2018年05月


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2018年 教皇聖下の祈りの意向
(7月から12月まで)
 
これらの毎月の祈りの意向に
『当月の喫緊の意向』が追加表明される場合もあります
 


 
7月 司祭たちと彼らの司牧的奉仕
 
司牧的働きにおいて、疲労や孤独を経験する司祭たちが、主との親密さのうちに、また、彼らの兄弟である司祭たちとの友情のうちに、助けと慰めを見出すことができますように。

 


8月 家族という貴重な宝
 
エコノミストたちや政治家たちによる種々の広範囲に及ぶ決断が、家族を人類の貴重な宝の1つとして保護するものとなりますように。



 
9月 アフリカの青年たち
 
アフリカの青年たちが、彼ら自身の国々で、教育や労働に積極的に携わることができますように。

 


10月 奉献生活者たちの使命
 
奉献された男女修道者たちが、彼ら固有の働きにいそしみ、貧しい人々、軽んじられた人々、自ら声をあげることのできない人々のうちに寄り添うものとなることができますように。



 
11月 平和のための奉仕の働き
 
愛をこめた言葉遣いや対話が、いさかいをもたらす言葉遣いに対して、いつも打ち勝つことができますように。



 
12月 信仰伝達のための奉仕の働き
 
信仰伝達のための奉仕の働きに取り組む人々が、独自文化に接する彼らの対話において、現在の状況に適した言葉を見出すことができますように。
 


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フランシスコ教皇聖下
 
家庭に寄り添う教会
 
イエズスがそうなさったように、教会は
ジェネレーション・ギャップ、家庭内暴力、経済的困難、雇用不安などの
いくつもの家庭が抱える不安や緊張を理解し
旅の随伴者のように、彼らに寄り添います
 
心をくばる母親のように、教会は
私たちを愛して養われる神のうちに
揺るぎないものであることを、私たちに教えます
 
この『根本的な内的経験』、この『堅固な内的経験』は
人生で直面する全ての妨げや移り変わりにおいて私たちを助け
全ての悪を征服する善のうちにとどまらせ
私たちが聖人になることを可能にするものです
 
信仰は、家庭の中で伝えられるべきものです
私たち各々の限界を認めつつ、互いに助け合い
他者との喜びに満ちた調和における希望に向けて
開かれた心をもって祈るよう、私たちに教えてくれるものです
 
母親としての教会
 
福音においてマリアは、いつも『イエズスの母』として記述されています
彼女の母親としての優しさは
受胎告知の初めから、福音全体を通じて強調されています
 
この特質は、教会の教父たちによって
早期から注釈されていました
そして、この特質は、教会にも当てはめられていました
 
教会は女性的です
なぜなら、教会も、花嫁も、文法性が女性だからです
 
そして彼女(教会)は母親です
彼女は生命をもたらすからです
 
花嫁であり母親である教会
そして教父たちは、さらに進んで
あなたたちの霊魂もまた、キリストの花嫁、母親である、と述べます
 
この見解は、教会の御母であるマリアに由来しています
この見解のうちに、私たちは
教会の、この女性的特質を理解することができます
 
この女性的特質が教会に失われた時
教会は、自身のアイデンティティを失います
 
そして、単なる慈善団体やフットボール・チームに似たもの
全くもって教会ではないものとなってしまいます
 
重要なことは、教会が女性となること
花嫁としての特質、母親としての特質をそなえることです
 
私たちがこのことを忘れてしまう時
それが男性的な教会である時
この女性的特質なしには
それは、愛のない、豊かさのない、孤独のうちに生活する
古びた独身男性の残念な教会になってしまうでしょう
 
