カテゴリ: 法と罪と赦し(◕‿◕✿)

6.最後の祈り



主イエズスよ、あなたは、私たちの過去の恥を全てご自分の上に負われ、
その贖いによって、これを永遠の光栄にかえられる。
単に、正義によって私たちを贖うだけでは満足されず、
あなたは、それ以上のことをなさった。
つまり、あなたの御父の聖心のうちに入れるほど限りなく私たちを高められた御父は、
私たちのうちに、ご自分の御独り子であるあなたの御業を満足してごらんになる。
主イエズスよ、あなたのおかげで、あなたの御父は、『私たちの父』、
つまり、あなたと私たちの御父となられた。


私たちは、あなたの勝利の器となる無上の名誉をいただいた。
このあなたの勝利は、実に感嘆すべきもの、限りなく感嘆すべきものである。
あなたがこの勝利をえたのは、武器にも、黄金にも、名誉にも、人間的な作戦にもよらず、
ただ、あなたご自身の完全ないけにえによってである。
神であるあなたには、この勝利に無限の価値がある。
私たちに何か勝ちがあるのも、みな、あなたからいただいた価値である。
罪を犯してその値打ちを失っていた私たちの生活に、
あなたの神的生活がしみ込み、私たちの生活は無限の価値となった。


あなたは、私たちにとって全てである。
なぜなら、あなたがいないと、私たちは無に等しいからである。
だから、私たちの生涯を尽くしてあなたに一致すること以外、あなたの愛に応える道はない!



あぁ、主よ、御母聖マリアのうちにあなたが生きられたように、
私たちのうちにも生きてください。
私たちが恐れるべき災いはただ1つ、あなたから離れることである。
私は、私のために、ご自分の全てを与えた御方に日毎一致するように努力しよう。
このイエズスとの一致のまことの値打ちを、今はっきりと知ることはできないが、
いつかこの一致の美しさが確実に現れるだろう。
このいつかが、地上での生活が進むにつれ1秒ごとに近づいてくる。
日毎に私はあなたに近づき、毎時その距離を縮める。
いつか~あなたが定められるその日~私の心臓が止まり、
二の腕が力なくたれる時、私の愛する人々は泣き悲しむだろう。


しかし、その時こそ、私にとって大きな喜びが始まるだろう。
その喜びは、地上に残る人々の目には見えないが、
私は今からそれを受けるだろうと確信している。
なぜなら、私は決してあなたを離れることを望まないからである。


その時、私は、自由に、美しくなった魂の目をあげて、
あなたの愛の美しさを眺め、
永遠に、私の感嘆と感謝とを尽くしてたたえるだろう。



あぁ、主イエズスよ、あなたこそ私の死を、永遠の生命にかえられた愛の神である。



                                            FIN




5.最後のことばは信頼にある


このささやかな文章の終わりにあたって、おのずと次の結論に導かれる。。。
神に信頼しよう。

それは、神にとって失望的な状態はありえないからである。
人間の力には限りがあるが、神の力には限りがない。
人間の愛には限りがあるが、神の愛には限りがない。

限りのない力と愛。。。
罪人の心の罪を洗い清めるのに、
必要以上に豊かに限りない力と愛。


罪人は、神の御憐れみにより頼めば、それで充分である。
自分に信頼せず、木の枝が幹についているように、彼も神につくなら、
神的生命の樹液は、彼のうちにも流れ込むに違いない。

自分に対する信頼を減らせば減らすほど、神に対する信頼を増すことになる。
自分の至らなさと弱さを御父に打ち明けるなら、
御父は、離れたこの我が子を御胸に引き寄せるために慈愛の水を注がれるだろう。

こう考える時、私たちは、どれほど大きな喜びを感じることだろう。
神の愛が私を見守っているのを感じる時、
私は、明るく喜びをもって生活することができる。
この安堵の気持ちが、無活躍な楽観主義を招くことはもちろんない。
むしろ、正反対である。
なぜなら、悪魔が私たちを神から引き離そうとする時、
神と共にとどまるために努力しなければならないからである。

その時私たちは、力尽きた遭難者のように、
『神よ、助けてください!もう最後です!』と叫ぼう。
そうすれば、『信仰薄いものよ、なぜ、疑うのか?』という神の御声があって、
その御手は、逆巻く波から私たちを救いあげられるだろう。
溺れかかった私たちを救い上げ、死にかかった私たちをよみがえらすであろう。

しかしその時、次の過ちを避けるよう注意しなければならない。
それは、この成功を私たち自身のてがらに帰す、傲慢である。
傲慢は、心の戸を閉ざして神を拒むが、
謙遜は、神を迎え入れるために心を開放する。


神に対する私たちの信頼こそ、
神の偉大さを認める、最も貴重な尊敬と礼拝のしるしである。
しかし、自分の弱さを心から真実に認めないかぎり、まことの信頼はありえない。

聖フィリッポ・ネリが繰り返していたかの祈りは、
どれほど信頼に溢れた、人間らしい祈りだったろう。
彼は、しばしば次のように祈っていた。
『主よ、フィリッポを信頼しないでください。
  彼は弱く、いつもあなたを必要としています!』


しかし信頼は信仰なしにはありえない。
信仰がいるからこそ、今、明らかにわからないことがいろいろとある。
もしそうでないなら、単なる知的な認識にすぎず、功徳も愛もありえない。

ある人の振る舞いを自分の目で確かめることができない隔たった地にいても、
その人の行動に疑いをもたないなら、そこに信頼がある。
『あの人はよい人だと私は知っている。
 だから、安心してこれこれのことを任せることが出来る』と考えるのと同じである。

なぜ、こんな信頼をおくことができるのだろうか?
それは、他の多くのことによって、この信頼が裏付けられているからである。


『労苦する人、重荷を負う人はみな、私のもとに来るがよい』(マテオ11.12)
と言われた神ほど、私たちの信頼に値するものがあろうか?


教会の歴史全体も、神の確固たる忠実さの能力の証明である。
それは、死をもたらす要因から絶えず襲われているにもかかわらず、
神の力によって続くからである。

私たちの個人的な歴史も、神のこの忠実さを示している。
罪から立ち上がり、善徳に進み、悪に逆らい、善を行うために、
彼は数多くの恵みを与える。


聖母マリアの取り次ぎ、天のこと、
天にゆくための道を思い起こさせる聖母マリアの全ての出現は、
私たちに対する神の忠実さを示している。
私たちが何か良いことを考えたり行ったりするのは、
全て、神の能力によって引き起こされたこと、
神の愛により芽生えさせられたことである。


花が太陽に向かうと、
色と香りを増して開花を促される。

私たちも霊的生活に香りと進歩が与えられるように、
いつも神に向かおう。



4.地獄~赦しの拒絶~



罪人の頑なな心だけが、神の憐れみを妨げる。

ご自分の無限であるべき憐れみが妨げられるのを見て、
神が憤られるのは当然である。
『富む者は災いである』(ルカ6.24)と神に言わせたのは、
富む者の貪欲である。
神なるキリストの手に鞭を握らせたのは、
神の家=神殿を汚す商人である。
ファリザイ人たちの悪事をつき、彼らを、白く塗った墓にたとえるよう神を刺激したのは、
ファリザイ人の偽善である。
貪欲な者、不正な者、偽善者はみな、自分にかかる呪いを自ら招いたのである。
その罪として地獄がある。


地獄とは、
人間によって拒まれた神の憐れみに対する罰である。


神の憐れみを拒むこと。。。これより恐ろしい忘恩はない。
なぜなら、人間は永遠の救いをえるために、
常に多くの好都合を与えられているからである。


神が人間を創り、贖われたのは、
人間に、『生命を、豊かな生命を与えるため』(ヨハネ10.10)である。

創り主が、救い主である神の到来を世界の歴史の中心においたのは、
神のこの御旨が中心、かつ根本的なものだということを理解させるためである。
神は、全てを人間の救いのためにはからわれた。
『罪が増したところには、それ以上に恩寵が豊かになった』(ローマ5.20)。
つまり、神の力は、罪に対して勝利をえた。
神なるキリストは死なれたが、
それは、私たちを救おうとどれほど望まれたかを示している!
これ以上の愛と憐れみがありうるだろうか?


