2016年08月


 


司牧者たちによって引き起こされる害悪について
 

フランシスコ教皇聖下
 

私たちの兄弟を侮辱することは、その霊魂に平手打ちをくらわすようなものです
 
私たちは、他者を侮辱するために、創造性豊かなヴォキャブラリーをもっています
しかしながら、そのように侮辱を加えることは、罪であり、殺人と同類です
 
というのも、それによって、私たちの兄弟の霊魂と、その尊厳に対して
平手打ちをくらわすようなものだからです
 

自らが説教する内容と真逆なふるまいをなす司牧者はつまずきでしかありません
 
イエズス・キリストは
ご自身の教えに従わない司牧者たちによって
神の民の間に引き起こされる害悪について
警鐘を鳴らされました
 
このことについて
私たちは教会内でどれほど聞かされてきたことでしょう
そう、何度もです
 
しかし、あの司教、あの司祭、あのカトリック・アクションの男女は、
私たちに、これこれこのようにしなければならないと諭しつつも
彼ら自身が、真逆なふるまいをなすのです
 
このことは、民を傷つける、つまずきでしかありませんし
神の民の成長と前進にとって、妨げでしかありません
 
そのようなつまずきは、神の民を自由にしません
 
神の民は、そのような律法学者やファリザイ人の厳格さを見せられたうえ
神の民にささやかな喜びをもたらす預言者が訪れた際
彼ら律法学者やファリザイ人によって
その預言者が虐げられ、殺されるのを見させられるのです
 
その共同体には預言者たちの居場所はないのです
 
イエズスは、彼らファリザイ人たちについて、こう仰せられます
「私の預言者である彼らは
 新たな息吹をもたらそうとしていたにもかかわらず
 あなたたちは私の預言者たちを虐げた
 あなたたちは私の預言者たちを殺したのだ」。
 


 
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シエナの聖女カタリナおとめ教会博士
悪人の誤断と善人の忍耐の愛について
 
悪人の誤断と善人の忍耐の愛について、神は仰せられます。
 
「不義を行なう悪人は、みずからの悪徳のうちに、誤断に陥る。
 
私の業は、全て義であり、全て、愛と憐れみに鼓舞されているが、
 彼らはいつも、これを中傷する。
 
 私の独り子の業は、あなたたちも知るとおり、
 この誤断によって、嫉妬と傲慢の毒によって、
 悪口を浴びせられ、不当に酷評された。
 
『この人はベルゼブルの力によって、そのようなことをするのだ』
との彼らの発言は、彼らの誤謬と虚偽によるものである。
 
 これと同様に、悪を行なう人々は、
 自愛心、不浄、傲慢、貪欲、嫉妬に支配され、
 その邪悪な判断に迷わされ、不忍耐におちいり、
 みずからの犯した全ての悪によって、盲目の徒となりさがり、
 いつも、私の業と、私のしもべたちとを中傷し、
 私の愛する人々の善業を、偽善と称して断罪する。
 
 悪を行なう人々の心は、腐敗で覆われ、その好みも悪化しているため、
 善なるものを悪であるかのように見つめ、
 みずからの乱れた生活が、正しいものであるかのようにながめるのである。
 
 これが、不義であり、誤断である。
 世は、そのために断罪されたのであり、
最後の審判の日に、断罪されるであろう。
 
 私を愛する人々は、隣人に忠実に奉仕し、
 その無知や忘恩さえ気にかけることはない。
 
 時として、邪悪な人々から、
 その善業を侮辱され、非難されることがある、
 
 そのような時は、
 私に向かって叫び続けて、その人のために聖なる祈りを捧げ、
 私に加えられた侮辱と、その人の霊魂に及ぶ害悪とを悲しみ、
 自分がその人から受けた侮辱を気にかけない。
 
 霊魂の愛の甘美なしるしの中で、
 特別にすぐれているのは、その忍耐の徳である。
 
 これによって霊魂は、
 柔和で汚れない小羊である私の独り子の跡に従うのである。
 
 私の独り子は、愛の釘によってつけられていた十字架の上で、
『十字架からおりるがよい。そうすればお前を信じてやる』
とユデア人たちから嘲られても、
 決して引き返すようなことはしなかった。
 
 あなたたちの忘恩も、
 私の命じた従順への堅忍を、妨げることはできなかった。
 私の独り子の忍耐は、実に偉大であり、
 わずかのつぶやきさえも聞こえることはなかった。
 
