2009年02月

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聖レオ1世教皇教会博士

何らかのカタチで、
自分の親切心を表わせない人は1人もいないはずです。

寛大なココロをもっている人にとっては、
どんな施しも、決して小さなものではありません。

私たちの憐れみと同情の大小は、
私たちの財力の限界に、制限されることがないのです。

たとえわずかばかりの財しか持ち合わせなくとも、
慈善のココロに満ち溢れているならば、
決して功徳に欠けることがありません。

富める人は、多く施しますが、
そぅでない人は、わずかしか施せません。

しかしながら、
両者の慈善の業の結ぶ実りは、
もし、同じ大きな愛をもって施すのなら、
それらが異なることはないのです。





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マザーテレサ

日本の人々は、
インドのことよりも、
日本における貧しい人々のことに思いをはせて、
彼らへの配慮を優先するべきです。

愛は、まず、
身近なところから始められるべきだからです。

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福者コルンバ・マルミオン修道院長

心の痛悔は、神への信頼と愛を減じることなく、これを深める

典礼の叫びは、決して無意味ではありません。
そこには必ず、痛悔のまごころが、内に深くたたえられているからです。

真理の霊は、聖ヨハネの唇を通してこぅ仰せになります。

「もし、自分には罪がない、と言うのなら、
 私たちは自分を欺いており、
 真理は私たちのうちにはありません」(1ヨハネ1.8)

聖なる、偉大な霊魂たちにとって、
聖霊のこの言明は、あまりに明白な真理なのです。

霊魂は、正義と聖性の太陽である神に近づけば近づくほど、
ますますハッキリと、自分の醜い姿に気づきます。

真理の強烈な光が、
霊魂の深奥をくまなく照らし出すので、
そこにある、最もかすかな欠点の影すらも見逃しません。

信仰と愛によって清められた、内心のまなざしは、
一層深く、神の無限の完徳を見つめます。

自分が無に過ぎない者であることが、
ますます身にしみて痛感されるのです。

無限な神と、
無に過ぎない自分との間に横たわる、
果てしない深淵に思い至る時、
霊魂は消えてなくなりたいような感じさえします。

イエズスとの一致が深くなればなるほど、
罪を滅ぼすためにイエズスが凌がれた苦しみについての、
生々しい、正確な実感を持つに至ります。

同時に、恩寵の生命に関しても、
ますます認識が深まってゆくので、
その時、霊魂は、
罪を犯すことによって御父に背いたこと、
イエズス・キリストのご受難を侮辱したこと、
聖霊の勧めに従わなかったこと、
これらのことを想い至り、
罪がどれほどいけないことであったかを、
身にしみて痛烈に感じるようになるのです。

一生にたった1度しか、神に背かなかったとしても、
このたった1つの罪の記憶に、彼は胸がえぐられる気持ちがするのです。

罪を悔やみ、これを憎む感情と共に、
神へのこの上ない細やかな愛情が、
神を畏れかしこむ切ない想いが、
胸の底から湧き出てくるのです。

それからその霊魂は、
ただ神をお喜ばせすることに集中します。

そのようにして、神の限りない憐れみを、
自身に引き付けるのです。



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東の国の三人の王が、イエズスを拝みにきた 


イエズスさまがお生まれになったとき、
遠い東の方の国から、3人の王さまが、イエズスさまを拝みにきました。
この王さまたちは非常に賢い人たちだったので、3博士とも言われます。

3人の王は、エルサレムへきてヘロデ王に、
「私たちは、東の国から、ふしぎな星に導かれてきました。
 ユダヤ人の王となる救い主が、お生まれになったそうですが、
 どこでしょうか?私たちはそれを拝みに来たのです」と言いました。


これを聞いたヘロデは驚いて、
すぐに大祭司と聖書学者たちを呼び集めて、
「救い主はどこに生まれることになっているか」と聞きました。
かれらは、聖書の預言をしらべて、
「それはユダヤのベトレヘムでございます」と答えました。

そこでヘロデは3人の王に向かい、
「救い主はベトレヘムに生まれています。
 あなたがたはそこへ行って生まれた幼な子を尋ね、
 もし見つかったら、知らせてください。
 私も拝みに行きたいから」と言って、送り出しました。