しかし、神の子供である人間は自由であった。
そうでないなら、神の子供とはいえない。
自由がなかったなら、人間は神の数多い被造物のうちで、
単なる受動的な要素に過ぎなかっただろう。
つまり、大自然の法則に逆らうこともなく従う物質や、
本能によって支配される動物のようなものに過ぎなかっただろう。

しかし、最高の王である神の子供として、人間も王であり、命令をくだすことができる。
しかし命令をくだすためには、自由の身であり、
人格的に『はい』という能力がなければならない。


地獄とは、
認識し、承知しながら、神に対して『否』という人間の状態である。
つまり、神の愛を拒絶することである。
もちろんこれは、全ての不幸のうちで最大の不幸であり、
際限ない苦しみと悩みとを生み出すのである。


全ての苦しみは、
罪~源の罪とそれに続く他の全ての罪~から生じてくる。
地獄は、その泉である罪にさかのぼる苦しみであり、
当然あるところに置かれた苦しみである。


罪のないキリストに苦しみをもたらしたのが罪であるなら、
まして、罪がそれを犯した人々の苦しみとなるのは当然である。

キリストの苦しみは、
罪人の永遠に受けるべき苦しみの代わりとなって、
それを罪人にまぬがれさせることができたが、
罪人は、この憐れみに承諾するのを拒んだ。
神が彼の罪の贖いとなって苦しむことを、
神による贖いを、
彼は拒絶した。
彼は、罪の報いとして当然受けるべき苦しみを苦しまねばならない。

神から離れた状態におちるという苦しみ。。。
しかしそれは、自分の御父の愛にあずかるのを拒んだ罰としての苦しみであり、
この苦しみは永遠に続くのである。

放蕩息子の苦しみ。。。
聖福音書のたとえに登場する放蕩息子と違い、
彼は、容易に父の家に帰ることが出来たのに、傲慢に狂い、
豚の糞汁の中に足を踏み入れたまま飢え死にするのを選んだ。

火の苦しみ。。。
これは、邪欲の楽しみにふけった当然の復讐である。
これらの邪欲の楽しみは、忌み嫌うべきものだと知っていながら、
頑なにそれを拒まなかったからである。
何を行っているかをよく知っていながら、神の光に真っ向から逆らったために、
彼の受ける苦しみも、それに相応して激しいものだろう。


愛によって創られ、贖われ、
その生涯の各瞬間を最も力ある、知恵に富んだ、温かい愛に支えられながら、
これに、愛をもって応えるのを拒んだ人に対して、地獄の罰は正当なものである。

救いをえるために取るべき正しい道を知りながら、
意識して堕落の道を選んだ人にとって、
地獄は正当な罰である。
彼が堕落したのなら、この罰を、あえて不審がる理由もない。

地獄は、
人間によって作り出された失望的な状態である。
神は、そんな状態を一度ももたらさないからである。


聖アウグスティヌスが言うとおり、神のうちに、『愛は憎みよりも強い』。
地獄は、
自分の楽しみを、神の愛よりも強いものにしようとした人々の罰である。
つまり神が、幾度も憐れみを示そうとしたのに、
頑なにそれを拒んだ人々の罰である。
なぜなら、主なる神が、
種々の方法をもって、その恵みを提供されなかったといえる人は、ひとりもいないからである。


神から『呪われた者』(マテオ25.11)が落ちるべき、
この『ゲヘンナの火』(マテオ5.22;18.9)、
『外の暗闇』(マテオ8.12;22.13;25.30)、
『永遠の火』(マテオ3.12;18.8;25.41)こそ、
危険を知らせる神の愛の絶えざる警告である。

つまり、天においでになる私たちの御父は、無限の愛そのものでありながら、
私たちの救いを望まれるあまり、これほどの脅かしまでされるのである。
神の子供である人間が、頑なで、忘恩で、反逆に傾いているために、
神は、この手段にまで訴えねばならなかった。

しかし、それでも充分ではなかった。
愛によって創られ、豊かな愛で贖われたことも、充分ではなかった。
罪人を救うために、神の御独り子は十字架に釘付けにされ、
醜い、卑しい、恐ろしい状態にまでなった。
しかし、十字架につけられたこの神の御前に立っても、罪人は頑なである。
御母マリアの涙を見ても、心を打たれない。


神の憐れみが、尽きることのない流れのように、彼に近づいている。
手を伸ばしさえすれば、豊かに汲み取ることができるが、
彼は頑なに拒絶する。
神は、彼の心を動かそうと、
勧め、感激、良心の呵責、苦しみ、悩みとあらゆる手段に訴えるが効き目がない。

では、この石のような固い心に何が残るだろうか?
最後の感激~最も好ましくない、利己的で計算ずくな感激~のみが残る。
それは恐れ~わが身に起こるであろう不幸に対する恐れ~である。

人間の心を失った強盗殺人犯も、
相手の切なる願いに耳をかさず、あどけない幼子を無感動に殺した極悪非道な殺人犯も、
死刑台の前に立つ時、わが身の震えを抑えることができない。
他のどんな感激も覚えなかった者にとっては、
恐れだけが、最後の感激となって残っている。


その窮みに至るまで愛を尽くした神、
正義と真理の名によって、ただ愛のみによる自発的な従順を受けるべき神は、
人間をまことの生命の道に立ち帰らせるために、
永遠の死である地獄の罰をもって、やむなく脅かさねばならなかった。
地獄の恐れにおののいて、
人間が少しでも愛を起こすであろうと神は希望されたのである。


あぁ、私の主、私の神よ、
あなたの全ての羊、最も心頑なな羊にとっても、
常に理想的な羊飼いであるキリストよ、
あなたが地獄について話される時、
私はどれほど注意深く聞き、記憶にとどめねばならないことだろう。
そして、他の全ての理由が私を動かさない時の、最後の理由、
避難所としての理由として保たねばならない。
この恐れは、私を震えおののかせるが、
私を救いに導くもので、
これこそあなたの、私に対する愛の最後の作戦であると私は認めねばならない。



3.告解の特長と欠点(前回の続き)


 次に、よい告解をするための実用的なことについて2,3述べよう。


 私は、数十年の間、信者の霊的指導にあたり、多くの告解をきいた経験から、
 多くの信者がよい意向をもちながら、正しい告解の仕方を知らない事実に気付いた。




 告解の時には、まず第1に、自分の犯した罪を言い表さねばならない。
 しかし、その罪の詳しい歴史を述べる必要はない。
 自分が犯した罪につながる全ての事柄を、何人が言い尽くすことができよう?

