2008年04月

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聖アウグスティヌス司教教会博士

どのような人についても、
あなたがまだ持っていない優れた何かを持っているのだと考えなければなりません。

たとえそれが表面上に明らかにならなくとも、その優れた何かによって、
あなたよりもきっと優れているとの可能性があります。


このような考えは、傲慢な気持ちを弱めて抑えるのに役立ちます。
したがって、いくら自分に優れた点があるように感じたにしても、
それにまさる長所が他者にない、などと判断してはなりません。


実際、そのような長所が、単に外面に表れず、隠れているに過ぎず、
その人はあなたが知らないところで、あなたより優れているかもしれないからです。

いずれにせよ、知らない人について、安易に何らかの判断をくだしてはなりません。



ところで、人は、友情がなければ、他者をよく知ることはできません。
友情によってしか知りえないことを知りますが、
友情のゆえに、その惨めさをも忍耐できるようになります。








                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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前回の続き。。。

新約聖書にみられる恵みの本質的な概念は、
カトリックの伝承によって、順を追って発展させられてきた。
きわめて簡単ながら、この発展の歴史をたどるのは、無益なことではないであろう。

ぺラジウスと聖アウグスティヌスによって、
恵みの神学の中で、はじめて重要なものと考えられるようになった
功徳と救いの予定という課題は、
それ以前の初期のキリスト教の大著者たちには、
あまりにも取り扱われないものであった。
この初期の著者たちは、
たまたま聖霊の聖化の御業や洗礼のことを取り扱う時にちなんで、
恵みについて言及しただけであった。

彼らは、恵みの本質的なものを強調したが、
その本質とは、
私たちをイエズス・キリストの神秘的なからだのメンバーとなし、
キリストによって御父の養子とし、
聖霊によって神化されたものとし、
また、このようにして、聖ペトロの言葉にあるように、
『神の本性にあずからせる』ことである。(ペトロ後1.4)

これについてまず第1に引用しなければならないのは、
使徒聖ヨハネの考えを、聖ポリカルポを経て直接受け継いだ聖イレネオである。
彼は次のように書いている。

・神が人となられたのは、
  人を神にあずからせるためである。(異端反駁Ⅳ28.1)

・彼を通じて、私たちをその養子とするためである。(同Ⅲ16.3)

・私たちがアダムの時に失ったものを、
  イエズス・キリストによって取り戻させるため、
  すなわち、私たちを神にかたどり、神に似たものとするためであり、(同Ⅲ18.1)

・聖霊が私たちを、神生命にまで高められるためである。(同Ⅴ9.1)


聖イレネオはすでに、次のように書くことで、
自然性と恵みの区別をはっきりさせている。

『私たちは、はじめから神々として造られたのではない。
  はじめは人間であり、後に神々とされたのである』


『神化する』という言葉を最初に用いたのは、アレクサンドリアの聖クレメンスである。


聖アウグスティヌス以前の4世紀には、
恵みの問題は、聖三位の信仰箇条の明確な定義と結びつけて論じられた。

聖アタナジウスは、
御言葉の神性を否定したアリウスに対する論駁の中で、
次のような論説を好んで展開している。

『御言葉は、恵みによって私たちを神化する力を具えているのだから、
 神であることに違いはなく、
 ご自分によって私たちを神の養子とするのだから、
 彼は本性としての神の子であるに違いはない』

この論説は次の世紀に、アレキサンドリアの聖チリッロが、
ネストリウスに対する論駁の中で、
受肉の教義を明確に定義した時、再び繰り返している。

聖アタナジウスはまた、
私たちを被造物とする創造と、私たちを子とする養子関係とを区別して、
自然性と恵みの区別をよく示している。
この論説は、イェルザレムの聖チリッロと、聖ヨハネ・クリゾストムスによって繰り返されている。

聖霊の神性を否定したマケドニウス派に対する反駁の中で、
聖バジリウス、ナジアンズの聖グレゴリウス、
聖ヨハネ・クリゾストムス、イェルザレムの聖チリッロたちは、
聖霊は恵みによって私たちを神化する力を具えておられるところから、
神に違いないと論を進めている。
聖バジリウスは恵みを定義して、
それによって「私たちは神となる」と言っている。
最後に、聖ヒラリウスと聖アンブロジウスは、
恵みによって神化された霊魂の中に宿る至聖三位一体のことを説く時に、
恵みについて論及している。

