Lex orandi, lex credendi
公式祈願を排除するやり方は 不正以外の何物でもありません
おはおはです
URLのを読んでみました
『ローマ・ミサ典礼書の日本語決定版翻訳作業は完成しており、
バチカン典礼秘跡省の承認がとれたら、
折角作った試用版のものを使えなくなります』
とありましたけど、
そもそも、これまでの日本語版公式祈願も、
若干の意訳や翻訳欠落が散見されます
たとえば、待降節第1主日を挙げて見ると
ラテン語原文は
Da, quæsumus, omnípotens Deus,
全能の神よ、私たちはつつしんで願い求めます。
hanc tuis fidélibus voluntátem,
この、あなたを信じる人々の願いをかなえてください。
ut, Christo tuo veniénti iustis opéribus occurréntes,
私たちが、キリストの来臨を、正しい行ないのうちに迎えにあがり、
eius déxteræ sociáti,
その右の座に、共に結ばれる者となり、
regnum mereántur possidére cæléste.
天の国を所有するに至ることができますように。
Per Dom...
となっているところ
日本語訳の公式祈願は
「全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、
永遠の国を受け継ぐことができますように」
となっています
他を挙げればきりがないですが
この祈願文だけ見ても
iustis opéribus
正しい行ない
eius déxteræ sociáti,
その右の座に、共に結ばれる者
という2つの翻訳欠落を見出すことができます
もし、ラテン語の公式祈願に、
各年の朗読要素の解説の意味合いを付帯する形式の
日本語試用版を作成していたならば
もう後の祭りですが
公式祈願の本来の文言を省略していないことを条件に、
ローマに申請して承認を受けられた可能性があります
ただ、可能性であって、確実性はありません
今回の試用版の重大な問題点は
公式祈願の内容から全くかけ離れた
公式祈願文内の文言を排除した
独自の内容を作成してしまっている点にあります
ローマが試用版を認めてくれない
という点に問題があるのではありません
公式祈願は、ローマと全世界の教会の、
祈りの一致、信仰の一致を保証するためのもので、
『祈りの法は信仰の法』と教会で呼ばれているものに該当します
地方教会の司教や司祭の恣意的判断で
云々できるもの(招き文や選択祈願文)とは全く異なります
『祈りの法は信仰の法 Lexorandi, lex credendi 』
これをないがしろにして、
公式祈願を脇において、
内容の異なる独自の文を作成したところに
聖座の典礼総則や典礼秘蹟省指針の軽視
および祈りの一致から生じる
信徒が享受すべき真の霊的利益の軽視
が見受けられます
悪魔が悪魔のありのままの姿で訪れれば、
人々は恐怖と警戒心を抱くでしょうが
嘘つきの父である狡猾な悪魔は、光の天使を装い、
人々を徐々に、真の正しい小道からそらせようとしていきます
悪が私たちにもたらされる際
善の仮面をつけてもたらされます
「より良い」「より理解を深めるために」との大義で
公式祈願を排除するやり方は
不正以外の何物でもありません
独自の試用文は
実質的に3つの主要な公式祈願を
排除したり侵害するために使用するのではなく
『信徒の祈り Oratio Fidelium 』と呼ばれる
共同祈願の範囲内において
若干の祈願形式の修正を加えた上で
適宜、使用させるべきものでしょうね
折角作ったというなら
それを各年の共同祈願に盛り込めば
それらの労力も無駄になることはないでしょう
とりあえず
そんな感じです
いつもありがとうございます
公式祈願文を使用すべきことについて
典礼、ミサ聖祭に関しては特に、典礼書に従って、また、教会法およびその他の規定に従って、教会が求めている形式どおりに挙行される祭式にあずかることが、全ての信者の権利である。
教皇庁は、全教会の聖なる典礼を秩序づけ、典礼書を発行し、その国の言語への翻訳を承認し、典礼の秩序がいずこにおいても、忠実に、遵守されるよう、監督する権限を有する。
