カテゴリ: 霊的聖体拝領

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☆霊的聖体拝領☆~活ける愛の炎~

ポルト・マウリツィオの聖レオナルド司祭
霊的聖体拝領について

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霊的聖体拝領は、ミサにおいても、ミサ外においてもなされる恩寵の流れである

霊的聖体拝領について、
聖なるトリエント公会議の教えを知らなければなりません。

公会議は、
聖なる祭壇の秘蹟の拝領には、
3通りある、と教えています。

第1は、単に秘蹟的な拝領、
第2は、霊的な拝領、
第3は、秘蹟的かつ霊的な拝領です。

ここでは、第1の、単に秘蹟的な拝領の仕方については、
つまり、イスカリオテのユダがなしたような、
大罪の状態で拝領する人々の聖体拝領については、話しません。

また、第3の拝領の仕方、
つまり、実際に秘蹟的に拝領し、
しかも成聖の恩寵の状態でそうする人々の場合についても、話しません。

ここでは第2の拝領の仕方、
霊的な聖体拝領の方法についてお話します。

霊的聖体拝領とは、
聖なる公会議が述べているとおり、
『主の御体を、秘蹟的に拝領できないために、
 生き生きとした信仰と、燃え上がる愛の業のうちに、
 最高善である神に一致したい、との限りない望みを込めて、
 霊的に、主の御体を受けて、
 こうすることにより、自身に、この神聖な秘蹟の実りを受けられるようにする人々』に、
固有な拝領方法です。

この大いに優れた方法を容易にするために、
これから述べることを熟慮してください。

司祭が、ミサ聖祭の中で、聖体拝領しようとする時、
あなたは、内的にも、外的にも、自分を整えて、
ココロの中で、真の痛悔の行ないをして、
これほどまでに偉大な恩寵に、
自分がふさわしくないことを認める「しるし」として、
謙遜のうちに、拳で胸を打ちなさい。

そして、秘蹟的な聖体拝領をする時にしている、
愛と委託と謙遜、その他あらゆる準備の祈りを捧げなさい。

次いで、あなたの善のために、秘蹟のうちに隠れておられる、
善いイエズスをお受けしたい、との強い憧れを抱き、ココロからそれを望みなさい。

さらに、あなたの敬虔を燃え上がらせるために、
最も聖なるおとめマリアが、
もしくは、あなたの聖なる天上の保護者が、
聖体の秘蹟をあなたに差し出しておられる場面を想像しなさい。

霊的に、主イエズスの御体を受けて、
ココロにイエズスを抱擁したいと考えて、
愛に促された内的なコトバで、
繰り返し繰り返し、イエズスに申し上げなさい。

『イエズスよ、私の最愛の御方よ、おいでください。
 この貧しいココロの中においでになり、
 私の望みを満たしてください。
 おいでになり、私の霊魂を聖なるものとしてください。
 最も甘美なイエズスよ、おいでください』

このように申し上げたなら、
あとは黙りなさい。

あなたのうちに来られた善良な神を観想しなさい。

そして、実際に聖体拝領をしたかのように、
深くへりくだりつつ主を礼拝し、
主にココロからの感謝を捧げ、
秘蹟的な聖体拝領後にあなたがしている全ての内的行為を、
拝領後の感謝の祈りをお捧げしなさい。

現代のキリスト者のうちで、
ほとんど実行されていない、この祝福された聖なる霊的聖体拝領は、
数々の恩寵で、霊魂を満たし得る、天上の宝であることを知りなさい。

ある霊的著者は言っています。

『霊的聖体拝領は、非常に有益であり、
 秘蹟的聖体拝領と、同じ恩寵を生じさせることができます。

 いいえ、ある場合には、もっと多くの恩寵をもたらしうるのです。

 というのも、聖体を実際に受ける秘蹟的拝領は、
 秘蹟であるため、事効的な効力ex opera operatoを持っているので、
 それ自身の本性から、より高次の結果を生むことができるのですが、
 それにもかかわらず、
 ある霊魂が、非常に深い謙遜、愛、敬虔を込めて、霊的聖体拝領するならば、
 他の霊魂が、秘蹟的であっても、十分な心構えもないまま聖体拝領する場合よりも、
 もっと多くの恩寵を獲得することができるのは、当然可能なことだからです』


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私たちの救い主は、
この霊的聖体拝領に、深いご好意をお示しになり、
数々の機会に、ご自分のしもべたちの敬虔な望みに、
驚くべき奇跡をもって、喜んでお応えになられたのです。

