2008年06月

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私は主に、小さな犠牲をどのように感じていらっしゃるかお尋ねしました。

ヨゼファよ、父親はのどが渇いて飲み物がほしいと頼んだ時、
子供から1杯の水をもらえば、嬉しく思うだろう。

その際、子供のほうで父の渇きを察して、
頼まれない先から水をあげれば、
父はどれほど満足に思うことだろう。

愛のために私にしてくれることは、
どんなに小さくても、
私にとっては大きな慰めとなる。

このようにしてお前は、
お前自身の霊魂のためにも、他の霊魂のためにも、
価値の高いものとなることができるのだ。

さぁ、お前の心を私に与えておくれ。
私がそこで安らぎをえられるように。。

私を悲しませる霊魂たちに代わって、
私にこうささやいておくれ。
「あなたを愛しています」と。。



数日前からの胸の痛みは激しく、
医師も特別な異常を認めないこの痛みを、和らげるすべもないことについて、
修道生活の妨げになるのではと恐れていましたが、
聖母はおっしゃいました。

ヨゼファよ、心配するには及びません。

この痛みは、聖心の火花なのです。
もっとひどく痛みを感じる時には、
その痛みをお捧げするのです。

その痛みは、その時間に、
ある霊魂が聖心を深く傷つけている『しるし』なのです。

苦しみを恐れないようにしなさい。

苦しみは、
あなたにとっても、
他の霊魂にとっても、
『永遠の救いをもたらす宝』にほかならないからです。



その時、主は仰せになりました。

そうだ、そのようにして私に食物を与えておくれ。
私は飢えているからである。
そのようにして私に飲物を与えておくれ。
私は渇いているからである。

私がいかに霊魂の救いに飢え渇いているかを、
お前はよく知っている。

あぁ、霊魂の救い。。

私が狂おしいほどに愛している霊魂を、
私の愛のうちに飲ませておくれ。

愛の苦しみのうちに、私にとどまりなさい。
私をひとりぽっちにしないでおくれ。









                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡
 

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番犬でありながら、吠えることを知らない犬はわざわいである

自分の使命を裏切る説教者たちに倣うな。
彼らは自分を説教する。

ある司祭が、学問をひけらかし、ことさら難しい言葉を使い、
人々の心にうったえず、一般の人々を無頓着のうちにおく時、
私の聖心はどれほど悲しむことだろう!
これで、霊魂に良い糧を与えられるだろうか!

神の御言葉を教え伝える方法を、
あなたの先生である私から学びなさい。
聖福音書を読みなさい。
議論は少なく、喩え話が多くある。。


大勢の人に向かって話す時は、
私の説教を聞こうと、食事も忘れて集まってきた群衆のことを考えなさい。

説教によって多くの人々を、私へ導こうとするのか?
それならば、次の諸点をあなたの説教の話題とするがよい。


1.神の愛。。

 私が父であり、放蕩息子の帰りを待ちわび、
 彼を愛し、全ての侮辱を忘れる父であることを、全ての人に教えなさい。

2.他者に対する愛。。

 兄弟に対してすることは、
 つまり、私に対して行なうのと同じであることを説明しなさい。
 赦し合うことを勧め、
 人を赦さないなら、私たちも赦しを受けられないことを教えなさい。

3.犠牲の精神。。

 天国はむくいであって、労苦の実りであることをたびたび繰り返しなさい。
 逆境の時も、私の御旨に一致するようにと勧めなさい。


もし、全ての司祭が、聖福音書にあるような説教の仕方をし、
良い手本を身をもって示すなら、どれほど多くの人々が救われることだろう。


私の司祭たちの全ての者が、
必ずしも、説教の恵みを得ているのではない。
しかし、良い種を蒔く義務を免除されているのでは決してない。

現代では、宣教は、良い出版物によって助けることができる。
世間では、悪い出版物を広めようとして、
どれほど多くのよからぬ人々が働いていることだろう!
なぜ、彼らの努力に倣わないのか?

良い出版物は、何人にも勧められるし、
どこにでも光をもたらす。
知恵の才能を、無益なことに費やしてはならない。
良い出版物をもって使徒職に従事する司祭は、
どれほど大きな栄光を私に帰すことだろう!
出版物を通して、どれほど多くの人々に、
私の言葉を響かせることだろう!

