2008年03月

スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602~1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。

キリストの復活について


私たちの主イエズス・キリストの埋葬の後、
聖母は、最後の晩餐が行われたあの高間に戻られました。
聖ヨハネ、他のマリアたち、ガリラヤの夫人たちも一緒にいました。
聖母は彼らに心からの感謝の意を涙ながらに表し、
彼らが主の御受難中に耐え忍んだことや、主の生前に献身したことの報いを約束しました。
それと同時に聖母が、皆の召使あるいは友として奉仕することを告げると、
皆、この大きな恩寵を感謝し、聖母の御手に接吻し、聖母の祝福を願いました。

皆は、何か召し上がり、少し休まれるよう、聖母をいたわると、
聖母は仰せになりました。
『私の憩いと慰めは、私の息子である主が、死者の中から復活するのを見る時です。
 あなた達は早く食事をするなり、休憩するなりしてください。
 私は息子と2人きりになります』

聖母は、御自分の部屋で、御子の御霊魂が今何をなされているかを心のうちで思い巡らします。
聖母が初めから知らされていたことは、
御子の御霊魂が、神性との一致のうちに結ばれつつ、古聖所に降り、
その牢獄から、聖なる太祖をみな解放するということでした。

主がここに訪れると、
この暗い洞穴は、あたかも天国のように変わり、まばゆい光輝に満たされ、
そこに留まっていた聖なる人々は神を仰ぎ見ました。
彼らの長い間抱き続けた希望は実現し、
神に感謝し、神を崇め、ほめ歌います。
『屠られた小羊に、権力、富、知恵が、
名誉、栄光、祝福がありますように!
主よ、あなたは御血によって、
あらゆる部族、異なる言語を話す人々、諸国民の中から、私たちを救ってくださいました。
あなたは私たちを神のための王国とし、司祭とし、地を支配させてくださいました。
権力、支配、栄光は、主よ、全てあなたのものです』

次に主は、天使たちに命じて、煉獄で清めを受けている霊魂をみな連れて来させます。
人類に救いが保証されていることの宣言として、
彼らの罪は赦され、残りの罰は免除され、
彼らは義人たちと共に、神を仰ぎ見て輝きます。
王である主が来られたこの日、
古聖所も煉獄もすっかり空になりました。

私たちの救い主イエズス・キリストは、
聖金曜日の午後3時半から、復活される日曜日の朝まで古聖所におられます。
そして、主は、御自身の墓へ、諸天使諸聖人の王として戻って来られます。
墓の中では、大勢の天使たちが警護に当たっていました。
聖母は、何位かの天使たちに命じて、
御子の流された御血、御体から飛び散った御肉の破片、
引き抜かれた頭髪の全てを集めさせました。
天使たちは、喜びに溢れつつ聖遺物を抱き、
聖なる太祖たちは、主の御死去の際の傷だらけの御体を目の当たりにし、
私たちの弱さや悲しみを引き受けられた、人としての『御言葉』を改めて宣言しました。
彼らは、主の救いの御業によって、自分たちが栄光に導き入れられることをかみしめ、
聖なるものとされた人々は、全能の神に、
聖なるもののうちでも、至聖なる御方に、再び賛美を捧げます。

諸聖人の目の前で、
天使たちによって集められたあらゆる聖遺物は主の御体に結びつけられ、
主の以前の御体へと変えられ、
その瞬間、主の御霊魂がその御体に合わさり、
御体に不死の生命と栄光が与えられました。
主の御体は、埋葬時の布と香料(cf.ヨハネ19.40)の代わりに、
栄光の4つの賜物で包まれています。
つまり、輝き・受苦不能性・敏捷さ・精敏さによって、包まれています。

これらの賜物は、主の御霊魂の無限の栄光から流れ出て、御体の隅々にまで及びます。
これらの賜物は、御霊魂と御体とが結ばれた御子の人間性全体と、神性との一致のゆえに、受肉の瞬間から、その栄光化による自然的相続と参与により、
御体に賦与されるべきものでしたが、
私たちが功徳を積んで、私たち自身に栄光がもたらされる余地を残すために、
これらの賜物は留保されていました。

復活においては、主の栄光化された御霊魂と神性との一致にふさわしく、
これらの賜物が現わされました。

私たちの救い主の御霊魂の栄光を、人が表現し尽くすことができないように、
賜物について、私たちの言葉で、また例えをもって、
主の神化された御体の素晴らしさを表現しようとしても、
あまりにも不完全な記述となることは避けられません。


輝きの賜物は、
その純度において、水晶などでは比較しきれません。
その光において、まるで日中が夜のようなものです。
主の御体から放たれ輝いている固有の光は、
他のあらゆる光を、遥かに凌駕しています。
多くの太陽の煌めきを1つに集めたとしても、それらを越えています。
そして、被造物の全ての美を合わせても、
主の美しさに比較するならば、造られた美が醜いものにすら見えるでしょう。
創造された全てのもののうち、その美しさに匹敵するものは他に何もありません。
この美しさは、主の変容の栄光を遥かに越えています。
変容の栄光は、特別な目的のための一時的なものでしたが、
この賜物の栄光は、永遠性を帯びているからです。

受苦不能性の賜物によって、主の御体は、全ての作られた力に対して無敵になりました。
故に、いかなる力も、主を動かしたり、変えたりすることは、決してできません。

精敏さの賜物によって、
主の自然的御体が純化され、いかなる物質であろうとも、
その中を、あたかも純粋な霊のように、通り抜けることができます。
墓の岩をも突き抜けたのは、
御誕生の際、聖母の御胎内から通り抜けられたのと同様です。

敏捷さの賜物によって、
主の御体は、物質ではない天使たちよりも、もっと速く動けます。
そのため、使徒たちの所へも素早く出現されたのです。


神聖な御傷~主の御体の外観を損なったそれら~は、
今や、主の御手と御足から、素晴らしい光が放たれ、
その光輝く御傷は、恍惚とさせる美しさと魅力の極みを添えるものとなりました。





スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602~1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。

キリストの地獄に対する勝利について(前回の続き)


悪魔たちはいくつかの部隊を編成し、
各部隊は、各々異なる悪徳を専門とし、
偶像崇拝を世界中に広めたり、分派や異端を作ることにしました。
ルチフェルは、神への信仰を破壊することで満足し、
この不信仰活動に尽力する悪魔たちを高い位につけました。

他の悪魔たちには、子供たちの妊娠時あるいは誕生時に邪悪さを植えつけさせるよう、
また、その両親が子供の養育や教育に無頓着になるよう、
そして、子供たちが親不孝になるよう、働きかけるよう命じました。

夫婦仲を悪化させ、
不倫させ、
貞節を無視させるよう、命じました。

不和、憎悪、復讐、傲慢、肉欲、富や名誉への執着心を植えつけるための種を蒔き、
キリストが教えた諸善徳に反する行為を受け入れるためのもっともらしい理由付けをし、
人々に主の御受難と御死去、救いに至るための手段、地獄の永遠の苦しみを忘れさせ、
これにより、人間の知力や能力を、現世的な事柄や感覚的喜びに繋ぎ止めて疲れさせ、
霊的な思考や自己の救いのための時間を極力減らさせることを企て、一致団結しました。

これらの提案にルチフェルは承認を与え、次のように告げました。

『救い主に従わない人々を誘惑するのは、いともたやすいが、
 救い主の掟に従う人々をこそ徹底的に誘惑し、迫害しなければならない。
 教会内に、野心、貪欲、官能、憎悪の種を蒔き散らし、これらの悪徳を盛んにし、
  それによる悪意や忘恩を通じて、神の怒りを招き寄せ、
  救い主の功徳による恩寵を受けれなくしてやろう。

