2009年01月

内部工作員(Anti-Apostle)の回顧録

Nihil enim est opertum, quod non revelabitur,
et occultum, quod non scietur. (Mt 10, 26)

覆われているもので、明るみにされないものはなく、
隠されているもので、知られないものはない。(マテオ10,26)

The Anti-Apostle number 1025

1025番目の反使徒。。
この人物は、
1917年頃、ロシア人の両親から生まれ、
彼が路頭に迷っている3歳の時、
ポーランドの医師と、その妻の養子とされました。
敬虔なカトリック信者であった夫妻は、
子に恵まれず、彼を自分たちの子として愛情を注ぎました。
また、彼も、自分が夫妻の子であると考えていました。
しかし、彼が14歳の時、
自分が実の子でないことを知り、衝撃を受け、
彼の産みの親に対する激しい憎悪にかられ、
家を飛び出し、友人のもとに行きました。
このことは、彼の人生を大きく変えてゆきました。
神への憎悪は、無神論を広める団体に、
彼の心を開かせました。
その友人は、
彼にロシアの秘密警察の高官を紹介し、
彼は6年にわたる訓練を経て、秘密諜報員となりました。
彼は、彼に指示されたミッションに向けて動き始めました。

Marie Caree

16.「公会議の精神」の名のもとにおける変革 

 

太陽の眩しいある土曜日、
「漆黒の髪」が待つアトリエに私は走った。

漆黒の髪が待っている。。
この気持ちが分かる者がいようか。 
 
「漆黒の髪」は、
完全に私のものになっていた。
誰もそれを見られないよう、
彼女の髪を切ってやりたいと思ったほどだ。
髪を切ってやりたい! 
何という犯罪的な思いを、私は抱いているのだろう。 
 
1つ要求があると私に告げた時にも、
彼女は全く優しく、愛情に溢れていた。
私は身震いを起こしたほどだ。 
 
しかし、彼女が求めたのは、
彼女が「綺麗」と言う、私の両手を描くことだけだった。
可愛い考えだが、女というのは全く理解し難い生物だ。 
 
私はその日の午後に、
我慢しながらポーズをとっていた。

天使なら~そのようなものがいたとするならば~
さぞ私を羨んだことだろう。
私のこの手を。。 
 
スケッチは床の上で次々と手早く描かれた。
私は陶酔の境地に浸っていた。
それは完全な幸福と呼ぶべきものだ、
そう私は思った。。
少なくとも、今までの人生で、
あれほどの幸せを感じた瞬間はない。
 
誰も信じてはくれないだろうが、
この瞬間の私たちの結合は、
つまらぬ肉体の結合に
これほどの幸せがつくりだせるだろうか?と思うほど、
それほどに強く、また完全なものだった。

まるで時間が止まったような気分だった。 
 
スケッチが終わると、私の可愛い敵は、
「この手はきっと素晴らしいことをするでしょう」と言った。
私は正直、戸惑った。
自分の両手は、本当は、死と殺人の臭いを放っているからだ。 
 
その日、彼女は、
私が彼女の髪の毛をもてあそぶことを許してくれた。

私は色々な髪結いを試した。
髪をといては、丸め、
それからもう2度と見られないかのように、
つらい犠牲のためにそれを用意しているかのように、
丁寧に、また丁寧に、髪にブラシをかけた。 
 
この日、なぜこれほどまで奇妙な感覚を覚えたのだろう?
本当に不思議な日だった。
どこからこんな奇妙な感覚が来たのか、
今でも全く分からない。 
 
それから私たちは、
悲劇的な辛さの中で別れをした。

「次の土曜日に会いましょう」
「次の土曜日に」。。
ふたりは同時にそう言った。

まるで、この希望が、
預言書に書かれているかのように、
あたかも、別れの唯一の理由がそこにあるかのように、
全ての壁を早く乗り越えたいと思っているかのように。。

あぁ、壁を乗り越えるのだ!!!  
 
。。ところが、私は、
土曜日に黙想会を開始することをすっかり忘れ去っていた。
2、3日中に修道会入りすることになっていた。 
 
それで、私は短い手紙を「漆黒の髪」に書き、
上手な嘘を作り出さなければならなかった。

「ローマにもうすぐ行くから、
  一緒についてきて欲しい」
このように率直に書き加えたかった。

しかし、この6年間、神学校で耐え忍んだより、
もっと悪い隷属に自分が入ろうとしている。。

私の中の何もかもが、そう訴えているというのに、
率直な言い方などできるはずもない。 
 
あぁ、私は、ローマで、
永遠の都の歯車に捕らえられるのだ。

自分は捕らえられても、機械を壊す砂利に、
修復不可能なまでにそれを破壊するに違いない砂利になるのだ。。
このように言い聞かせて、自分を慰めた。


つづく。。
http://media.imeem.com/m/h3lfF3byQU/

汚れなくやどられた聖マリア、 
あなたによりすがる私たちのためにお祈りください。 
また、あなたによりすがらない人々、 
特に、教会に敵対する人々、 
そして、私たちがあなたに依頼する全ての人々のためにお祈りください。 


