2011年11月

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聖心の愛に愛で応えることについて


主は仰せられました。

私の聖心を愛することに専念しなさい。
愛こそ、おまえに力を与えるからだ。

私はおまえのところへ慰めを受けるために来た。
私の聖心を傷つける霊魂がいる。
あぁ、なんと哀れな霊魂なのか。
絶壁めがけて飛びこもうとするとは!

おまえはさらに苦しまなければならない。
おまえの全ての行為を、私の聖なる血に浸して捧げておくれ。

辛いことがなんであれ、それを避けてはならない。
それら全てが、霊魂の救いのためになるからだ。


私は主に感謝を捧げ、なしうる限りの敬意をこめて礼拝いたしました。
神の威光は満ち溢れていました。
私はみずからの罪の赦しを願い求め、
自分がこんなにも弱い者ですから、常に忠実でいられるよう、
私をお守りくださるよう、懇願しました。

主は、私が主をお慰めして、主をお愛しする以外、
何ものも望んではいないことをご存知です。


おまえの惨めさについて悲しんではならない。

私の聖心は、憐れみの玉座であり、
この愛の淵に身をなげるなら、
最も哀れな者こそ、最も厚遇されるからだ。

私は、おまえが小さく哀れな者であるからこそ、
おまえに眼をとめたのだ。

私がおまえの力だ。
さぁ、霊魂たちを求めにゆこう。
ただその前に、しばらく私の聖心によりかかって憩うがよい。


突然苦しみが全く消え去りました。
大きな平和が私の霊魂を包みました。
イエズス様は光輝き、その衣はまるで黄金のようで、
聖心は愛の炎で燃えておられました。


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聖母が現れて、優しく語りかけてくださいました。

私の娘よ、悪魔はあなたを平和にしてはおきません。
あなたはそのようにして、まだまだ沢山戦わなければならないでしょう。


神から見捨てられ、
神から離されたというイメージに襲われ、
私はもぅだめだと思いました。
猛烈な怒りのようなものに襲われて、
私は全てを棄てて家へ帰る考えに捕えられました。

主は、燃え上がる炎の聖心をもって現れ、
御手のカリスを示されて仰せられました。


ヨゼファよ、
おまえはまだ、このカリスの一部しか飲んでいない。
私はおまえを守るために、ここにいる。


聖母は愛情に満ちて語りかけてくださいました。


かわいそうに、あなたはどれほど苦しんでいることでしょう!
どうしてその苦しみの時にイエズス様をお呼びしないのですか?

苦しみを恐れてはなりません。
あなたが誘惑に襲われている時、
どれほど多くの霊魂たちが、
イエズス様の聖心に近づいたのかを、あなたが知っていたなら。。


主は私に茨の冠をかぶせて仰せられました。

おまえのなすべきことは、ただ1つ、
ヨゼファよ、それは愛することだ!

私はおまえと、愛と憐れみの契りを交わした。
愛は、飽くことなく、
憐れみも尽きることはない。

私はおまえに、狼の口から、
私にとって大切な霊魂を奪い返してほしいのだ。

私を愛し、へりくだり、
侮辱されるがままに任せなさい。

私の聖心をごらん。
霊魂が幸福を見出しうるのは、
この聖心においてだけなのだ。

それにもかかわらず、
彼らは聖心から、どれほど遠ざかってゆくことだろう!


愛の炎に燃える主の聖心の御傷は、開いてゆき、
主は仰せになりました。


私の聖心が、
霊魂たちへの愛で、
どれほど焦燥しているかをごらん。

おまえも霊魂の救いへの望みに燃えなければならない。

私は今日、おまえがこの聖心に入り、
聖心と一致して、償いを捧げてもらいたいのだ。

そうだ、霊魂たちの救いを得るために
償いは捧げられなければならない。

私は大きないけにえで、
おまえは小さないけにえだ。
しかし、私と一致するならば、
おまえは御父にとって喜ばれるものとなるのである。

ヨゼファよ、おまえの中で憩わせておくれ。
私はしばしの間、おまえに十字架を与えたいと思うが、
おまえもそれを欲しいと思うか?


あなたは私の神ですから、
望まれるものは何であれ、おできになります。
それに私は、あなたをお慰めして愛するほかは、何も望んでいません。


私が望むこと、それは、おまえのうちに生きて、
おまえを私に変えてしまうほどに、おまえを包み込み、
おまえをこの愛の炎で焼き尽くし、
おまえを私の中の無にしてしまうことだ。

あぁ、私をうち棄てて、
滅びに突進してゆくおびただしい霊魂たち!