 彼らが救いの手立てを失えば、われわれは勝利を収めることができる。
 彼らの信心を弱めてやろう。
 そうすれば、彼らは秘蹟の効果を実感せず、
 大罪の状態に陥ったり、
 あるいは不熱心な状態で秘蹟にあずかるようになるだろう。
 そして、霊的健康が弱まり、われわれの誘惑に抵抗できなくなるだろう。
 彼らはわれわれの欺瞞を見抜けず、
 救い主や聖母のことなど忘れ去り、恩寵を受けるに値しなくなり、
 救い主を憤らせ、助けを受けることができなくなるだろう。

 余は、お前たちみなに、命じた事柄を徹底してもらいたいと考えている』
 

悪魔たちの会合は、主の御死去の後、まる1年かけて行われました。
聖ヨハネは言います。
『地はわざわいである。悪魔が激怒して地上に来たからである』
悲しいかな、この真理ほど人々から敬遠され、忘れ去られたものはありません。
私たちがまどろみ、生温く、全くと言っていいほど警戒を怠っている一方で、
悪魔たちは常に目を光らせ、その残酷さをもって、私たちの心の隙を狙っているのです。
大勢の人々は、ルチフェルに耳を傾け、欺瞞でしかないものに賛成し、
ごく少数の人々しか、これに反対しないのです。

人々は、永遠の死のことをすっかり忘れてしまっています。
人々は、世界中に蔓延する悪徳の危険性や、
個人における道徳的悪の危険性を認識しなければなりません。

聖母は仰せになります。

『悪魔たちは、教会全体の破壊をもくろんでいます。
 大勢の人々を教会から離れさせ、
 教会内にとどまる人々に、教会を軽視させ、
  救い主の御血と御死去の実りを結ばせまいとしています。
  最大の不幸は、カトリック信者の多くが、この大きな損失に気付いていないこと、
  主イエズスがイェルザレムの婦人たちにイェルザレムの滅亡を警告されたその時が、
 今、来ていると気付いても、その打開策に真剣に取り組もうとしないことです。


スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602~1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。

キリストの地獄に対する勝利について(前回の続き)


第5の御言葉
『私は渇く』
これは、悪魔たちに対する勝利を確認するものです。
主は、人間への御自分の愛に満足できず、
満たされないこの渇きは、人間の救いを求めて永遠に続きます。
『大水も愛を消し去ることはできず、大河も愛を押し流せない』(雅歌8.7)
主は、人々を悪魔たちの暴虐や支配から救い出せるなら、
また、人々が悪魔の悪意や傲慢に対して戦うのを助けられるなら、
より一層苦しみたいのです。

第6の御言葉
『成し遂げられた』
これにより、受肉と世の贖いの神秘が、
今、まさに成就されたことを、悪魔たちは嫌と言うほど思い知らされました。
私たちの救い主が、永遠の御父にどれほど忠実であったかということを、
旧約時代の太祖たちに示された約束と預言が、主によって成し遂げられたことを、
主の謙遜と従順が、悪魔たちの傲慢と反逆を粉砕したことを、
悪魔たちは思い知らされました。
主は、永遠の御父の御旨に従って、天使と人類の審判者として立てられました。

第7の御言葉
『父よ、私の霊を御手に委ねます』
この御言葉が発せられた時、
主がルチフェルとその手下たちを地獄の最も深い所、永遠の炎の中に投げ込む、
という裁きが執行されました。
それと同時に、聖母もその裁きの執行に協力したのです。
悪魔たちの地獄への落下は、雷雲を貫く稲光よりも遥かに速く、
まさに、あっと言う間の出来事でした。
かつて悪魔たちは、天上からの駆逐という屈辱を経験していましたが、
以前のそれを遥かに凌ぐ恐ろしさを経験することとなりました。
聖ヨブが呼ぶように、地獄は暗く、死の陰に覆われ、
陰気な無秩序、悲惨、拷問、混乱が充満していますが、
今や、混乱や無秩序を極め、その1000倍にもなっています。
地獄にいる人々は、
獰猛な悪魔たちが怒り狂いながら突然押し寄せてきたため、
新たな恐怖に見舞われ、責め苛まれました。
地獄に堕ちた人々は、
各人の罪の重大さに応じて、神の裁定により処罰の場が定められているので、
悪魔たちが自分たちの都合に合わせて、処罰の場を移すことはできません。


ルチフェルは、驚愕と混乱から気を取り戻すと、高座に座り、
地獄の陣営を整えるべく、悪魔たちを召集し、
自分の考案した傲慢な計画を発表しました。
『余の復讐の命に長い間従ってきた者は、余があの神人にしてやられたことは知っていよう。
あの神人は、33年間も余を騙し、計画を明らかにしなかった。
あの神人を殺したことにより、今や、われわれは敗北を喫した。
かつてあの神人が人間になる以前、
余は彼を憎み、決して優れた者としては認めなかった。
この反逆により、余は、お前たちと共に天上から駆逐され、
余の偉大さにそぐわないこの恥ずべき状態に追いやられ、
神人とその母親に服従させられている自分を見なければならない屈辱に、
さらなる苦しみを味わうはめになっている。
余は、人祖が創造された日から、この2人を探し出しては殺そうと、休む暇も与えなかった。
もし、この2人を探し出せなかったなら、
せめて全人類を滅ぼし、あるいは神を崇めさせず、
少なくとも神の恩寵を受け取れなくしようと望んでいた。
この意図をもって、余は尽力してきた。
しかし、何ということか!
この神人は、謙遜と清貧によって余を屈服させ、
忍耐によって余を押し潰し、
最後には、その受難と死によって、この世の統治権を余から剥奪していったのだ。
仮に、余が神人を御父の右の座から引き摺り下ろしたとしても、
全人類をこの地獄に叩き落したとしても、
この無念さを決して晴らすことができない。

余より、遥かに劣る人間性が、あらゆる被造物の上に高められることなどできようか?
人間性が愛され、恩寵を注がれ、
永遠の御言葉のペルソナである創造主に一致するとは、何ということか!
この御業の前に、神は余と戦われたが、
この後では、余を混乱させた!
神は余の天敵だ。余は神が憎くてたまらない。
あぁ、神から恩寵を注がれ、賜物を受ける人間どもめ!
お前たちに幸いを、いかに邪魔してやろうか?
余の不幸を、いかにして分けてやろうか?
おぉ、余の部下よ、さて、何から取り掛かろうか?
いかにして、人間どもを再び支配下に置くことができるだろうか?
再びわれわれのもとに服従させるには、いかになすべきか?
人間どもが狂わない限り、忘恩にならない限り、救い主を軽んじない限り、
救い主に従ってしまうだろうし、われわれの欺瞞にも耳を貸さないだろう。

われわれが密かに差し出す名誉を嫌うならば、
軽蔑されることを愛情をもって甘受するならば、
肉に属するものへの節制を求めるならば、
肉欲の楽しみを警戒するならば、
安逸に潜む危険を認識するならば、
富や宝を嫌うならば、
彼らの先生が推奨する清貧を愛するならば、
貪欲をそそる全てのものを、救い主が忌み嫌ったように、忌み嫌うならば、
われわれの王国は力を失うだろう。
そうなってしまえば、誰もここには来なくなる。
われわれが喪失した幸いを、彼らは手に入れることになってしまう。
彼らは自分たちを塵芥のようにみなして遜り、忍耐強く苦しむに違いない。
そうなってしまえば、余の怒りも誇りも、何の役にも立たないではないか。

