2008年01月

1.赦しをえるために(前回の続き)



 これらのありがたい恩寵を、告白は、隠れて、
 つまり、なんら人間的な光栄を求めることなく、
 最もデリケートな、秘密のうちに行っている。

 人間が、ちょっとした功を立ててもすぐ自慢の種にして言いふらすのに対し、
 神の御業である告白は、謙遜で、その手柄を公にしない。

 告白を聴く司祭に絶対的な沈黙を守らせることをもって、
 告白の時、最も優れた業が行われるが、
 外部には何もあらわれない。


 神が御聖体のうちにくだる荘厳な歌ミサ、特に司教が立てる荘厳歌ミサは、
 外見的にも華やかな典礼式に飾られ、灯された沢山の蝋燭と、高くにおう香と共に、
 素晴らしい一大舞踏術を示している。


 しかし、憐れみの神が罪人の霊魂にくだる時、そこに何の荘厳な式もない。
 粗末な告解場、顔さえも見分けられない一司祭、小声でささやかれる言葉、
 そして、告解者の利益のために、彼について厳しい秘密を守ること。


 計り知れないこの勝利は、みせびらかしをひとつも好んでいない。
 彼は、罪を赦されて告解場を去ると、再びもとの環境の中で、平常の仕事にもどる。
 罪を赦されたことは外部には何もあらわれないが、彼は全く変わっている。
 つまり、昨日、罪人として地獄にゆくべき身であったのに、
 今日は罪を赦されて、天にのぼる権利をもっている。

 御父と赦された子供だけが、この和合の全能と価とを知っている。
 告解を聴いた聴罪司祭、この神的秘蹟を授けた代理者でさえ、
 数多の人々に『私はあなたの罪を赦す』と唱えたこの人でさえ、
 誰に、その罪を赦したかを知らない。


 あぁ、告解の思慮深さよ!
 全ての人の利益をこれほどに計られた御方の無限に妙なる聖心よ!


 告白は、教会の最も高位の聖職者から一般の平信者に至るまで、
 罪の赦しをえるために必要なものであるが、
 いつ、どこで、どの司祭のもとにするかは、全く本人の自由にまかせられている。


 神が望んでいるのは、
 人の心が率直で、その罪を痛悔し、よい意向を示すようにということであるが、
 またこのために、いかなる組織にも束縛されないことを望まれる。

 どこの教会であれ、告解場があるなら、憐れみの秘蹟に近寄るようにという招きである。
 ふさわしい準備をしているならば、いつ、どこで、どの司祭に告白しても、
 この秘蹟を利用する人は、区別なく確実に赦しがえられると保証されている。

 罪の赦しをえるこれほど手近な可能性は、
 神の無限の愛によってのみ説明できるものである。
 恐れの理由は最小限に減らされ、
 罪の赦しを与えるこれより簡単な方法は、
 またと考えられないほどである。

 人間の社交関係において、
 不正、傲慢、むさぼり、憎みなどによる全ての争いのもとは、
 罪である。

 告白は、この罪を滅ぼす。


 悪魔は罪を犯させるために幸福を約束したが、
 罪の結果は、幸福どころか不安な状態が訪れてきた。

 これに反し、告白は平和を取り戻す。


 無味乾燥な人の心、あるいは、ひどいいざないに襲われた人の心は、
 告白によって神の恵みを回復すると共に、
 慰めと確かな導きとを受けたのである。

 悪い習慣は、告白をもって、はっきりと悪と指摘され、
 告白の秘蹟によってそれに抵抗する力強い援助を受け、
 まだ激しくならないうちに食い止められたのである。



 司祭が、告白の時に聞く事柄について秘密を守ることは、
 告白者が包み隠さず、率直に全てを打ち明けるようにと励ます。

 こうして不忠実によって脅かされた家庭も、
 告白によって、堅固な忠実と貞節とを取り戻すのである。
 つまり、夫か妻に何か不忠実なことがあり、
 告白したためにそれを改めるようにと励まされ、
 秘蹟によって正しい場に立ち返る良薬をえたからである。