私にとって最も心苦しく感じるのは、
そのようにふるまうのが、
私が特に眼をかけて、多くの恩寵を注いだ霊魂たちなのだ。

彼らは私の愛と恩寵に対して、
冷淡や忘恩をもって、これに報いるのだ。

あぁ、私の愛に応じてくれる霊魂の、なんと少ないことか。。

私はおまえに十字架を与えたい。
おまえは私を憩わせ、
霊魂たちが聖心に対して拒むことを償ってもらいたい。

なんと多くの霊魂が、
恩寵を受けていながら、
それにふさわしい感謝を捧げないことだろう。



Oratio Balduini Cantuariensis episcopi


Aufer a me, Domine, cor lapideum,
私から取り除いてください、主よ、石の心を、

aufer cor coagulatum, aufer cor incircumcisum ;
取り除いてください、頑なな心を、取り除いてください、無割礼な心を。

da mihi cor novum, cor carneum, cor mundum !
私にお与えください、新しい心を、肉の心を、清らかな心を!

Tu cordis mundator et mundi cordis amator,
あなたは心を清める御方、清い心を愛される御方、

posside cor meum et inhabita, continens et implens,
私の心をあなたが占有し、住まい、結び合わせ、満たしてください。

superior summo meo et interior intimo meo !
私の至高の上層、私の親密な内奥よ!

Tu forma pulchritudinis et signaculum sanctitatis,
あなたは美の形成者、聖性の刻印者です。

signa cor meum in imagine tua:
あなたの似姿を私の心に刻みつけてください。

signa cor meum sub misericordia tua,
あなたの憐れみのうちに私の心に刻みつけてください。

Deus cordis mei, et pars mea Deus in aeternum. Amen.
私の心の神よ、私の分け前となられる神よ、永遠に。アーメン。






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Alma Redemptoris Mater
Indulgentia 5 annorum



ライヘナウの福者ヘルマノ・コントラクトHermannus contractus(記念日;9月24日)の作である
アルマ・レデンプトーリス・マーテルは、聖母の代表的交唱で、
特に待降節から降誕節において時課の典礼の終課の結びに歌われます。


この聖母への祈りには、5年の部分免償が賦与されています。



Alma Redemptoris Mater,  
麗しい贖い主の御母よ、

quæ pervia cæli porta manes et stella maris,  
開かれた天の門、海の星よ、

succere cadenti, surgere, qui curat populo :  
倒れる民を助け起こし、強めてください。

tu quæ genuisti natura mirante,  
あなたは大自然の驚きのうちに、お産みになりました。

tuum Sanctum Genitorem :  
あなたの聖なる創造主を。

Virgo prius ac posterius,  
あなたは出産前もその後もおとめです。

Gabrielis ab ore sumens illud Ave,  
ガブリエルの口から、かのアヴェをお受けになりました。

peccatorum miserere !  
罪人である私たちを憐れんでください。





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第2ヴァティカン公会議 
典礼憲章(Constitutio de Sacra Liturgia Sacrosanctum Concilium 28)

奉仕者であれ、信徒であれ、
典礼の原則上、自分に属する部分だけを行なわなければならないし、
またその全てを行わなければならない。



ベネディクト16世教皇
使徒的勧告『愛徳の秘蹟』
神の民の典礼への参加と祭儀の法について


第2ヴァティカン公会議は、適切にも、
神の民全体が、エウカリスツィアの祭儀について、
行動的で、充実した、実り豊かな仕方で参加することを強調しましたが、
「参加」という言葉が、祭儀中の単なる外面的活動を指すだけでないことを、
はっきりさせる必要があります。

エウカリスツィアの祭儀は、
本質的に、神の行為です。

ですから祭儀の基本的な構造を、
私たちが勝手に変えることはできませんし、
一時的な流行によって危険にさらしてもなりません。
実際、エウカリスツィアの祭儀は、生きた聖伝を含んでいます。

神の民の典礼への参加を推進するための主要な方法は、
典礼そのものを正しく挙行することです。

つまり、祭儀の法(ars celebrandi;正しい祭儀の方法)こそが、
行動的な参加のための、最高の条件です。

祭儀の法は、
典礼規範に対して、
完全に、忠実に、従うことから生み出されます。

( cf, Sacramentum caritatis 37,38,52 )


前回、ミサ聖祭についての、現状と提案をUPしましたが、
上記のとおり、祭儀の法の観点からしても、
省略のない、忠実な典礼の挙行が、
神への崇敬と、信徒の行動的参加につながることは明白です



