2006年11月

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ロザリオを祈る人々への聖母マリアの15の約束

聖ドミニコと福者アランへの私的啓示
 


 1)誰であれ、ロザリオの祈りを唱えることによって、
      忠実に私に仕える人は、豊かな恵みを受けるでしょう。

 2)ロザリオの祈りを継続的に唱える全ての人に、
   私は特別な保護と素晴らしい恵みを約東します。

 3)ロザリオは、地獄に対する最強の武器です。
   それは悪い習慣を破壊し、罪を根絶やしにし、誤謬を駆逐するでしょう。

 4)それは善徳と善業を実らせ、神からの豊かな憐れみを引き寄せ、
   人の心を現世的な愛着と虚栄から引き離し、
   永遠のものへの憧れを、霊魂のうちに培うでしょう。
   あぁ、人はロザリオによって、その霊魂を聖化することができるのです!

 5)ロザリオの祈りによって、自身を私に委ねる人は、
   決して滅びることがありません。

 6)誰であれ、その神秘を黙想し、信仰をもってロザリオを唱える人は、
   逆境において挫折することは  ありません。
   神は正義による処罰を猶予し、不慮の死を遂げることもありません。
   もし正しい人であれば、神の恵みのうちに留まり、
   永遠の生命にふさわしい者となるでしょう。

 7)誰であれ、ロザリオへのまことの信心を持つ人は、
   教会の秘跡を受けられないままに死ぬということがありません。

 8)誰であれ、ロザリオの祈りを忠実に唱える人は、
   その生涯の日々、神の光と豊かな寵愛を受け、
   そして死を迎える際に、天上の至福者たちの功徳に参与する者となるでしょう。

 9)私は、ロザリオの祈りを献身的に実行した人を、
   煉獄から速やかに解放します。

10)ロザリオの忠実な子供達は、
   天国で高い栄光に揚げられます。

11)あなたたちは、どんなことであれ、
   ロザリオを通して願うならば、与えられるでしょう。

12)聖なるロザリオを広める全ての人は、
   その困難に際して、私の助けを受けます。

13)私は、私の聖なる息子イエズスから、
   『ロザリオを唱える全ての人には、その生涯の日々、そして死を迎える際に、
    天上の全ての聖なる住民を、自分の仲介者として持てる』という許可をいただきました。

14)ロザリオを唱える全ての人は、私の愛しい子供となります。
   私の独り子イエズス・キリストの弟であり妹なのです。

15)ロザリオの信心は、神的摂理における救霊予定の大いなる『印』です。






Dies irae ディエ-ス・イ-レ ~怒りの日~



Sequentia 続唱

	
Dies irae, dies illa
solvet saeclum in favilla:
teste David cum Sibylla. 

  怒りの日、その日には
  スィビッラと共にダヴィドが証言したように
  全世界は熱した灰のような終焉を迎えるだろう。

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus! 

  どれほど大きな戦慄が待ち構えていることだろう。
  裁き主が雲に乗って来られるその時、
  全てにわたり厳正に審理されるだろう!

Tuba mirum spargens sonum
per sepulcra regionum,
coget omnes ante thronum. 

  驚くべきラッパの音が響き渡り、
  霊界のもとに葬られていた、
  全ての人は、玉座の御前に召喚されるだろう。

Mors stupebit et natura,
cum resurget creatura,
judicanti responsura. 

  裁きの場で弁明するべく、
  亡くなっていた被造物の復活と共に、
  死も自然も狼狽するだろう。

Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
unde mundus judicetur. 

  記録書が提示され、
  ~そこに全てが記載されている~
  それに基づいて世界は裁かれるだろう。

Judex ergo cum sedebit,
quidquid latet apparebit:
nil inultum remanebit. 

  それ故、審判者が裁きに座すと共に、 
  隠されていた物事も全て明らかにされ、
  処罰されずに放置される悪は、何一つない。




Quid sum miser tunc dicturus?
Quem patronum rogaturus,
cum vix justus sit securus? 

  その時、哀れな私は何を申し開きすればよいのだろうか?
  誰を保護者として願い求めればよいのだろうか?
  義人ですら、辛うじて救われうるというのに?

