カテゴリ: 時課の典礼


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Institutio generalis de Liturgia Horarum
時課の典礼(教会の祈り)の総則
 
De mandato Liturgiam Horarum celebrandi
時課の典礼を挙行する特命について
 
29. Episcopi ergo et presbyteri, aliique ministri sacri, qui mandatum ab Ecelesia acceperunt (cfr. n. 17) Liturgiam Horarum celebrandi, integrum eius cursum cotidie persolvant, Horarum veritate,quantum fieri potest, servata.
 
司教、司祭、他の聖なる奉仕者は、教会からの特命を受けて、時課の典礼を挙行するに際して、毎日、その全過程を、完全に、果たさなければならない。また、可能な限り、その適合する時課を、遵守しなければならない。
 



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教会の聖務者が負うべき時課の典礼(教会の祈り)に関する責務について
 
時課の典礼の『全過程を完全に果たす』とは
その各時課における細部に至るまで、完全に果たすことを意味しています
 
たとえば、朝の賛美および晩課についていえば
導入句、賛歌
交唱1、詩編唱和、交唱1、交唱2、詩編唱和、交唱2、交唱3、詩編唱和、交唱3
短い朗読、応唱
讃美歌交唱、福音讃美歌(ベネディクトゥス、マニフィカト)、讃美歌交唱
共同祈願、主の祈り
結びの祈願(短い結びではなく、長い結び~後述する)、祝福
この細部を、忠実に、なんら省くことなく、完全に唱える(可能な限り歌う)ことが
時課の典礼の『全過程を完全に果たす』といえるのであって
 
仮に、聖務者が、これらのうちのあるものを、恣意的に省略したり
ひどい場合には時課そのものを唱えずに放置しておくなどということは
教会からの特命を、自由な意志で、誓約し、受諾したことについて
著しく背反することになるでしょう
 
 
また、時課の典礼の『賛歌 Hymnus 』が
いまだ日本語で訳されていないのであれば
~日本語の教会の祈りが発行されてから すでに40年以上経過している~
おおもとの時課の典礼(ラテン語ローマ規範版)を取り寄せて
それを使用することによって
その不足を補うべき責務が、個々の聖務者にはあるでしょう
 
ここにきて時課の典礼の『賛歌 』の翻訳が本格的に着手されたようですが
まだまだ作業は初期段階に過ぎず、その完成はいつになるのか不透明です
 
これまで『司教団が動かないから自分は個別的に自発的に動かなくてもよい』
などと安易に考えて、放置していたのかもしれませんが
神様の御前において、自らが果たすべき責務について
自らが、自由な意志で、誓約した特命について
決して周囲に責任転嫁することはできません
 
 
時課の典礼に関する その他の有用と思われる いくつかの指摘
~ざっくりとした比較~
 
導入句について 
ラテン語規範版
41. Laudes matutinae et Vesperae inchoantur a versu introductorio Deus, in adiutorium meum intende:Domine, ad adiuvandum me festina, quem sequitur  Gloria Patri cum Sicut erat et Alleluia (quod omittitur tempore Quadragesimae).
朝の賛課および晩課は、次の導入句によって始められる。『神よ、私の救いに心を留めてください。』『主よ、私の助けに急いでください。』続いて、『栄光は聖父と。。』および『初めのように。。』そして、『アッレルーヤ』(四旬節には省く)が唱えられる。

異なる箇所
 
先唱;  規範版 「神よ、私の救いに心を留めてください」  
        日本語版 「神よ、私を力づけ」
応唱;   規範版 「主よ、私の助けに急いでください」     
         日本語版 「急いで助けに来てください」
 
結びの祈願について 
ラテン語規範版
53. Dicto Pater  noster, dicitur immediate oratio conclusiva, quæ pro feriis ordinariis  invenitur in Psalterio, pro aliis diebus in Proprio.
の祈りを唱えてから、ただちに結びの祈願が唱えられる。それは、通常の週日のためには、詩編唱和部Hebdoma I, II, III, IV~第1週、第2週、第3週、第4週詩編書~)に、他の日々のためには、固有祈願部(年間主日、待降節、降誕節、四旬節、復活節、祭日、記念日)に、各々見出すことができる。
 
異なる箇所
 
規範版  「聖霊の交わりの中で、あなたと共に、世々に生き、支配しておられる 神である御子、私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン」
 
日本語版 「私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン」
 
祈願のしめくくりは
読書課、朝課、晩課については、長いものを唱えるよう指定されているので
Per Dominum nostrum Iesum Christum etc.を唱えなければなりません