ベネディクト16世教皇
使徒的勧告『愛徳の秘蹟』
ミサ奉献文におけるひざまずきについて


神の神秘への感覚の深まりは、
聖体を敬う特別なしるしによってあらわすことができます。

信徒たちをこのようなしるしにまで、
秘儀教育を通じて導くべきです。

私たちはここで、特にエウカリスツィアの祈りの時(聖変化を含む奉献文)において
ひざまずく、といった動作や姿勢が有する
普遍的な意味における重要性のことを考えています。

全ての人は、どの祭儀においても、
自分が、神の限りない御稜威の前にいるという自覚をもち、
また、その自覚をあらわさなければなりません。

神が、つつましい秘蹟のしるしのうちに、
私たちのところにまで来ておられるからです。

( cf, Sacramentum caritatis 65 )


前回、聖変化や聖体拝領におけるひざまずきについての提案をUPしましたが、
上記のとおり、教皇聖下の命示(自覚をあらわさなければならない)からしても、
奉献文や聖体拝領における、聖体の主へのひざまずきが、
普遍的な重要性を帯びていることや、
神の神秘への感覚の深まりにつながることは明白です

これは私たちが聖体の主に接する上でのキーポイントです。

「感謝の祈りの中心部においてひざまずく、普遍的な意味における重要性」
「神の限りない御稜威の前にいるという自覚をもつ」
「その自覚をあらわさなければならない」


端的に言えば、
主がおくだりになられる時は特にひざまずきなさい、という教皇指示です。



教皇聖下は、その枢機卿時代に、ひざまずきの大切さを力説されました。

「ひざまずくことができないのは、明らかに悪魔の本性である」

「信仰から遠ざかった『文化』は、
 神への本来的に必要な態度(ひざまずくこと)を知らない」

「もはやひざまずくことを知らない信仰、典礼は、その核心において病んでいる」

「ひざまずきは、どこかの文化から由来したものではなく、
 聖書と聖伝による神の認識に由来するものであり、
 キリスト教文化の表現なのです」

「神の御前に身をかがめることは、決して時代遅れなどではありません。
 なぜなら、私たちの存在の真実に対応しているからです。
 もし現代人が、それを忘れてしまったのであれば、
 現代世界のキリスト者として、それを再び習得して、
 私たちの同胞にそれを教えることは、私たちの責務となるのです」

「エウカリスツィアの祭儀にあずかる者にとって、
 主が降られ、パンとぶどう酒を変化させて、
 ご自分の御体と御血になさる瞬間は、
 その心を、最も深いところから揺さぶる瞬間であるはずです。

 私たちは、この神聖な出来事を前にして、
 ただただ深くひざまずいて、敬意を表わすほかありません。

 聖変化は、
 この世界において、私たちのために行なわれた、
 神の偉大な行為の瞬間だからです」


聖変化を含む奉献文においてひざまずくことの重要性は
おわかりいただけたと思いますが
その重要性は、聖体拝領においても同じく重要性を帯びています

というのも、聖変化において祭壇にくだられる主が
聖体拝領において、個別に信徒の心にくだられるからです
それゆえ、聖体拝領においては、
いっそうの聖体への崇敬が必要であるのは言うまでもありません

そのことを明示するため
教皇聖下は、信徒たちの拝領時、
聖体拝領台を用意して、信徒がそこにひざまずいてから
聖体を信徒1人ひとりの舌に直接授けています

これは教皇聖下が、
聖体拝領はこのようにすべきである、との望みを模範的に表明しているのです。
つまり、これが最良の聖体拝領の方法である、との暗黙の提示なのです。


端的に言えば、
主が個別的におくだりになられる時も特にひざまずきなさい、という教皇指示です。





ここで、もしかしたら不敬にも
「そんないちいちひざまずいてたら、祭儀の進行が遅れるじゃないか~。
 とっととミサを終わらせて、早く帰りたいんだよね~。あ~、あの用事しなきゃな」なんて言う人は
祭儀の進行が遅れるどころか、自身の信仰を大きく後退させることになります

神を敬う時間よりも
人間の移動時間を気にしていては
その信仰は深まるどころか、逆に薄くなってゆくでしょう

次第に聖体拝領のための必要な準備も整えなくなり、
感動もなくなり、礼拝も捧げず、習慣的なイベントと化し、
聖体拝領への感謝の祈りもほとんど捧げなくなり、
そのうちミサ聖祭に平気で遅れたり(金儲けの仕事の勤務では無遅刻かもしれないが)
それでいて何も感じなくなってしまうでしょう