 そこで、カトリック要理もよく教えるとおり、
 『真実に告白するとは、
  大罪をその数とおもな事情と共に、
  思い出したとおり、
  増し減らしなく、正直に言い表すことです』。


 ここでいう、告白すべき罪の事情とは、
 小罪が大罪となったり、
 1つの悪事が、いくつかの掟に背くために、
 大罪の上にさらに他の大罪が重なったりするような場合をさすのであり、
 従って、それと無関係な他の全ての事情は、言う必要がないばかりか言ってはならない。




 第2に、注意すべきことは、
 罪になるのは、意識して知りながら何か悪いことを行ったり望んだりした場合に限ることである。

 従って、自分が意識せずに何かしたり、自分の意志に反して何かあっても、
 それは罪でも、告白すべきことでもない。
 なぜなら、自分が意識して承諾しないかぎり、罪にはならないからである。

 また、『金曜日の小斎を忘れて肉を食べた』という告白もおかしい。
 実際に忘れたのなら、なんの小さな罪にもならない。
 これからよく注意すれば、それで十分である。

 あるいは主日に、ミサにあずからなかったとする。
 そしてそれは、あなたの健康状態がわるく、医師から外出を禁じられたためであり、
 または、付き添いを必要とする病人の世話があって外出できなかったためである。
 この場合は、小罪にもならないから、告白すべき必要もない。




 第3に、いざないにかかってもそれだけで罪ではない。
 いざないとは、提示された罪であり、承諾をかうための魅力ある罪の提示である。
 だから、いざないの時、罪への魅力、あるいはなんらかの楽しみを感じるのは当然なことで、
 それだけでは、まだ罪にはならない。
 つまり、いざないを感じるだけでは罪ではない。
 感じてそれを承諾する時、はじめて罪となる。
 従って、自分が承諾しなかったことを、あえて感じたと告白する必要もない。
 感じてもそれに承諾を与えなかったのなら、罪とならないばかりか、
 承諾しなかったことにより、かえって善徳となる。




 第4に、以上のことをよくわきまえて告白の場に臨み、罪を明白に言い表すことである。
 明白にとは、聴罪司祭がよく理解できるように、
 そして質問する必要がないように、
 はっきりとそれを言い表すことである。

 だから、『私は悪かった』、『私は弱かった』、
 『私は多くの罪を犯した』などというのは、なんの役にも立たない。

 そんなことは、わかりきったことである。

 どんな罪も、幾度犯したかをはっきりと言う必要がある。
 つまり、告白するということは、自分の振る舞いをよくわきまえることである。




 第5に、罪の告白を言い終えて、司祭がいましめの言葉を言う時、
 ある信者は、落ち着くことができず、
 まだ他に罪を犯したのではないかと不安げに糾明する。
 そして、司祭のいましめを聞き損ねる。
 これは間違った態度である。

 告白すべき時もあれば、聞くべき時もある。
 両方の行いは同時にできない。





 最後に、告白の秘蹟は、~キリスト教では、その他のこともみなそうであるが~
 人の心を乱すためではなく、安心させるためである。
 私たちは人間であるために、どの面からみても完全なことはできない。
 神は、このことを私たち以上によく理解される。
 そして、決して無理なことを要求されず、
 私たちにできる範囲内のことで、
 たとえ、それが不完全であっても満足される。



 聖福音書のあの百夫長は、キリストに願い出た時、
 最初、しもべを癒してほしいという自分の利益だけを考えていた。
 しかし彼は、ひと言、『私は値打ちのない人間です』(マテオ8,8)とへりくだった。
 すると、憐れみ深い神であるキリストは、
 この振る舞いをすぐれたものと考えて感心するほどであった。

 つまり、神の聖心が感激する根本的なことは、
 『自分はふさわしくない者』と告白することにある。

 心からのこの真実な告白こそ、
 平和を、唯一のまことの平和である『主の平和』をもたらすのである。



3.告解の特長と欠点


 よい告解をするには、
 良心の糾明を注意深くしなければならないが、
 過度の糾明も避けるべきである。


 注意深く。。。
 自分を調べるのは、何人にとっても好ましくないもので、努力がいるからである。

 私たち人間は、自分のことより他人のことを好んで判断する。
 しかし、これも常識に反することである。
 他人について、彼が当人よりよく知るはずはないからである。

 他人については、
 なぜ、彼がそう行ったかを、つまり普通にその行いの意向を知らないから、
 それにどの程度の責任があるかを理解できない。
 これと違い、自分のことについては、
 なぜ、自分がそう行うか、自分の行いにどんな意向と目的があるかをよく知っている。


 良心は鏡のようなもので、
 自分の本当の姿を正確に、少しもゆがめることなく映している。
 しかし、自分の欠点や醜さまでありのままに映し出すので、
 この鏡の前に立つのは決して好ましいことではない。


 私たち人間には、他にも短所がある。
 私たちに無益なお世辞を喜んで聞き、
 ためになる叱責を避けようとすることである。

 自分から逃げる、自分のことを見ないようにする。。。
 『自分を忘れる』ことは、人間として卑怯な振る舞いである。

 さて、自分を糾明すべきことが納得できたなら、
 次に、どのように糾明すべきだろうか?

 まず第1に、根本的なことを調べなければならない。
 根本的なこととは、
 正義、正直、愛徳、神の権利に対する尊敬などの善徳である。

 クリスチャンだと自称するあまりにも多くの人々は、
 祈りを怠ったことやミサ聖祭に遅れたことを、大変なことのように強調して告白するが、
 取引先の相手や使用人に対して、不義や不正直を働いたことについては一言も触れない。

 祈りやミサにあずかることは教会の掟であり、当然それに従わねばならないが、
 しかし、神の掟~十戒以上のものではない。
 むしろ、神の掟こそ、他のあらゆる掟の根本と土台であり、
 どんな場合にも、この掟と比較して判断すべきである。

 つまり、キリストのいうとおり、
 『先のをも無視することなく、あとのをこそ、行わねばならない』(マテオ23,23 ; ルカ11,42)

 また以上述べた欠点とは逆に、ある信者は過度の糾明をする。

 厳密に正確な糾明さえすれば、それで、全てを果たしたように思う。
 だから、暴君的なこの計算に追い立てられ、
 際限なく糾明して、心配を深めるようになる。

 しかし、これは悪魔の作戦である。
 糾明を、ごく細かい点まで、過度の正確さをもってしなければならないという心配を起こして、
 まず、痛悔の信念を、次に、神の憐れみに『対する信頼の信念を押さえ込もうとする。

 人によっては、心配のあまり体を損ねて病気になる。
 このような人にとって告白は、真の拷問となる。
 その結果、再び神に一致したことの心の平和と喜びをもたらすために設けられた、
 罪の赦しのこの秘蹟は、全くその目的からはずれてしまう。

 罪の赦しの秘蹟が制定されたのは、
 それを汚したのではないかという病的な不安をもたらすためではなく、
 再発見された愛の喜びをもたらすためである。


 大切なのは、心からの痛悔の念と、罪を思い起こしてそれを忌み嫌うことである。
 余計な、過度の糾明にのみ走る人は、
 神の憐れみ、よい牧者のあたたかい手を忘れて、
 罪の邪悪さと、罪を避ける適切な手段に訴えるのを怠り、
 ただ、罪を言い立てることだけに心を労する。


 小心な人よ、あなたは、罪の許しの秘蹟をいたずらにゆがめて、
 それを単なる人間的な心細い計算、誤った嫌味のある述べ立てや、
 取るに足らぬつまらぬものに、変えてしまう。
 そしてあなたは、こんなつまらぬことのみに注意する。


 もともと悔い改めの秘蹟は、そのものとして正確な並べ方にあるのではない。
 あなたは、なんら隠そうとするのではないから、
 思い出したことを率直に言い表した時、しいて心配してはならない。

 何か言い落としたのではないかと心配するより、
 犯した罪のために謙遜に『私の過ち!私の過ちである』と心を込めていうがよい。


 神があなたに要求するのは、
 あなたが何をいうべきかと心配することより、
 何をすべきかと心配するほうである。

 神にとって、心からの痛悔は、記憶力の行いよりも大切である。
 自分の罪を思い起こすために、適切な配慮をしているなら、それ以上心配する必要はない。
 たとえ、何か思い出さなかったとしても、それは、わざと隠そうとしたことではない。
 無限に大切なのは痛悔の心である。
 だから、それを起こすように努めよ。

