これらのありがたい恩寵を、告白は、隠れて、 つまり、なんら人間的な光栄を求めることなく、 最もデリケートな、秘密のうちに行っている。 人間が、ちょっとした功を立ててもすぐ自慢の種にして言いふらすのに対し、 神の御業である告白は、謙遜で、その手柄を公にしない。 告白を聴く司祭に絶対的な沈黙を守らせることをもって、 告白の時、最も優れた業が行われるが、 外部には何もあらわれない。 神が御聖体のうちにくだる荘厳な歌ミサ、特に司教が立てる荘厳歌ミサは、 外見的にも華やかな典礼式に飾られ、灯された沢山の蝋燭と、高くにおう香と共に、 素晴らしい一大舞踏術を示している。 しかし、憐れみの神が罪人の霊魂にくだる時、そこに何の荘厳な式もない。 粗末な告解場、顔さえも見分けられない一司祭、小声でささやかれる言葉、 そして、告解者の利益のために、彼について厳しい秘密を守ること。 計り知れないこの勝利は、みせびらかしをひとつも好んでいない。 彼は、罪を赦されて告解場を去ると、再びもとの環境の中で、平常の仕事にもどる。 罪を赦されたことは外部には何もあらわれないが、彼は全く変わっている。 つまり、昨日、罪人として地獄にゆくべき身であったのに、 今日は罪を赦されて、天にのぼる権利をもっている。 御父と赦された子供だけが、この和合の全能と価とを知っている。 告解を聴いた聴罪司祭、この神的秘蹟を授けた代理者でさえ、 数多の人々に『私はあなたの罪を赦す』と唱えたこの人でさえ、 誰に、その罪を赦したかを知らない。 あぁ、告解の思慮深さよ! 全ての人の利益をこれほどに計られた御方の無限に妙なる聖心よ! 告白は、教会の最も高位の聖職者から一般の平信者に至るまで、 罪の赦しをえるために必要なものであるが、 いつ、どこで、どの司祭のもとにするかは、全く本人の自由にまかせられている。 神が望んでいるのは、 人の心が率直で、その罪を痛悔し、よい意向を示すようにということであるが、 またこのために、いかなる組織にも束縛されないことを望まれる。 どこの教会であれ、告解場があるなら、憐れみの秘蹟に近寄るようにという招きである。 ふさわしい準備をしているならば、いつ、どこで、どの司祭に告白しても、 この秘蹟を利用する人は、区別なく確実に赦しがえられると保証されている。 罪の赦しをえるこれほど手近な可能性は、 神の無限の愛によってのみ説明できるものである。 恐れの理由は最小限に減らされ、 罪の赦しを与えるこれより簡単な方法は、 またと考えられないほどである。
人間の社交関係において、 不正、傲慢、むさぼり、憎みなどによる全ての争いのもとは、 罪である。 告白は、この罪を滅ぼす。 悪魔は罪を犯させるために幸福を約束したが、 罪の結果は、幸福どころか不安な状態が訪れてきた。 これに反し、告白は平和を取り戻す。 無味乾燥な人の心、あるいは、ひどいいざないに襲われた人の心は、 告白によって神の恵みを回復すると共に、 慰めと確かな導きとを受けたのである。 悪い習慣は、告白をもって、はっきりと悪と指摘され、 告白の秘蹟によってそれに抵抗する力強い援助を受け、 まだ激しくならないうちに食い止められたのである。 司祭が、告白の時に聞く事柄について秘密を守ることは、 告白者が包み隠さず、率直に全てを打ち明けるようにと励ます。 こうして不忠実によって脅かされた家庭も、 告白によって、堅固な忠実と貞節とを取り戻すのである。 つまり、夫か妻に何か不忠実なことがあり、 告白したためにそれを改めるようにと励まされ、 秘蹟によって正しい場に立ち返る良薬をえたからである。 告白は、多くの人々の生活をより明るくし、 しばしば災いをもさけさせるのである。 告白によって、どれほど多くの人々が助けられたかを、 何人がよく知っているだろうか? しかし、この偉大な告白の手柄にむくいるなんらの栄誉もない。