文筆のたたない人は、
少しでも、良い出版物を広めるよう協力しなければならない。
書物、新聞、リーフレット、インターネット。。
全てのものは、使徒職に役立つ。
物質的な利益ではなく、
霊魂の救いという霊的利益を目指してゆかねばならない。

もし、ある日と人々が、もっと倹約するならば、
どれほど多くの出版物を買い求めて、広められることだろう。。

不幸にも多くの司祭が眠っている!
彼らは、悪の氾濫をただ嘆くだけで、
それを防ごうともしない。


実行。。。言葉と良い出版物をもって、神の国を広めること。






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                         とりあえず。。


      『あゃゃ。。なんてこと!!!』のタイトルには、とりたてて意味はありませぬ。。



                     気分転換に新規投稿しました♡


             う~~~ん。。Foie Gras だけに、美味しいカモしれない♪


                またまたとりあえずお任せしま~っすε(◕‿◕✿ฺ)з♡
 


                        どぅぞっ(。ฺ◕‿◕ฺ。)ノ☆・




   あっ!ぃぅぇぉ(笑) ちなみに。。僕は食べるの専門で~っす☆⌒Y⌒Y⌒Y⌒ヾ(o◕ฺω◕ฺ)ノ ♡




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聖ヨゼマリア(ホセマリア)・エスクリヴァ司祭

まだそのことで思い悩んでいるのですか?

主のいつくしみ深い聖心は、
あなたが考えているほど狭くはないのですよ。

あなたは罪を悔い改めて告白し、
キリストはあなたを赦してくださいました。

古い人のことは、もう忘れてしまいなさい。


ここで言う「古い人」とは、
罪を犯していた当時の自分、
罪の赦しを受ける前の自分、
という意味で用いられています。

いつまでもクヨクヨせず、
主が赦されたのだから、
あなたも自分を赦し、
古い自分にとらわれず、
前向きに歩んでゆきなさい、
という主旨です。






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番犬でありながら、吠えることを知らない犬はわざわいである

「あなたたちは全世界に行って、
全ての人々に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16.15)

使徒たちは、私のこの命令がどれほど重大なものであるかを理解した。
彼らは、熱愛をもって、布教事業に専念した。

全ての司祭は、使徒でなければならない。
もし宣教しないなら、彼の事業は不足したものである。

預言者は、その昔こう叫んだ。
「吠えることを知らない犬に等しいあなたたちに呪いあれ!」
私の司祭たちのある者にも、私は同じ言葉を繰り返す。


人間に救いの恵みをもたらすものとして、
宣教よりもすぐれた手段はない。

私は生涯の間、良い手本を示さなかったろうか?
神殿でも、山でも、施している時、道端や、海岸でも、
神の御言葉のパンを人々にさいてやったのである。

人々のココロの中に、良い種を豊かに蒔く必要がある。


悪人は、多くの毒の実を結ぶ種を、疲れもせずに蒔いている!
これに対し、私の働き人たちが、どうして無頓着でいられよう?

悪い種には、良い種をむかわせねばならない。
種を蒔かない人は集めていない。

人々が霊的に危険な状態に陥るのは、
司祭があまり宣教しないか、
または、おざなりな宣教しかしないからである。


私の子よ、人々の霊魂の運命は、
あなたの手にかかっている。
私の教えをよく究めなさい。

もしあなたが、司祭的生活を全うしているなら、
あなたの感じていることを他人に伝えるのは簡単である。

説教する前に準備しなさい。
神の御言葉の効果は、あなたによっている。
よく準備すればするほど、成功するだろう。
熱烈な祈りを捧げて、私に一致すればするほど、
あなたの言葉は豊かな効き目がでてくる。

また、あなたの言葉を聞こうとしている人々の守護の天使たちに祈りなさい。
彼らが、良い種を奪おうと企む悪魔を遠ざけて、心の準備を助けられるように。


つづく。。







                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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聖体訪問の時、主はお現れになりました。
とてもお美しいお姿です。
御手に茨の冠をおもちになられ、
いつくしみ溢れるご様子で仰せになりました。