神への愛と尊敬の表明の時間を惜しんだがために
その霊的に失われた時間はなんと拡大してゆくことでしょう

神への崇敬を軽んじて、
神の視点で物事を考えない人に対しては
主が次の御言葉を繰り返されるでしょう

「サタンしりぞけ。あなたは神のためを思わず、人のことを思っている」(マテオ16,23)



なお余談ですが。。

国を司る政府は、国民から徴収した税金から
みずからの給与をもらい、正しい政策をもって
国民に対して、忠実に、その奉仕を遂行する重い義務があります

国を司る政府が、国民からお金をもらいながら、
その国民への義務を忠実に果たさないとしたらどうでしょう

これにおきかえて考えてみるのもよいと思います

地方教会を司る人々は、信徒から受けた献金や維持費から
みずからの給与をもらい、正しい典礼の挙行や秘蹟の授与をもって
神の民に対して、忠実に、その奉仕を遂行する重い義務があります

地方教会を司る人々が、信徒たちからお金をもらいながら、
その神の民への義務を忠実に果たさないとしたらどうでしょう


「主なる神は仰せになる。
 災いあれ。みずからを養うイスラエルの牧者よ、
 牧者はその群れを養うべきではないのか。
 あなたたちは凝乳を食し、純毛を身にまとい、肥えた家畜を屠る。
 それでいて、その群れを養おうとはしない。
 牧者はみずからを養うが、私の群れを養おうとはしない」(cf, エゼキエル34)

聖アウグスティヌス司教教会博士は牧者について
預言者エゼキエルの書を引用して警告しています。

「羊ではなく、自分自身を養う牧者に対して、
 彼らが何を好み、何をないがしろにしているかが語られています。
 エゼキエル書は、牧者たちを、どの点で咎め、非難しているのでしょうか。
 それは、彼らが羊乳を飲み、羊毛を身にまといながら、
 羊をなおざりにした、ということです。
 彼らはイエズス・キリストのことではなく、
 ただ、自分たちのことだけを追い求めたのです」

  ( cf, Sermo 46, 3-6 : CCL 41, 530-533 )


地方教会の牧者は
神の民に対して、祭儀の法に基づき、
教皇庁が示すとおりのローマ・ミサ典礼の挙行を、
忠実に、省略することなく、実施する重い責任と義務があります
それは、神の民が当然受けるべき権利を侵害しないためでもあります


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2834.


翻訳は、その人の内面的思考を明らかにさせます

テキトーな考えをもってる人は
その翻訳も、実際、テキトーで
大事なものを、責任ある立場の人がやってしまうと、
目も当てられないもの、貧弱なもの、誤ったものとなってしまいますし、
その被害あるいは損失は、時間の経過とともに甚大なものとなってゆきます

翻訳は、その人の生き方の凝縮であると言えます

慎重な人は、その性格が翻訳にもあらわれ、
忠実な人は、その正統性が翻訳にもあらわれます

いろいろな翻訳本を読むにつけ
最近つくづくそう思います

翻訳は、その人の思考の世界の反映でしかないので
~誰も、もっていないものを、他者に与えることはできない~
その人の人間的限界を映し出す鏡とも言えます

翻訳は、大変です^^




これは基本の祈りに関してのことですが
祈り文が完全にシフトした今だからこそ言えますが
聖母に関する「恵みあふれる」の祈りは
日本の教会にとって、損害でしたから
それが改善されたことは、霊的恩寵の流れにとって最善なことでした

その改善のために尽力された方々には
ほんとうに感謝いたします



あと可及的速やかに改善されるべき重要事項があります
これは典礼の祈り、教会の公式の祈りに関してのことです


日本において挙行されているミサ聖祭は
ローマ典礼と呼ばれるものです

翻訳において、大雑把あるいは省略が多岐にわたる状況にありますが
ここではごく一部の指摘にとどめます




[現状]「主はみなさんと共に。また司祭と共に」

[提案]→「主はみなさんと共に。またあなたの霊と共に」et cum spiritu tuo

※このように変更しなければ、
 助祭が福音朗読する際、助祭を司祭扱いすることになり、
 司教を司祭扱いすることになり、叙階の恩寵の重みが、感覚的に薄らぎ、
 その重要性を、大したものでないかのように錯誤させるものとなります