しかし本当の心はそうではなく、
救い主を見つけて殺してしまおうと思っていたのでした。


3人の王さまがヘロデの所を出ると、
東の国から見てきたふしぎな星がまた輝きだし、
先に立って導き、幼いイエズスさまのおいでになる所でとまりました。

博士は、そこでマリアさまにだかれていらっしゃる救い主を拝み、
自分たちの持ってきた宝物を献げました。

 
神さまは3人の王に、夢で、
ヘロデの所へはふたたび行かないようにお告げになったので、
王さまたちは、別の道を通って、東の国に帰りました。



1 聖堂の救い主を訪問するときは、
  3人の王さまのことを思い起こしましょう。


2 毎年1月6日には、東の国の3人の王が
  幼いイエズスさまを拝みにきたことを記念します。
  この日をご公現の祝日といいます。


3 御聖体の救い主に対する祈り

 「イエズスさま。私も東の国の王たちのように、あなたを拝みます。
  私は東の国の王のような、宝物を献げることはできません。
  けれどもそのかわりに、私のココロをみんな献げます。
  私はなによりもイエズスさまを愛します。
  どうぞ私がいつも、おそばを離れないように、お守りください。」



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聖家族はエジプトに避難した 


3人の王さまが帰ったあと、
こんどはヨゼフさまの夢の中に、天使が現れて言いました。
「早く子供とお母さんを連れて、エジプトに逃げなさい。
ヘロデが生まれた幼な子を殺そうとしているから。」

 
ヨゼフさまはすぐに起き上がり、
イエズスさまとマリアさまとを連れて、いそいでエジプトに逃げました。

 
いっぽう、ヘロデは、3人の王の帰りを待っていましたが、
いつまでたっても知らせがありません。

やがて、3人ともヘロデに黙って別の道から帰ってしまったことを知り、
激しく怒って、すぐに家来をベトレヘムにやり、
そのあたりの2つよりも小さい男の子を
1人残らず殺させてしまいました。

なんのわけもなく赤ちゃんを殺された
気の毒なお母さんたちの悲しむ声が、
四方に起こりました。

 
やがて、この残酷なヘロデ王は死にましたので、
ヨゼフさまはイエズスさまとマリアさまを連れて帰り、
ナザレトという小さな町に住み着き、そこで暮らすことになりました。


1 イエズスさまの身代わりとなって殺された、聖なる幼な子たちよ、
  私たちのためにお祈りください。


2 毎年12月28日には、イエズスさまの身代わりとなって、
  ヘロデのために殺された、罪のない幼な子を記念します。


3 神さまを愛する人は、いつも、聖家族や3人の王たちのように、
  神さまから守られています。




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聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士


断食は、祈りの魂であり、
その断食を生かすのは、慈善です。

ですから、あなたが祈る時には断食し、
あなたが断食する時には、慈善の業を行ないなさい。

あなたの願いが、神に聞き入れられるようにと望むのなら、
他者の願いに、あなたも耳を傾けなさい。

他者にむけてあなたの耳をふさがずにいるならば、
神の耳も、あなた自身に向けて開かれるでしょう。



教皇ベネディクト16世

断食は、
多くの兄弟姉妹の生活状況に、
私たちの目を開く助けとなります。

「世の富を持ちながら、
 兄弟が必要な物に事欠くのを見て、
 同情しない者があれば、
 どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう」(1ヨハネ3・17)。

私たちは自発的に断食を行うことにより、
身を低くかがめて苦しんでいる人々を助けに行く、
善いサマリア人の精神にそって成長することができます。

人のために無私の業を惜しみなく行なうことで、
私たちは助けを必要としている兄弟姉妹が、
赤の他人でないことをはっきりと示すのです。




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福者コルンバ・マルミオン修道院長

聖人たちと教会は、心の痛悔をどのように見ているか

教会は、ミサの典礼の中で、
ココロの痛悔の見事な規範を与えてくれています。

被造物が神に捧げることのできる、
最高の祝祭である、このミサ聖祭を挙行する時、
司祭のココロにみなぎっている想いは、
いったいどんなものでしょうか。

多くの人々の中から彼を選んで、
天使たちでさえ、それにふさわしからぬ、永遠の司祭職に、
彼を任命してくださった神の特別な恩寵への、
感謝の情でしょうか。

しかしながら司祭の唇をついて出るのは、
痛悔の叫びです。

「全能の神と、終生おとめマリア。。。
 あなたたち兄弟に向かって告白します。
 私は、思い、言葉、行ない、怠りによって、
 多くの罪を犯しました。
 これは、私の過ち、私の過ち、
 私の最大の過ちです。。」

