カテゴリ: 真理の輝き(◕‿◕✿)

キリストは地獄に降られた
CHRISTUS DESCENDIT AD INFEROS

キリストは、死んで死者たちの住まいに降られました。
聖書はそこを、地獄(陰府)、シェオル、ハデスと呼んでいます。
そこにいる人々は、神を見ることができないからです。

悪い人であれ正しい人であれ、
全ての死者は、贖い主を待っていて、この状態にあったのです。

とはいえ、悪い人と正しい人のありさまは、同じではありませんでした。
イエズスが、『アブラハムのふところ』に迎え入れられた
貧しい人ラザロのたとえで示されたとおりです。

イエズス・キリストが、
死者のもとに降られた時、お救いになった霊魂は、
まさに、アブラハムのふところにいる人のような、
解放者を待っていた聖なる霊魂たちです。

イエズスが、地獄(陰府)に降られたのは、
断罪者たち(damnatos)を、そこから救い出すためではありません。
断罪者たちの地獄を破壊するためでもありません。

ご自分に先んじた正しい人々を解放するためでした。

こうして、死んだ者にも、聖福音が告げ知らされました。
イエズスは、全ての人間と同じく死を体験し、
その霊魂は、死者のもとに滞在して、彼らと一緒になられました。
キリストは、救い主として、捕らわれていた霊魂たちに、
救いの良い知らせをもたらしたのです。

ex, Catechismus Catholicae Ecclesiae


旧約聖書 ホゼア 5.1,2 


Venite, et revertamur ad Dominum,
quia ipse laceravit et sanabit nos,
percussit et curabit nos.
Vivificabit nos post duos dies,
in die tertia suscitabit nos,
et vivemus in conspectu eius.


おいで、主に立ち帰ろう。
主は引き裂かれたが、私たちを癒してくださる。
主は打ち叩かれたが、私たちを介抱してくださる。
2日ののち、私たちを生きるものとしてくださり、
3日目には、立ち上がらせてくださる。
こうして私たちは、その御前で生きるのである。



この信条は、4世紀後半にまでさかのぼる信仰宣言であり、
40カ条からなる、聖三位一体と主の受肉についての信仰箇条で、
ギリシア4大教会博士であり、『科学的神学の父』、『教会の柱石』、
『正統信仰の教父』と呼ばれる大聖アタナシウス司教(296~373年)の作
と言われています。

この信条は、ローマ聖務日課書(Breviarium Romanum)において、
聖三位一体の主日や公現の祭日に唱えられ、

ローマ儀式書(Rituale Romanum)によれば、
悪魔憑きに対するエクソシズム(悪魔祓い)にも唱えられます。

Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est,
ut teneat catholicam fidem:
救われたいと望む者は誰でも、まずカトリック信仰をもたなければならない。

Quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit,
absque dubio in aeternam peribit.
誰でも、この信仰を傷なく汚れなく守らなければ、
疑う余地なく永遠に滅びるだろう。

Fides autem catholica haec est:
ut unum Deum in Trinitate, et Trinitatem in unitate veneremur.
Neque confundentes personas, neque substantiam seperantes.
カトリック信仰とは、
そのペルソナを混同することなく、またその本質を分かつことなく、
唯一の神を三位において、また三位を一体において礼拝すること、これである。

Alia est enim persona Patris alia Filii, alia Spiritus Sancti:
Sed Patris, et Fili, et Spiritus Sancti una est divinitas,
aequalis gloria, coeterna maiestas.
Qualis Pater, talis Filius, talis Spiritus Sanctus.
そのペルソナは、聖父であり、聖子であり、聖霊である。
しかし聖父と聖子と聖霊は神性において唯一であり、
その栄光は等しく、その威光も共に永遠である。
聖父がそうであるように、聖子にも、聖霊にもそうである。

Increatus Pater, increatus Filius, increatus Spiritus Sanctus.
Immensus Pater, immensus Filius, immensus Spiritus Sanctus.
Aeternus Pater, aeternus Filius, aeternus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres aeterni, sed unus aeternus.
Sicut non tres increati, nec tres immensi,
sed unus increatus, et unus immensus.
創られない聖父であり、創られない聖子であり、創られない聖霊である。
無限の聖父であり、無限の聖子であり、無限の聖霊である。
永遠の聖父であり、永遠の聖子であり、永遠の聖霊である。
しかしながら三つの永遠者ではなく、唯一の永遠者である。
三つの創られない者、無限者のようではなく、
唯一の創られない者、唯一の無限者である。