 同じように、私の愛する子供たち、私に忠実なしもべたちは、
 私の真理である独り子の、この教えと模範に従うのである。
 
 この世は、時にへつらい、時に脅しを用いて、
 彼らを、この道からそれさせようとするが、
 彼らはうしろを振り返ろうとはしない。
 
 むしろ、喜んで霊的戦場にとどまり、
 十字架にかけられたキリストの貴い血に満たされて、酔わされる。
 
 私のしもべたちのもつ隣人へのいつくしみは、
 敵の憎しみにさらされても輝きわたり、
 その広められた心の愛徳は、敵の妬みにさらされても輝きわたる。
 
 なぜなら、彼らの憐れみは、
 敵の残酷さにさらされても、なお彼らに対して憐れみ深いからである。
 
 彼らの忍耐は、敵の侮辱のなかで輝いている。
 忍耐は、全ての善徳の女王であり、全ての善徳を支配する。
 なぜなら、忍耐こそ、愛徳の真髄だからである。
 
 忍耐は、霊魂の諸善徳を証明するし、
 それらが永遠の真理の上に築かれているかいなかを識別させる。
 
 忍耐は勝利を収め、決して敗北することがない。
 
 忍耐が戦場を去るのは、
 永遠の父である私のもとに帰るためである。
 私は、その全ての労苦に報い、
 栄光の冠を、これに与えるのである。
 


 
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O Maria, sine labe originali concepta,
あぁ、マリアよ、無原罪の御宿りよ、
ora pro nobis qui confugimus ad te.
あなたにより頼む私たちのためにお祈りください。
 





先月末あたりから、聖母出現についての記事作成を思い立ち
記事のおおまかな内容と構成を考えてはいましたが
なかなか着手できず放置していました

先日、ある敬虔な信者さんから
聖母出現に関する記事作成の促しをいただきましたが
そんなに急がなくてもいいかな~と思い、スルーしていました

ところが、また先日、別のある敬虔な信者さんから
聖母出現に関する質問をいただきました
 
いつかしようと先送りにしていましたが
同じ時期に同種の連続した問いかけがあったので
少々夏バテ気味ですが、とりあえず概略的にでも記事にしてみます
 
詳細な情報につきましては
各自、祈りのうちに、研究されてみてください _(⌒(_´-ω-`)_ 夏バテsummer
 


 
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聖母出現は 聖母ご自身による 『福音宣教の行為』
  
幸いなおとめマリアによる私的啓示と教会の認可
 
私たちの救い主イエズス・キリストの栄光に満ちた御母、幸いなおとめマリアは、これまで教会の重要な各時期において、多くの聖人、福者、尊者、神秘家に、ご自身を現わして、いつくしみ深いその母性的配慮をもって、教会の子らを導いてこられました。


聖にして母なるカトリック教会は、教会の御母の配慮に深い同意と感謝を示すため、必要で適切な調査を経た上で、それらの私的啓示を真正なものとして認め、受け入れ、その特別な出現地については、その特別な聖堂を公式巡礼地に指定し、その出現の聖母聖画像に対しては、戴冠や黄金の薔薇の献呈を行ない、その出現関連日時については、典礼上の記念日やミサ固有文を制定し、聖母が望まれた聖母ご自身のタイトル(呼称)については、ロレートの聖母連祷の中に、固有のタイトルを追加し、信者たちの信心生活に寄与するように配慮しつつ、教会の御母の望みに応えようとしてきました。


地上を旅する教会の子らは、聖霊によって息吹かれた教会教導権のもとで、真正な私的啓示に恭順を示し、さまざまな迷いの霊が暗躍する中でさえ、福音宣教の星である聖母の汚れない御心に自身を委ねて、回心と成聖の小道を歩んでゆくことができます。




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教会における私的啓示の位置づけ
カトリック教会のカテキズム
 
キリスト教の長い年月の間には、私的啓示があり、そのいくつかは教会権威から認められています。しかし、それらの私的啓示は、委ねられた信仰の遺産に属しておらず、その役割も、キリストの最終的啓示を改善したり補足したりすることでもなく、歴史上のある時期において、キリストの啓示を、より十全に生きるのを助けることにあります。

信者は、教会の権威に導かれ、その信仰心によって、これらの私的啓示の中に、教会に向けられた真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます。

しかしながら、キリスト教信仰は、キリストによって完結された公的啓示を凌駕するものであると主張する私的啓示、あるいは、公的啓示を修正するものであると主張する私的啓示を、承認することはありません。


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聖母出現が意図する共通のメッセージ
 
聖母出現は
実際、福音宣教の星である聖母マリアご自身による『福音宣教の行為』です
 
教会が公認する聖母出現の共通のメッセージは
地獄に向かう歩みをやめて、天国に向かう歩みを踏み出すこと
悔い改め、赦し、償い、憐れみ
愛、謙遜、柔和、貞潔、寛容、忍耐、犠牲、剛毅、堅忍
ミサ聖祭、聖体礼拝、秘蹟のふさわしい準備と拝受と感謝、聖務日課
日々の私的信心、十字架の道行き、ロザリオ(特に受難の神秘)
準秘蹟(聖水、茶色のスカプラリオ、不思議なメダイ)の使用
霊的読書、黙想、観想
神が神的配慮によってお送りになる苦しみや無理解の甘受と奉献
罪人の回心と霊魂の救い
世界や個人間、個々の段階の想いやりと赦しと平和
罪に死んで、神に生きること
これらです
 