なんという災い!
余が神人を荒れ野で試みた時、
神人はその機会を用いて、いかにして余を克服すべきかの善良な模範を示してしまった。
余がユダに神人を裏切らせたことが、
ユダヤ人に神人を十字架上で殺させたことが、
余の計画の粉砕と人類の救いにつながってしまった。
神である者が、自分をそこまで遜らせることができるのか?
悪人どもからのあれほどの仕打ちを忍耐できるのか?
余が神人の計画を促進させるはめになったとは、なんたることか!
あぁ、この女!神の御母は何ゆえこのように強いのか?
人間性を神の御言葉に与えた御母は、神から力を授けられたに違いない。
神はこの女を通して、余を四六時中責め苛んでくる。
お前たち、どうすればよいか、お前たちも意見を出し合ってくれ』


悪魔たちはみな、
主キリストをもはや傷つけられないこと、
主の御功徳を減らすことができないこと、
秘蹟の効果をなくすことができないこと、
教義を変えることができないことなどを認めた上で、
もっと大きな欺瞞と誘惑を試みることにしました。
抜け目ない悪魔たちは、これらの他、
聖母の強力な取次ぎや弁護を認めた上で、
人間の肉的性質も情欲も以前と同じであると主張し合いました。
そのため、新たな娯楽を与え、情欲をそそり、
その他、善徳や道徳のことを忘れさせるよう、
人間たちに巧妙に説いて回ろうと結論づけました。





スペインの神秘家、アグレダの尊者イエズスのマリア修道女院長(1602~1665.5.24)への私的啓示の書『神の神秘的都市(The Mystical City of God)』を少しずつ紹介していきます。


キリストの地獄に対する勝利について


主イエズス・キリストが十字架上での御死去を迎えるその時まで、
堕天使ルチフェルとその手下たちは、主が神であるかどうか明確に把握していませんでした。
それゆえ、聖母の威厳についての認識も定かではありませんでした。

彼ルチフェルは、神が人となり、
救いの御業を成し遂げるであろうことをおぼろげに知っていました。
しかしながら、主の奇跡に感服しても、
主の貧しさや、蔑まれたり、疲れ果てたりする御姿を見て、
主が神であると、認めることができませんでした。
ルチフェルはその傲慢ゆえに、
みすぼらしく見える主を、神御自身であると認める気すら起こらなかったのです。
ただ、状況判断によれば、確かに、主が神であろうと考え、混乱していました。

ところが、主が十字架を担い、救いの完成に向かわれるや、
神の力を悟り、物事を明確に把握し、
ルチフェルとその手下たちは、すっかり驚愕し、地獄に飛び込もうとしました。
自分たちが殺そうとした無実の男が、単なる人間ではなく、
その男によって、逆に自分たちとその働きが滅ぼされるはめになることを認識し、
居ても立ってもいられなくなったからです。

彼ら悪魔は、地獄に逃げ込もうとするところを聖母に捕らえられ、
恐ろしい龍たちが鎖に繋がれたようになり、
カルヴァリオに至るまで、主のお供をさせられることになりました。

聖母は、その御子である主の御力によって、
この神秘的な鎖の端をしっかりと握り締め、悪魔たちを従属させました。
悪魔たちは怒りに荒れ狂い、何度も鎖から逃げようと試みますが、
聖母に打ち勝つことができませんでした。

聖母は、悪魔たちをカルヴァリオ山頂まで連れて来ると、
彼らを十字架の周囲に身動きしないように立たせ、
人類の救いの神秘を目の当たりにさせ、
悪魔たちとその働きの滅びのもとを直視させました。
ルチフェルと地獄の霊たちは、
自分たちが主と聖母のそばにいる、という苦痛に打ちのめされ、
自分たちに襲いかかる滅びを恐れおののき、
地獄に飛び込んだほうがましであると考えていました。
彼ら悪魔は地獄に戻る許可が下りないので、
各々打ち倒れ、互いの上に重なり合い、
もがきつつ、のた打ち回りながら、自分たちの暗黒の避難所を探し回りました。
悪魔たちの怒り狂う姿は、
動物同士の殺し合いや、龍同士の死闘よりも、もっと残酷極まりないものです。



十字架上から、主が7つの御言葉を発するや、
悪魔たちはそれに耳を傾け、その意味を明確に認識しました。
主は、悪魔たちに打ち勝ち、罪と死を克服し、
悪魔の魔の手から、人類を取り戻したのです。

第1の御言葉
『父よ、人々をお赦しください。彼らは自分たちが何をしているかをわかっていないからです』
これを聞いてルチフェルは、主が真の神の御子であることを確信しました。
主なる神が、引き受けられたその人間性において御死去になり、
全人類を救いにあずからせ、
アダムの子孫全員の罪に赦しをもたらし、
処刑者たちでさえ、例外でないことを把握したのです。
それを知った悪魔たちは、激怒し、絶望のうちに荒れ狂い、
聖母の御手から、幾度も逃れようと試み、持てる力を使おうと暴れ回ります。

第2の御言葉
『まことにまことにあなたに言う。あなたは今日、私と共に楽園にいるだろう』
これは、罪人の赦免が、義人の栄光に値するとの意味合いであると、悪魔たちは悟ります。
原罪のために閉ざされていた天の門が、
主の御功徳によって開かれ、
人々が迎え入れられ、
あらかじめ備えられた天国の席に、各々が座ることになる、と把握します。
主の謙遜、忍耐、柔和、その他の諸善徳によって、
主が罪人たちを招き、洗い清め、美しいものとし、
天国に迎え入れられることを知ります。

第3の御言葉
『婦人よ、ごらん。あなたの子を!』
これにより、自分たちを捕らえて放さない婦人が、
主なる神の御母であり、
天空に現れる、太陽に包まれる婦人であり、
いにしえの蛇である自分たちの頭を踏み砕く、
と預言されている女と同じ御方であることを見出します。
何でも知っていると思い込んでいる傲慢な悪魔は、
今までそれを把握し得なかったことに、憤慨し打ちのめされました。
悪魔は、まるで血に飢えた獅子のように猛り狂い、
聖母への憎しみを1000倍にまで増やしました。
そして、聖ヨハネが聖母の守護者に任命され、
その上、聖ヨハネの司祭としての権能と力が、
さらに司祭職にある者たちの権能と力が、
私たちの救い主に由来するものであることを認識し、
司祭たちが主によって守られ、悪魔である自分たちよりも強いことを認識し、
手出しすることができません。

第4の御言葉
『神よ、私の神よ、どうして私を見捨てられるのですか?』
この詩編からの引用の御言葉により、
主の人類への愛が、永遠のものであり、限りないものである、と把握します。
神が、人類の救いのために、
主にこれほどまでの苦しみの極みに至ることを許されたからです。
しかしながら主は、
人類の一部が救われないこと~救いを拒むこと~を予見し、悲しみます。
もし、その反抗的な人々が救われるならば、
主は、もっともっと苦しみたいのです。
ルチフェルたちは、
そのような主の愛、人間への愛のゆえに、嫉妬のあまり気が狂い、
神の愛に対して、自分があまりにも無力であると感じました。




ここで昨日話した人々のことに戻ろう。。

完徳に召された人々が、
恩寵の声に耳を貸さず、示された道の卑しさに後ずさりし、
世評を怖れ、自分の才能を過大視して、
何か他の道で奉仕する方が神の御旨にかなうと思い込むようになる。


そのような人々に答えよう。

私が貧しく卑しい親の元に生まれ、
故郷から遠く離れ、馬小屋の中に、しかも一年中で一番厳しい季節に、
凍るような真夜中に生まれることを躊躇したり、拒んだりしたであろうか?