告白の功を証明する数多い実例の中から、その1つを選んでかかげてみよう。 司祭のところに、ある日、1人の婦人が訪れてきた。 司祭は愛想よく挨拶した。 『ようこそ。ご子息のアンドレーはいかがですか? 初聖体からもうだいぶたちますから、さぞ成長されたことでしょうね。 あなたは、ご子息について満足されていますか?』 婦人はそれに答えた。 『はい、それはもう神父様。アンドレーのことは責任をとることができます。 本当にしっかりした立派な青年でして、私も誇りとしているくらいです』 その後しばらくして、当のアンドレーが司祭を尋ねてきた。 彼を小さい時から知っていた司祭は、さっそく問いかけた。 『また、お会いできたのは何よりです。。。 それはそうと、あなたは、いつもよい信者として振舞っていますか? 最後に告解したのはいつですか?』 しかしアンドれーはためらっている。。 『まぁ、心配しなくてもよいでしょう。だいぶ前ですね。。。 さぁ、この機会を利用しましょう。 お聖堂で行って、少しい準備をしてください。私もすぐ参りますから。 あなたは告解する必要があるでしょう。 告解して損はありませんからね。。。』 しばらくすると、聴罪司祭の耳に青年の告白がささやかれた。 なるほど『しっかりした立派な青年、誇りとするに足る青年』ではなかった。 もちろん司祭は、今聞いたことについて秘密を守らねばならないが、 しかし告白者をこう戒める。 『私の子よ、 あなたは、地上であなたを一番愛しているお母さんを騙そうとしている。 あなたは多くのいざないに遭っているというが、 いざないに遭わない者がこの世にあるだろうか? 私の友よ、 このいざないに打ち勝つのにあなたに不足しているのは、告解です。 適切にする告解です。 当分は、週に1度告解に来なさい』 青年は、司祭の勧めに従った。 幾度もいざないに負けたが、 告白によって罪の赦しをえるたびに、罪に逆らう力を少しずつ身につけ、 いざないの激しさも次第に弱まってきて、負ける回数も減り、 外見にそれとあらわれて名誉を傷つけることなく、 彼は、良心の正しい秩序を取り戻すようになったのである。 これは、告白の秘蹟の力である。 彼の母は、相変わらず、 『私の息子は、しっかりした立派な青年です』と人に語っているが、 今度こそその言葉は真実である。 しかし彼女は、息子が災いにかかる危険にあったこと、 この危険と、それによる恥を免れさせたのが、 週毎に繰り返された告白であることを夢にも知らない。 この告白は、なんら表立つことなく、内的に、よく活躍していた。 おそらくこの青年の父親も友人と談笑する時、 告白を笑いに付して語ることだろう。
このように告白が極めて大きな効果をもたらすことから、 プロテスタントも、告白を義務としないまでも、 善徳を保つのに有力な、実践的手段として信者に勧めている。 私たちカトリックの司祭は、何十年と信者の指導にあたった経験から、 信者が堅固な道徳生活を送るのに、 天からの超自然的な恵みの次に貴重な手段が、 たびたびの告白であることを知っている。 この、しばしばの告白は、 老若男女の別なく何人にも必要なものである。 教会は、トリエント公会議において次のような事項を宣言したが、 この宣言とそれに類する他の宣言、及び勅令の、全ての責任を負っている。 『普遍的教会は、告白が我が主によって制定されたもので、 洗礼以後、罪を犯した全ての人にとって、その赦しをえるために、 神の法律にのっとり必要であることを、いつも認めてきたのである。。。 従って告白者は、まじめに良心の糾明をし、 犯したと認める全ての大罪を告白しなければならない』 告白は、 人間に対する神の尊敬を示している。 なぜなら、人間は神の助けによって率直に自分自身を訴え、 みずから立ち直るチャンス、好都合を与えられるからである。 それだけでなく、もし、人間が良心の声をおさえつけずに聞くなら、 良心は『自分の罪を認めよ』と叫ぶ。 告白を『良心の拷問』と呼んだ人がいる。 なぜ、そんな極端なことが言えるのだろうか? むしろ、罪こそ、良心の拷問に他ならない。 告白は、良心をこの拷問から解放するものである。 たとえ、私たちのように罪深い人間に過ぎない司祭を通じてであれ、 神の御名によって、『安心して行きなさい!』といわれるのは、 なんと心休まることだろう。 告白は、また社会の公益にもなる。 統計は、明らかにそれを証明する。 フランスの例をひくなら、 宗教生活が深く、信者が頻繁に告白する地方では、 町の裁判所が、他の裁判所よりずっと閑散である。 人が自発的に神の裁きに自分を訴える時、 人間的な裁判は、それほど必要でなくなるからである。