非常に愛されている霊魂が、私の聖心に立ち帰ることができるよう働いておくれ。

その者のために、たびたび私の血を御父にお見せするのだ。

愛されていながら、罪のうちにとどまる彼によって、

侮られ、踏みにじられている私のこの血を礼拝するために、

地に接吻しておくれ。

目が覚めた時、すぐに私の聖心の中に入りなさい。

そしてその中に深く入ったなら、

お前の行動の全てを、聖心の鼓動に合わせて、御父に捧げるのだ。


お前の行動の全てを私に一致させ、

もはやお前のうちに働くものは、お前ではなく、

私であるようにするのだ。 


ミサにおいて、私が救いたいと思うこの霊魂を御父に示して、

その上に、いけにえとして屠られる私の血が注がれるように。


聖体拝領の時には、

お前のものとなった貴い宝を、御父にお捧げしなければならない。

この宝を、この霊魂の負い目の返済に充てるのだ。

黙想の時には、

ゲッセマニの園へ来て、私のそばに座っておくれ。

私と心痛を共にし、

お前の霊魂が忍べるだけの苦しみを受けよう、との心構えをもって、

お前自身をいけにえとして御父に捧げなければならない。

一瞬なりとも、私から離れてはならない。

たびたび地に接吻をしなさい。

十字架の道行きを1日たりとも欠かしてはならない。

私がお前を必要とする場合は、知らせよう。

お前がなす一切のうちに、御旨だけを見なければならない。

そして、それは従順によって果たさなければならない。

深くへりくだるその謙遜が、信頼と愛につながっていなければならない。

霊魂たちのために忍んだ私の苦しみから、目を離さず、

全てを、愛によって行なわなければならない。

夜は、聖心のうちに憩いなさい。

聖心こそ、お前の心臓の鼓動を望み、

それを愛の行為として取り上げるのだ。


このようにしてお前は、私をひどく辱めているこの霊魂を、私のもとに連れ戻せる。

この霊魂の救いのために、

私の聖なるいけにえを、私の聖心の血を、御父に捧げておくれ。







                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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前回の続き。。

自然的に認識される真理と、神の啓示による真理

神学は、
啓示の真理を
人間的知恵の働きによって
説明しようとするものであるが、
決してそれを理解させたり、
証明したりするものではない。

もしそうでなければ、
奥義を打ち消してしまうことになるであろう。

神学はむしろ、
啓示の真理が、理解できないものであること、
証明できないものであることを示し、
いよいよ深く奥義の意味を私たちに考えさせる。

それは、啓示された奥義が述べられている定式の意味やつながりを明確にし、
その中のあらゆる矛盾を除くためのものである。

だから神学は、
その基礎と出発点をなす信仰を前提としている。

すなわち、恵みの神学は、
神が、恵みについて啓示されたことが
信じられてはじめて可能となるのである。





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ますの上のともしび

忍耐強い、優雅な態度で、他人に良い手本を示しなさい。
柔和さを私から学びなさい。

信者に乱暴な態度をとる、怒りっぽい、忍耐のない司祭は、
私の聖心にとって、鋭い斧である。
この態度は、人々の霊魂を私から遠ざける。

私の司祭が柔和であればあるほど、
私の教えも高く評価される。


世間では、商人たちが客に対してどれほど親切であるかを考えなさい。
そうするのは、客を引き寄せるためである。

しかし、私の司祭たちはどうだろうか?
どれほど多くの人々が、
ある司祭から乱暴な扱いを受けたために、
以後教会にもゆかず、
秘蹟にも近寄らないことだろう。。


貧しい人を助けるのにも、他人の良い手本となりなさい。
施しを乞う人々を、決して拒むな。
もし、多くを与えられないのなら、
わずかでもよい。
しかし、親切に与えなさい。

貧しい人があなたに近寄って施しを乞う時、
あなたがどのように振舞うかを、信者たちは見守っている。


全ての人に、
あなたの家族に、
あなたの最も近い人に対して、
良い手本を示しなさい。

あなたはどこにいても、
司祭であることを忘れるな。

あなたは神の御言葉を伝えねばならないが、
もし、教えることを実践しないなら、
「響きわたるどら」(1コリント3.1)に過ぎない。

あなたの言葉を聞く人は、
「医者よ、まず、自分を治すがいい!」
ということわざを、あなたに向けることができる。

あなたは告解場で霊魂を指導する。
しかし、自分の目にある梁を見ずに、
「兄弟よ、あなたの目の藁くずをとらせてくれ」と、
どうして兄弟に向かって言えようか?