ある時には、
ご自分の御手をもって、彼らに聖体を拝領させました。

そのようなことが、
モンテファルコの福者クララ、シエナの聖女カタリナ、
聖女リドヴィナらに起こりました。

ある時には、
天使たちを介して、彼らに聖体を拝領させました。

熾天使的博士Doctor Seraphicusと呼ばれる聖ボナヴェントゥラ司教、
聖オノラート司教、聖フィルミノ司教らになされました。

ある時には、
祝福された偉大な神の御母によって、聖体を拝領させました。

聖母はご自分の御手から、
福者シルヴェステルに、聖体を拝領させました。

この神秘に満ちた愛を、
疑うようなことがあってはなりません。

なぜなら、霊的聖体拝領は、
霊魂を、神の愛で燃え上がらせ、神と一致させ、
最も著しい恩寵を受けられるよう、
霊魂を準備させるものだからです。

霊的聖体拝領には、
秘蹟的聖体拝領にまさる1つの利点があります。

秘蹟的聖体拝領は、毎日ただ1度しかできませんが、
霊的聖体拝領は、ミサにあずかる度ごとにできるのです。

いいえ、ミサ以外の時にも、
朝・昼・晩に、いつでも、
教会の中で、あるいは自宅で、どこでも、
繰り返すことができるのです。

しかも、これは、
あなたの聴罪司祭の許可を求める必要もなく、行なえるのです。

要するに、
これまで述べた、準備と望みと感謝を実行する回数だけ、
霊的聖体拝領することができます。

その結果、
あらゆる種類の、あらゆる段階の、
卓越した恩寵と功徳で、あなたの霊魂は豊かにされるのです。

私の望みは、
毎日ミサ聖祭に、最も信心深く、敬虔にあずかる習慣が、
カトリックの世界に導入されることと、
『ミサにあずかる度ごとに、霊的聖体拝領をしよう』との聖なる望みを、
このことを知る全ての人のココロに植え付けることです。

もしもあなたが、秘蹟的に聖体を拝領するのにふさわしくなければ、
少なくとも毎日ミサ聖祭にあずかり、
毎日、霊的に聖体を拝領しなさい。

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☆霊的聖体拝領☆~活ける愛の炎~

霊的聖体拝領とは




霊的聖体拝領とは、
聖体のイエズスの聖心の燃える愛を、
至聖なる御体を、最も尊い御血を、
最も崇高な御霊魂を、至高の神性を、
霊的に、拝領することです。


聖体の拝領方法には、
そもそも秘蹟的な拝領と、霊的な拝領があります。

霊的聖体拝領の方法を知る人は、
聖霊に息吹かれています。


聖体の秘蹟は、
最も崇高な秘蹟、秘蹟の中の秘蹟であり、
最上の準備のないままに、これを秘蹟的に拝領することは、
誰にも許されていません。


秘蹟的聖体拝領できるのは、
大罪を有しておらず、
成聖の恩寵の状態にある信者で、
肉体的準備(定められた断食)がなされ、
ふさわしい意向を有している者です。

当然のことながら、
秘蹟的聖体拝領する者は、
準備の祈りをもってココロをととのえ、
愛に満ちた感謝の祈りをもって、自身を捧げなければなりません。


秘蹟的聖体拝領ができない信者は、
上記の条件のいずれかが欠けている状態にある者です。

ある者は、大罪の秘蹟的赦免を個別に受けていないケース、
ある者は、肉体的準備がととのわない~1時間以内に飲食をした~ケースがあります。

厳密に言えば、
ふさわしい意向を有していないまま、準備の祈りもしないまま、
単に、習慣的に機械的に外面的に近づき、
秘蹟的に聖体拝領することは、適切ではありません。
それはイエズス様に対して、あまりにも失礼というものです。