 一般的に「霊的なもの Spiritual 」に関心がでてきているのに
 あえて意図的に「霊」をはずす意味がわかりません

 「『霊=オバケ=こわい』だから外しておこう」って発想がヤバイです ヤバ過ぎです

 こわがるなら、不従順や罪をこわがるべきです

 そもそも霊魂が抜けた肉体は、屍、死んだバディです。
 霊は、肉を生かす崇高なものですから、「霊」を外す必要性はありません



「神に感謝。(会衆)神に感謝」または「神に感謝。 (会衆)無言」

→「主の御言葉。Verbum Domini.(会衆)神に感謝」

※このように変更しなければ、
 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります

 また、感謝を表明すべき時に、あえて「無言」という積極的不作為を選ぶことは
 はたから見て、「私は主の御言葉を受けても神に感謝を捧げない」との意志表示のようであり
 日頃から、受けた恩について感謝を捧げることの大切さを学ばせるうえで損失となります

 感謝の言葉を表明して、何か問題にでもなるのだろうか?
 むしろ、感謝を示すべき時に、それを表さないことのほうが、よっぽど問題があるのではないだろうか?

 実際「受けるのが当たり前、もらうのが当たり前」となってしまえば、
 社会的観点からすれば、
 人としてロクでもないヤツ、と思われるような人を助長することになります

 教育的観点からすれば
 受けた恩に感謝する、自分の非を認めて謝る、
 そういう基本的なことができないおとなを作り出すことになります


「(会衆)神よ、あなたは万物のつくり主」

→「(会衆)神は世々に祝福されますように」Benedictus Deus in saecula.

※このように変更しなければ、
 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります
 原文から大きく変更する必要性はありません


「みなさん、この供え物を、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう。
 (会衆)無言あるいは沈黙」

→「みなさん、祈りましょう。
  私とみなさんのいけにえを、ut meum ac vestrum sacrificium
  全能の神である父が、受け入れてくださいますように。
  
 (会衆)神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために、
     司祭の手をとおしてお捧げするいけにえをお受けください」

※このように唱えることを全教区において明確にしなければ
 「沈黙に代える」との名目で
 その「沈黙」も飛び越えて、沈黙時間さえもおかず、
 次の祈りへ「ワープ」してしまっては、 
 信徒に霊的不利益をおしつけることになります

 会衆の応唱部分の sacrificium が「いけにえ」ですから
 司祭の呼びかけ部分の sacrificium も「いけにえ」に統一すべきですし
 「私とみなさんの」を忠実に訳出すことで、
 ひとごとではなく、まさに私の罪のための、みなさんの罪のための「いけにえ」を自覚させます

 司祭が「受け入れてくださいますように」と結ぶことで
 共同祈願を踏襲した呼びかけになり、「~ますように」のあと、信徒が続いて唱えやすくします


「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、
 聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに。
 (会衆)すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。アーメン」

→「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、
  聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに。
  すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。
  (会衆)アーメン」

※このように変更しなければ、
 歌う場合も、唱える場合も、
 いつまでも、教皇庁からの改善指摘に不従順であり続けるし
 信徒たちに関しても、典礼規則に反することを行わせ続けることになり
 本来受けられるはずの恩寵の流れを、妨げ続けることになり、
 時間の経過と共に、霊的損害が拡大してゆくだけです

 典礼規則に従って「アーメン」だけを唱える人は、誤っているのか?

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の精神で、
 教会法や教皇庁の典礼指針に背き続けることは、
 信号無視することよりも、はるかに危険な精神です

 悪魔は大喜びするかもしれないが。

 キリスト者は、神を喜ばせるべきであって、悪魔を喜ばせるべきではないと思います


「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
 私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。
 私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ、
 お言葉どおり教会に平和と一致をお与えください。
  (会衆)アーメン。」

→「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
  私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。
  私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ、
  あなたが望まれるとおりに、教会に平和と一致をお与えください。
  あなたは世々に生き、支配しておられます。
   (会衆)アーメン。」

※このように変更しなければ、
 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります

 原文は「あなたが望まれるとおりに」secundum voluntatem tuam であって
 「お言葉どおり」secundum verbum tuum ではありません

 「おいおぃ大した違いはないからいいじゃないか」と思われるかもしれませんが
 「祈りの法は信仰の法」の規準の観点からすれば
 些細であっても全教会との祈りの一致から外れさせる要素にはかわりないので、
 是正すべきであると考えられます