 告白は、多くの人々の生活をより明るくし、
 しばしば災いをもさけさせるのである。
 告白によって、どれほど多くの人々が助けられたかを、
 何人がよく知っているだろうか?
 しかし、この偉大な告白の手柄にむくいるなんらの栄誉もない。

 告白の功を証明する数多い実例の中から、その1つを選んでかかげてみよう。

 司祭のところに、ある日、1人の婦人が訪れてきた。
 司祭は愛想よく挨拶した。

 『ようこそ。ご子息のアンドレーはいかがですか?
  初聖体からもうだいぶたちますから、さぞ成長されたことでしょうね。
  あなたは、ご子息について満足されていますか?』

 婦人はそれに答えた。
 『はい、それはもう神父様。アンドレーのことは責任をとることができます。
  本当にしっかりした立派な青年でして、私も誇りとしているくらいです』

 その後しばらくして、当のアンドレーが司祭を尋ねてきた。
 彼を小さい時から知っていた司祭は、さっそく問いかけた。

 『また、お会いできたのは何よりです。。。
  それはそうと、あなたは、いつもよい信者として振舞っていますか?
  最後に告解したのはいつですか?』

 しかしアンドれーはためらっている。。

 『まぁ、心配しなくてもよいでしょう。だいぶ前ですね。。。
  さぁ、この機会を利用しましょう。
  お聖堂で行って、少しい準備をしてください。私もすぐ参りますから。
  あなたは告解する必要があるでしょう。
  告解して損はありませんからね。。。』


 しばらくすると、聴罪司祭の耳に青年の告白がささやかれた。
 なるほど『しっかりした立派な青年、誇りとするに足る青年』ではなかった。

 もちろん司祭は、今聞いたことについて秘密を守らねばならないが、
 しかし告白者をこう戒める。

 『私の子よ、
  あなたは、地上であなたを一番愛しているお母さんを騙そうとしている。
  あなたは多くのいざないに遭っているというが、
  いざないに遭わない者がこの世にあるだろうか?
  私の友よ、
  このいざないに打ち勝つのにあなたに不足しているのは、告解です。
  適切にする告解です。
  当分は、週に1度告解に来なさい』

 青年は、司祭の勧めに従った。
 幾度もいざないに負けたが、
 告白によって罪の赦しをえるたびに、罪に逆らう力を少しずつ身につけ、
 いざないの激しさも次第に弱まってきて、負ける回数も減り、
 外見にそれとあらわれて名誉を傷つけることなく、
 彼は、良心の正しい秩序を取り戻すようになったのである。

 これは、告白の秘蹟の力である。


 彼の母は、相変わらず、
 『私の息子は、しっかりした立派な青年です』と人に語っているが、
 今度こそその言葉は真実である。

 しかし彼女は、息子が災いにかかる危険にあったこと、
 この危険と、それによる恥を免れさせたのが、
 週毎に繰り返された告白であることを夢にも知らない。
 この告白は、なんら表立つことなく、内的に、よく活躍していた。
 おそらくこの青年の父親も友人と談笑する時、
 告白を笑いに付して語ることだろう。

 このように告白が極めて大きな効果をもたらすことから、
 プロテスタントも、告白を義務としないまでも、
 善徳を保つのに有力な、実践的手段として信者に勧めている。

 私たちカトリックの司祭は、何十年と信者の指導にあたった経験から、
 信者が堅固な道徳生活を送るのに、
 天からの超自然的な恵みの次に貴重な手段が、
 たびたびの告白であることを知っている。
 この、しばしばの告白は、
 老若男女の別なく何人にも必要なものである。


 教会は、トリエント公会議において次のような事項を宣言したが、
 この宣言とそれに類する他の宣言、及び勅令の、全ての責任を負っている。

 『普遍的教会は、告白が我が主によって制定されたもので、
  洗礼以後、罪を犯した全ての人にとって、その赦しをえるために、
  神の法律にのっとり必要であることを、いつも認めてきたのである。。。
  従って告白者は、まじめに良心の糾明をし、
  犯したと認める全ての大罪を告白しなければならない』



 告白は、
 人間に対する神の尊敬を示している。

 なぜなら、人間は神の助けによって率直に自分自身を訴え、
 みずから立ち直るチャンス、好都合を与えられるからである。
 それだけでなく、もし、人間が良心の声をおさえつけずに聞くなら、
 良心は『自分の罪を認めよ』と叫ぶ。

 告白を『良心の拷問』と呼んだ人がいる。
 なぜ、そんな極端なことが言えるのだろうか?