ミサが進むにつれて、痛悔の叫びは、
ますます哀切をきわめます。

「主よ、私たちから、私たちの不義を取り除いてください。
 私たちが清められたココロで、
 あなたの至聖所に入ることができますように。。」

栄光の賛歌も、
愛と感激の調べに、悲しみのリズムを交えます。

「主なる神、神の小羊、御父の御子よ、
 世の罪を取り除いてくださる主よ、私たちを憐れんでください。
 世の罪を取り除いてくださる主よ、私たちの願いを聞き入れてください。
 御父の右に座しておられる主よ、私たちを憐れんでください。。」

生きておられるまことの神に、
汚れのないオスツィアを捧げる時、司祭は祈ります。

「これを、私の数え尽くせない罪と侮辱、怠慢のために、
 主にお捧げいたします。。」

聖変化の前には、「私を終わりのない滅びからお救いください」と祈り、
聖変化の後には、イエズスと同心同体となりながらも、嘆願します。

「私たちは罪人にすぎませんが、主のしもべでもありますから、
 主の豊かな憐れみに希望いたします。
 取るに足りない私たちの功徳をはかられず、
 どぅか、あなたの赦しによって、私たちをも、
 あなたの使徒たちと殉教者たちの群れに加えてくださいますように。。」

聖体拝領によって、
まさに神なるいけにえと1つになろうとしている、
まさにその時、司祭は罪人のように胸を打ちながら祈ります。

「世の罪を取り除かれる神の小羊よ、
 どぅか、私が犯した罪に目をおとめにならないでください。。
 あなたの御体と御血の拝領が、
 私にとって、裁きと永遠の滅びの原因となりませんように。。」

ミサ聖祭を捧げる司祭や司教たちの中には、
私たちの尊敬に値する、多くの聖なる霊魂がいるでしょう。
それでも、彼らも例外なく、こぅ言わねばなりません。

「聖なる父、全能永遠の神よ、
 私は卑しいしもべに過ぎませんが、
 生きておられるまことの神であるあなたに捧げる、
 この汚れないいけにえを受け収めてください。
 今、このいけにえを、
 私の数え尽くせない罪と、主に対して犯した侮辱と怠慢のため、
 。。。お捧げいたします」

さらに教会は繰り返しこぅ祈らせます。

「主よ、私はこれにふさわしくありません。。」

なぜ教会は、このように定めたのでしょうか。

それは、痛悔の精神のないところには、
キリスト教的生活の領域もありえない、
ということをよく知っているからです。

イエズスの犠牲に、私の犠牲を一致させてください、と、
司祭が御父に嘆願する時、彼はこのように祈ります。

「主よ、深くへりくだる精神と、
 痛悔のココロをもって、あなたに捧げる私たちのいけにえを、
 今日、あなたのみこころにかなうものとしてください」

イエズスの犠牲はいつでも、
御父に喜んで受け収められます。

しかしながら、
それが私たちの手を経て、御父に捧げられる時、
こころよく受け収めていただくための条件は、
私たち自身の痛悔のココロと、
深い謙遜の精神であることを、
忘れてはならないのです。


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堕天使の選択および死の門をくぐった人間の意志は撤回不能



私は、獣(反キリスト)と、地上の王とその軍勢が集結し、
馬にのっておられる御方とその軍勢に向かって戦闘を開始するのを見た。
獣は捕らえられ、偽預言者も共に捕らえられた。
偽預言者は、獣に仕えて不思議を行ない、
それによって、獣のしるし(666)を受けた者と、その偶像を拝む者を迷わせた。
その2つ共、生きながら、硫黄の燃える火の池(永遠の死)に投げ込まれた。
火の池は、第2の死である。
彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれたが、
そこには獣と偽預言者がいて、昼夜を問わず彼らは苦しめられる。
世々に至るまで。
(cf,.ヨハネの黙示録19&20.)



Q. 神に叛逆した堕天使は清められることってあるの?


A.

火の池が居場所である堕天使(悪魔)が、
清められることはありません。

堕天使の意志は撤回不能であって
神を拒絶する意志は永遠に変わることがありません。

それは人間が、死の門をくぐると
その意志は固定されて撤回不能になるのと同様です。

天国や地獄があるのは
意志の選択を固定させる被造物の自由ゆえにもあります。

意志の撤回ができるのであれば
地獄はその存在意義さえないものとなります。

煉獄で十分、といったことになるはずです。

しかしながら清められるのは、
神様の憐れみを受けた煉獄にいる霊魂~しかも人間の霊魂のみ~であって、
天使はそこで清められる、ということがありません。

天使は肉の弱さを知らず、神の正義によって裁かれましたが、
人間は肉の弱さのゆえに、神の憐れみによる裁きが行なわれるからです。

天国が永遠であるように、
地獄は永遠であり
自由意志をもって、そこに入ったものは
天使であれ人間であれ
永遠に、そこが彼らの住まいとなるものです。

悪魔は、自分と同じ永遠の苦しみに
永遠の地獄~燃え盛る憎しみの炎と硫黄の池~に
人間を落とし入れようと、あらゆる活動をしています。
もちろん、神様のお許しになる範囲内のみですが。