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福者コルンバ・マルミオン修道院長
聖ベネディクト会司祭


私たちが貧しければ貧しいだけ、
キリストの言い尽くしがたい恩寵の富は、
私たちの中に、
より大いなる発展の余地を見出します。

ひとたび、私たちの惨めさが自覚され、
「主よ、お救いください」
このような哀切なる叫びを発する時、
その時こそは、
キリストの豊かな憐れみの富を、
わが身に惹き付けるのであります。




内部工作員(Anti-Apostle)の回顧録

Nihil enim est opertum, quod non revelabitur,
et occultum, quod non scietur. (Mt 10, 26)

覆われているもので、明るみにされないものはなく、
隠されているもので、知られないものはない。(マテオ10,26)

The Anti-Apostle number 1025

1025番目の反使徒。。
この人物は、
1917年頃、ロシア人の両親から生まれ、
彼が路頭に迷っている3歳の時、
ポーランドの医師と、その妻の養子とされました。
敬虔なカトリック信者であった夫妻は、
子に恵まれず、彼を自分たちの子として愛情を注ぎました。
また、彼も、自分が夫妻の子であると考えていました。
しかし、彼が14歳の時、
自分が実の子でないことを知り、衝撃を受け、
彼の産みの親に対する激しい憎悪にかられ、
家を飛び出し、友人のもとに行きました。
このことは、彼の人生を大きく変えてゆきました。
神への憎悪は、無神論を広める団体に、
彼の心を開かせました。
その友人は、
彼にロシアの秘密警察の高官を紹介し、
彼は6年にわたる訓練を経て、秘密諜報員となりました。
彼は、彼に指示されたミッションに向けて動き始めました。

Marie Caree

16.「公会議の精神」の名のもとにおける変革 

 

私は、偽使徒の情熱を倍にして、「漆黒の髪」に返事を出した。
子供じみた戦いも終わりに近づいた頃に、
沢山の攻撃計画を立案し、
これらが30年で完璧に実現されるものと考えた。

1974年は、無神論的普遍教会の記念すべき創設年になるだろう。 

超自然に対する憎しみが、
私に天才を与えてくれたばかりか、
ニ重の仕事に、信じ難い力を与えてくれた。

自分は神学を研究していたので、
好成績を修めることが重要だった。
実際、自分が何でも一番だったことに狂喜した。
そして、真の信者を守ろうとしない神など
最初から存在していなかったのだと確信するようになった。 

「超自然」という語が、人に子供騙しの作り話を信じ込ませ、
幕の内側を見させないようにしているのだ。
私は、この悪い劇場を取り壊すことを決意し、
不自然で、説明できないものを、
新約聖書から全て削除する作業を仲間に託した。 
 
この仕事は非常に有益だ。
この新たな注釈者の言葉を真に受ければ、
自分が神であると、キリスト自らが信じていたことになる。
だが、彼の実際の言葉と、
弟子たちが追加した言葉とを区別するのは不可能だ。
したがって、常識に当てはまらないことは、
全て削除しなければならない。 
 
前にも書いたが、一番大事なことは、
子供の問題に取り組むことだ。
子供の柔軟な心に強い感化を及ぼすことが不可欠だ。
私は、揺るぎ無い確信をもって、
自由についての指令を出した。
自分で歩き喋れるようになるや否や、
どの子供にも自由を与えなければならないという指令だ。 
 
大人が子供を日曜日毎に
ミサに無理やり連れて行くというのは、
全く恥ずべきことである。

同意を得ることなく、
子供をカテキズム勉強会に入れるのも、
同じほど恥ずべきことだ。

外で遊びたい時にも
聖体拝領を受けなければならないと子供が思い込むのも、
そこに原因がある。 
 
生まれた途端に受ける幼児洗礼については言うまでもない。
これこそスキャンダルの元凶であろう。
私は、子供に向けた力強い情報キャンペーンを張るよう指令した。 
 
従順な偽善的クリスチャンになれと言われた時に、
世界のどの子供たちも、否定の言葉を語れなければならない。 
 
数え切れぬ子供たちが、喜びに満ちて、
「私はクリスチャンではない。神を信じない。
古く役立たずな親のように愚かではない」
このように堂々と言える日が来たら、
どんなに素晴らしいことか。 
 
一方で、私は、
どうしても「漆黒の髪」に会いたくて仕方がなかったが、
予想もしない時に、念願がかなうことになった。 
 
ある提案を受けてほしいとの親切な招待が、
彼女の方から来たのだ。。


つづく。。
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汚れなくやどられた聖マリア、 
あなたによりすがる私たちのためにお祈りください。 
また、あなたによりすがらない人々、 
特に、教会に敵対する人々、 
そして、私たちがあなたに依頼する全ての人々のためにお祈りください。 