Similiter omnipotens Pater, omnipotens Filius, omnipotens Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres omnipotentes, sed unus omnipotens.
Ita Deus Pater, Deus Filius, Deus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Dii, sed unus est Deus.
同様に全能の聖父であり、全能の聖子であり、全能の聖霊である。
しかしながら三つの全能者たちではなく、唯一の全能者である。
聖父が神であるように、聖子も神であり、聖霊も神である。
しかしながら三者の神々ではなく、唯一の神である。

Ita Dominus Pater, Dominus Filius, Dominus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Domini, sed unus est Dominus.
Quia, sicut singillatim unamquamque personam
Deum ac Dominum confiteri christiana veritate compelimur:
ita tres Deos aut Dominos dicere catholica religione prohibemur.
聖父が主であるように、聖子も主であり、聖霊も主である。
しかしながら三者の主々ではなく、唯一の主である。
なぜならキリスト教の真理は、
各ペルソナを個別に神および主であると告白することを強いると共に、
三者の神々とか主々と言うことを、カトリックの宗教は禁じるからである。

Pater a nullo est factus: nec creatus, nec genitus.
Filius a Patre solo est: non factus, nec creatus, sed genitus.
Spiritus Sanctus a Patre et Filio:
non factus, nec creatus, nec genitus, sed procedens.
聖父は何ものよりも成らず、創られず、生まれない。
聖子は、聖父からのみ、成らず、創られず、生まれるのである。
聖霊は、聖父と聖子から、成らず、創られず、生まれず、発出するのである。

Unus ergo Pater, non tres Patres:
unus Filius, non tres Filii:
unus Spiritus Sanctus, non tres Spiritus Sancti.
それ故、聖父は唯一であって、三者の聖父たちではない。
聖子も唯一であって、三者の聖子たちではない。
聖霊も唯一であって、三者の聖霊たちではない。

Et in hac Trinitate nihil prius aut posterius, nihil maius aut minus:
sed totae tres personae coaeternae sibi sunt et coaequales.
Ita ut per omnia, sicut iam supra dictum est,
et unitas in Trinitate, et Trinitas in unitate veneranda sit.
またこの三位において優劣はなく、大小もなく、
三つのペルソナは皆互いに同じく永遠で等しい。
前述の通り、全てにおいて、三位における一体を、
また一体における三位を礼拝するのである。


。。。アタナシウス信条2(主の受肉の部)に続く。




Qui vult ergo salvus esse, ita de Trinitate sentiat.
Sed necessarium est ad aeternam salutem,
ut incarnationem quoque Domini nostri Iesu Christi fideliter credat.
救われたいと望む者は、三位についてこのように信じなさい。
しかし永遠の救いのためには、
私たちの主イエズス・キリストの受肉を忠実に信じることが必要である。

Est ergo fides recta ut credamus et confiteamur,
quia Dominus noster Iesus Christus, Dei Filius, Deus et homo est.
Deus est ex substantia Patris ante saecula genitus:
et homo est ex substantia matris in saeculo natus.
それ故、正しい信仰は、私たちの主イエズス・キリストが、
神の御子であり、神であり人間であると、私たちは信じ、宣言する。
神としては、世々の前に聖父の本質から生まれ、
人間としては、時間において御母の本質から生まれた。

Perfectus Deus, perfectus homo:
ex anima rationali et humana carne subsistens.
Aequalis Patri secundum divinitatem:
minor Patre secundum humanitatem.
Qui licet Deus sit et homo,
non duo tamen, sed unus est Christus.
完全な神であり、理性的霊魂と人間性の肉体を実体的に有する、完全な人間である。
神性によれば、聖父と等しく、人間性によれば聖父に劣る。
神であり人間であっても、二者ではなく唯一のキリストである。

Unus autem non conversione divinitatis in carnem,
sed assumptione humanitatis in Deum.
Unus omnino, non confusione substantiae, sed unitate personae.
Nam sicut anima rationalis et caro unus est homo:
ita Deus et homo unus est Christus.
神性が肉に変わることなく、人間性が神のうちに取られたが故に唯一である。
実体の混同はなく、唯一のペルソナにより、全て唯一である。
理性的霊魂と肉体が唯一の人間であるように、
神としても人間としても、唯一のキリストである。