聖アウグスティヌスは、私たちが略述してきたこれまでの論説を、
残らず、多くの箇所で反復している。

『子である神は、その本性にとどまりながら、私たちに彼の本性を分かち与えた。
 故に私たちは、自らの本性にとどまりながら、彼の本性を受けるものとなされる』

しかし、恵みに関する彼の重要な著作のほとんど大部分が、
教皇ゾジモとカルタゴ司教会議(418)によって処罰されたぺラジウスの異端に対して、
聖パウロの教義を守るために費やされている。
功徳と予定の全神学は、
『恵みと自由意志』『自然性と恵み』『キリストの恵みと源の罪』
『聖人たちの予定』『堅忍のたまもの』などの著作の中に記載されている。

それ以来、私たち自身で功徳を得ることなどできない、ということ、
私たちに功徳を与えうるのは、神の純粋な賜物である恵みである、ということ、
しかも私たちは、自由にそれに応じることができる、ということが確定されるに至った。

この教義に関する、非常に特徴のある聖アウグスティヌスのテキストを引用する。

『いつわりと罪のほかに、人は自分自身で何ものも持ってはいない』

『すべての善は、その大なるものも、小なるものも、両者の中間にあるものも、
 神、ならびに私たちの自由意志の善用から生じたものである』

『神は私たちの中に、信じる意思をもたらされる。
 私たちにまず告げられるものは、つねに神の慈悲であるが、
 その呼びかけに応えるか、それともこれを拒むかは、意思次第である』

『恵みは、自由意志を抑圧するものではなく、それを力づけるものである。
 なぜなら恵みは、善を愛することを目的とする意思を、
 その弱さから回復させるからである』


次の世紀になると、カッシアノ、レリノの聖ヴィンセンシオなどの一流の霊的著書が、
半ぺラジジウス派と呼ばれる誤りに陥って、
「ぺラジウスが言ったような、恵みなしに私たちの救いの完成はありえないとしても、
  救いの始まりは、恵みを受けるべく身構え、準備する私たちだけからくる、
  ということはありえるだろう」と主張した。

彼らは、聖レオ、聖プロスペロ、聖チェザリオら、
聖アウグスティヌスによって確立された教義を守る人々から反駁された。
そして、520年、オランジュ司教会議は、半ぺラジウス派を処罰して、
救いの業の始まりも、恵みによって私たちに与えられるものである、と決議した。


聖レオの解説は次のとおりである。

『恵みというものは、与えられるものでなければ、それはもはや恵みではなく、
 私たちの功徳の報いである』


聖グレゴリウスの解説は次のとおりである。

『悪だけが私たち自身のものである、ということを知らなければならない。
 善はこれに反して、私たちのものではあるが、全能の神のものでもある。
 神は内的な感化力により、先んじて私たちに望みを起こさせ、
 私たちの望みが空しくならず、それを果たしえるように助けられる。
 恵みは先立ち、善意が従う。
 このようにして、全能の神のおくりものが、
 私たち自身の功徳となるのである。

 善業において、神の恵みは私たちに先立ち、
 私たちの自由意志があとにつづく。

 私たちが行なう善は、神と、私たちとからくるものである。
 神からくるものは先行的恵みであり、
 私たちからくるものは、私たちの自由意志である』


セヴィリアの聖イシドルスの解説は次のとおりである。

『正義は、それを与える神と、それを受ける人間との両方からくる』


聖アンセルムスの解説は次のとおりである。

『神よ、私たちのすべての善は、あなたのたまものです。
 あなたがそれをたまわなければ、
 私たちがあなたに仕えることも、
 あなたのみこころにかなうこともできません』







                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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私にのませよ

司祭よ、十字架に釘づけられている私を眺めなさい!