人々が、あなたのうちに良い手本を見ないなら、
あなたの霊的指導に効き目はないだろう。

あなたの面目を大切にし、
全ての人の面前で、良い行ないをしなさい。
しかし、それは、虚しいものに過ぎない人間の称賛を受けるためではなく、
人々があなたの良い手本を見て、
天におられる私の父に光栄を帰するためである。


私が、悪い手本を示す人に向けて言った、
「呪われよ!」という恐ろしい言葉を黙想しなさい。

「つまずきは避けがたいことだろうが、
 しかし、つまずかせる人に呪いあれ!」(マテオ18.7)

そして、つまずかせる人が、私に奉献された司祭のひとりであるとしたら、
つまり、偽りの預言者、貪欲な狼となった司祭であるとしたら、
私の彼に向けるのろいは、どれほど恐ろしいものだろうか!

いずれにせよ、いつも用心深く振る舞わねばならない。
それは、悪を避けるためばかりでなく、
悪の影をも避けて、
小さなものにつまずきの機会とならないためである。


あなたは私の代理者である。
だから、あなたの先生である私のおもかげを汚すことのないよう、
よく私を代表しなさい。


実行。。。全ての人をキリストに導くために、何人にも親切を尽くすこと。






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前回の続き。。

自然的に認識される真理と、神の啓示による真理

神の啓示の真理は、
人間の知恵が自然的手段によって、
決して知ることも発見することもできない真理であり、
またそれ自身として、真理であることを、
証明したり、証拠づけたりする方法は全くない。

したがって、それが真実であるか虚偽であるかも、
私たち自身では、絶対に知ることができず、
神がその御言葉を通して私たちに啓示になるほかは、
知ることのできないものである。


だから、一方には、科学的真理と哲学的真理があり、
他の一方には、天から啓示された真理があるのであって、
両者の絶対に区別された世界を混同したり、
混ぜ合わせたりしない、ということは、
何より重大なことである。


教会は、この混同の誤りをさけることにひじょうな苦心をしてきた。
ヴァティカン公会議は、聖ピウス10世の回勅パッシェンディ(Pascendi)や、
ピウス12世の回勅ウマーニ・ジェネリス(Humani Generis)などによって、
このことを強く主張してきた。


恵みについて私たちが知ることは全て、
天から啓示された真理であり、
私たちの自然的な手段によっては、
何ひとつ知ることができない。

知恵は、神の御言葉を信じて、
啓示の真理を肯定する。

なぜなら、神は、無限にして完全な真理であられ、
自ら欺かれることもなく、また私たちを欺くこともおできにならないからである。

信仰と呼ばれるのは、この同意のことである。

ゆえに啓示の真理は、
信仰の真理ともいわれる。

なお、教会の教えによって明確に定式化された啓示を、
信仰事項、信仰箇条、または教義という。

私たち自身で、
啓示の真理を真実か虚偽か知る方法はないので、
私たちはそれを「信じる」よりほかない


信仰によって私たちは、
神の御言葉を聞き、かつ信じて、
私たちに語られる神と、個人関係に入るのであるy。

そして私たちは、神に導かれ、
神のみがその神的知恵によって知っておられる事柄を
知らせていただく。

これは、恵みの教義にとって
極めて重要な事実である。

このことは、信仰の本性と
その本質的に超自然的な性格について説明する時に、
また強調して述べるつもりである。


つづく。。





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自分が先に死んで逝くのを知っていながら、何故、人は人を産むの?


人が子孫を残すのは、
この世界をより良くするための後継者とするためでもあります。

子が良いことをすれば親も喜び、
子が悪いことをすれば親も悲しみます。

親は自分がなしえなかったことを、子に託す。
子を産むのは、そのような意味合いもあります。

だから、子が生きてくれることは
年齢的に、先に死に逝く親にとっては慰めです。

逆に、親より先に子が逝くことは
親にとっては耐え難い悲しみとなるのです。

子供は
親の命を、
ある意味引き継ぐものです。

だから、子供が生きてくれること
それが親にとっては慰めとなります。

自分の命を大切にすることは
自分を産んでくれた親を、
尊敬することにつながるものです。









                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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