ち砕かれます。
世界を悪の力から守り、苦しみと涙を私たちから取り除いてください。
全ての人が、あなたの子供として、平和のうちに生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、
私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
 
奉納祈願
 
聖なる父よ、御子イエズスは、
私たちの間から憎しみを取り除くために、貴い御血を流されました。
この捧げものを受け入れ、
争い悩む世界に、和解と平和の恵みをお与えください。
私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
 
拝領唱
 
主は仰せになる。
「私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。
それは、この世が与えるようなものではない。心を騒がすな。恐れることはない」
 
拝領祈願
 
全能の神よ、1つのパンで養われた私たちの心を強めてください。
私たちが対立を乗り越え、あなたの愛と正義に従って、
平和な世界を造ることができますように。
私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
 
 
 
 

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