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福者コルンバ・マルミオン修道院長
聖ベネディクト会司祭


あなたが大層弱り果て、苦しみも一層募り、
丁度お言葉のように、小さい草花がその茎の上に
力なく萎れ伏しているような状態を見て、
非常に胸を痛めています。

イエズス様の愛のために、
また、その御受難中のその悲しみと苦しみに合わせて、
このようにひどい病苦を耐え忍ぶことができますように
毎日、お祈りいたしております。

私の娘よ、
イエズス様と共に苦しむのは、
あぁ、これこそ、真の幸福なのです!

何時私たちは、
身に沁みて、この真理を悟るのでしょうか。

苦しみ、悩みにある人こそは、
イエズス様の聖心に、最も近いのです。

愛によって、
しばしばイエズス様と一致し、
そして、父なる神様が
お与えになろうと思し召される
一切の苦しみを、
イエズス様と共に、
また、イエズス様のために、
喜んでお受けしなければなりません。




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福者コルンバ・マルミオン修道院長
聖ベネディクト会司祭


何事をなすにおいても、
イエズス様が一番お喜びになるよう、
これをなすこと。。。

このあなたの黙想会における決心は、
この上もなく立派です。

しかしながら、
ファリザイ人敵忠実に堕落してはなりません。

私の切なる望みは、
あなたが、主を愛する一念から、忠実であることです。

神への忠実において、肝心な点は、
この忠実を活かすところの、内面的精神なのであります。

ファリザイ人らは、
万事を、正確に遵守していました。

けれどもそれは、
人々から感嘆の眼をもって見られ、
群衆の喝采を博そうとの底意から出たものでした。

ですから、この道徳的脱線は、
彼らの善業を、根底から腐らせたのであります。

忠実を、
ただ、それ自体のためにのみ追求し、
これを活かすところの内面的愛がなかったならば、
それはいたずらに、形式論者の見せかけか、
ファリザイ的偽善に過ぎず、
全力をふるって、これを排撃しなければなりません。

追求しなければならない理想は、
行動の正確さよりもむしろ、
愛の正確さであります。

外面的遵守の真髄をなすものは、
どうしても、内面的生命でなければなりません。

行為の外面的忠実は、
ココロを支配する信仰と、信頼と、
愛の充実の結果であり、
その溢れであり、表現でなければなりません。

この意味において、忠実こそは、
地上における神に対する愛の、
最も美しい、最も豪華な装いであります。

愛のココロから生まれる、この外面的正確さには、
ファリザイ人らのそれとは赴きを異にして、
一種の安易と軽快、余裕と自由、
愛らしさと楽しさが伴っているのであります。




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福者ヤシンタ・マルト

あぁ、世の中の人々が、
「永遠」というものが、どんなものであるか、
それをよく知っていましたなら!

どんなにか、生活改善のために、
あらゆる努力を傾け尽くすことでしょう。

どぅぞ、贅沢を避けてください。
裕福な生活を避けてください。
尊い清貧を、大いに愛してください。

悪い人々に対してさえも、
親切を尽くしてください。

誰の悪口であろうと、
絶対に言ってはなりません。
他人の悪口を言う人々のそばにいてもなりません。

罪人たちのためにお祈りください。
司祭たちのために、修道者たちのために、
たくさんお祈りしてください。

司祭たちは、
教会の仕事のほか、関係してはなりません。

司祭たちは、純潔でなければなりません。
たいそう純潔でなければなりません。


http://media.imeem.com/m/_Xm6ta42f0/
O mi Jesu, dimitte nobis debita nostra,
libera nos ab igne inferni,
conduc in caelum omnes animas,
praesertim illas quae maxime indigent misericordia tua.

あぁ、私のイエズスよ、私たちの罪をお赦しください.
私たちを地獄の火からお救いください.
全ての霊魂、特にあなたの憐れみを,
最も必要とする霊魂を天国へ導いてください。


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福者コルンバ・マルミオン修道院長
聖ベネディクト会司祭


完全な安息は、
天国に行ってからです。

この涙の他にでは、
イエズス様のおそば近くに
とどまっていなければなりません。

そして、イエズス様は、
地上では、とりわけ、十字架上の血染めの御姿で、
ご自分をおあらわしになります。

これこそは、
救世主イエズス・キリストの公式の御姿なのです。

私たちが、
辛い憂き世の苦しみや煩いに耐え、
かつ、天国を勝ち得るためには、
イエズス様は私たちの行く手の途中に
小さい喜びの花びらを撒き散らしていてくださいますが、
それには、いつも十字架の棘が隠されています。