30年間、荒い労働を、隠れた仕事場で、
身分の卑しい職人と思われている養父聖ヨゼフのもとに、
人々に認められることもなく過ごした。
また、母の手伝いをして、貧しい家庭の卑しい仕事をすることを、
身分不相応とは思わなかった。

私は大工としての労働に従事する以上の才能を持っていなかったであろうか?
12歳の時、博士たちを神殿で教えた私が?
しかしながら、それは御父の御旨であったから、
それによって最大の栄光を帰することができたのである。


確かに私は、
早くからナザレトを去って、公生活を始め、
直ちに神の子、救い主であることを示し、人々に尊敬の念を抱かせ、
私の教えに耳を傾けさせることもできたのである。
が、しかし、そうはしなかった。

私の唯一の願い。。
それは御父の御旨に従うこと、これであった。

また、苦難の時が来て、
ある者からは残酷に取り扱われ、
他の者からは辱められ、
友からは見捨てられ、
群衆からは忘恩の仕打ちを受け、
肉体には、言葉に尽くせぬ痛み、苦しみを忍び、
霊魂は、激しい嫌悪を感じながらも、
ますます愛をもって、天の御父の御旨を抱きしめたのである。

そのようにお前たちも、
本能的な反発や、家族の者の反対や、世の中の反対に打ち勝ち、
神の御旨に、雄々しく従うべきである。
そのようにしてこそ、
主である私と親密に結ばれて、
言葉では語り尽くせぬほどの、喜びの甘さを味わう瞬間が訪れるのである。

隠れた卑近な生活を厭う人々に言ったこと、それとは逆に、
孤独な隠れた仕事に憧れながら、世間に出て働かなければならない人々に向かって繰り返そう。


選ばれた者たちよ、
真の幸福、完徳は、おのれの趣味や好みに従うことによって得られるものではない。
また、人に知られるとか、知られないとか、
受けた才能を用いるとか、隠しておくとか、
人からよく思われるとか、
よい健康状態を保つとか、保たないとか、
そういうものでもない。
ただ、ひたすら、愛をもって神の御旨を抱き、
その栄光と自身の成聖の要求するところに、全く従うことなのだ。


私の望むことを、喜んで愛のうちに抱きしめなさい。
これこそ、全てにおいて愛の道を示すことなのだ。

さぁ、苦難のことに従事しよう。。


バラバの方が私より先にされ、人々からは卑しめられ、群衆からは死を要求された時、
切実な愛に満ち、感じやすい私の聖心が忍んだ苦悩を、
しばしの間、黙想しておくれ。


私はその時、
御母が、その汚れない御心に私を抱きしめてくださった愛情を、
また、養父が、私を養育するために精一杯働かれた際の苦労を、想い起こしていた。

私は、忘恩極まりない人々に惜しげもなく降り注いだ善業をかえりみた。
盲人の眼を開き、病人を癒し、不具者を健全にし、
荒れ野でパンを増やし与え、死人を蘇らせたことなどを。。

そうして今、私自身は。。
最も哀れな卑しむべき姿となりはてて、
どんな人間よりも一番嫌われ、
憎むべき盗賊として死刑に処せられる。。

群衆は私の死を要求するのだ。。
ピラトは死刑を宣告した。

愛する者たちよ、この聖心の苦しみをよく考えておくれ。

ユダは、ゲッセマニの園で私を裏切ってから、
最も恐ろしい瀆聖の罪による良心の呵責にたえかねて、当て所もなく彷徨っていたが、
私の死刑宣告のことを聞くや、絶望のあまり自ら首をくくった。

永遠の滅びへと飛び込む彼を見た時の、
この聖心の激しい苦悩を、誰が理解できようか。。。

長い間、私の愛の学びやで暮らし、
私の唇から教えを学び、
どんな大きな罪でも赦されることを、幾度も聞いたはずのユダ!

あぁ、ユダよ、
なぜお前は私の足元に身を投げなかったのか。
私はお前でさえ赦してあげたのに。。

もし私を取り囲む人々の憤怒を怖れて近づき得なかったならば、
せめて私に眼を向けてくれさえしたなら。。

お前をみつめている私の視線と合っただろうに。。

罪悪に染まり、長い間、当て所もなく彷徨い歩く者たちよ、
罪ゆえに、お前の心は頑なとなり、めくらとなった。。
もし何らかの情欲を満たしたがために、
淫らな生活に陥ったとしても、絶望してはならない。
罪を犯させるようになった共犯者がお前を打ち捨て、
お前は今更ながら自分の汚れた心を自覚し、思い悩んだとしても、
決して絶望してはならない。

命のある限り、
私の憐れみの愛にすがりつき、赦しを願うことができるのだ。


もしお前が、過去の若い身における醜い罪のために、
世間から見捨てられても、絶望してはならない。
お前が軽蔑され、罪人として辱められ、相手にされなくても、
神は、お前の霊魂が地獄の炎で焼かれることを望まれない。

赦しを与えることを望む神は、
お前が近づいてくれるのを、心待ちにしているのだ。


もしお前に、話を切り出す勇気すらないならば、
ただ、心からの嘆息を主に向かってもらしさえすれば、
優しい御父の御手が、お前を赦しの源に導き、
生命の泉に連れて行ってくださる。


もしお前が、生涯の大部分を不信心で過ごしたとしても、
神についてわざと無関心な態度で過ごしたとしても、
そして、突然、永遠が近づくことを察知して、絶望に捕らわれた時も、
欺かれてはいけない。
死の直前であろうとも、命のある限り、
それは『赦しの瞬間』であることを肝に銘じて、そのことを忘れてはいけない。

その最後の一瞬であろうとも、
永遠の生命を贖うことができる。


もしお前の一生涯が、克服し難い無知と誤謬のうちに過ぎ去ったとしても、
また、人々や社会や宗教にとって、大きな躓きとなったにしても、
あるいは、何かの折、ふと自身の罪を後悔し、
今まで自分が、諸悪の根源となり、多くの罪を犯した、との思いに押し潰されそうな時、
それに負けてはならない。
むしろ、深い痛悔の心をもって、信頼の淵に身を投じ、
お前を赦したいといつも待ち焦がれている私のもとに、走りよりなさい。

また、若い頃は私の掟を忠実に守ったが、段々と安逸な生活に流されて、
努力するようにとの神の勧めにもかかわらず、
習慣的になった過ちに対して盲目となり、生温くなった霊魂も同じである。

つんぼとなり、半分眠ったような良心は、後悔もせず、神の御声も聞こえなくなる。
ある日、強く揺すぶられ、目覚めてみると、
自分の一生が、永遠のために空しいものとなっていること、
無益で空虚であることに気が付く。
多くの恩寵を手の中に入れ損ね、
悪魔は、地獄の嫉妬をもって様々に誘惑する。
失望に陥れ、落胆させ、悲嘆に暮れさせ、
その過去を、あたかも取り返しのつかないものと思い込ませ、
ついに、絶望と恐怖の中に投げ込む。

私のものである霊魂よ、
残忍な敵に耳を貸してはならない。
むしろ、私の聖心に走りより、深い痛悔の心で赦しを願いなさい。
怖れてはならない。私が赦しを与えるのだ。

再び熱心な生活を取り戻せ。
そうすれば、失われた功徳も返し与えられるだろう。
私の恩寵がお前を助ける。


最後に、特に選ばれた人々よ、
長い間会則を忠実に遵守し、修道上の義務を果たしていた者よ、
私が特別な恩寵を与えて教え、長年私の声と聖霊の勧めに忠実に応えていた者よ、
お前は、ごく小さな情欲のため、罪の機会を避けなかった。。
自然的要求を満足させ、努力するのを怠り、段々と不熱心となり、
平凡な生活に陥り、ついに生温くなってしまった。。
お前が何らかのきっかけでそれに気付き、立ち上がろうとする時、
悪魔は、すでに掌握したと思っていた霊魂を逃すまいと、
様々な誘惑を展開する。
もぅ遅すぎる。。。
どんな努力も無駄だ。。。
悪魔は、お前が目上に打ち明ければ、光を得ることを知っているので、
自分の霊的状態を告白することに嫌気と恐れを感じさせ、
それを妨げ、のどを締め上げ、平和と信頼への道をふさぐのだ。