 むしろ、罪こそ、良心の拷問に他ならない。
 告白は、良心をこの拷問から解放するものである。

 たとえ、私たちのように罪深い人間に過ぎない司祭を通じてであれ、
 神の御名によって、『安心して行きなさい!』といわれるのは、
 なんと心休まることだろう。


 告白は、また社会の公益にもなる。
 統計は、明らかにそれを証明する。
 フランスの例をひくなら、
 宗教生活が深く、信者が頻繁に告白する地方では、
 町の裁判所が、他の裁判所よりずっと閑散である。

 人が自発的に神の裁きに自分を訴える時、
 人間的な裁判は、それほど必要でなくなるからである。



1.告解の秘蹟一般



告解とは、どういう秘蹟ですか?
告解の秘蹟は、悔悛の秘蹟とも呼ばれ、
洗礼後に犯した罪を赦すため、
イエズス・キリストが制定された秘蹟です。

♣秘蹟とは。。。φ(´・ω・`)メモメモ
1)イエズス・キリストが、霊魂の聖化のために定められたもので、
超自然の恩寵を示し、それを与える印のことで、
洗礼・堅信・聖体・告解(赦し)・病者の塗油・叙階・婚姻の7つがあります。

2)イエズス・キリストは、その受難と死によって、
秘蹟に恩寵を与える力を授けられましたが、
心に妨げのある場合は、秘蹟を受けても、恩寵をえることができません。

3)洗礼と告解の秘蹟は、
罪によって死んだ霊魂に、
ふたたび恩寵の生命を吹き込むために、主イエズスが定められたものですから、
『死せる人の秘蹟』と呼ばれます。

4)救いのために最も必要な秘蹟は、
洗礼と告解の2つです。
洗礼は、全ての人に必要で、
告解は、洗礼後に大罪を犯した全ての人に必要だからです。

5)秘蹟には、質料(感覚でとらえることのできる要素)と形相(授与時の言葉)、
秘蹟の授与者と受領者が必要です。
授与者は、教会がすることをしようという意思を持っていなければなりません。


なぜ告解の秘蹟が、悔悛の秘蹟とも呼ばれるのですか?
告解の秘蹟が、悔悛の秘蹟とも呼ばれるのは、
罪の赦しをえるために、犯した罪を悔やみ、忌み嫌う必要があり、
また、聴罪司祭が課する償いを果たさねばならないからです。

なぜ告解の秘蹟と呼ばれるのですか?
告解の秘蹟と呼ばれるのは、
罪の赦しをえるために、犯した罪を忌み嫌うだけでは充分ではなく、
聴罪司祭に言い表すこと、つまり告白(懺悔)する必要があるからです。
告解の秘蹟は、
私たちの霊魂をつなぎとめる絆のようなものである罪を、打ち砕きます。
告解は、神の恩寵の中に、私たちを立ち返らせ、
親密な友情によって、神と一致させる力をもっています。


イエズス・キリストは、いつ告解の秘蹟を制定されましたか?
イエズス・キリストが告解の秘蹟を制定されたのは、
復活の日、使徒たちに高間で厳かに罪を赦す権能を与えられた時です。

イエズス・キリストは、どのようにして罪を赦す権能を使徒たちに授けられましたか?
イエズス・キリストは、使徒たちに息を吹きかけ、
次の言葉をもって、罪を赦す権能を授けられました。
『聖霊を受けなさい。あなたたちが赦す罪は、誰の罪でも赦され、
 あなたたちが赦さずにおく罪は、誰の罪でもそのまま残る』(ヨハネ20,22&23)