Qui passus est pro salute nostra:
descendit ad inferos: tertia die resurrexit a mortuis.
Ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Dei Patris omnipotentis:
inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
主は、私たちの救いのために苦しみを受け、
陰府に降り、三日目に死者のうちから復活された。
天に昇り全能の神である聖父の右に座し、
生者と死者を裁くために来られる。

Ad cuius adventum omnes homines resurgere habent cum corporibus suis:
et reddituri sunt de factis propriis rationem.
Et qui bona egerunt, ibunt in vitam aeternam:
qui vero mala, in ignem aeternum.
その来臨にあたり、全ての人は自分の肉体を持って復活し、
各々の業に応じて報いを得る。
善業を果たした者は、永遠の生命に入り、反対に悪者は、永遠の火に入る。

Haec est fides catholica,
quam nisi quisque fideliter firmiterque crediderit, salvus esse non poterit.
これこそ、カトリックの信仰である。
誰であれ、これを忠実に堅く信じることなしに、救われることはない。

Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto,
sicut erat in principio et nunc et semper et in saecula saeculorum. Amen.
栄光が聖父と聖子と聖霊にあれ。
初めのように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン。




教会は使徒時代の当初から、固有の信仰を、
簡潔に、規準となる一定の言葉で表明し、伝えてきました。
信仰のこのまとめは、人間の憶測によるものではなく、
聖書全体の最重要点を厳選し、要略したものです。
このわずかな言葉のうちに、旧約新約両聖書中の真の敬神の知識が含まれています。

信仰のまとめは、『信仰宣言』(Credo)、『信仰のシンボル(信経)』と呼ばれます。

Credoは、
まず、神の第1のペルソナ(御父)と創造の感嘆すべき御業について述べられ、
続いて、神の第2のペルソナ(御子)と人間の贖いの神秘について述べられ、
最後に、神の第3のペルソナ(聖霊)、私たちの聖化の源泉である御方について述べられます。

信仰宣言には、主に次の3つが挙げられます。

1)使徒信条(Symbolum Apostolorum)。。。

使徒たちの信仰の忠実なまとめ、ローマ教会の古来の洗礼信条であり、
この権威は、キリストから、使徒たちの頭として立てられた、
聖ペトロの座がある、ローマ教会が守る信条であることに由来しています。

2)二ケア・コンスタンチノープル信条(Symbolum Nicaeno-Constantinopolitanum)。。。

この権威は、最初の2つの公会議(325年、381年)に由来しています。
この信条は、東方、西方の全ての主要な教会で、今もなお共通のものとなっています。

3)アタナシウス信条(クイクムクエ信条 Quicumque vult)。。。

この信条は、4世紀後半にまでさかのぼる信仰宣言であり、
40カ条からなる、聖三位一体と主の受肉についての信仰箇条で、
ギリシア4大教会博士であり、『科学的神学の父』、『教会の柱石』、
『正統信仰の教父』と呼ばれる大聖アタナシウス司教(296~373年)の作
と言われています。
クイクムクエ信条とも呼ばれるのは、
この信条の最初の語句Quicumque(~する者は誰であれ)に由来しています。
この信条は、ローマ聖務日課書(Breviarium Romanum)において、
聖三位一体の主日や公現の祭日に唱えられ、
ローマ儀式書(Rituale Romanum)によれば、
悪魔憑きに対するエクソシズム(悪魔祓い)にも唱えられます。


1)使徒信条(Symbolum Apostolorum)

 天地の創造主、全能の父である神を信じます。

 父のひとり子、わたしたちの主イエズス・キリストを信じます。

 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、

 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、

 三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、

 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。

 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、

 永遠のいのちを信じます。アーメン。


2)二ケア・コンスタンチノープル信条(Symbolum Nicaeno-Constantinopolitanum)