女性なしには、教会は、前に歩を進めることはできません
なぜなら彼女(教会)は女性だからです
 
そして、この女性としての特質は、マリアに由来するものです
なぜなら、イエズスが、教会がそうであるよう望まれたからです
 
母としての教会は
優しさという小道にそって歩んでゆきます
 
優しさは、抱擁、沈黙、注視の上智という言葉を知っています
それは、同情を抱くことを知り、沈黙することを知っています
 
教会のメンバーとなるこの道を生き抜こうとする霊魂や人もまた
それが彼であれ彼女であれ、母親のようなものとして
同じ小道にそって歩んで行かなければなりません
 
その時、その人は
優しさ、想いやり、微笑み、愛に満ちたものとなります
 
家庭の美しさ
 
『神は、創造の初めから、人を男と女に造られ
人は、父母を離れ、その妻と結ばれ
2人は1つの肉になる』
 
1つの肉
とても力強い御言葉です
 
家庭には種々の困難が生じていることは事実です
そこには、子供たちの問題、夫婦間の口論や喧嘩など
さまざまな問題があるでしょう
 
しかし、重要なことは、1つの肉のうちにとどまることです
そうすれば、あの問題、この問題、その問題も克服することができます
 
そして、その克服は
彼らの婚姻の秘跡のためだけのものではなく
むしろ、教会のためのものでもあるのです
 
秘跡はたしかに私たちの注意を引きよせます
「ごらん、愛することができるだろう」
 
そして、愛は、あなたたちの全生涯にわたり
あなたたちが愛のうちに生きることを受け入れるよう促します
 
喜びにおいても、悲しみにおいても
子供たちの問題があろうとも、自分たち自身の問題があろうとも
そうしたことがあっても、いつも前に進んでいけるように
病気の時でも、健康の時でも
どのような時でも、いつも前に進んでいけるように
 
これは実に美しいことです
 
男性と女性は、神のイメージと似姿のうちに創造されました
そして、このことから、結婚も同様に、神のイメージになりえるものです
このことは、結婚をとても美しいものとします
 
婚姻は、他の全ての人々にとって
静かな説教、日々の説教のようなものです
 
このことがニュースにならないことは、悲しむべきことです
新聞やTVのニュース番組では、このことをニュースとみなしません
カップルが、一緒に多くの年月を過ごすことは
なかなかニュースとして扱われません
 
スキャンダル、離婚、別居
これらが価値あるニュースとみなされます
時には、より大きな悪を避けるために、別居の必要もあるでしょう
 
神のイメージはニュースとして扱われません
しかし、これは結婚の美しさです
彼らカップルは、神のイメージであり、似姿です
そして、これこそ、私たちのニュース、キリスト者のニュースです
 
結婚と家庭生活は、容易ではないでしょう
忍耐は、カップルにとって
男性と女性の両方にとって、最も重要な善徳です
 
主が、教会と社会に
結婚についての、より深い、より美しい理解をもたらしてくださいますように
それによって私たち全てが
『神のイメージと似姿が、結婚のうちに現存している』という事実について
その真価を認めて、再考してゆくことができますように
 


 
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『最高永遠の司祭キリスト』の祝日が聖座により制定されています
 
2012年ベネディクト16世教皇聖下(現名誉教皇)は
『最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリスト』の祝日を
聖霊降臨後の木曜日(今年は5月24日)に祝われるよう
典礼秘跡省の教令をもって定められました
 
日本では ほぼ無視状態の祝日
 
ここ日本では、『聖体の続唱』がほぼ無視されているのと同様に
この祝日(ヨーロッパでは祭日)自体、ほとんど話題にもされていませんが
 
聖霊降臨後の木曜日に全教会で祝われる
『最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリスト』の祝日には
固有のミサ各祈願、A年・B年・C年の指定朗読、固有の叙唱
時課の典礼、ローマ殉教録および指定朗読が用いられ
司祭でありいけにえである主キリストの神秘を深めるよう
聖座により命じられています
 
Martyrologium Romanum
11. Feria V post Pentecosten
Festum Dómini nostri Iesu Christi, Summi et Ætérni Sacerdótis, secúndum órdinem Melchísedech, in quo ab inscrutábili ævo Pater complácuit, qui Mediátor Dei et hóminum, patérnam voluntátem adímplens, in ara crucis seípsum Hóstiam toti mundo salutárem semel immolávit. Formam sacrifíciis perénnis sic instítuens, inter fílios Adæ fratérna éligit bonitáte hómines sacerdótio augéndos quátenus ex sacrifício incessánter in Ecclésia renováto flúmina virtútis divínæ manárent, quibus novum cælum nováque terra efficeréntur, et in universórum latitúdine complerétur quod óculus non vidit nec áuris audívit nec in cor hóminis ascéndit.
 
Feria V post Pentecosten
DOMINI NOSTRI IESU CHRISTI
SUMMI ET ÆTERNI SACERDOTIS
 
最高永遠の司祭である私たちの主イエズス・キリストの集会祈願
Oratio.
Deus, qui ad maiestátis tuæ glóriam
et géneris humáni salútem, Unigénitum tuum
Summum atque Ætérnum constituísti Sacerdótem,
præsta, ut, Spíritu Sancto largiénte, quos minístros
et mysteriórum suórum dispensatóres elégit,
in accépto ministério adimpléndo fidéles inveniántur.
Per Christum Dominum nostrum. Amen.
 
