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人間の悲惨さを包み込む神の憐れみ

~罪人をご自分のふところに迎えようとされるイエズス~
 
福者コルンバ・マルミオン修道院長
 
 
人間の惨めさの中で、最も深刻なものの1つ、それは罪です
 
しかし、キリストの憐れみに満ちた聖心は
これに特別に引き寄せられます
 
肉となられた神の御言葉の公生活でのふるまいにおいて
ことさら私たちを感嘆させずにおかない点は
まさに、罪人に対する憐れみに満ちたふるまいです
 
イエズスは、罪人を相手とする働きについて
格別な熱意を示されました
 
聖なる福音史家は記しています
「イエズスと弟子たちが食事につかれた際
多くの徴税人や罪人たちも、そこに連なっていた」
 
「彼は徴税人や罪人の友だ」と揶揄されるほど
イエズスのこのふるまいは習慣となっていました
 
この事について、ファリザイ人たちがつまずいたおり
イエズスはこの事を否定されるどころか、むしろこれを確認して
その深い理由を示して仰せられました
 
「医者を必要とするのは健康な人ではない
むしろ、病んでいる人こそ、必要なのである
私がここに来たのは、義人を招くためではなく
むしろ、罪人を招いて、これを悔い改めさせるために他ならない」
 
天の御父の永遠のプランによれば
イエズスは、私たち人類の長兄です
 
『神は私たちを御子の姿にあやからせようとあらかじめ定められた
これは御子が、多くの兄弟の中で、長子となるためであった』
 
イエズスは、私たちの本性を取られました
それは、聖パウロが「罪に満ちた肉のようなもの」と呼んでいるように
純粋そのものである神的ペルソナに罪が触れることはありませんでしたが
その人間性は咎のあるアダムの子らのそれであったのです
 
多くの人々は、罪に陥り
赦しを必要としています
 
霊魂たちは、罪の奴隷になり果てて
神から遠く離れて、暗闇と死の陰に座しています
であるがゆえに、到底直接に、神の啓示を受けえません
 
神ご自身による、聖なる人間性への卑下によらなければ
いかなることをもってしても、天父の家に連れ戻すことはできないのです
 
イエズスの教訓や教義の大部分
罪人たちに対する優しさと赦しの数々は
どのようにすれば哀れな罪人たちの霊魂に
神の憐れみの深さをいくらかでも悟らせることができるだろうか
との意図のもとになされました
 
最も美しいたとえの1つである放蕩息子の話の中で
イエズスは私たちに
天におられる私たちの父の真の面影を啓示されました
 
しかし、このたとえの直接の目的は
聖福音が明確に示すとおり
罪人に対するイエズスの優しい受容の態度を示すことにあります
 
時に、多くの徴税人や罪人が、イエズスの話に耳を傾けようとして近づくと
ファリザイ人たちは不平をつぶやいて
「この男は、罪人たちを迎え入れて、一緒に食事などしている」と言えば
イエズスは、これに答えて
ご自分の態度を説明するために、この放蕩息子のたとえを語られました
 
イエズスはまず、御父の比類ない優しさを示します
父は、罪深い息子の、今までの全ての忘恩、全てのふしだらを忘れ
たった1つのことしか頭にありません
 
「私の子は、死んでいたのに生き返り
見失われていたのに見出された
大いに喜び、祝宴を開いて、会食を楽しむのは当然ではないか」
 
もしも、このたとえが
単に、放蕩息子への父親の憐れみの絵巻を
私たちの眼前に繰り広げるのが唯一の目的であったとすれば
イエズスは、ここでこのたとえを打ち切られていたでしょう
 
たしかにそれは、これ以上のものを考えることができないほど
素晴らしく、果てしない、大海原のような憐れみの際限のなさを示します
 
しかし、とても残念なのは
私たちが、この美しいたとえの前半に感激して驚くあまり
イエズスが、後半に示された大切な教訓
すなわち、罪人へのご自分の憐れみの態度を冒涜する人々
自分たちがそのような類いの罪人ではないと自負する人々に対して
与えようと望まれた大切な教訓を
あまりにも、しばしば見失いがちなことです
 
父が、放蕩息子の立ち帰りを喜んでもうけた祝宴に
列席して喜びを共有することを、頑なに拒絶した長男の
憎むべき排斥的態度を私たちに示して
イエズスは、このたとえを続けられます
 
悔い改める兄弟である徴税人や罪人に対して
彼らを病原菌や異物のように見なして、触れることさえはばかり
彼らから遠ざかろうとしたファリザイ人たちのふるまいについて
まず、彼らの傲慢なふるまいが、いかに無慈悲であるか
彼らのつまずきが、いかに身勝手であるか
イエズスは、そのことを諭そうと望まれました
 
ついで、私たちの長男であるイエズスは
悔い改めて懺悔する次男たち
すなわち、徴税人や罪人たちとの交流を、避けようとしないばかりか
むしろ、彼らを探し求めて
彼らが祝宴に列席すべき者であることを教えようと望まれました
 
「悔い改める1人の罪人のためには
悔い改めを必要としない99人の義人についてよりも
天においては大きな喜びがわきあがる」
 
放蕩息子のたとえだけでも
すでに天父の憐れみは、十二分に美しく啓示されていますが
私たちの救い主であるイエズスは
ただ教えることで説明されるだけでなく
その優しく細やかなふるまいによって
この教えを彩り、力強く示そうと望まれました
 
実際、イエズスのこの憐れみのふるまいは
私たちを大いに魅了し、私たちの心を深く揺さぶらずにはおかないのです
 
Misericordes sicut Pater !