そのような場合、往々にして、感謝の祈りも捧げないまま、帰宅することになり、
結果的に、秘蹟の恩寵を受け損ねることになります。

ですから、このようなケース(意向の欠如、準備と感謝の祈りの欠如)も、
最上の準備がととのえられているとはお世辞にも言えません。


「聖体の秘蹟への崇敬においては、
 畏怖と愛が結びついています。

 愛は、聖体を受ける憧れを呼び覚まし、
 畏怖は、謙遜な畏敬の念を起こします。

 それゆえ、
 日ごとに聖体を拝領することも、
 たまに拝領を控えることも、
 この秘蹟への畏敬においては、結合しています。

 秘蹟を授かろうとする者は、
 自らが、深い敬虔の想いと畏敬のココロをもって、
 この秘蹟にあずかろうとこころがけるのです。

 もし、毎日、聖体を受けるための準備がととのう人であれば、
 その人が日ごとに聖体拝領するのはけっこうなことです。

 しかしながら、多くの一般的大衆にとっては、
 このような信心には、いろいろと数知れない妨げがあるので、
 毎日この秘蹟にあずかる、というのは、
 全ての人には、有益とはなりません。

 ただ、人が、聖体拝領のための準備に、
 自分の身がととのったと確信する度に、
 これにあずかる、というのが有益です」(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)


「教会は、信者が聖体を拝領することが許されない、客観的条件を定めています。

 全ての信徒が、聖体拝領できる状態で、
 ミサ聖祭に参加する、というのが最高であるのは当然です。

 とはいえ、信徒が集団で、各々のココロの状態を全く考えず、
 聖体の食卓に近づくことが生じる場合があります。

 このような誤った行為を、
 慎重に、確固として矯正する責任が、
 主任司祭に課せられます」(『あがないの秘蹟』82-83)


なお、大罪を有するまま秘蹟的聖体拝領することは、
恩寵を受けられないばかりか、崇高な秘蹟を汚す大罪を重ねることとなります。
これは「汚聖の聖体拝領」と呼ばれ、霊魂に死をもたらします。


Sumunt boni, sumunt mali:
sorte tamen inaequali,
vitae vel interitus.

善人も拝領し、悪人も拝領するが、
受け継ぐものは同じではない。
生命あるいは破滅である。

Mors est malis, vita bonis:
vide paris sumptionis
quam sit dispar exitus.

悪人には死が、善人には生命がもたらされる。
ごらん、同様に拝領したとしても、
どれほど異なる結末であることだろう。

(聖体の続唱『Lauda Sion』より 聖トマス・アクイナス司祭教会博士)


秘蹟的聖体拝領ができない信者の中で、
信仰と希望と愛に息吹かれた霊的聖体拝領の実践が行なわれます。

肉体的準備がととのわない~1時間以内に飲食をした~ケースや、
ミサに遅刻して、感謝の賛歌のあと、聖堂に入ったら、すでに聖変化、というケースは、
霊的聖体拝領がなされるべきです。

秘蹟的拝領のためには、ふさわしい準備が欠けており、
教会が定めた条件を、明らかに満たしていないからです。


大罪の秘蹟的赦免を個別に受けていないケースに関しては、
霊的聖体拝領ができる場合と、そうでない場合があります。

そうでない場合とは、大罪を痛悔するキモチさえない場合です。
そもそも、そのような人は、霊的聖体拝領というものを知りません。
みずから恩寵を遮っているので、そういった発想も望みさえも起こらないからです。


「いかなる罪も、痛悔がないままで赦されることはない。
 大罪は、秘蹟によらなければ、
 また、望みの秘蹟(完全な痛悔)によらなければ赦されない」(Denzinger : 796,895)

「現実的大罪は、
 聖徳を意味する『痛悔』のないままに赦される、ということは不可能です。
 
 通常、罪の赦しは、
 告解の秘蹟において、結び付けたり解いたりする、司祭の職務により、全うされます。

 ただ、キリストが、姦婦や罪女をお赦しになられたように、
 神は、秘蹟によることなく、罪を赦すことがおできになります。

 むろんキリストは、痛悔の聖徳が彼らになければ、
 これらをお赦しにはなりませんでした。

 秘蹟という薬剤は、
 実際に施用された場合に限らず、
 これにあずかる決意がなされただけでも、効果があるのです。

 それゆえ、傷(罪)の治癒(霊的救い)が、
 秘蹟による個別的赦免に先んずることが、しばしばあるのです」

 (聖トマス・アクイナス司祭教会博士)


霊的聖体拝領ができる場合とは、
大罪の秘蹟的赦免を個別に受けていないケースでありながらも、
犯した大罪をココロから痛悔していて(完全な痛悔)、赦しの秘蹟を受ける望みをもち、
愛のうちに働く、生きた信仰に満たされて、
主イエズスの至聖なる御体と最も尊い御血を、
霊的にでも受けたい、との望みを抱く場合です。

「この霊的聖体拝領によって、
 彼らは秘蹟の効果を確実に受けているのです」(トリエント公会議 8)


秘蹟的聖体拝領ができない人々に対しては、
霊的聖体拝領の行為を通して、
聖体のイエズスの聖心が、神秘的な方法で、
その人々に、ご自身をお与えくださるのです。

実に、その人々は、神秘的な方法で、
主イエズスの御体を食べ、
その御血を飲ませていただくのです。

聖体のイエズスの聖心の燃える愛が、
それを行なうのです。

素晴らしい至聖なるエウカリスツィアの秘蹟は、
世々にたたえられますように!