 告解についてのもう1つの誤りは、
 それをする時、感覚的にも心の動揺を感じなければならないと思い込むことである。

 たとえば、痛悔しても目から涙が流れないなら、真に痛悔していないと考える。
 痛悔して涙を流すのはよいことであるが、
 要求されているものでもなければ、また、真の痛悔から出るものともかぎらない。

 ともあれ、真の痛悔からでる場合でさえ、
 自然的なものというより、1つの賜物、いわゆる『涙の賜物』であり、
 多くの聖人はこの賜物をいただいていた。
 ここでことさら『多くの』聖人といったのは、全ての聖人がそれをいただいたのではないからである。
 つまり、この賜物は、天からの例外的な賜物であり、
 ある聖人の励ましと、彼を通じて私たちの励ましに与えられたものである。

 しかし感激を覚えることが、それだけで功徳とはならない。
 なぜならそれは、自分の自由意志というより他のいろいろなことによるからである。



 人間のうちで最も不可思議なのは、
 1個物のうちにある思想と有機体、霊魂と肉体との連関性である。

 自由意志の決定によらない単に貧弱な行いにすぎない間隙は、
 神経上の印象がそのおもな起因となっているものと考えられる。
 とすると、感激するのは性質上のことにすぎない。

 そこにまた、悪魔のたくらみがひそんでいる。
 人によっては、告解してなんの感動も覚えないと、
 告解そのものまで無益であると考えるようになる。
 これは、悪魔のいざないである。


 神は、罪の赦しを与えると約束したが、
 感覚的な感激を与えるとは約束されなかった。

 もし、時々この感激を神から与えられるなら、この無償の恵みに対して感謝しよう。
 神がそれを与えられるのは、私たちの自由意志による痛悔の心を励ますためだからである。
 しかし、どんな場合にも、これに代わるためではない。



 真の痛悔の念は、大きな単純さの雰囲気のうちに行われる。
 罪を忌み嫌い、以後、再び罪を犯すまいという覚悟があるなら、真の痛悔であるとわかる。
 この2つの予想があるならば、痛悔は完全である。
 神が、無限に私たちを愛し、
 また、無限に愛でむくいられるにふさわしい愛そのものであると考えて、罪を忌み嫌うことになる。

 御父の愛を考えることによって、その子供である私たちは、
 自分の忘恩~全ての罪は忘恩である~を忌み嫌うようになる。

 御父のこの愛のしるしを、私たちは数えることもできない。
 神の御力がないなら、私たちの自然的生活を1秒も理解できず、
 神の御独り子のいけにえによらない超自然的な功徳もありえない。
 それなのに、なぜ、忘恩と謀反との表れである罪を攻撃し、忌み嫌うことができないのだろうか?
 また、痛悔の心を起こすのが、なぜ、それほど難しいのだろうか?




 真の痛悔であれば、犯した罪を忌み嫌うという第1の要素の次に、
 その論理的結論である第2の要素~決心~に導く。
 つまり、これから罪を犯すまいという決心である。


 霊的指導者たちが、この決心をしばしば新たにせよと強調するのはなぜだろうか?
 信者があまりにそれを忘れがちだからである。
 たとえ、この決心を忘れることがあっても、思い出すたびそれを繰り返そう。
 繰り返していれば、いつか忘れられなくなる。


 かたい石に穴をうがつには、何億万の水のしたたりがいる。
 この水滴が意思に穴をうがち出したのはいつからだろうか?
 最初の1滴からである。
 もちろん目にはなんの変化も認められないが、それは事実である。

 たとえ、今までによい決心を立てて1度も守らなかったとしても、
 決心を立てただけでもすでにプラスである。
 なぜなら、それによってあなたの意志は善に傾いたからである。
 そして、これこそすでに何かである!

 告解をしてのち、また罪におちることがあっても、
 それだけで、以前の告解がわるかったと考えてはならない。
 病気から回復した人が、また病気になることもある。



 使徒ペトロは最後の晩餐の時、イエズスの御手から、どれほど熱烈な聖体拝領をしたことだろう!
 彼は、主のために命を投げ打って悔いない覚悟をもっていた!
 イエズスが捕らわれようとした時、彼は剣を抜いて律法学士の兵士に立ち向かい、
 1兵士の耳を切り落とした!
 もし、主が彼を止めなかったら、ペトロは退かずに戦い、その場であっぱれな死を遂げたことだろう。
 なぜなら、敵対者の数が多く、死力を尽くしても到底及ばなかったからである。

 しかし、これほどの覚悟をもっていた彼も、
 のちに、1下女のひやかしを含んだ言葉に負けて、主を裏切った。





 生活とは、やりなおしの連続である。
 肉体は、心臓の鼓動と呼吸のたびに、死に対して戦い、自分を守る。
 この鼓動と呼吸の連なりは、生命の1つの連続をおこす。
 何百万の小さな働き~生まれて、発達し、消えてゆく小さな働き~から成る1つの連続がある。
 これらの数多い働きが相次ぐことによって存在がつづく。


 物質界においてさえそうなら、どうして精神界において、そうであっていけないことがあろうか?
 善徳を守りつづけること、善徳において進歩しようという望みにかぎり、
 それが、幾度ものやり直しの連なりであっていけないことがあろうか?



2.償い(前回の続き)


 償いは、
 不正が滅ぼしたところを正義によって復興させる。
 神がこの能力を私に与えたのは、私を力づけ、寛大なものとするためである。


 私を力づける。。。
 神の恵みによるのは言うまでもないが、
 私自身が、乱された秩序を取り戻す状態に自分を置くからである。

 もっと寛大にする。。。
 悪の逆流をさかのぼるために、私に新しい飛翔を与えるからである。
 こうして、滅びのもととなった私自身が、神の恵みによって復興者となる。

 神の恵みの状態にある霊魂。。。
 このかけがえのない芸術品を打ち壊した野蛮な罪人は、
 神の限りない憐れみによってのみ、その犯罪の赦しをえることができる。
 そして、この憐れみによって、彼は、新たな人とされ、
 破壊された芸術品をつくりなおすのに人格性をもって着手する。
 こうして、滅ぼされた者は自分を再建することになり、
 廃墟さえ、新しい建物をつくる材料となる。

 これは、完全な意味での償いである。
 つまり、神から奪い取ったものを、正直に神にかえすことである。



 盗人が赦しをえるのは、その罪を忌み嫌ったからである。
 しかし、真に罪を忌み嫌った盗人なら、
 不正にとった物品を返すように全力を尽くさねばならない。
 こうしてこそ、彼は、乱された秩序を取り戻すのである。
 この取り戻しをさせるのが、つまり償いである。


 もし彼が、現世の生活において盗んだものを返さないなら、
 たとえその罪が赦されても、
 他日、来世の清めの場で、強制的に償いを果たさねばならない。
 しかし、地上において罪の告白をし、
 命じられた償いを果たすなら、
 罪人自身、地上でその罪の清めを選ぶことになり、
 もっと容易に償いが果たされる。


 清めの場の償いを果たす死人はみな、人格性をもってその償いを果たす。
 人間である以上、善徳を行い、罪を犯し、赦しをえるのも、
 全て、人格性にもとづいている。
 そうでないなら、この言葉は、清めの場でその意味を失うという矛盾をおかすことになる。

 しかし、地上で果たす償いが、
 清めの場で果たすそれよりも値打ちがあるのは、
 清めの場のように神から決定されたものではなく、
 人間が自発的に決定したからである。

 事実として、罪の赦しをえた霊魂が、
 その罪の償いをなるべく早く、かつ進んで果たすように心がけるのは当然である。
 神の憐れみは、私の罪を赦された。
 だから私も、神の正義に対する私の義務を尽くさねばならない。