 変えなくてよい箇所を、あえて変えて唱え続ける必要性こそありませんから
 是正すべきであると考えられます

 私たちが望むべき平和は、
 私たちの観点からの平和ではなく
 主が、望まれるとおりの平和であるべきです

 私たちは、主が、望まれるとおりの平和を、
 主が、望まれるゆえに、望まれるとおりに、望まれるだけ、望むべきでしょう

 あと「あなたは世々に生き、支配しておられます」との
 永遠の世界に心のまなざしを向けさせる箇所を省くことで
 この世的な平和だけに価値をおかせることにつながります
 省略すべきではありません


「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い。
(会衆)主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて、誰のところに行きましょう」

→「見よ、神の小羊を、Ecce Agnus Dei,
  見よ、世の罪を取り除く御方を。 ecce qui tollit peccata mundi.
  小羊の食卓に招かれた者は幸い。
 (会衆)主よ、あなたを私のところにお迎えするには、私はふさわしくありません。
     ただひとこと仰せになれば、私の霊魂は癒されます」

※このように変更しなければ、
 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります

 これが唱えられることによって
 主を傷つけたのが、私たち自身であることの再認識と
 ただ主だけが、私たちを罪から救うことのできる御方であるとの再認識を得られます

 なお、「あなたを私のところにお迎えするには、私はふさわしくありません」と唱えることで
 神への人としての謙遜を示すことにもなります

 この句は、拒絶を意味するのではなく
 私のようなものであっても、それをご存知で来てくださる主に向かって、
 信頼をこめて「ほんとうは来てほしくてたまらないのです」の想いを含めた
 全てを成し遂げられる愛の神への、自分の足らなさの表明です

 全能の主は、惨めなものを憐れまないことだけが、おできになりません。
 それが、私たちの主です。

 「私は当然あなたをいただけるでしょう」、みたいな考えの人よりも、
 むしろ、「私はあなたをいただく価値のないものです」、みたいな想いの人に、
 主は、いっそうお喜びになって、いっそうの躍動のうちに、その霊魂を訪れて、
 ご自分の永遠の愛を注ぎ、恩寵に満ちたその愛で抱擁してくださいます



あと、聖変化、聖体拝領、祝福において
ひざまずく環境をととのえられるようにすれば
教皇庁の規定からしても、人としての神の御前におけるへりくだりの観点からしても
よりいっそう神に栄光を帰することになる、と考えられます



「クサいものにフタをする」。。

そんな考えでは、
いつまでたっても、成長も発展も見込めず、
井の中の蛙な状態を、継続してゆくことになってしまいます

今回改善の要望ですが
典礼に携わりながら
「うるさいな~ 改善なんてめんどくさ過ぎ~」は論外です

実際のところ
内省のないところには
霊的進歩も望めません

いつまでたっても
手のかかる地方教会になってしまいます
そうあってほしくありません


もぅ何年も経過しているわけですし
ここら辺で
教皇庁から是正指摘されないような
重箱の隅をつつくことさえできないような
非の打ちどころのない日本語訳のローマ・ミサ典礼書を刊行していただきたい


基本さえできていないのに
応用をうんぬんできる立場にあるとはとても思えません


典礼の関係者には
英断を望みます





長~い提案的&要望的ひとりごとでした。



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Oblatio ad B. M. Virginem a Sancto Aloysio composita.
聖アロイジオによる幸いなおとめマリアへの奉献の祈り



O Domina mea, sancta Maria,
me in tuam benedictam fidem ac singularem custodiam
et in sinum misericordiæ tuæ,
hodie et quotidie et in hora exitus mei
animam meam et corpus meum tibi commendo.
Omnem spem et consolationem meam,
omnes angustias et miserias meas,
vitam et finem vitæ meæ tibi committo,
ut per tuam sanctissimam intercessionem et per tua merita,
omnia mea dirigantur et disponantur opera
secundum tuam tuique Filii voluntatem. Amen.


あぁ、私の女主人、聖マリアよ、
あなたの祝福された信仰と個別的な守護のうちに、
また、あなたの憐れみのふところのうちに、私をおいてくださるよう、
今日、毎日、そして私の旅立ちの時においても、
私の霊魂と私のからだを、あなたに委ねます。
私の全ての希望と慰めも、
私の全ての貧しさと惨めさも、
私の生涯と生命の最期も、あなたにお任せいたします。
あなたの至聖なる取次ぎによって、また、あなたの功徳によって、
私の全ての働きが、
あなたとあなたの御子のお望みに従って、導かれ、整えられますように。アーメン。

(1933年3月28日に教皇庁から3年の部分免償が付与された祈り文)




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