告解の秘蹟の質料は何ですか?
告解の秘蹟の質料は、近い質料と遠い質料の2つに分けられます。
遠い質料とは、洗礼後に犯した罪のことです。
近い質料(準質料 quasi-materia = 悔悛の部分)とは、
告解者の行為、つまり、痛悔・告白・償いのことです。
悔悛の徳の行為は、告解の秘蹟の質料ですから、
この内的悔悛なしには、外的にされることは、ほとんど無益です。
内的悔悛とは、
心の底から神に立ち返り、犯した罪を心から忌み嫌い、
同時に神の御慈悲によって罪の赦しを得ようとの希望のもとに、
私たちの悪癖や腐敗した生活態度を改めることを固く決心することです。
悔悛の徳は、
悲しみの中に正しい節度を保つことができるよう、私たちを助けます。


告解の秘蹟の形相は何ですか?
告解の秘蹟の形相は次の言葉です。
『私は、聖父と聖子と聖霊の御名によって、あなたの罪を赦します』

告解の秘蹟の授与者は誰ですか?
告解の秘蹟の授与者は、
使徒の後継者である司教から、
告解を聞く権能を受けた聴罪司祭です。

なぜ司祭は、使徒の後継者である司教から権能を受けなければならないのですか?
この秘蹟を有効に授けるためには、
司祭の叙階の権能だけでは不充分であり、
裁治権、つまり裁く権能が必要になるからです。
そして裁治権は、使徒の後継者である司教から受けます。

1.赦しをえるために(前回の続き)


 告解はまた、霊魂を悪に対して防備すると共に、
 霊魂を高める役割をも果たしている。
 しかし、一般に信者は、これについてあまり考えない。

 告白によって霊魂は、ふたたび神と一致するので、日増しに高めれれる。
 このように告白は、すぐれた役割を果たす。
 それは、神こそ、最も完全な御方であることを証明するのである。
 『私は自分の弱さを認める』と神の力強さを宣言する。
 私の落ち度を打ち明け、これを悪事、罪、犯罪と呼ぶ時、
 この落ち度が攻撃している神の完全さを私は宣言するのである。


 罪を告白する時、
 私は、真理に仕え、
 正義の正しい要求に服従するのである。


 この真理は、償いをするようにも要求する。
 つまり、全ての王の王であり、無限に賢明な、
 かつ従順を受けるにふさわしい神の権威に対し、
 私は全てを帰す義務がある。
 それをなおざりにしたので、告白は、この破られた秩序をとりもどし、
 最高の権威者の地位と、それに服従すべきものの地位とを、
 本来あるべき状態にかえすのである。


 告白は、正義をも満足させる。
 傲慢は、人をめくらにするが、
 告白の時にあらわれる謙遜は、ふたたび霊魂を照らす。
 そればかりか、私が犯した罪のために当然受けるべき正当な処罰をさえ、
 告白はまぬがれさせる。

 子が、御父の愛を断っていたのを、
 告白は、ふたたび御父の聖心に結び合わせる。

 もし罪人が、あやまった名誉心にかられていたのなら、
 告白によって、この誤りに打ち勝ち、
 『神の名誉こそ、第1のものである』と宣言する。

 罪を犯したために、霊魂は傷つき、
 霊的組織全体に汚染の危険と死をもたらすばい菌が迫って、
 私たちの超自然的生活を脅かしていたが、
 告白することによって、
 霊魂はふたたび健康を取り戻すのである。

 こうして、健全な状態に立ち返った人間の望みは、
 神の御旨と見事に結び合わされ、和合するようになる。

 清められ、癒された霊魂は、
 霊的誕生のように若返るのである。


 健康体でない人はなんの活躍もできないが、
 ひとたび健康を回復すれば、立派な活躍ができる。

 同じように、告白によって清められた人は、
 超自然的に活躍し、
 その目的をえるようになり、
 彼の全ての行いは、超自然的な功徳を豊かにえるのである。
 罪を犯したために崩れた霊的建造物は、
 再建され、もとの高さと値打ちを取り戻すのである。