 一度罪を犯して、ふたたび善の道に立ち返った霊魂は、
 復讐ともいえる秩序のこの復興を要求する。
 そればかりか、もとの状態よりさらに高い状態へとのぼることを望む。

 親にそむいて嘆きをかけていた子が、
 親からその親不孝の罪を赦された時、
 『私は、今まで親に心配をかけた。これからはうんと孝行しよう。
 さて、どんなことをして慰めようか?』と真剣に自問する。
 そして、あらゆる機会を利用して親を慰めようと努力する。
 これと同じで、罪を赦された罪人が神の愛に感激し、
 この愛に心からの愛をもってこたえようと思うのは当然である。
 だから、彼は、告白の時司祭から命じられた償いを果たすだけでは満足しない。
 告白の秘蹟の時命じられた償いは、私から選んだものではなく、
 他から課せられたもので確かに償いとしての価値がある。
 しかし、なんと軽い償いであろうか。
 正確にいうなら、司祭が命じるその償いは。
 罪の償いを完全に果たさせるものではなく、
 むしろ、私の自発的な償いを引き起こす刺激、完全な償いのはじめに過ぎない。

 罪を。。。大罪を犯してそれを告白し、
 司祭から償いとして命じられた短い祈りを唱えて、
 『これで、すんだ!さっぱりした。あと一週間か一ヶ月は心配ない』
 などと安易に考えるのは、痛悔者の正しいあり方ではない。
 告白の秘蹟が制定されたのは、
 そんな安易さを与えるためでもなく、
 その精神もおよそかけ離れている。


 罪の赦しの秘蹟が、告白のわずか数分の間に行われると考えるのは、大きな間違いである。
 秘蹟は、償いとして命じられた祈りと善業によってあとにも続き、完成される。
 それは、カトリック要理も教えるとおり、罪の赦しの秘蹟を正しく受けるのに、
 痛悔、告白、償いの3条件が必要だからである。

 つまり、2つではなく3つである。
 そして、最後の条件~償い~は、告白場を出てから始まるもので、
 罪を赦された告白者の意により長く続くのである。
 償いをいかに果たすかは、全て彼の随意にまかされている。

 そして、自分から償いの方法を選ばない時、
 その償いに一層の価値がつく。
 つまり彼が、わが身の上に起こってくる様々な難儀を甘んじて受ける時、より立派な償いとなる。
 もちろん、昔のストア派の哲学者のように、
 傲慢心から無理に逆境を選ぶのはゆきすぎである。
 自分から逆境を求める必要はない。
 求めなくとも苦しむ機会は多くある。
 その苦しみを甘んじて受けるだけで充分である。
 苦しみを自分で選ぶより、当面の苦しみを耐え忍ぶほうが、もとより功徳がある。

 神の御子キリストは、自ら受難を求めなかった。
 邪悪な人間が課した苦難を甘んじて受けただけである。

 裏切り者となったユダを、臆病なピラトを、3度まで彼を否んだペトロを、残酷な兵士たちを、
 生身のまま、十字架に釘づけた刑吏たちを、キリストは忍耐した。
 彼は受難をもって償いを果たした。
 受難とは、自分から求めることではなく、外部から難を受けることである。
 彼は人間の罪を償うために、ご自分に提供された苦しみを受けただけである。
 私たち人間も償いをする場合、これと同じ神的方法によらねばならない。


 苦しみを甘んじて受けることは、全ての傲慢を打ち砕く離脱心を要求する。
 この反対に、私たちが自分から償いの方法を選ぶなら、
 どれほど虚栄心に流れる危険があることだろう!

 教会は、私たちがこの危険におちいらないように全力を尽くしてい。
 償いの季節である四旬節の初めの日に、教会がミサの時読ませる福音書の言葉は、
 『償いをせよ』という勧めではなく、
 『断食する時、偽善者のような態度をとってはならない』というキリストの忠告である。

 『断食する時には、偽善者のように、暗い面持ちをしてはならない。
  偽善者は、他人に見てもらおうと思って、暗い顔つきをしている。
  まことに、私は言う。彼らはすでに報いを受けたのである。
  あなたが断食する時には、頭に油をぬり、顔を洗いなさい。
  それは、断食しているのだと他人に知らせず、
  隠れておいでになるあなたの父にだけ見せるためである。
  そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いて下さるだろう。。。』
                 (マテオ6,16~18)


 天の御父は、全てをご覧になる。
 生活において、あなたに何がを辛いかご存知である彼は、
 辛いことが起こるたび、罪の償いをする良い機会を与えられる。

 他人を耐えること、苦しみの時の勇敢さ、
 病気の時、あるいは年齢からくる不自由さのおりの忍耐、
 そして、これに似た他の多くのこと。。。

 こうして私は、乱した秩序を回復するために、制定された秘蹟をたえず働かすのである。
 神の憐れみは、私の罪を赦し、それを滅ぼしたのである。
 人間の寛大さは、生活の辛苦を甘んじ受けることによって罪の償いを果たす。
 ここに人間の協力は、神の秘蹟を完成する。

 神は罪を赦される。それは、神の特権である。
 しかし、罪の償いを人間に任せる。
 つまり、愛の神は罪を赦すが、正義の権利を無視しない。
 しかし、この時においてさえ、憐れみにおもな役割を任せる。
 その感嘆すべき表現は、『償いのなだめ』である。

 
 罪を赦された罪人が、その罪に相当する罰を受けねばならない時、
 他人の功徳は、その処罰をなだめる(緩和あるいは免除する)。

 他人の功徳についていう時、
 まず第1に挙げるべきは、神の御独り子ご自身の功徳である。
 彼は人間となり、贖いの御業をもって尽きることのない功徳をえたのである。
 そして、キリストに従った全ての時代の聖なる者の功徳もこれに加わるのである。
 つまり、みなのために、唯一の贖いの御業があり、
 それは、キリストを先頭にする贖い者たちの1つの群れである。
 望む者はみな、この群れの一員となることができ、
 また、助けを必要とする人は、この群れにむかって援助を請うことができる。


 キリストご自身の延長である教会は、その子供たちをこの群れに導く。
 聖霊の導きのもとに教会は、『結び』そして『解く』使命をいただき、
 自分の子供たちの心から、罪とその結果とを完全に滅ぼすことをもって、
 彼らを聖徳に案内する役割をもっている。

 さて、罪の結果を滅ぼすのに、どんな手段に訴えるべきかを示すのは教会の権限である。
 教会は、キリストと聖人たちの功徳の宝庫から、償いのなだめの方法を汲み取って信者に教える。
 信者はこのなだめ(『免償』)によって、
 赦された罪のために果たすべき償いの一部分(部分免償)、
 あるいは、償いの全部(全免償)を赦される権利を与えられる。

 一定の信心業、巡礼、善業をする人に、一定の解放的効力を帰すこと、
 そしてこの効力を、地上に生きている信者、
 または、地上を去って清めの場で苦しんでいる霊魂に適用させる権利は教会にある。

 超自然的功徳は、いかに見事に一致していることだろう!
 それらの功徳は、現世の域を超えて、
 他界の、つまり清めの場にいる霊魂にまで効き目のある影響をもたらすのである。


 償いのなだめが、罪に対する罰をなだめるものである以上、
 罪そのものが痛悔され、告白され、赦されてはじめて、存在理由をえるようになる。
 従って、もし信者が、告白の秘蹟をもって罪の赦しを求めず、
 償いのなだめのみを得ようとするなら、最も根本的な理論に反することになる。
 なぜなら罪そのものが赦されない限り、それに値する処罰は少しもなだめられず、
 それを免れることもできないからである。
 もし仮に、処罰のなだめが得られたとしても、罪が赦されないなら、
 償いのなだめも全く無益なものとなろう。。。
 しかし、常識に反したことを考える信者は不幸にも多い!