あなたは、十字架につけられたあなたの神をあまりに見慣れているから、

特に注意しようともしない。

しかし、苦しんでいる私を眺めることは、

なんと善い感激をあなたの心に引き起こすことだろう!


私の臨終の時、血と贖いのその時を思い起こしなさい!

無罪そのものの私が、犯罪人のように十字架に釘づけられていたのだ!


傷だらけの体は、激しい熱にあえいでいた。

たとえわずかの水でも、何か潤いを与えるにちがいなかったので、

「私はかわく」と頼んだ。

信心深い婦人たちが私の叫び声を聞いて近寄ろうとしたが、

許されなかった。


私の処女である御母は、口もきかず、身動きもしなかったが、

彼女の悲しげな様子は、兵士たちの心を動かした。

そして、胆汁にまぜた少しばかりの酢が、私の唇によせられた。



創造主は、自分の被造物のために命をすてるが、

頼んだひとくちの水さえも与えられなかった。


私のかわきは、人間性の要求でもあったが、

同時にまた、シンボル的な叫びでもあった。


私がさがし求めるのは、水ではない。

私は霊魂に、愛にかわく。。。

私の聖心の司祭よ、今日、カルヴァリオ山上のあの激しい叫びをあなたに向ける。


私がシケムの井戸のそばで、サマリアの女に向かって「飲ませてくれないか」と言った時、

私の言葉は理解されなかった。

私は付け加えねばならなかった。

「あぁ、もしあなたが神の恵みを知っていて、
 『飲ませてくれないか』と言っている人が誰であるかを知っていたら!」


だが、私の司祭であるあなたは、

私の願う意味をみな、理解できなければならない。

私が、愛にかわく偉大なもの、愛を乞う偉大なものであることを、

あなたは知っている。。。

乞い求める神。。。

だが、私に不足する、何があろうか?

私は幸福そのものではないか?

それにもかかわらず私の中に燃え上がる愛は、私を狂わせるほどである。

私が人間性をとり、最後の血の1滴まで流し尽くし、

聖櫃に囚われのように留まっているのは、

この愛の狂気のためではないか?


私は愛であって、愛をさがす。


全ての霊魂は私を愛する義務がある。

私はこれを、みなのために『おきて』、いなむしろ『最大のおきて』としたのである。

『心を尽くし、知恵を尽くし、全ての力を尽くして私を愛しなさい』

あなたがこのおきてを信者に思い起こさせるのは善いことである。

しかし。。あなたはこのおきてを、どのように実行に移しているのか?

全ての人に私の招きに応える義務があるなら、

あなたにはなおさらその義務がある。

私は何百万人の中からあなたを選んだ。

私を選んだのはあなたではない。

私こそあなたを選んだのである!

だから、あなたは、私に対し他の全ての人よりも感謝と愛を示さねばならない。


私はペトロに尋ねた。「この人たちよりもあなたは私を愛するか?」

この同じ問いをあなたにも向ける。

「あなたは一般信者よりも、
 私があなたの世話にまかせた霊魂よりも、私を愛しているか?」

『イエズスよ、私があなたを愛していることをあなたはよくご存知です』

あなたはこのように真実をもって答えることができるか?

私は司祭に、清らかな愛、献身的な愛、すぐれた愛を要求する。

これを私に与えないなら盗みとなる。


私は、あなたの心の中に収められねばならない。私ひとりが!

私はねたみぶかい神で、あなたの心のうちに、

何か他の人のためのものが残されているのを我慢できない。

もしあなたの心の中に、他の愛情があるなら、

あなたの神はそこでくつろぐことができない。

まず自分の心を、全てのものから解放せよ。

そうすれば、私がそれを満たそう。

空間が大きければ大きいほど、豊かな恵みが注がれる。

フランシスコ・サレジオのあの言葉を自分の言葉とせよ。

『もし私の心の中に、主のために働かない部分があるなら、
 私はそれを抜き出して、遠くへ投げ捨てよう』


あなたは毎朝、『私の神よ、私はあなたを礼拝し、心を尽くして愛します。。』

と祈る。だが、注意するがよい。

もし、あなたの心の中に、私のためでない他の愛情があるなら、

あなたは嘘をついていることになるからである。

すぐに、そのよくない愛情を切り捨てるがよい。

それらは、あなたの心を、どれほど傷つけていることだろう?