 わたしは信じます。唯一の神、全能の父、

 天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。

 わたしは信じます。唯一の主イエズス・キリストを。

 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、

 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、

 造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。

 主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、

 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。

 ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、

 聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。

 主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。

 その国は終わることがありません。

 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。

 聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。

 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。

 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。



3)アタナシウス信条(クイクムクエ信条 Quicumque vult)
  次回の記事に掲載します。。

1.信仰による従順


 目に見えない神は、啓示によって、
 大きな愛のうちに、あたかも友に対するように人間に話しかけられました。
 それは、人間をご自分との交わりに招き、これにあずからせるためでした。
 この神の招きに対するふさわしい回答が、信仰です。

 人間は、信仰によって、
 その知性と意志を神に従わせ、ご自分を啓示する神に、心の底から同意します。

 聖書は、啓示する神への人間の応答を、
 『信仰による従順』と呼んでいます。


 『信じる』とは、
 実際に目で見ることのできるものよりも、
 もっと深い確信をもって信じることを意味します。

 なぜなら、『信じる』とは、
 誤ることも、人を誤りに導くこともあり得ない神が、教会に啓示され、
 教会を通して私たちに与えられた事柄を受け入れることだからです。


 『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』(聖パウロ)


 信仰によって聞き従うことは、
 聞いた言葉に、自由に、自分を委ねることにはかなりません。
 その真理が、真理そのものである神によって保証されているからです。

 聖書における『信仰による従順』の模範は、
 特に、アブラハムとおとめマリアです。

 アブラハム~信じる全ての人の父~は、
 信仰によって、神からの召し出しに服従し、行き先も知らずに出発し、
 信仰によって、約束の地で、寄留人・旅人として暮らし、
 信仰によって、サラの懐胎が実現し、
 信仰によって、1人息子を犠牲として捧げました。

 おとめマリアは、『信仰による従順』を最も完全に具現しました。
 幸いなおとめマリアは、
 信仰によって、天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。
 『神にできないことは何一つない』(ルカ1.37)という言葉を信じ、
 『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』と同意しました。

 エリザベトはマリアに、
 『主が仰せになられたことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう』
 と挨拶しました。(ルカ1.45)


 マリアの信仰は、その生涯にわたり、
 ご自分の御子イエズスが、十字架上で死ぬという最後の試練に遭った時ですら、
 揺らぐことがありませんでした。

 マリアは、神の御言葉の成就を、いつも信じていました。
 それ故教会は、
 マリアを、信仰を最も純粋に生きた御方として敬うのです。

 教会は、
 唯一の神、聖父と聖子と聖霊への信仰を、いつも公言します。


 キリスト者の信仰はまず、神への人間の人格的な帰依であり、
 それと同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。

 なので、誰か1人の人間を信じることとは異なります。
 神でないものをこのように信じることは虚しく、誤っています。


 キリスト者にとって、神を信じることには、
 必ず、神が遣わされた御方、
 神のみこころにかなう『愛する御子』を信じることが伴います。

 私たちがイエズス・キリストを信じることができるのは、
 この御方ご自身が神であり、
 人となられた神の御言葉だからです。

 御父を見ておられる御子だけが、
 神を知らせ、神を示すことができるのです。


 また、イエズスの霊を受けることなしに、
 イエズス・キリストを信じることはできません。
 イエズスとは、どのような御方であるのかを人間に知らせるのは、聖霊です。


 『聖霊によらなければ、誰も「イエズスは主である」とは言えない』(聖パウロ)


 神だけが、神の全てをご存知です。
 私たちが聖霊を信じるには、
 聖霊が神であるからです。


2.信仰の特徴

 信仰は恩寵です。


 聖ペトロが、イエズスが生きる神の御子キリストであると公言した際、
 イエズスは、このことを表わしたのは人間ではなく、天の父であると言明されました。


 信仰は、神のたまものであり、神から授けられた超自然的徳です。

 このような信仰を起こすには、
 神の先行的かつ援助的恩寵と、聖霊の内的助力が必要です。

 聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、
 全ての者に、真理を受け入れることを、
 そして、信じることの甘美さを味わわせます。

 信じることは、人間的な行為です。

 神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、
 人間の自由にも知性にも反することではなく、尊厳に背くことでもありません。

 人間関係の場合でも、
 相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じたり、
 その約束に信頼したりすることが、
 自由や知性に反することでも、尊厳に背くことでもないのと同様です。
 ただ、人間の場合は、誤りやすく、約束も守れないことがしばしばです。