1.赦しをえるために(前回の続き)



 これらのありがたい恩寵を、告白は、隠れて、
 つまり、なんら人間的な光栄を求めることなく、
 最もデリケートな、秘密のうちに行っている。

 人間が、ちょっとした功を立ててもすぐ自慢の種にして言いふらすのに対し、
 神の御業である告白は、謙遜で、その手柄を公にしない。

 告白を聴く司祭に絶対的な沈黙を守らせることをもって、
 告白の時、最も優れた業が行われるが、
 外部には何もあらわれない。


 神が御聖体のうちにくだる荘厳な歌ミサ、特に司教が立てる荘厳歌ミサは、
 外見的にも華やかな典礼式に飾られ、灯された沢山の蝋燭と、高くにおう香と共に、
 素晴らしい一大舞踏術を示している。


 しかし、憐れみの神が罪人の霊魂にくだる時、そこに何の荘厳な式もない。
 粗末な告解場、顔さえも見分けられない一司祭、小声でささやかれる言葉、
 そして、告解者の利益のために、彼について厳しい秘密を守ること。


 計り知れないこの勝利は、みせびらかしをひとつも好んでいない。
 彼は、罪を赦されて告解場を去ると、再びもとの環境の中で、平常の仕事にもどる。
 罪を赦されたことは外部には何もあらわれないが、彼は全く変わっている。
 つまり、昨日、罪人として地獄にゆくべき身であったのに、
 今日は罪を赦されて、天にのぼる権利をもっている。

 御父と赦された子供だけが、この和合の全能と価とを知っている。
 告解を聴いた聴罪司祭、この神的秘蹟を授けた代理者でさえ、
 数多の人々に『私はあなたの罪を赦す』と唱えたこの人でさえ、
 誰に、その罪を赦したかを知らない。


 あぁ、告解の思慮深さよ!
 全ての人の利益をこれほどに計られた御方の無限に妙なる聖心よ!


 告白は、教会の最も高位の聖職者から一般の平信者に至るまで、
 罪の赦しをえるために必要なものであるが、
 いつ、どこで、どの司祭のもとにするかは、全く本人の自由にまかせられている。


 神が望んでいるのは、
 人の心が率直で、その罪を痛悔し、よい意向を示すようにということであるが、
 またこのために、いかなる組織にも束縛されないことを望まれる。

 どこの教会であれ、告解場があるなら、憐れみの秘蹟に近寄るようにという招きである。
 ふさわしい準備をしているならば、いつ、どこで、どの司祭に告白しても、
 この秘蹟を利用する人は、区別なく確実に赦しがえられると保証されている。

 罪の赦しをえるこれほど手近な可能性は、
 神の無限の愛によってのみ説明できるものである。
 恐れの理由は最小限に減らされ、
 罪の赦しを与えるこれより簡単な方法は、
 またと考えられないほどである。

 人間の社交関係において、
 不正、傲慢、むさぼり、憎みなどによる全ての争いのもとは、
 罪である。

 告白は、この罪を滅ぼす。


 悪魔は罪を犯させるために幸福を約束したが、
 罪の結果は、幸福どころか不安な状態が訪れてきた。

 これに反し、告白は平和を取り戻す。


 無味乾燥な人の心、あるいは、ひどいいざないに襲われた人の心は、
 告白によって神の恵みを回復すると共に、
 慰めと確かな導きとを受けたのである。

 悪い習慣は、告白をもって、はっきりと悪と指摘され、
 告白の秘蹟によってそれに抵抗する力強い援助を受け、
 まだ激しくならないうちに食い止められたのである。



 司祭が、告白の時に聞く事柄について秘密を守ることは、
 告白者が包み隠さず、率直に全てを打ち明けるようにと励ます。

 こうして不忠実によって脅かされた家庭も、
 告白によって、堅固な忠実と貞節とを取り戻すのである。
 つまり、夫か妻に何か不忠実なことがあり、
 告白したためにそれを改めるようにと励まされ、
 秘蹟によって正しい場に立ち返る良薬をえたからである。


 告白は、多くの人々の生活をより明るくし、
 しばしば災いをもさけさせるのである。
 告白によって、どれほど多くの人々が助けられたかを、
 何人がよく知っているだろうか?
 しかし、この偉大な告白の手柄にむくいるなんらの栄誉もない。

 告白の功を証明する数多い実例の中から、その1つを選んでかかげてみよう。

 司祭のところに、ある日、1人の婦人が訪れてきた。
 司祭は愛想よく挨拶した。

 『ようこそ。ご子息のアンドレーはいかがですか?
  初聖体からもうだいぶたちますから、さぞ成長されたことでしょうね。
  あなたは、ご子息について満足されていますか?』

 婦人はそれに答えた。
 『はい、それはもう神父様。アンドレーのことは責任をとることができます。
  本当にしっかりした立派な青年でして、私も誇りとしているくらいです』

 その後しばらくして、当のアンドレーが司祭を尋ねてきた。
 彼を小さい時から知っていた司祭は、さっそく問いかけた。

 『また、お会いできたのは何よりです。。。
  それはそうと、あなたは、いつもよい信者として振舞っていますか?
  最後に告解したのはいつですか?』

 しかしアンドれーはためらっている。。

 『まぁ、心配しなくてもよいでしょう。だいぶ前ですね。。。
  さぁ、この機会を利用しましょう。
  お聖堂で行って、少しい準備をしてください。私もすぐ参りますから。
  あなたは告解する必要があるでしょう。
  告解して損はありませんからね。。。』


 しばらくすると、聴罪司祭の耳に青年の告白がささやかれた。
 なるほど『しっかりした立派な青年、誇りとするに足る青年』ではなかった。

 もちろん司祭は、今聞いたことについて秘密を守らねばならないが、
 しかし告白者をこう戒める。

 『私の子よ、
  あなたは、地上であなたを一番愛しているお母さんを騙そうとしている。
  あなたは多くのいざないに遭っているというが、
  いざないに遭わない者がこの世にあるだろうか?
  私の友よ、
  このいざないに打ち勝つのにあなたに不足しているのは、告解です。
  適切にする告解です。
  当分は、週に1度告解に来なさい』

 青年は、司祭の勧めに従った。
 幾度もいざないに負けたが、
 告白によって罪の赦しをえるたびに、罪に逆らう力を少しずつ身につけ、
 いざないの激しさも次第に弱まってきて、負ける回数も減り、
 外見にそれとあらわれて名誉を傷つけることなく、
 彼は、良心の正しい秩序を取り戻すようになったのである。

 これは、告白の秘蹟の力である。


 彼の母は、相変わらず、
 『私の息子は、しっかりした立派な青年です』と人に語っているが、
 今度こそその言葉は真実である。

 しかし彼女は、息子が災いにかかる危険にあったこと、
 この危険と、それによる恥を免れさせたのが、
 週毎に繰り返された告白であることを夢にも知らない。
 この告白は、なんら表立つことなく、内的に、よく活躍していた。
 おそらくこの青年の父親も友人と談笑する時、
 告白を笑いに付して語ることだろう。

 このように告白が極めて大きな効果をもたらすことから、
 プロテスタントも、告白を義務としないまでも、
 善徳を保つのに有力な、実践的手段として信者に勧めている。

 私たちカトリックの司祭は、何十年と信者の指導にあたった経験から、
 信者が堅固な道徳生活を送るのに、
 天からの超自然的な恵みの次に貴重な手段が、
 たびたびの告白であることを知っている。
 この、しばしばの告白は、
 老若男女の別なく何人にも必要なものである。


 教会は、トリエント公会議において次のような事項を宣言したが、
 この宣言とそれに類する他の宣言、及び勅令の、全ての責任を負っている。

 『普遍的教会は、告白が我が主によって制定されたもので、
  洗礼以後、罪を犯した全ての人にとって、その赦しをえるために、
  神の法律にのっとり必要であることを、いつも認めてきたのである。。。
  従って告白者は、まじめに良心の糾明をし、
  犯したと認める全ての大罪を告白しなければならない』



 告白は、
 人間に対する神の尊敬を示している。

 なぜなら、人間は神の助けによって率直に自分自身を訴え、
 みずから立ち直るチャンス、好都合を与えられるからである。
 それだけでなく、もし、人間が良心の声をおさえつけずに聞くなら、
 良心は『自分の罪を認めよ』と叫ぶ。

 告白を『良心の拷問』と呼んだ人がいる。
 なぜ、そんな極端なことが言えるのだろうか?