世間が与えることのできないまことの平和をもたらすのは、

私だけである。


私があなたの知恵の王であるようになさい。

しばしば私のことを考えなさい。

私についてあなたが考えるのは、私にとって楽しいことである。

ある人を愛している時、その人のことをしばしば考える。。。

世間には、知恵と心を私のほうに挙げずに、

15分間という短い期間を過ごすことのできない熱愛の人々がいる。

あなたは、なぜ彼らのようにしないのか?

それとも、その必要がないとでも言うのか?

私と一致することが時間つぶしになると思っているのか?

私のことをしばしば考える司祭こそ、私からより一層祝福され、

そのためにまた、さらに使徒的活躍を発揮できる司祭である。


朝、目覚めたら、まず第1に私のことを考えよ。

私は初穂を望む。

朝のうちに、決心を立てなさい。

「心の動きの1つひとつを、愛の行いとなるようにしよう」と。

そうすれば、私はあなたの心臓の動きの1つひとつを愛の行いと考えて、

心をうたれるだろう。

なぜなら、私はあなたのこの決心の中に、

信頼のしるしと自分の弱さの告白を、

また、謙遜の行いと熱愛のしるしを見て取ることができるからである。

このような決心を、日中にも立てなさい。

そして、聖母マリアに向かい、

あなたが代わって、私を愛してくださるように、と頼みなさい。

内的生活を送る上で、これこそ効果的で、簡単な方法の1つである。



実行。。。日中にも、しばしば心を神に挙げる。






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全てに時があるOmnia tempus habent.

伝道の書 3.1~8,11


天のはからいのもと、

この世には、全てに時があり、それぞれ時期がある。


生まれる時もあれば、死ぬ時もある。

植える時もあれば、植えたものを抜く時もある。


殺す時もあれば、治す時もある。

倒す時もあれば、建てる時もある。


泣く時もあれば、笑う時もある。

嘆く時もあれば、踊る時もある。


石を投げる時もあれば、石をひろう時もある。

抱擁する時もあれば、抱擁をやめて遠ざける時もある。


探す時もあれば、失う時もある。

守る時もあれば、捨てる時もある。


裂く時もあれば、縫い合わせる時もある。

黙る時もあれば、話す時もある。


愛する時もあれば、憎む時もある。

戦う時もあれば、和睦する時もある。




神のなさることは、全て時宜に適っている。

しかし人間には、神のなさることの初めから終わりまでを知ることはできない。





神はすべてを善くとりはからわれる。
しかし、人間は、『時』の中で生きているから、
神の御業のすべてを見通すことはできないし、
またそのすべてを理解することもできない。



ニッサの聖グレゴリウス司教教会博士(330~394)


『生まれる時もあれば、死ぬ時もある』と聖書は言っています。

著者は、話の初めに、誕生と死を結び合わせて、
この必然的な結びつきを、言葉で見事に著しています。
それは、誕生の後には、死が必ずやって来て、
生まれたあらゆるものは、腐敗して消えてゆくからです。

『生まれる時もあれば、死ぬ時もある』

私もふさわしい時に生まれ、ふさわしい時に死にたいものです。
著者がここで、自由意志によらない陣痛のことや、自然に起こる死のことを、
善徳でもあるかのように語っているとは考えられません。

事実、陣痛の時は、女性の意志によって起こるのでもなく、
死の時は、世を去る人の自由意志によって決める性質のものでもありません。

人間の自由な選択によらないことを、
誰も善徳や悪徳とみなすことはないでしょう。

したがって、ふさわしい時の誕生と、
ふさわしい時の死は、何であるかということを、
よく理解しなければなりません。


私が思うに、早産でなく、時が満ちて起こる誕生とは、
預言者イザヤが言っているように、
人が神に対する畏敬の念からはらみ、
霊魂の陣痛によって、自分の救いを産み出す、ということです。