 信仰においては、
 人間の知性と意志は、神の恩寵に協力します。

 『信じるとは、
  恩寵によって、神に動かされた意志の命じるままに、
  神の真理に同意する知性の行為です』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)

 啓示された真理が、私たちにとって真実であり理解できるということが、
 信じる動機とはなりません。

 私たちが信じるのは、
 欺くことも欺かれることもない、啓示する神の権威のためです。

 信仰者が、信じる神をもっとよく知り、
 啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、
 信仰に付きものです。
 聖霊は、啓示についてのりかいがますます深くなるように、
 不断にその賜物をもって信仰を完全なものにします。


 『信じるために理解し、理解するために信じる』(聖アウグスティヌス司教教会博士)


 信仰は確実です。
 しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものです。
 それは、偽ることのできない神の御言葉そのものに基づいているからです。

 確かに、啓示された真理は、
 人間の『理性や経験』にとっては、定かではないように思えることがあるでしょう。
 しかしながら、
 『神的光が与える確実性は、
  自然理性の光が与える確実性よりも強いのです』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)
 たとえ直ちに理解できないことが無数にあっても、
 そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません。


 神に対する人間の信仰による応答は、
 自由意志によるものでなければなりません。


 何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。
 実際、信仰行為は、その性質上自由意志によるものです。
 人間は良心において束縛されてはいますが、強制されてはいません。

 キリストは信仰と回心を促しはしましたが、
 決して強制はなさいませんでした。
 真理に証明は与えても、
 反対者に力づくで押し付けることはしませんでした。
 実際、神の国は、十字架につけられたキリストが、
 人間をご自分にひきつける愛によって発展します。

 イエズス・キリストを信じ、
 また、イエズスを私たちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、
 救いを得るために必要です。
 信仰がなければ、神に喜ばれることはできず、
 神の子らとしての身分にあずかることもできません。
 信仰なしには誰も義とされることができず、
 最後まで信仰を保たない限り、永遠の生命を得ることはないでしょう。


 信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。


 私たちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。
 信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、
 私たちは神の御言葉によって信仰を養わなければなりません。
 信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。
 信仰は、愛の実践を伴い、希望に支えられ、
 教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。


 『教会を母として持たない者は、
  だれも神を父として持つことはできません』(聖チプリアノ)


 『信じる』とは、教会の行為です。

 まず、教会の信仰があり、
 これが私たちの信仰を生み、支え、養います。
 教会は、信じる全ての者の母です。


 信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、
 いわば前もって味わわせます。
 その日、私たちは神を『顔と顔とをあわせて』ありのままに見るでしょう。
 したがって信仰は、
 すでに、この永遠の生命の始まりです。



4.聖書の正典


 どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、
 使徒伝承です。

 その完全なリストが、聖書の『正典』と呼ばれます。
 それは旧約聖書46書と新約聖書27書からなります。

 ①旧約聖書
  創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、
  サムエル記上・下、列王記上・下、歴代誌上・下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、
  ユディト記、エステル記、マカバイ記1・2、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉、雅歌、
  知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、イェレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、
  ダニエル書、ホゼア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、
  ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。

 ②新約聖書
  マテオ・マルコ・ルカ・ヨハネによる聖福音書、使徒行録、ローマの信徒への手紙、
  コリントの信徒への手紙1・2、ガラテヤの信徒への手紙、エフェゾの信徒への手紙、
  フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙1・2、
  ティモテオへの手紙1・2、ティトへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、
  ヤコブの手紙、ペトロの手紙1・2、ヨハネの手紙1・2・3、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。

 旧約聖書は、聖書の書くことのできない部分を成しています。
 その諸書は、神感によってかかれ、永続する価値を持っています。
 なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。

 実際、旧約は、万物の贖い主キリストの到来を準備し、
 預言的に知らせるために立てられました。
 旧約聖書は、不完全で一時的な内容も含んでいますが、
 人を救う神の教育法を、よく示しています。
 それらの書は、神に関する崇高な教えと、人間生活に関する有益な知恵と、
 祈りの素晴らしい宝を収めると同時に、
 私たちの救いの神秘をも秘めています。

 キリスト者は、旧約聖書を神のまことの御言葉として敬います。
 教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考えを、
 いつも強硬に排斥してきました。