 3時課、6時課、9時課、終課については
短いものを唱えるよう指定されているので
従来どおりのものを唱えれば事足ります
 
 
祝福について
 
ラテン語規範版
54. Deinde, si præest sacerdos vel  diaconus, ipse populum dimittit per salutationem Dominus  vobiscum et benedictionem ut in Missa, quam sequitur invitatio Ite in pace. R. Deo gratias.Secus celebratio concluditur per Dominus nos benedicat,etc.
その祈願後、もし、司祭もしくは助祭が時課の先導をしているならば、ミサの時と同様に、『主は、あなたたちと共に』との挨拶(会衆の応唱 『また、あなたの霊と共に Et cum spiritu tuo 』 を含む)と祝福、および、それに続く掛け合い『行きなさい。平和のうちに』、『神に感謝いたします』によって、会衆を散会させる。単独での時課の挙行(司祭もしくは助祭の不在、あるいはソロで唱える場合Absente sacerdote vel diacono et in recitatione a solo であれば、『主が、私たちを祝福し、全ての悪から護り、永遠の生命に導き入れてくださいますように。アーメン。Dominus nos benedicat, et ab omni malo  defendat, et ad vitam perducat æternam. Amen. 』との文言によって時課がしめくくられる。
日本語版
54.最後に、司祭または助祭が司式する場合、ミサの時と同じように「主はみなさんとともに」のあいさつと祝福、それに続く「行きましょう、主の平和のうちに」、「神に感謝」ということばをもって散会する。司祭、助祭が不在の時には「賛美と感謝のうちに」、「アーメン」ということばで祭儀を終わる。
異なる箇所
~司祭もしくは助祭の不在、あるいは単独で唱える場合のしめくくりの違い~
 
規範版  「主が、私たちを祝福し、全ての悪から護り、永遠の生命に導き入れてくださいますように。アーメン。」

日本語版 「賛美と感謝のうちに」、「アーメン」


読書課(および昼課)のしめくくりの賛句について 
 
ラテン語規範版
69. Officium lectionis concluditur de more  oratione diei propria et, saltem in recitatione communi, acclamatione Benedicamus Domino. R. Deo  gratias.
読書課は、慣習として、当日の固有祈願でしめくくられる。また、共同で唱えられる際には、少なくとも『主を祝福しましょう』、『神に感謝いたします』との賛句でしめくくられる。

異なる箇所
 
先唱;規範版 「主を祝福しましょう」      日本語版 「賛美と感謝のうちに」
応唱;規範版 「神に感謝いたします」     日本語版 「アーメン」
 
 

今回、大まかに、時課の典礼(教会の祈り)における
ラテン語規範版と、日本語省略版の内容を、ざっくりと比較してみましたが
実際に唱えていく上での違いが明らかになったことと思います
 
他の異なる点を挙げればきりがないので
今回はごくごく一部に過ぎません
(今回の指摘も、字数制限のため、作成した文章を大幅にカットしました)
 
全教会との交わりのうちに
『祈りの法、信仰の法、祭儀の法』における一致を保ちたい、と望む人は
少なくとも、上記の点につき
適宜、個別的改善をこころみるのが肝要だと思います


一般信徒については
時課の典礼に加わることは
奨められるべき段階に過ぎないので
仮に、全く違う文言を、今まで知らずに唱えていたからといって
神様の御前において、さほど責任はありません
 
自らに注がれる恩寵の流れが若干減るぐらいです
 
たとえると、100%の純粋な栄養飲料を飲むか
水で50パーセント薄められた栄養飲料を飲むか、といった具合でしょう

しかしながら、教会の公務にあたる聖務者については
神様の御前において、一般信徒の場合とは
明確に異なる段階の責務が生じています

教会からの特命を受けている、司教、司祭、他の聖なる奉仕者は
時課の典礼を挙行するに際して
毎日、その全過程を、完全に、果たさなければならない
という重大な義務があります

そのため、厳密にいえば
これまで用いていた日本語省略版の「教会の祈り」の従来の唱え方は
その義務の遂行を完全に果たしえない、不完全なものですから
 
今のやり方では
聖務者が有する重大な責務
つまり、時課の典礼の『全過程を完全に果たす』ということが実際できません
 
上記の違いの指摘について
「こんな些細なことなど、どうでもいいことだ」と鼻で笑ってあなどる人は
神の臨在の意識が低いか、もしくは弛緩した良心の段階にいると思われます