神よ、あなたは、あなたの威光の栄光と人類の救いのために、御独り子を最高永遠の司祭としてお立てになりました。私たちはつつしんで願い求めます。聖霊によって司祭職を授けられ、奉仕者、主の神秘の分配者として選ばれた人々が、受けた奉仕の務めにおいて、忠実な遂行者として見出されるものとなりますように。私たちの主キリストによって。アーメン。
 
 
尊者ピオ12世
司祭でありいけにえであるキリスト
 
たしかにキリストは『司祭』です。
しかし、それはご自分のためではなく、私たちのための司祭です。
キリストは全人類の名によって、
祈りと恭順の心を永遠の御父に捧げるからです。

また、それと同様に、キリストは『いけにえ』です。
しかし、それは私たちのためのいけにえであり、
罪に傾く人類のために、ご自分を身代わりとしてくださいました。

「あなたたちはキリスト・イエズスのような心構えを抱きなさい」
まさにこのような使徒の勧めは
全てのキリスト者が、自らの力の及ぶ限り、
神的贖い主がご自分を捧げられた時の、かの心構えを、
自分自身の心に再現することを命じているのです。

それは、心からのへりくだり、
神の最高の威光への深い礼拝、栄誉、賛美、感謝の心構えです。

私たちはいわば、いけにえの状態に自分を置いて、
福音の命じるところに従い、自分を捨てて、
自発的に悔い改めの業を行ない、
罪を忌み嫌い、罪を償わなければなりません。

つまり、私たちはみな、キリストと共に、十字架上で神秘的に、自我に死んで、
パウロが述べたように、同じように言えるようにならなくてはならないのです。
「私はキリストと共に十字架につけられています」
 
 
典礼秘跡省の教令は下記のとおり
 
CONGREGATIO DE CULTO DIVINO
ET DISCIPLINA SACRAMENTORUM
DECRETUM
Quo efficacius gratia anni sacerdotalis super populum Dei perseveret in tempore, Summus Pontifex Benedictus XVI formularia liturgica pro celebratione Domini nostri Iesu Christi Summo et Æterno Sacerdote benigne disposuit apparandos, ut ad usum singularum Conferentiarum Episcoporum, quæ petent, præberentur.
Hæc porro Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum, vigore peculiarium facultatum ab eodem Summo Pontifice ad hoc tributarum, textum latinum Missæ, Liturgiæ Horarum et Martyrologii Romani de Domino nostro Iesu Christo Summo et Æterno Sacerdote, prout in adiecto exstat exemplari, libenter probat et typicum esse declarat. Contrariis quibuslibet minime obstantibus.
 
Ex ædibus Congregationis de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum,
die 23mensis Iulii anno 2012.
Antonius Card. Cañizares Llovera
Præfectus
 
 
司祭によるパワー・ハラスメント
 
先日、聖霊降臨の祭日に
オブレート会のある外国人司祭は英語ミサにおいて
ひざまずいて聖体拝領を望む信徒たちに対し
執拗に「Stand up!」と要求し続けていました
 
その司祭は、ひざまずいて聖体を拝領しようとする私に対して
「立ちなさい。なんだそれは?立ちなさい」
と立って拝領するよう繰り返し要求してきました
 
その間、およそ20秒ほど
私も立つ気配を一向に見せないので
司祭もなかなか秘跡を授けようとしませんでした
 
「これは私に対するハラスメントです」
と英語で言おうかとも考えましたが
英語で何と言ったらいいのかはっきりわからなかったので
 
ひざまずいたままの私は彼に告げました
Give me.
 
眉間にシワをよせたままの彼は
しぶしぶというか嫌々ゆっくり私の舌に聖体を授けました
 
秘跡を受けて立ち上がり
自席に戻って、聖体拝領の感謝を捧げていると
 
しばらくして
Stand up ! Stand up !」の連呼が聞こえてきたので
ふと拝領の列を見ると、その司祭の前で、(正確には聖体の前で)
ひざまずいて秘跡を受けようとしていた信徒がいました
 
その信徒との司祭のやりとりは
私の時よりも長く、その信徒は英語で司祭に語りかけていたようでした
 
立ちなさい、立ちなさい......立ちません
そのままでは授けない.......(大きく首をかしげて)WHY
といったようなやりとりをしているように傍から見えました
 
すると司祭は
ひざまずいたままの信徒に聖体の秘跡を授けず
信徒の横を通り過ぎて、その信徒に背を向けて
その信徒の後の信徒たちに次々に聖体の秘跡を授け出しました
 
その間、司祭に背を向けられた信徒は
ひざまずいた状態のまま、しばらく放置され続けていました
 
なんという酷い嫌がらせ
職権濫用もはなはだしい
ひざまずく信徒を公的祭儀の場で
公開処刑的に放置して辱める
 
残念ながらスマホをその時もっていなかったので
証拠写真を撮ることができませんでした
 
10人ぐらいの拝領ののち
その信徒はひざまずいて秘跡を拝領するのをあきらめたのか
立ち上がって、司祭の横に移動して、秘跡を求めたようで
司祭はその信徒のほうに向きなおって
立った状態の信徒に秘跡を授け、信徒は自席に戻りました
 