 むしろ、罪こそ、良心の拷問に他ならない。
 告白は、良心をこの拷問から解放するものである。

 たとえ、私たちのように罪深い人間に過ぎない司祭を通じてであれ、
 神の御名によって、『安心して行きなさい!』といわれるのは、
 なんと心休まることだろう。


 告白は、また社会の公益にもなる。
 統計は、明らかにそれを証明する。
 フランスの例をひくなら、
 宗教生活が深く、信者が頻繁に告白する地方では、
 町の裁判所が、他の裁判所よりずっと閑散である。

 人が自発的に神の裁きに自分を訴える時、
 人間的な裁判は、それほど必要でなくなるからである。



1.赦しをえるために(前回の続き)


 告解はまた、霊魂を悪に対して防備すると共に、
 霊魂を高める役割をも果たしている。
 しかし、一般に信者は、これについてあまり考えない。

 告白によって霊魂は、ふたたび神と一致するので、日増しに高めれれる。
 このように告白は、すぐれた役割を果たす。
 それは、神こそ、最も完全な御方であることを証明するのである。
 『私は自分の弱さを認める』と神の力強さを宣言する。
 私の落ち度を打ち明け、これを悪事、罪、犯罪と呼ぶ時、
 この落ち度が攻撃している神の完全さを私は宣言するのである。


 罪を告白する時、
 私は、真理に仕え、
 正義の正しい要求に服従するのである。


 この真理は、償いをするようにも要求する。
 つまり、全ての王の王であり、無限に賢明な、
 かつ従順を受けるにふさわしい神の権威に対し、
 私は全てを帰す義務がある。
 それをなおざりにしたので、告白は、この破られた秩序をとりもどし、
 最高の権威者の地位と、それに服従すべきものの地位とを、
 本来あるべき状態にかえすのである。


 告白は、正義をも満足させる。
 傲慢は、人をめくらにするが、
 告白の時にあらわれる謙遜は、ふたたび霊魂を照らす。
 そればかりか、私が犯した罪のために当然受けるべき正当な処罰をさえ、
 告白はまぬがれさせる。

 子が、御父の愛を断っていたのを、
 告白は、ふたたび御父の聖心に結び合わせる。

 もし罪人が、あやまった名誉心にかられていたのなら、
 告白によって、この誤りに打ち勝ち、
 『神の名誉こそ、第1のものである』と宣言する。

 罪を犯したために、霊魂は傷つき、
 霊的組織全体に汚染の危険と死をもたらすばい菌が迫って、
 私たちの超自然的生活を脅かしていたが、
 告白することによって、
 霊魂はふたたび健康を取り戻すのである。

 こうして、健全な状態に立ち返った人間の望みは、
 神の御旨と見事に結び合わされ、和合するようになる。

 清められ、癒された霊魂は、
 霊的誕生のように若返るのである。


 健康体でない人はなんの活躍もできないが、
 ひとたび健康を回復すれば、立派な活躍ができる。

 同じように、告白によって清められた人は、
 超自然的に活躍し、
 その目的をえるようになり、
 彼の全ての行いは、超自然的な功徳を豊かにえるのである。
 罪を犯したために崩れた霊的建造物は、
 再建され、もとの高さと値打ちを取り戻すのである。


 悔い改めたばかりの罪人は、
 まだ、自分の犯した罪の臭いのする罪人は、
 告白によって、早くも、もとの権利を取り戻している。
 それは、信じられないほどのありがたい恵みである、。

 なぜなら、彼は、つい先刻まで、
 この権利を無思慮に、頑なにも断っていたからである。

 この権利とは、
 神の恵みと生命、
 つまり、地上の全ての宝に無限にまさる価値ある賜物を受ける権利である。

 この不可思議に豊かにされた霊魂からは、
 悪徳の根株が根こそぎにされ、
 心の土地は手入れされ、
 そのあとに新しい芽が生え出て、ふたたび実を結び、
 前よりも豊かに実るだろう。


 罪を犯してからというもの、
 良心はたえず圧迫され、安らぐことはなかった。
 罪の楽しみと共に、心の呵責が響いてきていた。
 偽りの楽しみは、あれほそ幸福を約束しながら、
 実際は疲れ、嫌気、失望だけをもたらしたではないか?

 告白は、この偽りの楽しみに対して本当のことを知らせ、
 真の喜びがどこにあるかを指し示す。

 それは、つまり、善良な良心、
 あこがれの家へとついに帰ることのできた捕らわれ人のように、
 幸いな良心だけにある。

 こうしてのみ良心は、
 愛し、活躍し、実を結び、
 生活を楽しく過ごすことができるようになる。





1.赦しをえるために


 赦しをえるためには、
 自分の罪を告白しなければならない。
 それは、真理に対する尊敬を示すことである。

 自分の落ち度を認めることは、それを改めることのはじめである。


 真実と率直さ。。。真理の神に対し、
 まず、真実に、率直に自分の非を認めねばならない。


 父から罪の赦しをえたいなら、
 子は、まず、自分の犯した罪を認めねばならない。
 彼ら2人の考えが一致してこそ、
 彼らの心も一致する。

 言うまでもなく痛悔は、根本的に必要なものであるが、
 自分が犯した罪を明白に認めないなら、何の役にも立たない。


 『私の過ちである!』というのが根本的で、
 『私は告白する』というのが、その欠くべからざる条件となる。


 よく見定めることが全ての商売の根本となり、破産をさけさせるように、
 良心の糾明は、健全な道徳生活の根本である。


 よく診察しないなら、適切な治療もほどこすことができない。
 医者は、病気の原因を、どれほど努力して窮めることだろう!
 まして、これより重大な結果をもたらす道徳上の病気の原因を窮めるのに、
 どうしてためらうことがあろう?


 人間は、自分で、自分の振る舞いと責任に関する糾明を、
 神の御目のもとに、
 幻覚も偏見もなく、素直に展開しなければならない。
 そして、判断をするのに、
 まず、神の判断を利用しなければならない。

 赦しをえるための第1条件は、
 自分の罪をよく見きわめることである。
 罪人は、よく心の目を開けて、自分の振る舞いを調べなければならない。

 他の人々は、彼について誤ることも、だまされることもありうるが、
  彼は、自分自身をありのままに眺めねばならない。
 これこそ、良心の勝利と主位権を示すのである。
 神の声であるこの良心は、
 さきに述べたように道徳生活の根本である。


 糾明するにあたって良心は、
 おおうことも、誇張することも、減らすこともゆるさず、
 あくまで客観性を守らねばならない。


 告白の準備の時だけでなく他の場合にも、
 しばしば良心の糾明をすることは、
 どれほど大きな利益をえさせることだろう!