私たちが、正しい選択によって自分自身を形づくり、
産み、光のもとに出す時、
私たちは自分にとって、ある意味、産みの親なのです。


私たちがこのことを行うのは、
自分自身の中に神を受け入れて、
神の子、力の子、至高者の子となる、ということによってです。


反対に、私たちが早産で生まれ、
自分を不完全で未熟なものにするのは、
使徒聖パウロが言ったように、
キリストの形が、私たちの中に十全に形づくられるということがない時です。
事実、神の人は、完全な者でなければなりません。



以上の説明によって、
私たちがどのようにふさわしい時に生まれるか、
ということが明らかになったとすれば、
私たちがどのようにしてふさわしい時に死ぬか、
ということも、全ての人に明らかになります。


事実、聖パウロにとっては、
全ての時が、よく死ぬにふさわしい時でありました。
彼は手紙の中で、誓うかのように言っています。

「あなたたちに対する誇りにかけて言えば、私は日々死んでいます」
「私たちは、あなたのために、1日中死にさらされています」
「私たちは、死の宣告を受けた思いでした」

聖パウロがいかに日々死んでいたかは、全く明らかなことです。
彼は決して罪の中に生きることがなく、
常に肉の肢体を死なせ、キリストの体の死を自分の身にまとい、
絶えずキリストと共に十字架にかけられ、
決して自分のために生きず、
むしろキリストが、彼のうちに生きておられたのです。


思うに、真の生命をもたらしたこの死こそ、
ふさわしい時としての死なのです。


『殺し、生かすのは、私である』と主は仰せになります。

それは、罪に対して死んで、霊に生かされる、ということが、
真に神の賜物であることを納得させるためです。


神はこの御言葉で、
殺すことによって生かす、と約束しておられるのです。







                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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黙想の時、主はお現れになり、聖心を私にお開きになり、仰せになりました。


                                  ここにお入り。

               そして私がお前に要求したことを全て、私に任せ続けなさい。


               お前の惨めさが大きければ大きいほど、私の力が支えとなる。

                         お前を私の賜物で富ませてあげよう。


                お前が私に忠実であるならば、お前の心を私の住まいとし、

             罪人たちが私を払いのける時、お前のところへ逃れてきて憩おう。

                         お前は私のうちに生命を有するだろう。



                             お前が必要とする一切を、

                それがたとえ、私がお前に要求するものであろうとも、

                信頼と愛を抱いて、私の聖心のうちに求めに来なさい。



     私が非常に愛している霊魂たちが、聖心のうちに力と助けを求めに来る時には、

                              私は心奪われてしまう。

             私の聖心は、霊魂を富ませてやりたいとの熱烈な望みに燃える。

                そのようにすることは、私に光栄を帰することでもあり、

                            私を最も慰めることなのだ。




主の素晴らしさ!
私はなんと申し上げたらよいのかわかりません。
主が私のためにしてくださった全てのことに、どのように感謝すればよいのでしょう。

              ヨゼファよ、どのようにすればよいか、私がそれを言おう!



               この聖心をとって、お前の神にお捧げしさえすればよい。

             聖心によって、お前は全ての負い目を返すことができるのだ。



        今お前は、私が何のためにこの修道院にお前を連れてきたかを知っている。

                   お前は私のなすがままに、私の愛にお前をまかせ、

                       私の計画に素直に応じてもらいたいのだ。

                    お前を所有し、愛で焼き尽くすことだけを望む。

       愛は、お前に自分を捨てさせ、お前へのこの愛に自分を任せきるようにさせ、

               私の光栄と、霊魂の救いのみを考えるようにさせるだろう。



                     お前は毎日、次の言葉を繰り返し唱えなさい。


       『あぁ、イエズスよ、最も愛すべきあなたの聖心によって願い求めます。

   全世界の司祭、宣教師、あなたの尊い御言葉を告げ知らせる務めを担う全ての人を、

                      あなたの愛と栄光で燃え立たせてください。

             彼らが聖なる熱烈な愛の炎を受けて、霊魂を悪魔から奪い取り、

                   聖心の避難所に導き入れることができますように。

     そして、霊魂たちが絶え間なくあなたをほめたたえることができますように』




その時、茨の代わりに、真紅の薔薇の冠が、
燃える愛で、火の海のような聖心を取り巻いているのを見ました。
主の全身からは、光が輝き、
御顔には、いつくしみが溢れていました。