 悔い改めたばかりの罪人は、
 まだ、自分の犯した罪の臭いのする罪人は、
 告白によって、早くも、もとの権利を取り戻している。
 それは、信じられないほどのありがたい恵みである、。

 なぜなら、彼は、つい先刻まで、
 この権利を無思慮に、頑なにも断っていたからである。

 この権利とは、
 神の恵みと生命、
 つまり、地上の全ての宝に無限にまさる価値ある賜物を受ける権利である。

 この不可思議に豊かにされた霊魂からは、
 悪徳の根株が根こそぎにされ、
 心の土地は手入れされ、
 そのあとに新しい芽が生え出て、ふたたび実を結び、
 前よりも豊かに実るだろう。


 罪を犯してからというもの、
 良心はたえず圧迫され、安らぐことはなかった。
 罪の楽しみと共に、心の呵責が響いてきていた。
 偽りの楽しみは、あれほそ幸福を約束しながら、
 実際は疲れ、嫌気、失望だけをもたらしたではないか?

 告白は、この偽りの楽しみに対して本当のことを知らせ、
 真の喜びがどこにあるかを指し示す。

 それは、つまり、善良な良心、
 あこがれの家へとついに帰ることのできた捕らわれ人のように、
 幸いな良心だけにある。

 こうしてのみ良心は、
 愛し、活躍し、実を結び、
 生活を楽しく過ごすことができるようになる。





1.赦しをえるために


 赦しをえるためには、
 自分の罪を告白しなければならない。
 それは、真理に対する尊敬を示すことである。

 自分の落ち度を認めることは、それを改めることのはじめである。


 真実と率直さ。。。真理の神に対し、
 まず、真実に、率直に自分の非を認めねばならない。


 父から罪の赦しをえたいなら、
 子は、まず、自分の犯した罪を認めねばならない。
 彼ら2人の考えが一致してこそ、
 彼らの心も一致する。

 言うまでもなく痛悔は、根本的に必要なものであるが、
 自分が犯した罪を明白に認めないなら、何の役にも立たない。


 『私の過ちである!』というのが根本的で、
 『私は告白する』というのが、その欠くべからざる条件となる。


 よく見定めることが全ての商売の根本となり、破産をさけさせるように、
 良心の糾明は、健全な道徳生活の根本である。


 よく診察しないなら、適切な治療もほどこすことができない。
 医者は、病気の原因を、どれほど努力して窮めることだろう!
 まして、これより重大な結果をもたらす道徳上の病気の原因を窮めるのに、
 どうしてためらうことがあろう?


 人間は、自分で、自分の振る舞いと責任に関する糾明を、
 神の御目のもとに、
 幻覚も偏見もなく、素直に展開しなければならない。
 そして、判断をするのに、
 まず、神の判断を利用しなければならない。

 赦しをえるための第1条件は、
 自分の罪をよく見きわめることである。
 罪人は、よく心の目を開けて、自分の振る舞いを調べなければならない。

 他の人々は、彼について誤ることも、だまされることもありうるが、
  彼は、自分自身をありのままに眺めねばならない。
 これこそ、良心の勝利と主位権を示すのである。
 神の声であるこの良心は、
 さきに述べたように道徳生活の根本である。


 糾明するにあたって良心は、
 おおうことも、誇張することも、減らすこともゆるさず、
 あくまで客観性を守らねばならない。


 告白の準備の時だけでなく他の場合にも、
 しばしば良心の糾明をすることは、
 どれほど大きな利益をえさせることだろう!