 神の御言葉は、全ての信じる者にとって救いのための神の力ですが、
 その御言葉は、新約聖書において特に優れた方法で示され、
 そしてその力を発揮してゆきます。

 新約聖書は、神の啓示の決定的真理を、私たちに伝えます。
 その中心的内容は、人となられた神の御子イエズス・キリスト、
 その御業、教え、御受難、栄光化、
 そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です。

 聖福音書は、私たちの救い主である、受肉された御言葉の、
 生涯と教えに関するおもな証言ですから、全聖書の中心となるものです。

 聖福音書の成立には次の3つの段階があります。

 ①イエズスの生涯と宣教
  教会は、4聖福音書の歴史性を、ためらわずに断言し、
  神の子イエズスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのために、
  天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、
  それらの聖福音書が忠実に伝えていることを主張します。

 ②口伝
  使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、
  真理の霊の光に照らされ、確信を与えられて持っていた一層深い理解をもって、
  キリストの言行を聴衆に伝えていました。

 ③聖福音書
  聖書作者は、4聖福音書を書くにあたって、
  『口伝』と書き物とによって伝えられていた多くの事柄の中から、
  ある事柄を選択し、ある事柄を総合し、
  教会の事情に留意しながら説明し、宣教の形式を保ちながら、
  イエズスに関して、常に真理と真実を私たちに知らせるようにしました。

 4聖福音書は、教会の中で1つの卓越した位置を占めていますが、
 そのことは、典礼が払う崇敬と、
 それがあらゆる時代の聖人たちに及ぼした比類ない影響力によって示されています。


 『聖福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えは他にありません。
  私たちの主であり師であるキリストが、その言葉によって教え、
  行いによって実現したことを見て、心に銘記してください』(聖小チェザリア)

 『念祷の間に、私の霊魂を養っているのは、何よりも聖福音書です。
  その中に、私の哀れな霊魂に必要な全てを見い出します。
  そこに新たな光、隠された、神秘的な意味を、いつも発見するのです』
                     (幼いイエズスの聖女テレジアおとめ教会博士)

 新約・旧約聖書の一貫性は、
 神のご計画と啓示の一貫性に由来しています。

 旧約聖書は新約聖書を準備し、
 新約聖書は旧約聖書を成就します。(予型論)

 両書は相互に照らし合います。
 両書共、神の真のことばだからです。

 したがってキリスト者は、
 『新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかになる』ことを踏まえ、
 旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。


1.キリストは、聖書の唯一の御言葉


 神は、限りない憐れみによって、
 人間にご自分を啓示するために、
 人間の言葉で語られます。

 『聖書の最初から最後まで述べておられるのは、神の1つの同じ御言葉です。
  全ての聖書記者の口から響き出るものは、1つの同じ御言葉です』
        (聖アウグスティヌス司教教会博士)

 それゆえ教会は、
 主の御からだ(聖体の秘跡)を崇敬するのと同様に、聖書を常に敬い、
 その神の御言葉と、キリストの聖体~生命のパン~の食卓から、
 絶え間なく信者を養ってきました。

 教会は、聖書の中に、常にその糧と力を見出します。
 そこにおいて、単に人間の言葉ではなく、
 神の御言葉そのものを受け取っているからです。

 天におられる御父は、深い愛情をもって、
 聖書において、いつもご自分の子らと出逢い、互いに語らうのです。





2.聖書の霊感と真理


 神が、聖書の作者です。


 聖書に含まれ、示される神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれ、
 神を作者とし、そのようなものとして教会に伝えられています。

 神は、人間である聖書記者に霊感を授けるにあたり、
 固有の能力と素質を持った人間を選びました。
 神が望むことだけを、そして、その全てを、書かせるためです。

 霊感によって書かれた聖書は、真理を教えます。
 霊感を受けた聖書記者が断言することは、聖霊が断言されていることであり、
 神が、私たちの救いのために記載されることを望まれた真理を、
 堅く、忠実に、誤りなく教えるものです。

 しかしながら、キリスト教は『書物の宗教』ではありません。
 キリスト教は、神の御言葉の宗教であって、
 その『御言葉』は、記載されているだけの無言の言葉ではなく、
 受肉して生きておられる御言葉です。