 もし人間が毎日を終える時、
 『私は今日、どんな悪いことをしたか?また、どんな良いことをしたか?』
 という簡単な、しかし根本的なこの問いに、よく答える習慣をもつなら、
 彼は、自分を正しく判断するようになる。


 『自らを知れ!GNOTHI  SEAUTON』と古代の学者はいい、
 『人間の真の学問と研究とは、人間自身である』とモンテーニュはいった。
  カトリック要理は、さらに正確に、『犯した罪を調べよ』といっている。


 調べの段階が終わると、
 その赦しをえるために、
 神から定められた審判者(聴罪司祭)に罪を打ち明ける。

 罪の告白は、あなたの霊魂を軽くする。
 罪は重荷だからである。

 罪を言い表すのは恥ずかしいことであるが、
 この恥ずかしさは、罪を犯した時の傲慢さの償いとなる。


 告白は、
 宗教の感覚をたとえ原始的にでも保っている人にとって1つの必要となる。
 モンシニョール・ルロワは、その著書『原始人の宗教』の中で、
 『未開民族』といわれる民族に、
 ある一定の形式を通じて、罪の重荷をはらう風習があると述べている。
 この風習は、それぞれ民族によって異なるが、
 その最も簡単なのは、土に小さな穴を掘って、
 その穴にむかって罪を述べ、あとで土をかけてうめるものである。


 健全な人は、その罪から解放されるために、
 それを自分の外にはらいのけようとする。
 これは、人間性に内在する必要であるが、
 キリスト教的道徳は、
 この必要の満たし方を、正確に教える。
 私たちはこれに従う時、心の平和を取り戻すことができる。

 適切に告白したなら、心配する必要はない。
 しかし、適切な告白とはどんなものだろうか?

 それは、自分が犯した大罪をつつまず言い表して、
 重大さを増す事情をも言い加えることである。
 しかし、『なぜ、その罪を犯したか』という理由を述べる必要はない。

 さて、大罪を形成するのはなんであろうか?
 それは、重大な事柄と、完全な承諾という2つの要素である。

 だから、完全な承諾があっても事柄が重大でない時、
 また、事柄が重大であっても完全な承諾がない時、大罪とはならない。

 言うまでもなく小罪も~容易にそれを改めるために~告白することができる。
 しかし、告白の義務はない。
 なぜなら小罪は、告解以外の他の方法によっても、
 たとえば、善業や祈りによっても赦されるからである。

 しかし、この内的なことを打ち明けるべき審判者とは、いったい何物だろうか?
 それは、司祭である。
 つまり、使徒たちの後継者である司教から、
 『あなたたちが罪を赦す人には、その罪が赦され、
 あなたたちが罪を赦さない人は、赦されないであろう』(ヨハネ20.23)
 という神の御独り子の御言葉を聴かされた者である。

 イエズスはこの特別な権力を、
 全ての者の憐れみの御父からのものとして、使徒たちに与えられた。
 『父が私をお送りになったように、私もあなたたちを送る』(ヨハネ20.21)

 従って、罪の赦しは、御父から出て、語父と同じ本性である御子を通り、
 イエズス・キリストの延長である司祭を通じて、痛悔者に届くのである。

 しかし、神から選ばれ召されたこの司祭も、哀れな人間であり、
 彼も自分の罪の赦しをえるために、他の司祭に告白しなければならない。
 そればかりか、信者を清め導くために、
 より清い、超自然的光に照らされた霊魂の持ち主となるように、
 一般信者よりしばしば告白しなければならない。
 司祭は、信者の振る舞いを指導し、
 信者が告白する時、必要に応じて彼を助け、
 罪の清めをえさせねばならないからである。

 しかし、司祭の最も美しい役目は、罪の赦しを与えることである。
 なぜなら、彼は、審判者として罪の告白を聴き、
 宣告を~罪を赦すという宣告を~くだすからである。

 このように司祭を通じ、
 信者が良い意向をもって罪の赦しをえる時、
 その罪は全く消され、存在しなくなる。
 良心が洗い清められたので、
 神との友情は、その全ての富をもって霊魂にみなぎる。

 謙遜と経過いいを保つために、しばしばその罪を思い出すのはよいが、
 しかし、その罪は実際に滅ぼされたのである。

 その上に、告白の秘蹟によって、霊魂は新しい力をえ、
 悪魔が再びいざないをかける時、容易にそれに打ち勝つ資格をえたのである。



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6.マリア~イエズスと共に赦しを与える御方~(前回の続き)



 『マリアよ、
  われらの救い主である御子の恵みでなくて~と聖ベルナルドは叫ぶ~、
  何人がわれらを堕落から救い上げられるだろうか?
  御子は、
  われらを弱さから救うために自ら弱さをまとい、
  われらの死を滅ぼすために死なれた。

  しかし幸いなマリアよ、
  あなた以外に誰がよく、
  われらの主イエズス・キリストの聖心を動かしうるだろうか?
  あなたこそ、
  言い尽くせぬ永遠の一致をもって彼に結び合わせられ、
  彼との最も親しい話し合いの、その深い喜びを感じている。。。

  さて、マリアよ、
  御子はあなたの頼みを聞かれる。
  あなたが願えばその願いどおりになるだろう。

  彼にその礼拝すべき御名~イエズス(「「神は救われる」の意味)~を繰り返し、
  われらの心とからだの忌まわしいらい病を癒されよ。
  新たになったあなたの子供たちは、新しい産声をあげて、
  新しい歌を、全てのものが、
  永遠の喜びに溶け込むまで歌い続けるだろう』



 私たちの子としての心は、
 適切な美しい言葉を探し求めても見いださない時、
 悲しみを覚えることがある。
 そんな時、典礼は私たちを助ける。


 読者よ、次の言葉をただ読むだけでは足りない。
 心にとめて考察せよ。
 そして、この記事を読むあなたよ、
 ~私はあなたを知らないが、私たちの共通の御母が私たちを結び合わせている~
 次の祈りを静かに唱えよ。
 この祈りは、地上の母なる教会が、
 私たちみなを、その愛のうちに結び合わせる御母に向けるために作った公式の祈りである。


 『神よ、あなたは、
  その限りない憐れみによって罪人を救い、哀れな人々に避難所を与えるために、
  御独り子の御母、幸いなおとめマリアが、愛の完全なかたどりであるようにと望まれました。
  愛に満ちたこの御母の御心の優しさを祝う私たちの祈りを聞き入れてください。
  罪人のために改心の恵みと、
  全ての信者のために、天上的恵みの豊かさを得させてください。
  その同じ私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン』
                     (罪人の避難所である聖マリアの随意ミサより)



 私の敬愛する友人の司祭~Abbe Gabriel PERSYN~のメモの中に、
 美しい考察にとんだ数ページがある。その2,3を記してみよう。
 これは、純粋な神学と詩に養われた彼の清い心からほとばしり出た、
 天の御母についての考察である。



『聖なる三位一体のあこがれの住家、

 あなたはこの世に神をもたらした。。。

 。。。幸福の友、カルヴァリオの聖母、

 司祭なる処女として、あなたは罪の贖いのため、

 御胎から出た、血まみれの悲惨な御体を捧げた。

 。。。あなたは、われら全ての落ち度を憐れむ

 キリストのいつくしみである。

 。。。あなたは、われらの運命の謎を解く

 夕暮れの光線、

 息絶えようとする者の目にあけぼのを照らす

 臨終の時の助け人、

 計りえぬ救いをもたらす御方、

 朽ちない薔薇の木、

 神に聞き入れられる祈り人、

 あたたかい慈愛のふところ、

 赦しの港、

 困難の時の慰め、

 衰えを知らぬ若さ、

 生きた水の熱愛者、

 失望と腐敗に戦いを挑む者、

 全ての贖いの響き渡るシンフォニー、

 愛の聖母、

 美の聖母、

 赦しの聖母!』




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