そのような時こそ、
私の声に耳を貸すべきであり、
どうすればよいかを、教わることができるのだ。

聖霊のささやきを聞いて、
戦いが始まる前に、私の聖心に走りより、こう祈りなさい。
『私の上に、あなたの御血を、1滴なりともお注ぎください』


私の前においで。
私がどこにいるか、わかっているね?
私は信仰のヴェールに包まれて、お前たちの上長たちのうちにいるのだ。
そのヴェールを取り除けて、お前の惨めな罪の有様を、
そのまま私に対するように、全き信頼をもって語りなさい。

つつしんで私の言うことを聞き、過去について何も恐れるな。
私の聖心は、すでに慈悲と愛の大海に、お前の全てを沈めてしまったからである。

お前の過失は、かえって謙遜のもととなり、功徳を増すことになる。

もし真の愛を示したいならば、
私の赦しを頼みとしなさい。

お前の罪がどんなに大きくとも、
私の憐れみの愛の方が、遥かに大きいことを信じなさい。

私の愛は、無限である。



ヨゼファよ、この愛の淵の中に沈みなさい。
人々が、この同じ愛に浸されていくように祈っておくれ。




ヨゼファ、
愛の素晴らしい日。。
今日はその祝日(聖木曜日)だ。

今日は、私が人々のために身を委ねて、望むがままに何にでもなってあげる日なのだ。
もし父になってほしければ、父になろう。
天配として望むならば、天配となろう。
力を欲するならば、力となろう。
私を慰めたいと思うなら、慰めてもらおう。

この聖心が望む唯一のことは、
私自身を皆に与え、
皆のために用意してある恩寵を、溢れるばかりに与えることなのだ。
もうしまってはおけない。

そして、ヨゼファ、お前のためには何になろうか?


私の全てに。。
私は皆無ですから。

よく言ったヨゼファ、『イエズスはヨゼファの全て。。ヨゼファはイエズスの惨めさ。。』

お前が何者でもなく、全く惨めだから、
私はお前の心に火をともし、それを燃やし、焼き尽くしてしまわなければならないのだ。
惨めな者、力のない者は、決して反抗することはできないはずだ。
ただ、なされるがままに身を委ねなさい。

愛はおのれをその弟子たちに与える、と私は言った。。実際、それは真実である。
私の聖心に近寄って、溢れる心情を汲み取っておくれ!


愛は、おのれを弟子たちに食物として与え、この糧は生命となって彼らを養う。

愛は、弟子たちの前にへりくだるので、彼らは貴い位に引き上げられる。

愛は、何も余すところなく、惜しむことなく、おのれを全く与え尽くす。

愛は、愛する者のために己が身を、全きいけにえとして捧げ、熱愛におのれをまかせる。

あぁ、聖体とは、狂うばかりの愛である。

私を死に導くのも、その同じ愛である。



今日お前は愛によって支えられ、慰められ、力づけられている。
明日はカルヴァリオまで私の供をして、苦しんでおくれ。

さぁ、私と一緒にとどまり、獄に私を独りぽっちにしないでおくれ。
私がお前を探して見回す時、お前の目は、私をみつめていておくれ。

ひどい苦しみにある時、誰かが同情してくれているのを知ることほど、大きな慰めはないのだ。
私の聖心の繊細な愛を知っているお前だからこそ、
私が敵の只中に、弟子たちに捨てられた時の苦しみを、察することができるのだ。

さようならと言う必要はない。
お前はいつも私の傍にいるのだから。



私の聖心がお前に託する言葉を、心に刻んでおきなさい。

残酷な獄吏たちの腕が疲れると、
茨で編んだ冠を、私の頭に圧し被らせ、
私の前に整列して、『王よ、汝に敬礼す。。』と言いながら、
1人づつ私の頭を打って、辱め、
その度、力尽きた肉身に、新たな苦痛を加えるのであった。

あぁ、愛する者たちよ、
罪人として死刑を宣告され、
群衆の侮辱や冒涜のままに任せられ、
見る影もない姿にも飽き足らず、
さらに茨の冠をかぶらせ、
紫の衣を着せて、偽りの王としてあざけられ、
愚か者として扱われている私を、よく黙想しておくれ。

神の子である私が、宇宙を手のうちに支える私が、
人々の前に、卑しく取るに足りない者とされるのを望んだ。
このような辱めから逃れるどころか、喜んで人々の傲慢を償い、
私の跡についてくる人々を引き寄せるために、忍耐したのだ。

この茨の冠によって、
世間体を気にし、思い上がった自尊心による傲慢の罪を、
私がいかに償おうとしたかを思ってごらん。
茨の冠をかぶせられ、頭を酷く苦しめることを許したのは、
私がさせようとすることなのに、自分の価値や地位がふさわしくないと考えて、
それを嫌い、退ける傲慢な自尊心を、償うためであった。
このため私は進んで辱めを受けたのである。

いかなる道も、神の御旨によって辿る時、つまらぬ卑しい道というものはない。
お前が自分の望む他の道を進みながら、
それが御旨だと思っているならば、大変な間違いである。
神をお喜ばせし、ただ御旨を成し遂げることにこそ、
御旨が求められるところにこそ、喜びと平和がある。

ここで、聖心の願いを反省し、糾明し、
生涯の方針を定めようとする人に尋ねてみよう。

キリスト教的な敬虔や義務を果たす習慣、一般的な善徳を兼ね備えた人を見つけ、
自分の相手として希望に叶うものであると思ってはいても、
しかし、虚栄心や傲慢が精神を少しずつ暗くし、
もっと裕福な、もっと地位の高い人を望む欲望にとらわれてはいないか?

そして、最初に心を惹かれたところから方向転換し、
密かな虚栄心に叶う人を探そうとするのではないか?

あぁ、なんたる盲目、危険であろう!
こういう者は、決してこの幸福さえ得られない!
と、私は言おう。
そして、1度はこのような大きな危険にさらされた後、
さらに別のもっと大きな危険に陥らなければよいが。。。と。

完徳に召された霊魂にも言おう。
御旨を行うつもりであると言いながら、
私に茨の冠をかぶせる者がたびたびあるとは、何たる迷いであろう!

私が欲しいと望む霊魂がある。
彼らをよく知り、愛している私は、
彼らを引き寄せ、成聖に到達するために最も確実で賢明な方法を用意する。
私が彼らに聖心を開き、
また、彼らも最大の愛と多くの霊魂を私に与えてくれることができるように。

しかし、彼らが密かな傲慢心や、つまらぬ野心によって盲目となり、
空しい考えに心を満たして、
私が示す道からはずれてしまうということは、
なんと情けないことであろう。

私が選んだ霊魂よ、
恩寵の招きに逆らい、
傲慢の心によって、
私の愛がお前を引き寄せた道に従うことを拒みながら、
御旨を行うことができるとでも思うのか?