つまり、悔い改めて、福音を信じなさい
祈りなさい、赦しなさい、互いに愛し合いなさい、という福音のメッセージです
 

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教会公認の聖母出現
 
教皇庁が公認しているのは
ルルドやファティマやグアダルーペだけでなく、いくつもあります
 
聖母出現は私的啓示の範疇なので
超自然性の調査と裁定は
まず、その地区裁治権者(司教)に委ねられ
司教が荘厳声明ををもって認可すれば
それが正当な聖母出現とみなされますが
それを信じなければ罪になるというような教会の信仰箇条ではありません
 
また、公認されていない出現を、おしつけがましく勧めたり
その非公認出現を受け入れないからといって
それを受け入れない信者を「聖母を軽んじる人だ」と決めつけたり
のけもの扱いにするとか
そういうのは、『悪い実り』のしるしでしょう
 
天来の正当な聖母出現は
教会の教えに合致するもので、その実りとして、謙遜と一致をもたらします
そうでないものは
教会の教えに反するもので、その実りとして、傲慢と分裂をもたらします
 
情報が錯綜する中で
聖母出現の教会公認の有無を確認する最良の方法は

①教会の聖なる典礼に承認された
  聖母出現に由来する聖母祝祭日を確認すること
※全教会、地方教会における典礼の記念日と固有祈願文は
教皇庁が認可します

②教皇聖下による特別な行為を確認すること
※巡礼地指定、戴冠、黄金の薔薇の献呈、公文書での言及

③教皇庁が公布する『免償要綱書』における免償付き祈りを確認すること
※単に祈り文を認可するだけでなく、それに部分免償を賦与するのは
 その聖母出現への公的崇敬の促進の意味合いが強いことを示します

これらを知ることで
どれが教会公認の聖母出現なのかを把握することが容易にできます
 


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聖母出現に由来する記念日

聖母関連の記念日はいくつもありますが
その中で、聖母出現に由来する
全教会および地方教会固有の典礼上のおもな祝祭日は
 
 2月11日 ルルドの聖母
 3月18日 憐れみの聖母
 4月26日 善い勧めの聖母
 4月27日 モン・セラートの聖母
 5月13日 ファティマの聖母
 7月  9日 チクインクイラの聖母
 7月16日 カルメル山の聖母(スカプラリオの聖母)
 8月  5日 雪の聖母
 8月13日 罪人の避難所である聖母(ロウの聖母)
 8月21日 ノックの聖母
 8月25日 べリコ山の聖母
 9月19日 ラ・サレットの聖母
10月 7日 ロザリオの聖母
10月12日 柱の聖母
10月12日 アパレシーダの聖母
11月27日 不思議なメダイの聖母
12月12日 グアダルーペの聖母
 
(9月15日もしくは10月13日秋田の聖母)
↑すでに巡礼地指定された秋田については、日本の地方教会が固有祈願文を作成して、地方教会固有記念日の申請をすれば、教皇庁から受理承認されると思いますが、本腰を入れるかいなかは日本の地方教会次第でしょう
 
※移動記念日は上記リストに入れてません。上記リストは、僕が複数のラテン語典礼文(Missale Romanum や Officium divinum)を調べて把握したものに過ぎず、もっと時間をかければ、他にも見出すことができるかもしれません。お時間のある方は、どうぞご自身でお調べください。
 
なお、教皇庁が公布する『免償要綱書』には
ラ・サレットの聖母への2種類の祈りが掲載され
それぞれ、300日部分免償、500日部分免償が賦与されています

※祈り文の内容をお知りになりたい方は
  『THE RACCOLTA』をご自身で購入されて確認されてみてください
 
非公認を追いかけるよりも
公認の聖母出現を学んで 信仰生活に活かすことが大切
 
情報錯綜における公認有無の憶測に頼るよりも
教会の典礼書に記載された聖母出現由来の記念日を確認することで
それが確実に公認されている正当な聖母出現だと認めることができます
 
たしかに、公認、非公認を含めた聖母出現と呼ばれるものは種々様々で
『霊を消す』ことは容易ですが
私たちには『霊を識別する』ことが必要なケースもあるでしょう

主は、「樹はその実によってわかる」と仰せられた際
また、「彼らは私の声を聞き分ける」と仰せられた際
信者各々による『霊の識別』の必要性を示されました

もし『霊の識別』を軽んじるなら
その人は『偽りの父』である悪魔にだまされて
本来、歩んではならない道に足を踏み入れる可能性があります

非公認の出現利害関係者は
自分たちの信じる出現が正しいものだとしきりに宣伝しますが
それはあくまでも感情的で主観的なものに過ぎません

これまで聖母出現を主張する団体やグループはいくつも乱立しましたが
その大半は、異なる道に迷い込んでしまい
後戻りができないところまで猛烈に突進していったのは
多くの人の知るところだと思います