ですから悪魔が自分の意志をねじ曲げて
清めを受け入れることがないのです。
それは彼の自由意志であり撤回不能な頑強さを備えているからです。

地獄について、神の御言葉が、
そこは「世々に至るまで」と言われているとおりです。


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イエズスは、神殿に献げられた 

イエズスさまがお生まれになってから40日たって、
マリアさまとヨゼフさまは、ユダヤ人の習慣に従って、
イエズスさまをつれて、エルサレムの神殿におまいりされました。

そして幼いイエズスさまを神さまにささげ、
2羽の山ばとをいけにえに供えました。

 
そのころ、エルサレムの神殿には、
神さまを熱心に愛し敬い、お仕えしていた、シメオンという年寄りがいました。

シメオンは日ごろから「救い主を見ないうちは死なない」と、
聖霊に教えられていたので、毎日神殿で、
救い主の来られるのを待っていたのでした。

 
イエズスさまたちの神殿に来られたちょうどその日、
シメオンも、聖霊にうながされて神殿に来ていました。
シメオンは、幼いイエズスさまを一目見て、
これこそ長い間待ちに待っていた救い主だとわかりました。

そして、イエズスさまを拝み、自分のうでに抱かせていただき、
喜びのあまり、神さまをほめたたえて歌いました。

 「主よ、今こそ、あなたはみことばのとおりに、
  このしもべを、安らかに去らせてくださいます。
  私の目が、今、あなたの救いを見たのですから。」

 
シメオンは続いてマリアさまに向かって、
「あなたは、つるぎで胸をさしつらぬかれます」と言いました。

これはのちに、イエズスさまのご苦難とご死去のときに、
マリアさまもおそばにいて、
ひどい苦しみをお受けになることを預言したものでした。


ロザリオ 喜びの玄義 第四玄義 

この一連をささげて、マリアさまがイエズスさまを神殿にお献げになったことを考え、
私も神さまのおきてを守るよい人になれるよう、マリアさまにお願いしましょう。


1 マリアさまは神さまから祝福されたかたであり、
  おん子イエズスさまは、神さまでした。
  それでも、神さまのおきてに従って、
  ふつうの人と同じように、神殿で清めの式をお受けになったのです。

 
  私たちも神さまのおきてを忠実に守りましょう。
  どんなに辛くても、喜んでがまんしましょう。


2 毎年2月2日には、イエズスさまが神殿に献げられたことを記念します。
  この祝日を、主の奉献の祝日(聖母マリアの清めの祝日)といい、
  教会で使うろうそくは、この日に祝別します。 

  祭壇にろうそくをともすように、
  私たちも祈る時には、
  ココロに愛の炎をともして、神さまにお祈りをお捧げいたしましょう。



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福者コルンバ・マルミオン修道院長

聖人たちと教会は、心の痛悔をどのように見ているか

聖ベネディクトゥスが描く、
謙遜の最高の段階に到達した修道者の姿をごらんなさい。

あと一歩で、完全な愛に、
神との完全な一致に到達しようとしている時、
この理想的修道者のココロの態度は、
いったいどんなものでしょうか。

「彼は、働きの場所でも、聖堂でも、修道院内でも、
 庭園でも、旅行中でも、田畑でも、どんな所でも、
 坐臥進退全てにおいて、
 頭をたれ、目をさげ、
 時々刻々に、自分の罪を念頭において、
 あたかも神の恐るべき裁きの庭に出頭しているかのように、
 ココロの中ではいつも、
 かの聖福音の中の貢取りが目をさげて言っていることを、
 自分でも繰り返して言っているのです。
 『主よ、こんな罪人の私は、目を天に上げる資格すらありません』」