                          私の言葉を思い出して信じなさい。

                              私の聖心の唯一の望みは、

                     お前を聖心のとりことして、愛のうちに所有し、

                  それからお前の小ささ、もろさを憐れみの運河として、

                 お前を通して、多くの霊魂が救われること、これだけだ。


                  あとで燃えるような聖心の秘密をお前に打ち明けよう。

                   この秘密は、多くの霊魂の利益となるにちがいない。

           私はお前に、私の言うことを全て書き残してもらいたいと思っている。

                    お前が天国に入って後に、人々はそれを読むだろう。


              私がお前を用いたいと思うのは、お前に手柄があるからではなく、

                    弱くて哀れな器を、いかにして私の力が用いるかを、

                                人々に見せるためである。




主よ、この御言葉も記さなければならないのですか?

                                   それも書きなさい。

                         それはお前が死んだ後、人々が読むからだ。







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聖アウグスティヌス司教教会博士

自分の情欲に対して戦いましょう。

実際あなたは洗礼において自分の罪を捨てましたが、
洗礼という再生の洗いの後であっても、
情欲は依然として残っていて、
あなたはそれと戦わねばなりません。

この霊戦は、あなた自身の内部で行なわれます。
外部からの敵は、どんなものであれ恐れるに足りません。

あなた自身に勝利を収めなさい。
そうすれば、あなたはこの世に勝るものとなります。


悪魔であろうと、
悪魔のしもべであろうと、
外部からいざなうものが何をなしうるでしょうか?


たとえある人が、あなたを誘惑する手段として、
あなたに利得の提案をしたとしても、
あなたのうちに貪欲さがなければ、
いかなる利得の提案をもってしても、あなたを動かしえません。


たとえあなたが男で、誘惑者が極めて美しい女性を示したにせよ、
あなたのうちに貞潔さがあれば、
外部から来る邪まなインスピレーションは、打ち負かされるでしょう。

彼があなたによその女性の美を示してあなたを虜にしてしまうことがないように、
あなたの内側における悪い情欲と戦いなさい。


あなたは敵を感じてはいませんが、
情欲を感じています。

あなたは悪魔を目にしていませんが、
あなたを楽しませるものを見ています。

だから、あなたが感じるものに、
内側から打ち勝ちなさい。

戦いなさい。

戦いなさい。

あなたを再生させた御方は、
あなたの審判者でもあることをわきまえなさい。

その御方は、敵があなたに戦いを挑むのをお許しになりますが、
それは、あなたのために勝利の栄冠を準備しておられるからなのです。








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聖ヨゼマリア(ホセマリア)・エスクリヴァ司祭

情欲の望みを満たした後の、なんと空しいことよ。


あなたは情欲を説得しようなどと考えず、

ただ、それを軽蔑し、退けなさい。


世間の中にとどまりながらも、

天使のような汚れない生活を送る人はたくさんいます。

だからあなたにも、それができるはずです。



聖人たちはみな、あなたと同じ肉体をもっていました。

ただ、彼らは打ち勝ったのです。


純潔を守ろうとして、

アシジの聖フランシスコは、冷たい雪の中を転げまわり、

聖ベネディクトは、鋭い茨の茂みに身を投げ、

聖ベルナルドは、凍りついた池に飛び込んだのです。

それであなたは、これまで一体どんなことをしたのですか?



あなたが謙遜のうちに、聖なる純潔を願うのなら、

神はそれをお与えになるでしょう。









                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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聖ヨゼマリア(ホセマリア)・エスクリヴァ司祭

祈りは全能です。

祈りは、霊的な建物の基盤をなすものです。



祈りを欠いた活動には、霊的な価値が欠けています。

祈りという霊的な価値は、犠牲によってさらに高められます。

1に祈り、2に償い、3番目に、活動です。



どのようにして祈ったらいいかわかりません?