もちろん、公認されていないから、その出現を頭ごなしに否定する
という『拒絶』のスタンスでいる必要もなく
個人的に、「これは天来のものに相違ない」と把握できたとしても
教会の判断を飛び越えて
なんらかのアクションをしなければならないという必要もありませんが
両極端にならない中庸的慎重さは常に必要です
 
教会権威でさえ長い調査を要しますから
聖母出現の正当性は、個人が性急に判断することではありません

まして、一個人の誰も、『聖母出現の裁判官』に 任命されてなどいません
 
教会は、その子らが迷わないように
また、無駄なエネルギーを費やさないように
聖母出現について『公認』という枠組みをもうけて
その司牧職を果たしています

なので、信者にとっては
公認されていない出現を追いかけるよりも
すでに公認されている聖母出現の内容を学んで深めていくことが
誤った道に迷いこまないためには肝要です


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聖母による悔い改めの呼びかけ

悔い改めなさい 
祈りなさい 
秘蹟にふさわしくあずかりなさい 
犠牲を捧げなさい
 
多くの霊魂が
悔い改めないまま、永遠の地獄に落ちています

罪の生活を棄てて、神に立ち帰りなさい
回心し、罪の赦しを受け、償いを果たし、あなたたちの救いを全うしなさい
 
他のどの罪よりも
多くの霊魂を、永遠の地獄に突き落とすもの、それは肉欲の罪です
 
もしあなたたちが、『永遠』というものを理解することができたなら
自分たちの生き方を変えるために、どんなことでもするでしょう
 
神は、この世のあらゆる罪を
戦争、地震、飢餓、教会への迫害をもって処罰されるでしょう
 
罪人たちの回心と救霊のために
ロザリオの祈りを、心をこめて唱え
日々の十字架を、甘受し、次の祈りを唱えつつ、犠牲を捧げなさい

あぁ、イエズスよ
これを、あなたへの愛のために
罪人たちの回心と救霊のために
聖母マリアの汚れない御心に対して犯された罪の償いのために
あなたにお捧げいたします
 
悪魔の働きは
教会の内部にまで入り込みました

司祭たちと修道者たちのために祈りなさい
司祭たちは教会の事柄に専念しなければなりません
 
司祭たちが、教皇に不従順である時
彼らは神にひどく背くことになります
 
枢機卿は枢機卿に対立し
司教は司教に対立するでしょう
 
司教たちは、祈りと償いに注意を払わず
そのため、いにしえの悪魔の尾によって引きずりおろされ
その心は曇り、『誤謬の星』となり果てています
 
不忠実のゆえに、御子を再び十字架に釘づけようとする司祭は
金銭、名誉、快楽への愛着によって悪い生活を送り
ミサ聖祭を不敬虔に挙行し
聖体の秘蹟へのふさわしい尊敬をはらわないために
神の怒りと復讐を呼びくだしています
 
悪魔は、神に奉献された霊魂たちに働きかけて
彼らの多くを盲目にしてしまいました
 
霊的盲目状態に陥った霊魂たちは
堕天使たちの霊的働きの影響を受け
修道会は、信仰を失い、多くの霊魂が失われます

教会は、妥協する人々で満たされ
悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者が召命をうち棄てるでしょう
 
至るところで血が流され、教会は閉鎖され、汚され
信仰を棄てて離れる司教、司祭、修道者は、おびただしい数にのぼるでしょう
 
私を敬う司祭は
同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう
 
義人は非常に苦しむことになりますが
その祈りと償いと涙は、天に立ちのぼり
神の民は、赦しと憐れみを願い求め、私の取次を願うでしょう
 
教皇は非常に苦しむでしょうが
私は最後まで教皇のそばに寄り添います
 
悪人たちは、あらゆる種類の罪に、自らを明け渡すでしょうが
聖なる教会の子ら、信仰の子ら、真実に私に倣う霊魂たちは幸いです
私は、時が満ちるまで、このような霊魂たちと共に、この霊戦を戦うでしょう
 
あなたたちは、ロザリオの祈りを唱える際
1連毎に、このように唱えなさい
 
あぁ、私のイエズスよ、私たちの罪をお赦しください。
私たちを地獄の火からお救いください。
全ての霊魂、特に、あなたの憐れみを、
最も必要とする霊魂を、天国へ導いてください。
 


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8月13日
罪人の避難所である幸いなおとめマリア
B.M.V. sub titulo Refugium Peccatorum
 
『罪人の避難所』の聖母として知られる、ロウの聖母Notre Dame du LausLausはプロヴァンス語で『湖』の意味)は、1664年から1718年にかけて、フランス、アルプスのサン・テティエンヌ・ル・ロウSaint-Étienne-le-Lausにおいて、羊飼いの娘、尊者ベネディクタ・ランクレールBenoîte Rencurel1647-1718年)に出現された。
婦人の奇跡的治癒を契機に、1665918日聖母出現地が巡礼所として、教区から正式に認可を受けた。
1716年大理石の聖母子像がロウ大聖堂に安置され、1855523日福者ピオ9世教皇名義で、600名の司教、司祭を含む40,000名の巡礼者が見守る中、その聖母子像への荘厳な戴冠式が行われた。
ロウの聖母出現は、200855日教皇庁から公式に認可を受けた。
2015年12月8日から2016年11月20日の『憐れみの特別聖年』にあたり、ロウ大聖堂は聖年巡礼聖堂に指定され、『憐れみの門 Porte de la Miséricorde』が設けられている。