 もし人間が毎日を終える時、
 『私は今日、どんな悪いことをしたか?また、どんな良いことをしたか?』
 という簡単な、しかし根本的なこの問いに、よく答える習慣をもつなら、
 彼は、自分を正しく判断するようになる。


 『自らを知れ!GNOTHI  SEAUTON』と古代の学者はいい、
 『人間の真の学問と研究とは、人間自身である』とモンテーニュはいった。
  カトリック要理は、さらに正確に、『犯した罪を調べよ』といっている。


 調べの段階が終わると、
 その赦しをえるために、
 神から定められた審判者(聴罪司祭)に罪を打ち明ける。

 罪の告白は、あなたの霊魂を軽くする。
 罪は重荷だからである。

 罪を言い表すのは恥ずかしいことであるが、
 この恥ずかしさは、罪を犯した時の傲慢さの償いとなる。


 告白は、
 宗教の感覚をたとえ原始的にでも保っている人にとって1つの必要となる。
 モンシニョール・ルロワは、その著書『原始人の宗教』の中で、
 『未開民族』といわれる民族に、
 ある一定の形式を通じて、罪の重荷をはらう風習があると述べている。
 この風習は、それぞれ民族によって異なるが、
 その最も簡単なのは、土に小さな穴を掘って、
 その穴にむかって罪を述べ、あとで土をかけてうめるものである。


 健全な人は、その罪から解放されるために、
 それを自分の外にはらいのけようとする。
 これは、人間性に内在する必要であるが、
 キリスト教的道徳は、
 この必要の満たし方を、正確に教える。
 私たちはこれに従う時、心の平和を取り戻すことができる。

 適切に告白したなら、心配する必要はない。
 しかし、適切な告白とはどんなものだろうか?

 それは、自分が犯した大罪をつつまず言い表して、
 重大さを増す事情をも言い加えることである。
 しかし、『なぜ、その罪を犯したか』という理由を述べる必要はない。

 さて、大罪を形成するのはなんであろうか?
 それは、重大な事柄と、完全な承諾という2つの要素である。

 だから、完全な承諾があっても事柄が重大でない時、
 また、事柄が重大であっても完全な承諾がない時、大罪とはならない。

 言うまでもなく小罪も~容易にそれを改めるために~告白することができる。
 しかし、告白の義務はない。
 なぜなら小罪は、告解以外の他の方法によっても、
 たとえば、善業や祈りによっても赦されるからである。

 しかし、この内的なことを打ち明けるべき審判者とは、いったい何物だろうか?
 それは、司祭である。
 つまり、使徒たちの後継者である司教から、
 『あなたたちが罪を赦す人には、その罪が赦され、
 あなたたちが罪を赦さない人は、赦されないであろう』(ヨハネ20.23)
 という神の御独り子の御言葉を聴かされた者である。

 イエズスはこの特別な権力を、
 全ての者の憐れみの御父からのものとして、使徒たちに与えられた。
 『父が私をお送りになったように、私もあなたたちを送る』(ヨハネ20.21)

 従って、罪の赦しは、御父から出て、語父と同じ本性である御子を通り、
 イエズス・キリストの延長である司祭を通じて、痛悔者に届くのである。

 しかし、神から選ばれ召されたこの司祭も、哀れな人間であり、
 彼も自分の罪の赦しをえるために、他の司祭に告白しなければならない。
 そればかりか、信者を清め導くために、
 より清い、超自然的光に照らされた霊魂の持ち主となるように、
 一般信者よりしばしば告白しなければならない。
 司祭は、信者の振る舞いを指導し、
 信者が告白する時、必要に応じて彼を助け、
 罪の清めをえさせねばならないからである。

 しかし、司祭の最も美しい役目は、罪の赦しを与えることである。
 なぜなら、彼は、審判者として罪の告白を聴き、
 宣告を~罪を赦すという宣告を~くだすからである。

 このように司祭を通じ、
 信者が良い意向をもって罪の赦しをえる時、
 その罪は全く消され、存在しなくなる。
 良心が洗い清められたので、
 神との友情は、その全ての富をもって霊魂にみなぎる。

 謙遜と経過いいを保つために、しばしばその罪を思い出すのはよいが、
 しかし、その罪は実際に滅ぼされたのである。

 その上に、告白の秘蹟によって、霊魂は新しい力をえ、
 悪魔が再びいざないをかける時、容易にそれに打ち勝つ資格をえたのである。



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