神の御前でこのように言いなさい。

「主よ、私は祈り方がよくわからないのです」

あなたはすでに祈り始めています。



誰が、どなたに向かって、何を述べているのかを考え、

祈りをゆっくりと唱えるようこころがけなさい。



考える間もなく、慌てて唱えたりするならば、

あたかも空き缶を叩いているに過ぎないものになってしまうからです。









                     あと。。♣ファンでない方はここも見てちょ♡

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喜びの主日と薔薇色の祭服

ミサ聖祭挙行時に、司祭は祭服をいくつか身にまといますが、
特に、カズラ(casula)、ダルマチカ(dalmatica)、プルヴィアーレ(pluviale)は、
それらが用いられる日、あるいは祭式の典礼色に従って、
通常、白、赤、緑、紫、黒の各色が着用されます。


カトリック教会には、『喜びの主日』というのが2つあります。
Gaudeteガウデーテの主日(待降節第3主日)、
Laetareレターレの主日(四旬節第4主日)の2つです。


いずれも当日の入祭唱(Antiphona ad introitum)の最初の単語『喜べ』に由来します。
。。Gaudete in Domino semper : 「主においていつも喜べ...」.(Phil 4,4-5)
。。Laetare, Ierusalem, 「喜べ、イェルザレムよ...」(Is 66,10-11)


これら『喜びの主日』のミサ聖祭においては、
典礼色が、紫あるいは薔薇色(violaceus vel rosaceus)とされており、
薔薇色の祭服の着用、祭壇の花飾り、オルガン演奏が許されています。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆https://livedoor.blogimg.jp/sacerdosaeternus33/imgs/1/8/185b61df.jpg
昔ローマで、レターレの主日には、
薔薇色の祭服を身にまとって、『黄金の薔薇』を祝別する習慣がありました。

これが各地に広まり、さらに祝別の時だけでなく、
この日のミサ聖祭や聖務日課においても、薔薇色の祭服の着用が許され、
さらにこれが、ガウデーテの主日にまで及びました。

毎年、ローマでは、教皇聖下による『黄金の薔薇』の祝別がなされています。
これは純金製の薔薇の小枝で、葉と数輪の花がついており、
枝の先端に主花が一輪あります。
この純金製の薔薇は、教会のすぐれた功労者に贈られます。







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修道会(Ordo, Congregatio, Religio)

教会は、福音的誓願を立てるように神から召された信者に、
1つの恒常的な生き方として修道生活を提供します。

修道会は、
全生涯を神への奉仕に奉献する『奉献生活』の1形態であり、
教会権威者(使徒座もしくは司教)によって認可された会で、
よく、シスターとかブラザーとか呼ばれている独身のキリスト信者が集まって、
共同生活を営んでいるトコです。
男は男(Monachus)で、女は女(Moniales)で、各々共同生活します。 
なので、男子修道院、女子修道院に分かれます。

修道会は様々な種類があり、
観想修道会(祈りに従事)や
活動修道会(使徒的活動・福祉・教育・貧者救済に従事)など、
その会特有の会則に従って、
自発的に、永久の公的終生誓願、
または満期時に更新される有期の公式誓願を立てて、
神との一致、この世からの離脱、
福音的完徳へと容易に到達することを目的としています。


公式誓願は、誓いを立てることですが、
これは『福音的勧告の誓願』と呼ばれ、
従順・清貧・貞潔の3誓願がほとんどで、
会によってはこれら以外に付加される会もあります。
上記3誓願のうち、最も重要なのは『従順』の誓願です。
清貧や貞潔の誓願は、修道会以外でも可能だからです。(cf.神学大全2,2,q186,a8)


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①貞潔について

貞潔の福音的勧告(castitatis; Can.599)は、
天の国のために受け入れるものであり
来るべき世のしるしであり、
全身全霊を捧げる人にとって、一層豊かな実りの源であって、
独身性における完全な純潔の義務を伴います。

修道者たちが天の国のために誓約する貞潔は、
神の恩寵の素晴らしい賜物として尊重されます。
それは、人の心を特別に自由にして、
神と全ての人々への愛によって燃え立たせるからです。