※長々とした解説文は字数制限のため掲載できませんが、聖母はこの出現の際、礼拝堂で罪人の改心のための聖体礼拝が行われるようにと指示を出されました。以下は、この日の典礼文の一部(招句と集会祈願)です。

Ad Invitatorium
Mariam, refugium peccatorum, confidenter adeamus.
罪人の避難所であるマリアに、信頼のうちに近づき、
Christum eius Filium adoremus Dominum.
その御子である主キリストを、共に礼拝しよう。
 
Collecta
Clementissime  Deus,
いつくしみ深い神よ、
qui  ad peccatorum salutem et miserorum perfugium,
あなたは、罪人たちの救いのため、また、惨めな人々の避難所として、
beatam  Virginem Mariam Unigeniti tui Genetricem,
御独り子の御母、幸いなおとめマリアが、
Filio  suo caritate simillimam esse voluisti :
御子の愛徳のかたどりとなるよう、お望みになりました。
præsta,quæsumus ;
私たちはつつしんで願い求めます。
ut  dum Cordis eiusdem amantissimæ Matris
その同じ愛に満ち溢れる御母の御心の
misericordiam  celebramus,
憐れみを私たちが祝うことによって、
et  peccatoribus conversionem, et cunctis fidelibus
罪人たちには回心がもたらされ、全ての信者には、
cælestium  ubertatem donorum obtinere mereamur.
天上の豊かな賜物が注がれ、それを保ち続けることができますように。
Per eumdem  Christum Dominum nostrum. Amen.
その同じ私たちの主キリストによって。アーメン。




 
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Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith

カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心
 

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教皇聖下の祈りの意向
2016年8月
 
世界共通の意向: スポーツ
 スポーツが、友情を育むよい機会となり、世界平和に貢献することができますように。
 
福音宣教の意向: 福音を生きる
 キリスト者が、福音を生き、信仰を証しし、隣人への愛のうちに誠実に生きることができますように。




 
スポーツは
全ての人々の間に、平和な世界の実現のための
出会いの文化を築きあげることを可能にさせてくれます
 
私は、スポーツが、人間の尊厳を学ぶ機会として
兄弟愛を促進させる1つの手段に変えられてゆくことを想い描いています
 
この祈りの意向のうちに
ご一緒に、心のエクササイズをしていきませんか?
 
それらスポーツが
人々の間のフレンドリーな出会いをもたらす機会となりますように
また、それらが、世界の平和に寄与するものとなりますように
 


 
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フランシスコ教皇聖下
ex Vatican  Radio
 
平和と、寛容、和解を渇望する世界において
オリンピック精神が、参加者、観客、全ての人々に
『戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおす』 ことを励ましますように
 
そして、皆がメダルよりもさらに貴重な賞牌
すなわち、文化・民族・宗教の違いを超え
全ての人が人類家族の一員として認められる
連帯に満ちた文明を目指すことができますように
 

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べネのひとりごと
  
教皇聖下は、スポーツが
国家間や民族間、個々の人間同士の間にある
意識的で、閉鎖的な『心の壁』、接点のなかった『敵意』を
競技の出会いの中で、それらを打ち崩していくことを望んでおられるようです
 
また、スポーツでの出会いを通じて
互いの健闘を称え合い、互いの努力を認め合い
スポーツが、互いの相違、環境や経験、言語や人種を越えた
『平和の架け橋』となることを、望んでおられるようです
 
そのため、単にスポーツを
不正を行なってでも賞を勝ち獲ろうとする
個人や国家の自己満足の手段とするのではなく
また、国家間の融和を促すスポーツに
過剰な民族主義のスローガンで
敵意を煽り立てる手段とするのでもなく
自分を誇示して他者を蔑む手段とするのでもなく
 
距離的にも、心の意識的にも、遠い存在であった人々が
互いに、同じ場所、同じ時間、同じ鼓動を共有する中で
互いの友情をはぐくむ貴重な機会ととらえることを望んでおられるようです
 
また、そのスポーツを終えて、それぞれの国や場所に戻ってのちも
そのスポーツを通して得られた人格的交わりの経験をもとに
人々に根づいた誤解や不信や敵意を
解きほぐしてゆくための『平和の働き手』となれるよう
人々の心に、スポーツを通じた平和の種が蒔かれるよう
それが、ひいては国家間の平和につながるよう
祈り求めていく必要があるのでしょうね
 