通常、「そうなんだ。それなら極力そっちで唱えたほうがいいよね」となるはずです


私は、教会の祭儀の些細な規則を破るぐらいなら
それよりもむしろ、死を1000回 忍ぶ覚悟があります
(イエズスの聖女テレジアおとめAutobiographia 33


聖務者が、時課の典礼におけるその責務を
瑕疵なく、なんらの曖昧さもなく、忠実、完全に、全うするためには
ローマのラテン語規範版の時課の典礼Liturgia Horarumを自ら取り寄せて
潜心と畏敬を伴う、ふさわしい準備と感謝のうちに
ふさわしく、注意深く、敬虔に、各時課を唱えると共に
へりくだりと愛のうちに、想いを声に合わせなければなりません
 
聖務者は、自らの負うべき責任が
一般信徒のそれよりも、はるかに重いものであることを認識しておくべきです
 
実際、神の聖務をなおざりにする聖務者は
神の国に入ることができないからです
 


Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith

カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心

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Hæc est Porta Misericordiæ !
 

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Misericordiæ vultus Patris est Christus Iesus, alleluia.
御父の憐れみの御顔は、すなわちキリスト・イエズスである。アッレルーヤ。
Psalmus117 (118)
Vox iubilationis et salutis
 
Hic est lapis, qui reprobatus est a vobis ædificatoribus,
quifactus est in caput anguli (Act 4, 11).
この石はあなたたち家造りたちから排斥されたが、隅のかしら石となった。 (使徒4,11
 
Confitémini Dómino, quóniam bonus,*
ほめたたえよ、主を。主は善良な御方であり、
quóniam in sæculum misericórdia eius.
その憐れみは世々に及ぶ。
Dicat nunc Israel, quóniam bonus,*
イスラエルよ、今こそたたえよ。主は善良な御方であり、
quóniam in sæculum misericórdia eius.
その憐れみは世々に及ぶ。
Dicat nunc domus Aaron,*
アーロンの家よ、今こそたたえよ。
quóniam in sæculum misericórdia eius.
その憐れみは世々に及ぶ。
Dicant nunc, qui timent Dóminum,*
主を畏れ敬う者よ、今こそたたえよ。
quóniam in sæculum misericórdia eius.
その憐れみは世々に及ぶ。
De tribulatióne invocávi Dóminum,*
苦悩の中から主を呼び求めると、
et exaudívit me edúcens in latitúdinem Dóminus.
主は私のことを聴き入れられ、私を広場に導き出された。
Dóminus mecum,*
主が私と共におられる。
non timébo, quid fáciat mihi homo.
私は恐れない。人が私に何をなしえようか。
Dóminus mecum adiútor meus,*
主が私の助けとして共におられる。
et ego despíciam inimícos meos.
私の敵共を私は見おろす。
Bonum est confúgere ad Dóminum*
主に依り頼むことは素晴らしい。
quam confídere in hómine.
人に信頼するよりも。
Bonum est confúgere ad Dóminum*
主に依り頼むことは素晴らしい。
quam confídere in princípibus.
君主たちに信頼するよりも。
Omnes gentes circuiérunt me,*
全ての民々に私は取り囲まれたが、           
et in nómine Dómini excídi eos.
私は主の御名によって彼らを突き倒した。
Circumdántes circumdedérunt me,*
取り囲む者たちに私は取り囲まれたが、          
et in nómine Dómini excídi eos.
私は主の御名によって彼らを突き倒した。
Circumdedérunt me sicut apes†
群がる蜂のように私は取り囲まれ、
et exarsérunt sicut ignis in spinis,*
刺々しい炎のように焼きつけられたが、
et in nómine Dómini excídi eos.
私は主の御名によって彼らを突き倒した。
Impelléntes impulérunt me, ut cáderem,*
突き飛ばす者たちによって私は突き飛ばされ、倒れたが、
et Dóminus adiúvit me.
主は私を助けられた。
Fortitúdo mea et laus mea Dóminus *
主は、私の力強さ、私の称賛、
et factus est mihi in salútem.
私の救いとなられた。
Vox iubilatiónis et salútis * in tabernáculis iustórum:
歓呼と歓喜の声が、義人たちの幕屋のうちに響く。
«Déxtera Dómini fecit virtútem!
「主の右手が力をあらわされた!
Déxtera Dómini exaltávit me;*
主の右手が私を高められた。
déxtera Dómini fecit virtútem!».
主の右手が力をあらわされた!」。
Non móriar, sed vivam * et narrábo ópera Dómini.
私は死なない。むしろ生きるだろう。そうして主の御業を告げ知らせよう。
Castígans castigávit me Dóminus *
主は懲罰者によって私を懲らしめられたが、
et morti non trádidit me.
私を死には渡されなかった。
Aperíte mihi portas iustítiæ;*
正義の門よ、私に向けて開け。
ingréssus in eas confitébor Dómino.
そこに入り、私は主をほめたたえよう。
Hæc porta Dómini;*
これこそ主の門、
iusti intrábunt in eam.
義人たちはそこに入らせていただく。
Confitébor tibi, quóniam exaudísti me*
あなたをほめたたえよう。あなたは私のことを聴き入れ、
et factus es mihi in salútem.
私の救いとなられた。
Lápidem, quem reprobavérunt ædificántes,*
家造りによって排斥された石、
hic factus est in caput ánguli;
これが隅のかしら石となった。
a Dómino factum est istud *
それは主によって成し遂げられたが、
et est mirábile in óculis nostris.
私たちの目からすれば驚きであった。
Hæc est dies, quam fecit Dóminus:*
この日に、主は成し遂げられた。
exsultémus et lætémur in ea.
この日のゆえに声高らかに喜ぼう。
O Dómine, salvum me fac; *
あぁ、主よ、私をお救いください。
o Dómine, da prosperitátem!
あぁ、主よ、私に繁栄をもたらしてください!
Benedíctus, qui venit in nómine Dómini.*
祝福された御方、主の御名によって来られる御方。
Benedícimus vobis de domo Dómini.
主の家から、あなたたちを祝福しよう。
DeusDóminus et illúxit nobis.*
神である主が私たちを照らしてくださる。
Instrúite sollemnitátem in ramis condénsis
厳かに導き入れられる。敷き詰められた枝葉のうちに、
usque ad córnua altáris.
祭壇の角に至るまで。
Deus meus es tu, et confitébor tibi,*
あなたは私の神、あなたをほめたたえよう。
Deusmeus, et exaltábo te.
私の神よ、あなたを称賛しよう。
Confitémini Dómino, quóniam bonus,*
ほめたたえよ、主を。主は善良な御方であり、
quóniam in sæculum misericórdia eius.
 その憐れみは世々に及ぶ。