それゆえ、承認されていない典礼文や祭式の使用は、必然的に、祈りの法と信仰の法とのあいだにある、密接なつながりを、希薄にしてしまうか、喪失させてしまう結果を招くこととなる。
典礼は、誰の私的所有物でもない。神秘を祝う司式者のものでもなければ、そこで神秘が祝われる一共同体のものでもない。
そのようなこと(定められた形式に反する誤った司式、自由を履き違えた理解)がないように、教会権威者に対して、十分かつ効果的に、神聖な典礼の管理がなされるよう、信徒が求めるのは、至極当然なことである。
(教皇庁 典礼秘蹟省指針 『あがないの秘跡』 2004 cf,10-18)
フランシスコ教皇聖下
永遠の断罪における最大の苦しみは
拷問の場としての苦しみというよりも
むしろ神から永遠に離れたことについての苦しみである
天使が、悪魔である蛇をつかんで縛り上げ
深淵に突き落として鍵をかけて封印する描写を見てみましょう
蛇である悪魔は
「もうそれ以上、諸国の民を惑わさないよう」
深淵に突き落とされました
なぜなら、それは誘惑者だからです
悪魔である彼は、嘘つきであり
嘘つきの父以外の何者でもありません
彼は嘘を産み出すトリックスターです
彼はあなたに
このアップルを食べたならば
あなたは神のようになれるだろうと誘い
それをあなたに売り込み
あなたがそれを買い上げるようにと
あなたをだまし、あなたを欺き
ついに、あなたの人生に破滅をもたらします
「でも、パパさま
私たちはどのようにして
悪魔による欺きを避けられるでしょうか?」
それについてイエズスは私たちに教示しておられます
つまり、悪魔との語らいを決して受け入れてはなりません
イエズスは悪魔に対して、どのようにふるまいましたか?
主は、彼を遠くに突き放しました
主は、悪魔の名を明らかにするよう求めましたが
悪魔との会話を続けようとはなさいませんでした
イエズスが荒れ野で
ご自分の人間性を護るためになしたことは
神の御言葉、聖書の聖句を用いることによって
悪魔からの語りかけを封じようとしたことです
それゆえ、私たちは
私たちの破滅をもくろむ嘘つきでありトリックスター
このために深淵に突き落とされるであろう悪魔との語らいを
決して継続させるべきではありません
主は、最後の審判において
大きな者も小さな者も
各々の蒔いたものに従ってお裁きになり
破滅者は、火の池に投げ込まれます
これが『第2の死』です
永遠の断罪の苦しみは
拷問の場としての苦しみではありません
これは第2の死の描写です
それは、『死』そのものです
神の国を受け継がなかった人々
彼らがそのようになってしまったのは
彼らが神に心を閉じて
神が彼らを引き寄せようとされたのを自ら拒んだからです
これらの人々は
彼ら独自の人生行路の歩みをなした人々であり
彼ら自身が、主から離れてしまったのであり
主の御前を、意に介さず通り過ぎ
そのようにして、主から離れる歩みを、彼ら自身が選択したのです
永遠の断罪の苦しみは
神からの、自身の永続的な隔離にあります
それこそが、最大の痛みであり
決して満たされることのない心であり
神を見出すために創造された心が
自らの傲慢と過信により
自分自身を神から引き離してしまったのです
私たちに至福をもたらそうとされる神
私たちを愛してくださる神
この御方から、自ら離れること
それこそが、火であり、永遠の断罪への道となるものです
黙示録は、最終的なイメージとして
私たちに希望のヴィジョンを提示しています
もし、私たちが、神に心を開いて
へりくだる心を神に向けるならば
私たちが喜びと救いを受けることができるよう
イエズスによって、罪の赦しをいただくことができるでしょう
希望とは
イエズスとの出会いに向けて
私たちの心を開くことです
イエズスとの出会い
これこそ私たちが待ち望むべきことです
これは美しいこと
しかも、最も美しいことです
私はみなさんに、この事だけを求めます
すなわち、心からへりくだり、「主よ」と語りかけてください
この痛悔の言葉を唇にあふれさせるだけで十分です
主は、あなたに真の安らぎをもたらしてくださるでしょう