純潔の白百合、聖女ジェルトゥルーディスは、
キリストに向かってこぅ申し上げました。

「主よ、私が一番大きな奇跡だと考えていることは、
 この大地が、私のような大罪人を、
 今でも支えてくれていることなのです」


イエズスご自身から、
直接、霊性の教育を施していただいた、
アヴィラの聖女テレジアは、
「主よ、あなたのはしための裁きにたずさわらないでください」
という詩編の章句を、自分で紙片に書き、
それを祈祷所の、一番よく目立つ所に置くのでした。
歴史家の伝えるところによれば、
生涯でただの1つの大罪すら犯したことのなかった、
この聖女が、です。


シエナの聖女カタリナも、
神の憐れみを求めてやまず、
祈りの時には必ず次の言葉で終わるのを常としていました。

 Domine, miserere mihi peccatori.
 主よ、罪人である私を憐れんでください。


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救い主イエズス・キリストのご誕生(クリスマス) 


そのころ、ローマ帝国の皇帝アウグストから、
全国の戸籍調べをする命令がくだりました。

それで人々はみな、自分の名まえを届けるために、
生まれ故郷へ帰らねばなりませんでした。
 
ヨゼフさまはダビデ王の子孫でしたから、
王の出身地であったベトレヘムまで、行かねばなりませんでした。

そこでヨゼフさまは身重のマリアさまを連れて、
何日もつらい旅をされたのち、やっとベトレヘムに着きましたが、
町は人々でいっぱいで、貧しいお2人には、
お泊まりになるところさえありませんでした。

お2人は仕方がないので、町外れのうまやにおはいりになりました。

その晩、そこでイエズスさまがお生まれになりました。
マリアさまはイエズスさまを布に包み、
かいばおけの中におねかせしました。


1 毎年12月25日には、イエズスさまのご誕生を記念した
  喜びのお祝いが行われます。これをクリスマスとも言います。

2 「イエズスさまは、いつの世までも賛美されますように。アーメン」


3 使徒信経の第3条には、
  イエズスさまは、「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」とあります。


ロザリオ 喜びの玄義 第三玄義 
 
この一連を献げて、イエズスさまが、
貧しいうまごやでお生まれになったことを考え、
私も喜んで貧しさをしのぶことができる人になれるよう、
マリアさまにお願いしましょう。


1 イエズスさまは、神さまのおん子という尊いご身分でありながら、
  貧しいお二人をご両親として、ベトレヘムのうまごやでお生まれになり、
  しかもかいばおけの中に寝かされたのでした。
  イエズスさまのご誕生を知って、始めて拝みに来た人たちも、
  近所にいた、貧しい羊飼いたちでした。

 
 私たちも不足があるからといって不満を言わないで、
 今日一日、何かイエズスさまを喜ばせることをしましょう。


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羊飼いは天使に知らされて、イエズスを拝みに来た 

イエズスさまのお生まれになった晩、
ベトレヘムの近くで、羊飼いたちが羊の番をして野宿をしていました。

すると、急に天使がそばに現れ、
まぶしい光りが、かれらを取り囲みました。
羊飼いたちはびっくりしてふるえていますと、天使が言いました。

「こわがることはない。私はたいへんうれしい知らせを知らせてあげる。
 すぐダビデの町のうまごやに行ってみなさい。
 そこにはかいばおけのなかに、布につつまれて、寝かされている赤子がいる。
 それこそ、この世においでになった救い主だ。」

 
天使がこう言い終わると、おびただしい天使のむれが現れて、
「天には、神さまにみさかえがありますように。
 地には、よい心を持った人々に平和があるように」と声を合わせて歌いました。

 
こうして天使たちの姿が消えたあと、
羊飼いたちは喜び勇んで、
「さあ、ベトレヘムへ行って、今のお告を見よう」と口々に言いながら、急いで行きました。

そこには天使のことばのとおり、
イエズスさまはかいばおけに寝かされ、
そばに、マリアさまとヨゼフさまがついておられました。

羊飼いたちはこれを見て、
救い主をつかわしてくださった神さまを、ほめたたえました。

 
救い主であるこの生まれたばかりの赤子は、
8日目に、ユダヤ人の習慣に従って儀式を受け、
イエズスという名をつけられました。


1 聖堂にいらっしゃる幼いイエズスさまを、喜んでおたずねしましょう。

2 毎年1月3日には、救い主がイエズスというみ名をつけられたことを記念します。

3 御聖体のイエズスさまに対する祈り

 「愛するイエズスさま、あなたは、いま、ここに、御聖体の姿でおいでになります。
  私はみまえにひざまずき、つつしんであなたを拝みます。
  どうぞ私をごらんになって、祝福してください。
  私があなたのお気にいるよい子になり、
  やがて天国に入れるよう、どうぞ私をお助けください」




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