さまざまな不正や敵意が明らかになる中で
また、さまざまな悲しい事件が絶え間なく続く中で
私たちの人間的な努力や働きかけには限界がありますが
その力と働きにおいて際限のない神に、信頼と希望をよせて
この世界に最も必要な恩寵を注いでくださるよう
恩寵の御母、憐みの御母である幸いなおとめマリアの取次を願い求めます
 

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フランシスコ教皇聖下
厳格さは 心の弱さのしるし
 
偽善的心をもつ人々は
真理についての興味をもっていません
 
彼らの唯一の関心事は、順風にうまくのろうとすることだけです
そのため彼らには一貫性がなく、見かけ上、取り繕うだけです
 
彼らは外見上、強そうに見えますが
実際はサイコロのようなもので
その心は非常に弱く、彼らが信じているものを知ろうとしません
 
彼らの生活の外的部分は、しっかり規律正しくあるように見えるでしょう
しかし、その心は異なります
彼らは、強さと厳しさの『皮』で覆われた、弱い心です
 
ファリザイ人たちは言います
「私たちの教えでは、○○だ」
「私たちの教えでは、○○となっている」
 
外見的に、彼らは厳格なようですが
その心は、腐敗し、その腐敗のために弱り、よどんでいます
 
イエズスは
彼らの偽善を、日和見主義として糾弾しました
 
人々への広く寛大な心、憐み深い受容の心を
主が、私たちにお与えくださるよう願いましょう
 
教会は 母であって 厳格な社会ではない
 
「子よ、ごらん、これは、あなたの母だ」
 
イエズスは、私たちを孤児にしておかれません
イエズスは、私たちに母親を与えてくださいました
 
私たちには母親がいます
その母親は、私たちと共にいて、私たちを守り、私たちに寄り添い
困難や恐るべき時においても、私たちを助けてくださいます
 
これが、マリアの母性です
ついで、そこから、教会の母性がもたらされます
 
教会は、私たちの母です
聖にして母である教会は
洗礼によって、私たちを産み
その共同体で、私たちをはぐくみ
優しさと想いやりをもつ母性的態度で、私たちを抱擁します
 
この母性的フィーリングをもたない教会共同体は
あたかも、厳格な社会であり
人としての温かみが欠落した社会であり
孤児を放置するようなものです
 
教会は、私たち子らにとって、母親となるべきであり
母親のように、私たち1人ひとりの全てを受け入れるべきです
 
私たちの御母マリア、私たちの母である教会を想う時
母性的ふるまいを、そこに見出します
 
この母性愛は、理解、想いやり、赦し、優しさ
これら受容の態度によってもたらされるものです
 
母性愛のあるところ
そこに、生命があり、そこに喜びがあり、そこに平和があり
私たちは平和のうちに成長していきます
 
この母性愛が、全て欠如した時
教会には、教えと規律だけが残り
もはや人々は、微笑むことを知らなくなるでしょう
 
「子よ、ごらん、これは、あなたの母だ」
 
教会は、私たち子らにとって、母親となるべきであり
母親のように、私たち1人ひとりの全てを受け入れるべきです
 


 
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日本の司牧者は 
数年来 一部の弱い立場の信徒たちを
不当に虐げて傷つけてきた不法行為について
公式声明をもって 全教区に及ぶ 謝罪やお詫びを行なうべき
 
 
現在、「適応だ、適応だ」、と呼びかけている司牧者たちがなすべきことは
まず、これまで自分たちの身内である司牧者たちが、数年来にわたり
舌による拝領やひざまずきについて
一部の弱い立場の信徒たちを、不当に虐げて、傷つけてきた
という不法行為(違法行為)の加害事実について
公式声明をもって、全教区に及ぶ、謝罪やお詫びを行なうべきです

そのようにすることで、この特別聖年にあたり
司牧者自身の過去の過ちの清算をすべきです
 
ついで
適応において、舌での拝領やひざまずきが選択肢にあるという事実を
その選択権の尊重が、適応の認可の条件であったという事実を
各共同体に周知させた上で、その選択を、尊重し、受容すべきです
 
そのようにすることで
不当に傷つけられた人々の心の痛みを癒していくべきです
 
また、そのようにすることで
新たな加害を、未然に防いでいくべきです
 
それをしなければ
以前と同様に、傷つけた信徒をさらに傷つける
といった事態につながります
 
そのようにする重大な責任が
日本の司牧者にはあり、それを果たさなければなりません
  

 
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前回の記事作成のきっかけ
 
『司祭の影響力についてのカトリックのことわざ』の記事のあと
しばらく記事は書かないつもりでしたけど
 
つい先日、関東に出かけた信徒さんから
『とある司祭から手による拝領を強要された
突発的だったので動揺してそうしてしまった』
といった情報をいただいたので
前回の『手による聖体拝領 および ひざまずきの排除は 悪魔に由来している』
という記事の作成の必要性を感じました
 
 
悪魔のパン種
 
外面に現れる物事の結果には、必ず内面の要因があります
 
なぜそのような『不法行為』が教会内で平然となされるのか?
なぜそのような『違法行為』が教会内で平然と生じるのか?
その内面に沸き起こる本源的要因は何なのか?
その司祭の内的『パン種』が、いったい何に由来するのか?
 