 キリストは、聖書を悟らせるために、
 聖霊によって私たちの心の目を開いてくださいます。




3.聖書の解釈者である聖霊


 聖書において、神は人間的な表現で、人間に語りかけられます。
 それ故、聖書を正しく解釈するには、
 著者たちが実際に主張しようと意図したことと、
 神が著者たちの言葉を通して、私たちに示そうとしたことに留意する必要があります。
 聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、
 解釈されなければ、『死んだ文字』にとどまるでしょう。


 聖書解釈のための3つの基準があります。

①聖書全体の内容と一体性に、特別な注意を払うこと。

。。。聖書は、異なるいくつかの書物から成り立っていても、
   神のご計画の一貫性のゆえに1つだからです。そのご計画の中心でありココロ、
   それはイエズス・キリストです。イエズスの死と復活以来、それが明確にされました。

 『キリストの心とは、キリストの心を知らせる聖書を指しています。
  このココロは、御受難の前には閉じられていました。
  つまり、それ以前は聖書の意味が明確でなかったのです。
  しかしながら、聖書は御受難後に開かれました。
  こうしてキリストの受難後、聖書の知識を持っている人々は、
  預言をどのように解釈すべきかを考察し、識別できるのです』
    (聖トマス・アクィナス司祭教会博士)


②教会全体の生きた伝承に従って、聖書を読むこと。

。。。教父たちによれば、聖書は、文字通りに読むよりも、
   教会のココロで読むほうが優っている、としています。
   事実、教会は、その伝承に基づいて、神の御言葉を生き生きと保ち続けており、
   さらに霊が教会に与える霊的意味に従って、聖書を霊的に解釈する力を、
   聖霊が教会に「与えるのです。


③信仰の類比に留意すること。

。。。『信仰の類比』とは、信仰にの諸真理が、それら相互においても、
    啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。



 聖書の御言葉の意味には、文字通りの意味と、霊的意味との2つがあります。


①文字通りの意味。

。。。これは、言葉が表している意味で、
   さらに正しい解釈の規則に従う聖書解釈によって考案されるものです。

   『聖書の全ての意味は、文字通りの意味を土台にしています』
        (聖トマス・アクィナス司祭教会博士)


②霊的意味。

。。。神のご計画の一貫性により、文面だけでなく、文が語る事柄や出来事もまた、
   別の事柄を示す『しるし』でありえます。

 a)寓意的意味。
  。。。聖書の出来事が、キリストに関連づけて、何を意味しているのかを認めることにより、
    これら一連の出来事の意味を、より深く、より確かに理解することが出来ます。
    たとえば、紅海の通過が、キリストの勝利を意味し、
    そのことから『洗礼』を意味します。

 b)道徳的意味。
   。。。聖書に記載されている事柄、出来事は、私たちを正しい行動へと導くものであり、
     『私たちに警告するため』(1コリント10.11)に書かれています。

 c)天上的意味。
  。。。聖書の出来事から、永遠の意味を考えさせてくれます。
     これらは、私たちを、天の祖国に導くものです。
     たとえば、地上の教会は、天上のイェルザレムの『しるし』です。



 これらの聖書解釈は、その使命を果たす教会の判断のもとに置かれています。

   『もし、カトリック教会の権威が、私をそう促がすのでなければ、
           私は聖福音を信じないでしょう』
          (聖アウグスティヌス司教教会博士)




信仰の遺産・教会の教導権・信仰箇条について





 1)聖伝と聖書の中に含まれる、委ねられた信仰の遺産は、
   使徒たちによって、教会全体に託されています。

   信仰の遺産である、文書、または口伝による神の御言葉を、
   権威をもって解釈する役目は、キリストの名において権威を行使する、
   教会の生きた教導権だけに任されています。



 2)教会の教導権を持っているのは、ペトロの後継者であるローマ教皇(法王)、
   そして教皇との一致のうちに結ばれた司教たちです。

   しかしながらこの教導権は、神の御言葉の上にあるのではなく、
   むしろ御言葉に奉仕し、伝えられたことだけを教えるのです。

   その役割は、神のご命令と聖霊の援助によって、
   神の御言葉を敬虔に聞き、これを清く保存し、これを忠実に説明し、
   信じるべき神の啓示の全てを、信仰のこの唯一の委託物から汲み取るに過ぎません。