あぁ、ヨゼファ、
人々が傲慢のために盲目となる!
今日私は、お前が謙遜と服従の行いを倍加し、
私が深い愛をもって準備した道に、
多くの人々が導かれる恵みを得てほしいのだ。

さぁ、人々がどのようにして傲慢に負けてしまうのかを理解させるようにしよう。

兵士たちは、私に茨の冠をかぶせ、紫のマントを着せて、ピラトのもとに引いて行った。
罰すべき何の罪も見出せないので、ピラトはまた改めて質問した。
自分が全権を持っていることを知りながら、何も答えないのはどういうわけかと問うた。
そこで私は沈黙を破って言った。
『あなたは、上から与えられなければ、何らの権利もない。
しかし、聖書は成就されなければならない』と。
そうして私は、御父に身を全く委ねて、再び唇を閉じた。


妻の忠告に心を悩ましたピラトは、
良心の呵責と、人民の激昂との間に挟まれて、私を自由にする方法を模索した。

哀れな有様の私を群衆に提示して、
私を赦して、その代わりに有名な盗人バラバを罰してはどうか、と提議した。
しかし群衆は一斉に~『この人は死すべきである。むしろバラバを許せ』~と叫ぶばかりであった。

私を愛する者よ、
私は大罪人と比べられたのだ。。
人の中で最も邪悪な者の下に数えられたのである!
私の死を要求し、私に向かって怒号する人々の憤怒の叫びを聞け。

私はこの侮辱から逃れるどころか、
お前への愛のために、また、この愛が死に導いたばかりでなく、
私の血を惜しげもなく流した人々から、辱められ、卑しめられ、憎まれて、
恥ずべき死に導いたことをわからせたいがために、
これを胸に抱きしめたのだ。


私は、平和を乱す者、白痴、狂人として扱われたが、
出来る限りの柔和、謙遜をもって、これを受けた。
しかし、私の人間性が、嫌悪や苦痛を感じなかったとは思わないでもらいたい。
かえって、お前たちが経験するところを、全て知りたいと思った。
そして私の鑑が、お前たちを強め、神の御旨を行い、
私の御父の光栄を償い、世の罪を贖い、
多くの霊魂を救うため、全ての嫌悪を捧げることをお前たちが学ぶためであった。



翌日になるやいなや、カイファは命じて私をピラトのもとに送った。
そのピラトは、私に死の宣告を与えるのである。
ピラトは、処刑のための何らかの理由を見出そうと鋭く詰問したが、
何も得られないので、
これから行われようとする不正義の重大さに、
良心はいたく咎められ、私をヘロデのもとに送った。

ピラトは、
聖寵の勧めを受けながらも、情欲の波に溺れる人々の例である。
自ら目を覆い、人をはばかって笑われるのを恐れ、
過度の自愛心にひかれ、
別に悪いこともなかろう。。
危険はない。。
こんなことは自分で決定できる。。
忠告を聞く必要はない。。と決め込んでしまう。
克己の力がなく、恩寵に協力しようともせず、
1つの罪から他の罪へと陥り、
ついにピラトのように、私をヘロデに渡してしまう。

修道者の場合には、
大きな罪で私に背くということではなく、
いざないを避けるためには、
辱めを忍ばねばならないとか、反対を受ける場合に、
心のささやきに従って、いざないがあることを正直に認めるどころか、
この危険は避ける必要がない。。
この満足を拒むためのなんらの理由はない。。
と、自らに言い聞かせ、間もなくさらに危ない機会へと陥る。
ピラトのように目を覆って、正しく行う勇気を失い、
すぐにではなくとも、徐々に私をヘロデに手渡すのである。


ピラトの数々の質問に対して、私は何も答えなかったが、
『お前はユダヤ人の王なのか?』との問いに対しては、
厳格な責任をもって口を開いた。
『あなたの言うとおり、私は王である。しかしながら、私の王国は、この世の者ではない』と。

人々も、避けようと思えば避けられる苦痛や辱めであろうとも、
勇気をもって受けるべきである。

『私の王国はこの世のものではない』
だから、人におもねる必要などないのだ。
真の故郷を目指して進む時、
世間の批判を気にすることなく、雄々しく義務を果たすべきである。
大切なことは、
人からよく思われることではなく、
たとえ、そのために苦しみや辱めに遭うとしても、
たじろがず、自然的傾向に反しても、恩寵の勧めに従うべきである。
もし、独りでこれを行うことができないのであれば、
助けを求め、あるいは、勧告を聞くがよい。
幾度、自己愛と情欲がおのれをめくらにして、
いつ、悪の道にいざなうかわからないからである。

そこでピラトは、人を恐れ、おのれの責任を逃れようとして、
私をヘロデのもとへ送ることを命じた。
ヘロデは、私が法廷に現れたので、
気ままな残忍性を満足させることができることを喜んだ。
彼は、私の言葉や奇跡をもてあそぼうとしたのである。

愛する人々よ、
この背徳者の前に引き出された際の、私の嫌悪を考えておくれ。
彼の尋問、非難、態度、挙動、
それらはみな、私に恥辱を与えるものばかりである。

心の清いおとめたちよ、
私のそばに来て、私を守っておくれ。。
偽証の数々を聞いておくれ。。
私を笑い種にしようと集った群衆の忌まわしい欲望を見ておくれ。。


ヘロデは、私が彼の辛辣な問いに答えることを期待していた。
しかし、私は口を閉じ、沈黙を守った。
この沈黙は、私の威厳を証明するものであった。
この邪悪な者の汚れた言葉は、
私の聖なる言葉とやりとりする価値すら全くないのである。。

この間、私の聖心は、天の御父と堅く結ばれていた。
私の血を最後の1滴までも、人々の救霊のために流し尽くす望みに燃えていた。
寛大な霊魂たち。。
私を鑑とし、聖心の仁慈に心惹かれて、自身を惜しみなく与える霊魂を思い、
私の愛はかきたてられていた。

この忌むべき詰問中、
私はこれに甘んじるばかりでなく、
十字架上の苦しみにも走りたいほどであった。

愚者のように扱われ、嘲弄の印としての白衣を着せられ、
群衆の罵倒の中を、ピラトのもとに送り返された。

ピラト。。
この臆病な者が、どんなに怖れ、悩まされていたか。
私をどう扱ってようかわからず、
群衆の憤激を鎮めるために、私を鞭打つことを命じたのである。

ピラトは、世間の要求や欲情を、きっぱりと拒絶する勇気のない人々の代表である。

その人々は、良心の声に従って、悪の根を断ち切るどころか、
それを助長させ、一寸した気ままから、ここは譲り、そこでは負ける。
小さな満足を求め、欲の幾分かを満たし、
恩寵の勧めを完全に拒んだのではないからと、心を安んじているのである。

悪霊から来るものであることを知りながら、
良心に従って誘惑を退けず、
わずかばかりの満足のために、これに、あれにと負ける。
もし、ある点でおのれに打ち勝っても、
努力を要する他の点では負ける。
もし、何か抑制しても、
恩寵や会則に忠実であるべき時に、わずかばかりの楽しみのために躊躇する。
自然的嗜好や、情欲の半分を満たしただけだから、などと安心している。

たとえば、真実なのか想像なのかわからないのに、
ある人の欠点を他人に言い表す場合、
博愛や一般的善のためにするのではなく、
単に、隠れた妬みの念に駆られてすることが挙げられる。

恩寵の勧めにより、
良心がどのような精神であるかを提示し、
その行いが不正であるとささやきを受ける。
この人の心のうちには、1瞬間争いがあることに疑いの余地はない。
しかし、情欲を制することをしないがために、
じきにこの悪い目的を退ける光や力を失ってしまう。
そうして、知っていることのある部分を話すことをやめるが、全部ではない。
『このようなことは知らせるべきである。。私は一寸暗示を与えるだけだ』と。


このような人に、私はこのように言おう。

『ピラトのように、私が鞭打たれるのに任せるのか?
 今日はここで譲歩した。。だが明日はもう1歩進むであろう。
 生来の悪い癖を、これで抑えられるとでも思うのか?
 こんな小さなことに負けるならば、
 すぐさま、もっと要求が強くなってくるだろう。
 さらに強い誘惑に遭ったらどうするのか?