前回それを明らかにさせたいと思いました
 
その結論が、『悪魔のパン種』でした
 
償いをしない司牧者たち
癒しをもたらそうとしない司牧者たち
 
社会一般では弱者に対する虐げが明らかになれば
その加害者は、必要な謝罪なり賠償なり、なんらかの『償い』をするものです
 
今回の問題については、かなり以前から
日本の信徒たちを苦しみのうちに沈ませていました
 
しかしながら、教皇庁の指摘や勧告にもかかわらず
その不法行為、違法行為が
過ちを犯した司牧者側からも、また、それを知らされた裁治権者側からも
一切、何らの謝罪も、お詫びの声明もないままで
 
強い立場の司牧者が、弱い立場の信徒たちに
心の深い傷を負わせたまま、それを放置し
 
さらに、今回、適応の名のもとに、あたかも当然であるかのように
以前と同様な虐げ(手による拝領の強要やひざまずきの排除)を繰り返している
というのが現状です
 
教会は、司牧者による『児童への性的虐待』において
十分とは言えないにしても、謝罪や賠償を行ないました

しかし、当初、教会は、その不法行為の『膿』を明るみにせず隠蔽したがゆえに
その被害は拡大し、教会に請求された慰藉料も膨大な額にのぼりました
 
一方、この種の、教会内における典礼上の不法行為(違法行為)については
社会的関心がない部分なので、一般に明るみになりにくく
何らのケアもなされていませんが
異常な事態であることに変わりがないのです

 
本件の事案について
日本の司牧者はまるでサマリア人のたとえに登場する聖職者たちのようです
 
本来、信徒を大切にしてケアするはずの司牧者が
あたかも、サマリア人のたとえの中に登場する聖職者たちのように
傷つけられた信徒を、見て見ぬふりや放置をしたままで
何ら対処しない、その怠慢のゆえに
さらに事態を悪化させています
 
 
前回の記事の解説


問題提起
 
前回の記事の問題提起は
『舌の拝領をやめさせる行為』や『ひざまずきをやめさせる行為』
これらに対するもので
その排斥や強要が、何に由来するのかを
明確に打ち出しておく、という意図を含んでいます
 
つまり、
『適応の名のもとに、自分たちがするのはあなたたちの勝手ですが
適応の名のもとに、信徒の権利を侵害したり、阻害したり、強要してはならない』
という抗議の意味をこめた問題提起です
 
また、前回の記事は
舌の拝領を阻害されている信徒たち
ひざまずきを阻害されている信徒たちに向かい
励ましのエールを送るためのものであり
 
それと同時に
権利侵害を繰り返す司牧者たち
虐げや嫌がらせを繰り返す教区共同体の信徒たちに向かい
明確な『警告』を示すためのものでもあります

2つの対比
 
前回の記事の中で
2つの対比を見ることができると思います
 
一方は
ひざまずきを推進したい教皇庁
舌の拝領を推進したい教皇庁
 
ひざまずきを推進したい司牧者と信徒たち
舌の拝領を推進したい司牧者と信徒たち
 
それらに共通するのは
『信仰の神秘である聖体に現存される主への謙遜と礼拝』
『聖体の主への愛ゆえに、周囲の嫌がらせにさらされる際の忍耐と甘受』
『柔弱をしりぞける剛毅』です
 
まとめると
聖体に現存される主への義のために
迫害を、愛と赦しのうちに、傷つけられながらも耐え忍ぶグループです
 
もう一方は
ひざまずきをやめさせたい悪魔
舌の拝領をやめさせたい悪魔
 
ひざまずきをやめさせたいフリーメイソン
舌の拝領をやめさせたいフリーメイソン
 
ひざまずきをやめさせたい司牧者と信徒たち
舌の拝領をやめさせたい司牧者と信徒たち
 
それらに共通するのは
『高圧的言動』『強要』『嫌がらせ』です
 
まとめると
手による拝領を強要したいグループ
奉献文や拝領時に立つことを強要したいグループです
 
しかし、強要するグループは
耐え忍ぶグループが沈黙しているのをいいことに
図に乗って、『適応の名のもとに』、その強要をさらに推進しようとしています
 
一部の司牧者たちの酷いふるまい
 
以前、ある現職の日本人教区司祭は
とある青年会の集まりの際
ひざまずいて舌で聖体拝領する信徒さんたちについて
「彼らを見ていると、なんだか犬が舌を出して、ハァハァやってるみたいだ」
と言って、上目遣いでベロ~ンと舌をだして、嘲笑しながら
青年たちの前で、からかう発言をしていました
青年たちはみな、その司祭の犬のマネ(拝領者のマネ)を見させられて
なんとも複雑な苦笑を浮かべていました