別の司祭によるセカンド・ハラスメント
 
ミサ後、私はその信徒に慰めをもたらそうと考え
その信徒のもとに向かい、今回のハラスメント事案を申告するよう促し
その教会の主任司祭のもとに、他の目撃者も連れて申告させました
 
が、その主任司祭もひざまずきをこころよく思わない人だったので
慰めを受けるどころか、新たな軋轢が、その信徒と司祭の間に生じ
お話にならない、といった感じで、主任司祭との話を打ち切って
その信徒はその場をあとにしてしまいました
 
なんだかセカンド・ハラスメント状態で
傷口に塩を塗りたくられたような感じになり
なんとも後味の悪い申告相談となりました
 
そもそも
 
最初の司祭に関して言えば
無駄に20秒も30秒もかけて押し問答するぐらいなら
ひざまずいて秘跡を求める信徒に対して
素直に秘跡を授ければよかった話である
 
そのようにせず
パワー・ハラスメントを行ない
信徒のひざまずく権利を否定して侵害し
さらに、秘跡を授けず、放置して
公開処刑のように公然と侮辱し続けたことは
神の御前で咎められるべき違法行為、不法行為であろうし
おそらく、その守護の天使は悲しみ
御父もひどく怒っておられるだろう
 
次の司祭に関して言えば
目撃者2名を伴って相談申告に訪れた被害者に対して
ひざまずきに対する否定的な主張を繰り返して
傷ついた信徒の傷口に塩を塗りたくるような言動をするぐらいなら
いったん受けとめて
「うちの教会での司祭の対応で
あなたに不快な思いをさせてしまって申し訳ないでしたね
この申告を受けて、私のほうでも司祭を問いただしてみます」
といった想いやりといたわりをこめた言葉を
素直にかけてあげればよかった話である
 
そのようにせず
セカンド・ハラスメントを行ない
『司教団の取り決め』の持論を長々と展開し
信徒のひざまずく権利をほぼほぼないがしろに扱い
再発防止を講じる気配も全く見せず
被害者に慰めを与えず、むしろ失望を与えて、傷口を広げたことは
いつくしみとは真逆の行為であろうし
おそらく、その守護の天使もなかば呆れて
御子も頭をかかえてしまっているだろう
 
Fructus autem Spiritus est caritas,
  しかし、 聖霊の結ぶ実とは、    愛徳であり
gaudium, pax, longanimitas, benignitas,
    喜び、   平安、    寛容、       親切であり
bonitas, fides, mansuetudo, continentia.
   善意、   誠実、    柔和、        節制です
 
 
『いつくしみ』をスローガンにしながら
それとは真逆の
『いつくしみ』とは全くかけ離れたふるまいを
平然とやってのける司祭や信徒は多いもので
実に閉鎖的で病んでいるとしか言いようがない


『あなたたちによく言っておく。
これらの私の兄弟、しかも最も小さな者の1人にしたことは、
私にしたのと同じことであり、
これらの私の兄弟、しかも最も小さな者の1人にしなかったことは、
私にしなかったのと同じことである』

Think about it.


司祭の御母でありキリスト信者の助けである幸いなおとめマリアが
教会内に巣食うハラスメント体質を根絶やしにし
他者への想いやりやいつくしみが
司祭、信者各々の心に植えつけられ育まれるよう
最愛の御子イエズスに取り次いでくださいますように

 
フランシスコ教皇聖下
『司牧者たちによって引き起こされる害悪について』の記事
↓↓↓



Omnipotens et misericors Deus,
全能の憐れみ深い神よ、
qui ad defensionem populi christiani
あなたは、キリスト信者の民を護るべく、                  
in beatissima Virgine Maria
最も幸いなおとめマリアにおいて、
perpetuum auxilium mirabiliter constituisti:
絶え間ない驚くべき助けをもたらすことをお定めになりました。
concede propitius ;
私たちは願い求めます。
ut, tali præsidio muniti certantes in vita,
生涯にわたる霊戦において、聖母を通じて、最も強靭な保護が与えられ、
victoriam de hoste maligno
邪悪な敵に対する十全な勝利を
consequi valeamus in morte.
死において、いただくことができますように。
Per Christum  Dóminum nostrum. Amen.
私たちの主キリストによって。アーメン。




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