このため貞潔は、
天上の宝を特別に示すしるしであり、
修道者を神への奉仕と使徒的活動にこころよく献身させる、
最も適切な手段です。
このように修道者たちは、神によって制定され、
来世において明らかに示される教会と、
その唯一の花婿であるキリストとの素晴らしい婚姻を、
全てのキリスト信者に思い起こさせてくれるのです。

したがって修道者たちは、この誓約を忠実に守るよう努力しつつ、
神の御言葉を信じ、その助けに信頼して、自分の力を過信せず、
体をこらしめ、五官の動きを抑えることが大切になります。

完全な禁欲を守ることは、
人間本性の深層にある傾向に密接に触れることなので、
貞潔の誓願を志願する人は、
ほんとうに十分な試みの後に、
また心理的に情操的にふさわしい成長をとげた後に、
はじめて貞潔の誓願を立てるべきであり、
そうでなければ、これを許されません。



②清貧について

清貧の福音的勧告(paupertatis; Can.600)は、
富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたキリストに倣うものであり、
つとめて慎ましく、この世の富に執着しない、
物心両面における貧しい生活に加えて、
各会固有の法規定に基づく財産の使用及び処分に関する従属と制限を伴います。

キリストに従うために自発的に行なう清貧は、
金銭、事物、財産の使用に関して、上長に服従するだけでは十分でなく、
天に宝をたくわえつつ、
実際的にも精神的にも貧しい者となることが必要になります。

会そのものも、各地の状況を考慮に入れ、
財産を互いに分け合い、より多く所有している所は、困っている所を助け、
贅沢、過度の利益、財産蓄積のように思われることを全て避けるよう努めます。



③従順について

従順の福音的勧告(oboedientiae; Can.601)は、
死に至るまで従う者となられたキリストに従い、
信仰と愛の精神で受け入れるものであり、
それは、固有の会憲に従って、神の代理者である適法な上長が命じる時、
その上長への意思の服従を義務付けます。

修道者は従順の誓約によって、
自分の意思の完全な奉献を行ない、
自分を供え物として神に捧げ、
これにより、全ての人々の救いを望む神の御意思に、
より堅く、より確実に一致します。

こうして、御父の御意思を果たすために来て、
奴隷の姿をとり、受難から従順を学ばれたキリストの模範にならって、
修道者たちは聖霊に動かされつつ、
神の代理者である上長に信仰のうちに服従し、
キリスト御自身が御父に服従するため兄弟たちに仕え、
万民の贖いのためにその生命を捨てたように、
上長たちからキリストにおける全ての兄弟たちに対する奉仕へと導かれます。

修道者は、上長の命を実行し、与えられた務めを果たすために、
知性と意思の力だけでなく、自然と恩寵の賜物を提供し、
キリストの体を築き上げるために神の計画に従って働くことを自覚し、
神の御意思への信仰と愛の精神のうちに、
会則・会憲の定めに従って、
上長に謙遜に服従しなければなりません。
このような修道生活における従順は、
人間の尊厳性を弱めるどころか、
神の子の自由を広げて、完成に導いてゆきます。

上長たちは、委託された霊魂について責任を問われる立場なので、
その任務遂行にあたり、神の御意思に素直に従い、
奉仕の精神で兄弟たちに権威を行使し、
彼らへの神の愛を表現しなければなりません。


これらの福音的勧告を誓約する人々は、
私たちを先に愛した神を、全てのものに先立って求め、愛し、
あらゆる状況のうちにあって、
キリストと共に隠れた生活を深めるよう努力しなければなりません。
そのため、祈りの精神、祈りそのものを、
キリスト教的霊性の純粋な泉から汲みとりつつ、
たゆまぬ努力によって深めなければなりません。
神の御言葉を読み、黙想することで、
イエズス・キリストのすぐれた知識を習得するため、
何よりもまず、聖書を毎日手にしなければなりません。
聖務日課を含む聖なる典礼、
特に神聖なエウカリスツィアの神秘の祭儀を、
教会の意向に従って、心と口で捧げることによって、
非常に富んだこの泉から、霊的生命を養わなければなりません。






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