 私の愛する者たちよ、
 私が小羊のように柔和に、
 鞭打ちの恥ずかしく恐ろしい刑へと連れて行かれるのを見てごらん。
 私のからだは、この時すでに乱暴な人々によって傷だらけとなり、
 疲れ果てていたが、獄吏は残酷にも、鞭や網などでさんざんに打ち叩いた。
 その荒々しさに骨は砕けんばかりとなり、無数の傷に引き裂かれた。
 からだ中から血がほとばしり出て、ついに人とは思われない姿となった。
 この苦痛の海にうごめく私を思って、お前たちは同情心に動かされずにいられようか。
 執行人の慈悲は期待しないが、
 選ばれたお前たちの憐れみは、どんなに望ましいか知れない。

 私の傷を黙想して、
 これ以上に愛を示そうと苦しんだ者があるか、考えてみるがよい』と。


この無残な姿の私を、いつも思い描いておくれ。
私の傷が、誘惑に打ち勝つ力をお前に与えないかどうか、言ってごらん。
私の意志に全く身を捧げ尽くす寛大さが得られないかどうか、言ってごらん。
ヨゼファよ、ほんとに私をよく眺め、恩寵に導かれて、
いけにえとなって、私を慰めたいと思うようになるのだよ。
怖れることはない。
お前の苦しみは、決して私の苦しみには比べものにはならない。
私がお前に望む苦しみは、みな耐えられるように助けてあげているのだから。
お前の目の前に、私の面影をはなさないように。



主が鞭打ちの刑を受けられた後の、そのままのご様子を見ました。
この御姿に心の底から同情する気持ちがいっぱいで、
この後は、死ぬまでどんな苦しみにも耐えられる勇気が出たように思われました。
この御苦しみに、少しでも比べられるものはどこにもありません。
一番深い印象を与えられたのは、主のまなざしで、
いつもは麗しく、心の中まで見通されるようなのに、
今日は、閉じたままで膨れ上がり、血にまみれて、
特に右の眼の方がひどいようでした。
髪は乱れて、顔、眼、口の辺りまで垂れ下がっていました。
立っていらっしゃいましたが、かがみ、何かに縛られていらっしゃるようでした。
しかし、私は主のほかは、何も見えませんでした。
両手は腰に縛られ、血にまみれ、
御体には生傷が溝をつくり、紫色のあざになっていました。
御腕の血管は黒く腫れ上がり、
左の御肩からは、肉片がぶらさがって、今にも落ちそうになっていました。
御体のあちこちが、こんな有様でした。
御衣は御足元で、血に染まった状態で置かれていました。
腰の辺りに1片の布が、紐で堅く縛りつけてあり、
布の色は血だらけで、何の色だったのかわかりませんでした。
私が見た有様は、これ以上説明できません。。。


平和のうちにあって、自身の惨めさと皆無さをよく弁えなさい。
お前の心を動揺させることなど、たやすいことだ。
でも恐れる必要はない。
お前の惨めさよりも、私の仁慈と愛は無限に大きく、
お前の弱さが、私の力を超えることはないのだから。

危険にさらされている霊魂のために、
十字架を、尊敬と愛を込めて担いなさい。

永遠の御父に、私に加えられた拷問の際の苦しみを、
人々の改心のために捧げるよう、
私と共に、このように唱えなさい。。。


『御父よ、天の御父よ、御子の御傷をごらんください。
 霊魂が改心へと開かれ、恩寵が注がれるよう、御傷をお受けください。
 御子イエズス・キリストの御手足を貫いた釘が、頑なな人々の心をも貫き、
 聖なる御血が、彼らを清めますように。
 御子イエズスの御肩にかかる十字架の重みによって、
 告解の法廷における罪人を、その罪の重荷から解放してください。

 天の御父よ、愛しい御子の茨の冠をお捧げいたします。
 その御苦しみによって、人々にまことの痛悔の恩寵をお与えください。
 私は、御子の十字架上での遺棄、渇き、その全ての御苦しみを捧げ、
 罪人がその罪を嘆き、平和と慰めを取り戻せるよう、願い求めます。

 憐れみに満ち溢れる神よ、
 十字架につけた者たちのために、御子が最後まで祈り続けた、
 その御功徳によって、私たちに、神と隣人への愛を、
 また、善を成し遂げる堅忍の徳を、
 豊かにお与え下さるよう、つつしんで願い求めます。

 こうして、御子の御苦しみが、永遠の至福に導き入れるものとなったように、
 償いを果たして、苦しみを甘受する者が、その報いを受け、
 あなたの栄光の永遠の冠をいただくことができますように』


さぁ、今から十字架を担いながら、私の苦しみに心を合わせ、
御子の御傷を、絶え間なく、御父に捧げなさい。





夜の大部分を、獄中で過ごしていた私のことを思っておくれ。
兵士らは、代わる代わる来ては悪口を浴びせかけるばかりでなく、
突き飛ばしたり、打ちのめしたりして、私を辱めた。
ついにそれにも飽きて、湿っぽい暗闇に私を繋いで行ってsた。
私は石の上に腰掛けて、痛みと寒さに震えていた。



獄と聖櫃とを比べてみよう。
また、特に、私を受ける者(ミサにおいて聖体拝領する人々)の心と比べてみよう。


獄中では、夜の幾時間かを過ごしただけであった。
しかし、聖櫃のうちには幾日、幾夜過ごさなければならないことか。
獄中では、敵から辱められ虐待されたが、
聖櫃の中では、私を父と呼ぶ者たちから、
子供らしくない態度で、しばしばそういう取り扱いを受けるのだ。

獄中では、寒さ、飢え、渇きを忍び、痛み、苦しみながら、ただ独り置き去りにされた。
その時私は、幾世紀もの間、私の隠れ家としては不足だらけの聖櫃や、
習慣的かつ軽率に聖体拝領する人々の、冷たく凍りきった心に苦しむことを思っていた。
その人々の心の多くは、傷つき凍えている私のからだにとって、
獄中の堅くて冷たい石のようである。


何度私は霊魂の愛に飢えればよいのだろう。
私を訪れ、燃える愛で私を受ける者を、何日待たねばならないのだろう。
愛の渇きを癒す者が来るのを待ちながら、幾夜明かさねばならないのだろう。
その人々も仕事に追われたり、無関心になったり、健康を気にして、やがて来なくなる。
私は、人々の忠誠心、寛大な心に飢えているのに、
この聖なる飢えをどれだけ満たしてくれるのだろう。
私は、小さな克己や僅かばかりの節制で、満足させられるというのに、
私の苦しみに、優しく同情さえしてはくれないのだ。
困難に直面する時、このように言ってもらえないのだろうか。。
『あなたの悲しみを和らげ、孤独を慰めるために、これをお捧げいたします』
この時、私に心を合わせれば、心穏やかに、その困難に打ち勝つことができるであろうし、
この聖心をどれほど喜ばせることができるかわからない。


獄中では、聞くも辛いみだらなことを、周りから聞かされたが、
いつかは私の愛する人々の口から、そのような言葉を聞かねばならないことを思って、
この聖心は、さらにかき乱された。

兵士の手が、私の肉体を鞭打った時、
罪に汚れた心が、悔い改めることもしないままに、聖体のうちの私を受けては打ち叩き、
習慣的罪によって、私を殴り続けることを思った。

強いて立ち上がろうとしても鎖につながれ、
力なく倒れこむ私を、獄吏がほおっておいた時、
私の前には、忘恩の鎖をもって私を引きずり回し、新たな辱めを与え、
私を置き去りにして行く人々の姿が浮かんだ。


あぁ、選ばれた者たちよ、
獄中にある天配を眺め、この苦しい夜を明かす天配を思え。。。
そうして、かえりみられない幾つかの聖櫃における私を、
また、冷ややかな霊魂の中で、さらなる苦しみを味わう私をかえりみておくれ。
同情のしるしを与えたいと思ってはくれないか?
お前たちの心を開いて、
それを私の獄とさせてはくれないか?