Glória Patri, et Fílio, et Spirítui Sancto.
栄光が、聖父と、聖子と、聖霊にありますように。
Sicut erat in princípio, et nunc et semper,
初めのように、今も、いつも、
et in sæcula sæculórum. Amen.
世々に至るまで。アーメン。
 
Misericordiæ vultus Patris est Christus Iesus, alleluia.
御父の憐れみの御顔は、すなわちキリスト・イエズスである。アッレルーヤ。
 
 
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フランシスコ教皇聖下
 
御父の憐れみの御顔は、すなわちキリスト・イエズスです。
 
憐れみの神秘は、
歓喜、平静、平和の源泉であり、私たちの救いの契約です。


憐れみ、それは至聖なる三位一体の神秘を啓示する御言葉です。
憐れみ、それは神が私たちのもとに来られた最終的な最高の行為です。


憐れみ、それは人生の旅路で出会う、兄弟姉妹に対して純粋なまなざしを向けると共に、
それぞれの人格の心のうちに据えられるべき、礎となる法です。


憐れみ、それは私たちの罪という限界にもかかわらず、
私たちがいつも愛されているという希望に心を開かせ、
神と人とを1つに結び合わせる道です。
 
罪のおびただしさを前にして、
神が、赦しの十全さをもってお応えになられたのです。
 
憐れみは、全ての罪が、たとえその極みにまであるとしても、
神の愛の寛大さに限界を設けることのできるものは何もないのです。
 
私は喜びのうちに聖なる扉を開きます。
それを機に、これは憐れみの扉 Porta Misericordiae となり、
誰であれ、そこから入る人は、
慰め、寛容、希望をもたらされる神の愛を、経験することができるでしょう。
 





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キリストの受難のカンティクム(Ⅰペトロ2.21b-24)
Canticum de passione voluntaria servi Dei, Christi



Christus passus est pro vobis,
vobis relinquens exemplum,
ut sequamini vestigia eius:
qui peccatum non fecit,
nec inventus est dolus in ore ipsius;
qui cum malediceretur, non remaledicebat;
cum pateretur, non comminabatur,
commendabat autem iuste iudicanti;
qui peccata nostra ipse pertulit
in corpore suo super lignum,
ut peccatis mortui iustitiae viveremus;
cuius livore sanati estis.