聖体のイエズスの聖心よ、全世界があなたの愛で燃えますように!



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☆霊的聖体拝領☆~活ける愛の炎~


・・・なのでおミサには預かりましたが、ホスチアを頂けませんでした。




 「人が自分に対する接し方」について、気に留めないようにしてください。
 人の言動や内的状態をあれこれ詮索する事は、あなたには委ねられていません。
 それらの件に関しては、全てをご存知の神に委ねて、それらの人の態度について考えないようにしてください。
 『赦す』ということは、このような『心と思いの対応及び沈黙』を含んでいるからです。


 人は自分がどのような状況下にあろうとも、善業をやめてはなりません。
 ミサには参加するよう努めてください。
 ただ聖体拝領について言及するならば、人は、その良心に従って行動すべきなので、『人がみんな聖体拝領してるから、自分は準備できてないけど、一緒に聖体拝領に行こう』との考えで聖体拝領する人は、自分への裁きを飲食する人に他なりません。
 外見上正しい者のように振舞っていても、神はその人の内的状態をご存知です。

 みなが皆聖体拝領することは理想ですが、人それぞれの心の状態は様々なのですから、現実にはありえないことです。
 ですから、仮に、聖体拝領を控えたことについて、悪く評価する人がいるとすれば、それは聖体拝領について、思い違いをしている、と言わざるをえません。


 神様があなたを見放すことなどありえません。あなたが神様を見放さない限り(信仰や希望、愛と信頼を打ち捨てない限り)、神様があなたを見捨てることなど、ありえないのです。
 神様は心の狭い方ではありません。自分の尺度で、神様のことを決め付けてはいけません。
 ご安心ください。あなたが想像すらできないほど、主はあなたを愛しておられるのです。


 『神を信じる』とは、『自分への神の愛を信じ続ける』ということも含まれています。
 だから、信じないものではなく、信じるものになりなさい。


 知ってもらいたいことがあります。それは、ミサにおいて、聖体拝領には2種類ある、という事です。 秘跡的聖体拝領と霊的聖体拝領の2つです。
 秘跡的聖体拝領については、大罪を持たず、良い意向をもって、聖体拝領を通常通りする人の、外面に見える行為です。

 霊的聖体拝領というのは、人それぞれの諸般の事情により、通常通りの秘跡的聖体拝領が出来ない人たちのために、主が与えてくださる、最も貴重な霊的な宝、愛の営みです。
 霊的聖体拝領は、『今、秘跡的聖体拝領ができませんが、望みのうちにもあなたをいただきたい』との熱い望みのうちに、「霊的に聖体拝領する」行為の事をいいます。
 端的に言えば、ミサにあずかっても聖体拝領出来ない人々のための、主の大きな恵みです。


 これについての詳細は、『霊的聖体拝領』のコーナーに載せる予定です。ですから、あまり外見的な事柄に捉われず、主に信頼してください。 


 『私の主よ、私の全てよ』との心の叫びのうちになされる霊的聖体拝領 は、その人の霊魂のうちで、主が、秘跡的聖体拝領に類似した恵みの効果を与えるものです。
 霊的聖体拝領の前後には、準備と感謝の祈りを捧げなさい。

 霊的聖体拝領は、外面には見えない、純粋な内的行為ですが、主がご自身の燃える愛であなたを包み込む『神の業』に他なりません。

 神を信じ、神を希望し、そして何より、神を愛するのです。

 神の愛は、あなたに先立ち、あなたに伴い、あなたを支え、あなたの足らなさの全てを、ご自身の愛で補ってくださいます。

 ですから、いつでも、どのような状態にあろうとも、神に感謝を捧げ、その愛をたたえなさい☆

 ・.。*†*。.・実に、神の愛は永遠です・.。*†*。.・


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