『先日、ひざまずいて秘跡を受けようとしていた信徒がいました
すると司祭は、ひざまずいたままの信徒に聖体の秘跡を授けず
信徒の横を通り過ぎて、その信徒に背を向けて
その信徒の後の信徒たちに次々に聖体の秘跡を授け出しました
その間、司祭に背を向けられた信徒は
ひざまずいた状態のまま、しばらく放置され続けていました
なんという酷い嫌がらせ
職権濫用もはなはだしい』2018524日付け記事からの引用)

先日、ある信徒さんからの話ですが
ある現職の日本人教区司祭が、要理勉強会の際
舌で拝領する人の侮辱的モノマネをされて
複数の信徒さんが悲しみ、ショックを受けられたそうです

その司祭は、背中をこっけいにまるめて
目を閉じて、「べ~~~~」と声を出しながら
極端なまでに、舌をベロ~ンと出して、舌での拝領者をからかい
周囲はそれを見て、クスクス笑っていたそうです

本人には、ひざまずいて舌で拝領することをやめさせようとするケース
それ以外の人には、ひざまずいて舌で拝領する人々をからかうケース
 
『悪魔のパン種』は
ただ本人に『高圧的言動』や『強要』や『嫌がらせ』をするだけでなく
周囲にもその『遠回しな嫌がらせ』や『嘲笑』や『侮蔑』をまきちらしています

そして、その司牧者に追随して
共同体の信徒たちも、その嫌がらせに便乗するようになり
嫌がらせの連鎖、虐げの連鎖、排斥の連鎖を引き起こしてゆきます

 
どこから来て、どこに向かうものなのか
 
そのような一部の司牧者たちの酷いふるまい
それらが、どこから来て、どこに向かうのか
それらの由来を知ることが必要です

また、教皇庁や教会法や典礼指針や原則に、自ら『不従順』でありながら
配下の信徒たちには、自分たちの適応に、『従順』であるよう強要し
信徒の選択権を踏みにじり、全体主義的な画一化をはかろうとすること
それらの由来を知ることが必要です
 
その実りが、聖霊に由来するのか
その実りが、悪魔に由来するのか
 
主は仰せられます
「樹はその実によってわかる」
 
霊の識別において
樹はその実によって明らかです
 
善い樹は善い実を結び
悪い樹は悪い実を結びます
 
信徒の選択権の侵害行為は悪魔に由来する
 
立ち振舞いは適応のもとに選択肢はあるでしょう
 
しかし、その選択を阻害する行為
すなわち『舌の拝領をやめさせて手による拝領を強要すること』
『ひざまずきをやめさせて立つことを強要すること』
これは、ローマ教皇庁から幾度も指摘され、厳しく禁じられた違法行為だと
把握しておくべきです
 
信徒の選択権を侵害し、強要する行為が
どこに由来するのでしょうか?

それらの不法行為は
『地獄の悪魔に由来するもの』です
 
教会内での強要と排斥の横行
 
前回の記事は
信徒の選択を尊重する司牧者や教区に対するものではなく
信徒の選択を阻害して苦しめている司牧者や教区に対するものです
 
そもそも
禁じられていないのに、舌の拝領やひざまずきを禁じること
また、その選択権を尊重するようにと指摘されているのに、それを阻害すること
すなわち、『強要』という行為は、宗教を語る以前に『悪』です
 
また、カトリック教会においては
それが『違法行為』に該当する旨が、公文書にわざわざ明文化されています
 
それにもかかわらず
日本のカトリック教会内で司牧者たちによる『強要』や『排斥』が横行しています
 
そのような悪い実りは
悪魔に由来する『反福音的実り』であり
悪魔から出て悪魔に向かうところの『悪魔の業』であると
明確に識別することができます
 
フランシスコ教皇聖下は、受容と排斥に関するその説教において
ファリザイ的排斥について、幾度も痛烈に批判を繰り返しています


適応に関する典礼秘蹟省の書簡
cf, Notitiae38 ; 582-584 ; 200271日)
 
各司教協議会の定めた適応に従って、立つ姿勢を規準とした地域においても
信者がひざまずくからという理由で、その信者に聖体拝領を拒むことは
キリスト信者の最も基本的な権利に対する重大な侵害である
 
そもそも適応の承認は
聖体拝領の際にひざまずくことを選択した信者たちが
その事だけによって聖体拝領を拒まれてはならない、ということが条件である
 
教皇庁教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ司祭
 
ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領すること
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです

教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
 
司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない
信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める
聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある
 
日本の司牧者は舌での拝領やひざまずきを 尊重し受容すべき
 
「適応だ、適応だ」と呼びかける日本の司牧者たちは
これ以上、信徒の選択権を侵害して踏みにじるのをやめなければなりません
 
日本の司牧者たちは
その条件づきの日本の適応において
一部の信徒たちによる、舌での拝領やひざまずきを、尊重し受容すべきであって
これ以上、それらの信徒たちの感受性を不当に傷つけてはなりません
 

 
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