   信徒は、キリストが使徒たちに仰せになった御言葉
   『あなたたちに耳を傾ける人は、私に耳を傾ける』(ルカ10.16)を思い起こし、
   司牧者たちが様々な形で述べる教えや指針を、素直な心で受け入れます。



 3)教会の教導権は、信仰箇条として教義を決定的に宣言する場合、
  つまり、キリストの民に、信仰による決定的同意を義務づける形で、
  神の啓示に含まれる諸真理を提示する場合において、
  また、これと不可分の関係にある諸真理を、決定的な形で提示する場合において、
  キリストから授けられた権能を、最高度に発揮します。

  教義と、私たちの霊的生活には深いつながりがあり、
  教義は、私たちの信仰の歩みを照らすともし火であり、
  私たちの生活が正しければ、私たちの知性は、
  素直な心で、これらの信仰の教義の光を、受け入れます。





  聖伝・聖書・教導権は、神のきわめて賢明な配慮により、
  1つは、他のものから離れては成り立たず、
  全てが共に、また各々の固有の形で、
  聖霊の働きのもとにあって、
  人々の霊魂の救いに、有効に寄与すべく、
  互いに関連し合い、結合されていることが明らかです。







  次回は聖書について。。。✿ฺ♬ε(◕‿◕✿ฺ)з♡

共通の源泉



 『聖伝と聖書は、互いに固く結ばれ、互いに共通するものがあります。
 なぜなら、いずれも同一の神的源泉を有し、ある程度一体であり、
 同一の目的を目指している』(啓示憲章 9)からです。

 いずれも『世の終わりまで、いつも』(マテオ28.20)弟子たちと共に
 とどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるものです。





2つの異なる伝達方法



 聖書は、聖霊の神感によって書かれた、神の御言葉です。

 聖伝は、主キリストと聖霊から、使徒たちに委ねられた教えです。
 これにより、彼らは余すところなく、神の御言葉をその後継者に伝え、
 後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、
 説教によって、それを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものです。


 従って、啓示の伝達と解釈を委ねられた教会が、
 啓示された全ての事柄について自分の確信を得るに際し、
 聖書だけに頼らないのは、そのためです。
 それ故、いずれも同じ敬虔と敬意をもって、尊敬されるべきものです。



 神は、『全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます』(1ティモテオ2.4)

 その真理とは、キリスト・イエズスのことです。

 従ってキリストは、全ての国民、全ての人に告げ知らされ、こうして、啓示が世界の隅々にまで及ばなければなりません。




1.使徒伝承



   De Traditione apostolica


 主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された復員を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源泉として、全ての人に宣べ伝えるよう、また彼らに神の賜物を与えるよう使徒たちに命じました。




   Praedicatio apostolica


 主の命令に従い、福音の伝達は2つの方法で行なわれます。

 口述(Ore tenus);キリストの恩ことばを聴き、キリストと共に生活し、その御業を目撃して知ったこと、あるいは聖霊の示唆から学んだことを、説教と制度をもって伝えた使徒たちによって。

 書物(Scripto);同じ聖霊の霊感により救いの知らせを書き物にした使徒たちとその周りの人々によって。




   continuata in successione apostolica


 使徒たちは、生きた完全な福音が、常に教会に保存されるよう、司教たちを後継者として残し、彼らに『自分たちの教導職』を与えました。
 実際、使徒的宣教は、霊感の書に特別に示されていますが、不断の継承によって、世の終わりまで保たれねばなりませんでした。


 聖霊のうちにあって遂行されるこの生きた伝達は、聖書とは異なるものとして『聖伝』と呼ばれています。言うまでもなくこの『聖伝』は、聖書と密接に結びついています。

 この聖伝により、教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままの全てと、信じることの全てを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです。

 聖なる教父たちの言葉は、聖伝のこの活力的な現存を証明するもので、その富は、信じかつ祈る教会の慣行と生活に注ぎ込まれています。

 こうして、御父が御言葉によって、聖霊のうちに、ご自分についてお知らせになったことは、教会の中に現存し、働き続けています。
 かつて語られた神は、愛する御子の浄配と不断に語らい、福音の生きた声は、聖霊によって教会に、また教会によって世界に響き渡り、そして聖霊は、信じる者を全ての真理に導き、彼らのうちにキリストの御言葉を豊かに宿らせるのです。



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