キリストは、あなたたちのために苦しみを受けられ、
あなたたちに模範を残されたが、
それは、その足跡に従って歩ませるためでした。

彼は、罪を犯さず、
その口に偽りは見出されず、
侮辱を浴びせられても侮辱を返さず、
虐げられても威嚇せず、正義の裁き主に委ねられました。

彼は、私たちの罪をご自身のからだに担って木にかけられましたが、
それは、私たちが罪に死んで、正義に生きるためでした。
あなたたちは、その御傷によって、癒されたのです。

ex. Liturgia Horarum Ⅱ
http://media.imeem.com/m/1Hsp8m50h_/


聖務日課〔時課の典礼〕の直前の祈り


この祈り文については、1949年12月3日付けで、3年の部分免償が付与されたことがあります。

Aperi, Domine, os meum ad benedicendum nomen sanctum tuum: 
munda quoque cor meum ab omnibus vanis, perversis et alienis cogitationibus; 
intellectum illumina, affectum inflamma, 
ut digne, attente ac devote hoc Offícium recitare valeam, 
et exaudiri merear ante conspectum divinæ Majestatis tuæ. 
Per Christum Dominum nostrum.  Amen. 

 主よ、あなたの聖なる御名を祝福するために、私の口を開いてください。空しく、ゆがんだ、不適切な全ての思いから、私の心を清め、知性を照らし、愛を燃え立たせてください。
 私がこの聖務をふさわしく、注意深く、敬虔に唱え、あなたの神聖な威光の御前に、聞き入れられるに足るものとなることができますように。私たちの主キリストによって。アーメン。

Domine, in unione illius divinae intentionis, qua ipse in terris laudes Deo persolvisti, 
has tibi Horas (vel hanc tibi Horam) persolvo.

 主よ、地上であなた御自ら神に賛美を捧げられた、かの神聖な意向に心を合わせて、私はこれらの(この)時課を、あなたにお捧げいたします。




聖務日課〔時課の典礼〕の直後の祈り


この祈り文については、1949年12月3日付けで、3年の部分免償が付与されたことがあります。


Sacrosanctae et individuae Trinitati, crucifixi Domini nostri Jesu Christi humanitati, 
beatissimae et gloriosíssimae semperque Virginis Mariae foecundae integritati, 
et omnium Sanctorum universitati 
sit sempiterna laus, honor, virtus et gloria ab omni creatura, 
nobisque remissio omnium peccatorum, per inifinita saecula saeculorum. Amen.

 至聖にして分けられない三位一体の神に、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストの人間性に、至福にして栄光に満ちた終生おとめマリアの溢れる清さに、また、あらゆる聖人の全てにわたり、全被造物からの永遠の賛美と誉れと力と栄光がありますように。そして、私たちの全ての罪が赦されますように。世々に至るまで。アーメン。

V.  Beata viscera Mariae Virginis, quae portaverunt aeterni Patris Filium.

  永遠の御父の御子を宿したおとめマリアの母胎は幸いです。

R. Et beata ubera, quae lactaverunt Christum Dominum.

  主キリストに吸われた乳房も幸いです。


 Pater noster et Ave María.
「主の祈り」「アヴェ・マリア」(各1回)

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時課の典礼について



Summus Novi atque aeterni Testamenti Sacerdos,
Christus Iesus, humanam naturam assumens,
terrestri huic exsilio hymnum illum invexit,
qui in supernis sedibus per omne aevum canitur.
Universam hominum communitatem ipse sibi coagmentat,
eandemque in divino hoc concinendo laudis carmine secum consociat.


新しい永遠の契約の最高司祭であるキリスト・イエズスは、人間性をお受け取りになり、
このさすらいの地上に、天上の玉座において全ての世々永遠に歌われている賛歌をもたらしてくださった。
全人類共同体は、主御自身によって結び合わされ、
同じようにこの神的交響楽の賛歌の響きに、御自身と共に参与させていただくのである。


Illud enim sacerdotale munus per ipsam suam Ecclesiam pergit,
quae non tantum Eucharistia celebranda, sed etiam aliis modis,
praesertim Officio divino persolvendo,
Dominum sine intermissione laudat et pro totius mundi salute interpellat.


実にかの司祭職は、主御自身によって、御自分の教会を通して継続され、
偉大なるエウカリスツィアの祭儀だけでなく、他の方法によっても、
特に、神的聖務の遂行によっても継続され、
主を絶え間なくほめたたえ、全世界の救いのために執り成すのである。


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