お前たちの愛の鎖で私を繋ぎとめ。。
細やかな心遣いで私を暖め。。
物惜しみ内心で私の飢えを癒し。。
救霊の熱い望みで私の渇きを潤し。。
忠実な伴侶となって、置き去りにされて悲嘆にくれる私を慰めておくれ。。
この聖心をかき乱す不浄を、潔白と清い意向で拭い去っておくれ。

もし私を憩わせてくれるつもりなら、情欲を鎮めて、沈黙してくれれば、私は安らかに眠ろう。
また、優しくささやく愛の声を聞くことができる。

『選んだ浄配よ、
 私のために犠牲を捧げたことは、何一つ悔いることはあるまい。
  愛深い心遣いで、お前の心の獄に私を守ってくれたお礼として、
  私が限りない報いとなろう。。
 お前は私を休ませてくれた。
 私はお前を永遠に憩わせてあげよう』

夜の大半を、暗く汚れて湿った獄屋でおくり、兵士たちの侮辱や虐待を忍んだ後、
私の成り行きを好奇心に駆られて見に来た下役たちの侮辱の的、嘲弄の的となり、
私の体はあらゆる苦痛に疲れた時。。
あぁ、ヨゼファよ、その時私の聖心に燃えた望みを聞いておくれ。
私を愛で満たし、さらに苦しみたいとの望みを起こさせたのは、
多くの人々が、私を慕ってついてきてくれる、という考えであった。

獄につながれていた間、
私から学び、忍耐し、心静かに苦しみ、
辱めを忍ぶばかりでなく、迫害する者を愛することさえ、私から学ぶ者たちのことを思った。
私が迫害者のためにも身を捧げ、犠牲となったように、
彼らも私と共に身を捧げるようになるこの光景は、
聖父の御旨を成し遂げたい、との篤い望みをこの聖心に燃え立たせた。

恩寵に支えられ、招きに応じて修道生活に入り、孤独に閉じこもって愛の絆に結ばれ、
正当な自然愛も捨てて、本能的な情欲を勇気をもって抑え、
人から嘲笑されることをも忍び、愚者と思われようとも、
その心を神である救い主に堅く結ぶ人々を見た故に、
私は恐ろしい乱暴な取り扱いを受けても、御旨を果たそうとの熱い望みに駆られ、
独りで苦痛を忍びながら、侮辱された神の光栄を償うために、身を捧げたのである。


修道女たちよ、
愛によって自ら選んだ獄に住み、
世の人々から、無益で怪しげな者とさえ思われても、何も恐れるには及ばない。
その孤独に悩まされる時も、世間の人々の罵りに任せておきなさい。
心を、唯一の愛である神へと、さらに強く結び、
罪によって侮辱されたその光栄を償うがよい。



この信条は、4世紀後半にまでさかのぼる信仰宣言であり、
40カ条からなる、聖三位一体と主の受肉についての信仰箇条で、
ギリシア4大教会博士であり、『科学的神学の父』、『教会の柱石』、
『正統信仰の教父』と呼ばれる大聖アタナシウス司教(296~373年)の作
と言われています。

この信条は、ローマ聖務日課書(Breviarium Romanum)において、
聖三位一体の主日や公現の祭日に唱えられ、

ローマ儀式書(Rituale Romanum)によれば、
悪魔憑きに対するエクソシズム(悪魔祓い)にも唱えられます。

Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est,
ut teneat catholicam fidem:
救われたいと望む者は誰でも、まずカトリック信仰をもたなければならない。

Quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit,
absque dubio in aeternam peribit.
誰でも、この信仰を傷なく汚れなく守らなければ、
疑う余地なく永遠に滅びるだろう。

Fides autem catholica haec est:
ut unum Deum in Trinitate, et Trinitatem in unitate veneremur.
Neque confundentes personas, neque substantiam seperantes.
カトリック信仰とは、
そのペルソナを混同することなく、またその本質を分かつことなく、
唯一の神を三位において、また三位を一体において礼拝すること、これである。

Alia est enim persona Patris alia Filii, alia Spiritus Sancti:
Sed Patris, et Fili, et Spiritus Sancti una est divinitas,
aequalis gloria, coeterna maiestas.
Qualis Pater, talis Filius, talis Spiritus Sanctus.
そのペルソナは、聖父であり、聖子であり、聖霊である。
しかし聖父と聖子と聖霊は神性において唯一であり、
その栄光は等しく、その威光も共に永遠である。
聖父がそうであるように、聖子にも、聖霊にもそうである。

Increatus Pater, increatus Filius, increatus Spiritus Sanctus.
Immensus Pater, immensus Filius, immensus Spiritus Sanctus.
Aeternus Pater, aeternus Filius, aeternus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres aeterni, sed unus aeternus.
Sicut non tres increati, nec tres immensi,
sed unus increatus, et unus immensus.
創られない聖父であり、創られない聖子であり、創られない聖霊である。
無限の聖父であり、無限の聖子であり、無限の聖霊である。
永遠の聖父であり、永遠の聖子であり、永遠の聖霊である。
しかしながら三つの永遠者ではなく、唯一の永遠者である。
三つの創られない者、無限者のようではなく、
唯一の創られない者、唯一の無限者である。

Similiter omnipotens Pater, omnipotens Filius, omnipotens Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres omnipotentes, sed unus omnipotens.
Ita Deus Pater, Deus Filius, Deus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Dii, sed unus est Deus.
同様に全能の聖父であり、全能の聖子であり、全能の聖霊である。
しかしながら三つの全能者たちではなく、唯一の全能者である。
聖父が神であるように、聖子も神であり、聖霊も神である。
しかしながら三者の神々ではなく、唯一の神である。

Ita Dominus Pater, Dominus Filius, Dominus Spiritus Sanctus.
Et tamen non tres Domini, sed unus est Dominus.
Quia, sicut singillatim unamquamque personam
Deum ac Dominum confiteri christiana veritate compelimur:
ita tres Deos aut Dominos dicere catholica religione prohibemur.
聖父が主であるように、聖子も主であり、聖霊も主である。
しかしながら三者の主々ではなく、唯一の主である。
なぜならキリスト教の真理は、
各ペルソナを個別に神および主であると告白することを強いると共に、
三者の神々とか主々と言うことを、カトリックの宗教は禁じるからである。

Pater a nullo est factus: nec creatus, nec genitus.
Filius a Patre solo est: non factus, nec creatus, sed genitus.
Spiritus Sanctus a Patre et Filio:
non factus, nec creatus, nec genitus, sed procedens.
聖父は何ものよりも成らず、創られず、生まれない。
聖子は、聖父からのみ、成らず、創られず、生まれるのである。
聖霊は、聖父と聖子から、成らず、創られず、生まれず、発出するのである。

Unus ergo Pater, non tres Patres:
unus Filius, non tres Filii:
unus Spiritus Sanctus, non tres Spiritus Sancti.
それ故、聖父は唯一であって、三者の聖父たちではない。
聖子も唯一であって、三者の聖子たちではない。
聖霊も唯一であって、三者の聖霊たちではない。

Et in hac Trinitate nihil prius aut posterius, nihil maius aut minus:
sed totae tres personae coaeternae sibi sunt et coaequales.
Ita ut per omnia, sicut iam supra dictum est,
et unitas in Trinitate, et Trinitas in unitate veneranda sit.
またこの三位において優劣はなく、大小もなく、
三つのペルソナは皆互いに同じく永遠で等しい。
前述の通り、全てにおいて、三位における一体を、
また一体における三位を礼拝するのである。


。。。アタナシウス信条2(主の受肉の部)に続く。




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