そのご慈愛に信頼いたしますならば、
その都度イエズス様は、
感情をよく調整する恵みを
あなたに与えてくださるでしょう。

将来の事を
あまり心配してはなりません。

むしろ瞬間瞬間の
現在にお生きなさい。

明日は明日、
試練が訪れましたなら、
自らの恩寵が、ちゃんと用意されているでしょうから。




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福者コルンバ・マルミオン修道院長
聖ベネディクト会司祭


私たちのミゼールの深淵は
私たちの想像の程度を超えて
遥かに大きく、かつ、深いものです。

しかしながら、
神様の憐れみの深淵は
神様ご自身のように、際限がないのであります。

もしも私たちが、
神様の御前に、自らの霊魂を、
その一切の弱点と過失と共にさらけ出して、お見せするならば、
神様のまなざしは、
何人もその底を究め尽くすことのできない
この惨めさの深淵を、貫いてくださるでしょう。

神様のまなざしは、
この淵の、最も深い、最も隠れた所にまで達して、
私たちに力と光を与えてくださるのです。

霊魂の最秘奥にまで達して、
その罪業の深さを探り得るものは、
ただただ、神様のまなざしだけであります。

同時に、神様だけが、
それに要する薬剤をお与えになることができるのです。

神様がそのようにしてくださることを
確信していましょう。




                              https://livedoor.blogimg.jp/sacerdosaeternus33/imgs/6/a/6abbbd12.gif

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使徒聖パウロ(愛の賛歌)

                               https://livedoor.blogimg.jp/sacerdosaeternus33/imgs/a/8/a804bfde.gif

Si linguis hominum loquar et angelorum, caritatem autem non habeam,
factus sum velut aes sonans aut cymbalum tinniens.
たとえ人間や天使の言葉を語ろうとも、
愛徳に欠けているなら
鳴り響く青銅や、うるさいシンバルのようなものである。
Et si habuero prophetiam et noverim mysteria omnia
et omnem scientiam, et si habuero omnem fidem,
ita ut montes transferam, caritatem autem non habuero, nihil sum.
たとえ預言や、あらゆる神秘、あらゆる知識を把握していたとしても、
また、あらゆる信仰を有して、山々を動かしえたとしても、
愛徳に欠けているなら、無に過ぎない。
Et si distribuero in cibos omnes facultates meas
et si tradidero corpus meum, ut glorier,
caritatem autem non habuero, nihil mihi prodest.
たとえ私の全ての蓄えを、食べ物にして、貧しい人に分配したとしても、
また、誇りを得るべく、私の体を死の火に渡したとしても、
愛徳に欠けているなら、
私にとって、何らの進歩もない。
Caritas patiens est,
benigna est caritas,
愛徳、それは忍耐である。
寛大さ、それが愛徳である。
non aemulatur, non agit superbe, non inflatur,
non est ambitiosa, non quaerit, quae sua sunt,
non irritatur, non cogitat malum,
愛徳は、競おうとせず、横柄な態度をとらず、高ぶらない。
人に媚を売らず、自分の利得を求めない。
憤ることなく、悪い考えを抱かない。
non gaudet super iniquitatem, congaudet autem veritati;
omnia suffert, omnia credit, omnia sperat, omnia sustinet.
不正を喜ばず、真実を共に喜ぶ。
全てを受け入れ、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ。
Caritas numquam excidit.
Sive prophetiae, evacuabuntur;
sive linguae, cessabunt;
sive scientia, destruetur.
愛徳は、決して失われることがない。
預言であれば、なくなり、
異言であれば、おさまり、
知識であれば、崩れ去る。
Nunc autem manet fides, spes, caritas, tria haec;
maior autem ex his est caritas.
今は、信仰、希望、愛徳、この3つがとどまる。
このうち最も優れているもの、
それは、愛徳である。
Sectamini caritatem.
Omnia vestra in caritate fiant.
愛徳を追い求めなさい。
あなたたちに関わる全ての事柄を、
愛徳のうちに行いなさい。

ちなみに1月25日は、
使徒聖パウロの回心の祝日です。



存在そのものが神からのGIFT
そして、その存在を保つために与えられた他のものも神からのGIFT

人を支えるためにあらゆるものを奉仕させた神
目に見える物質、目に見えない物質、動物や植物、
地上、天空、宇宙、
目に見えない天使さえも人に奉仕させてくださっている神

神は愛によって存在を与えられたので
人としての存在は神の愛の表現といえますから
神が大切にされるもの、
それが真に大切なもの、
神の似姿である「人」それが大切であり
その尊厳のゆえに
他者をも大切にし、敬い、愛するのでしょうねっ。

なので、
僕にとって大切なもの
それは、神が愛される、
愛の表現である「人」としての存在です。
だから、「わたし」も大切ですし「あなた」も大切です。

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