Rex tremendae majestatis,
qui salvandos salvas gratis,
salva me fons pietatis. 

  威厳に満ちた恐るべき王よ、
  救われるべき者を無償で救われる御方よ、
  いつくしみの泉よ、私をお救いください。

Recordare, Jesu pie,
quod sum causa tuae viae:
ne me perdas illa die. 

  思い起してください、いつくしみ深いイエズスよ、
  あなたの御生涯が、私の救いのためであった事を。
  かの日に、私を滅びへと渡さないでください。

Quaerens me, sedisti lassus:
redemisti Crucem passus:
tantus labor non sit cassus. 

  あなたは私を探し求め、疲労のあまり座られ、
  私の贖罪のために十字架の苦しみをも忍ばれたではありませんか。
  これほど大きな労苦を、空しくなさらないでください。

Juste judex ultionis,
donum fac remissionis
ante diem rationis. 

  処罰を怠らない正しい審判者よ、
  決裁の日の前に、
  赦しの賜物をお与えください。

Ingemisco, tamquam reus:
culpa rubet vultus meus:
supplicanti parce, Deus. 

  私は被告人のように苦しみのうめきを上げ、
  私の顔は、あまりの恥ずべき罪過のゆえに赤らみます。
  神よ、願い求める私に、罪の赦しをお与えください。




Qui Mariam absolvisti,
et latronem exaudisti,
mihi quoque spem dedisti. 

  マグダラのマリアに赦免を与え、
  盗賊の願いを聞き入れられた御方は、
  私にもまた、希望を与えてくださいました。

Preces meae non sunt dignae:
sed tu bonus fac benigne,
ne perenni cremer igne. 

  実に、私の祈りはふさわしくありませんが、
  あなたの善良さゆえに、私を恵み深くあしらい、
  燃え盛る永劫の炎に投げ入れないでください。

Inter oves locum praesta,
et ab haedis me sequestra,
statuens in parte dextra. 

  羊の群れの中に、私の居場所をお与えください。
  私を山羊の群れから引き離し、
  右側に立たせてください。

Confutatis maledictis,
flammis acribus addictis:
voca me cum benedictis. 

  呪われた人々は押し黙り、
  激烈な炎に加えられます。
  祝福された人々と共に、私を呼び寄せてください。

Oro supplex et acclinis,
cor contritum quasi cinis:
gere curam mei finis. 

  私は祈り、願い求め、身をかがめて、
  心が灰になるまで、痛悔いたします。
  私の最期の日に際しても、善い配慮であしらってください。



Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
 
  かの涙の日には、
  灰の中から復活し、

judicandus homo reus.
Huic ergo parce, Deus:

  罪の負債をもつ人間は、裁きを受けることになっています。
  それ故、これをお赦しください、神よ。

Pie Jesu Domine,
dona eis requiem. Amen

  いつくしみ深い主イエズスよ、
  彼ら(死者の霊魂)に安息をお与えください。アーメン。




3.神の法律



 この、道徳上の法律の対象は、驚くべき普遍性の特徴を備えている。
 つまり、全ての人にとって、それは同じである。

 何人も、盗み・嘘・不潔などを罪と認めている。

 古代ローマの歴史家スエトニウスは、皇帝ティベリウスの堕落した生活を物語るにあたって、それを悪としている。
 悪いことをして恥を、良いことをして楽しみを感じるのは万人みなである。その中には、凡人も、賢者も、人類の恩人もいる。
 しかし、およそ2000年前の社会情勢を見るとき、私たちはそこに、極度に堕落した世界を見出し、この道徳上の法律だけでは不十分なことを理解する。

 古代の民族文化にも、他の民族を奴隷にするという堕落があった。
 そして、このために人類は、天からの愛の法律を必要としていた。
 人間は自分たちのうちに、まことの愛を見出すことが出来なかった。

 不潔な風俗は売春と猥褻に、宗教上の崇敬を与えるという極端な倒錯にまで走っていたが、人類は、まことの愛を、原初の品位に戻すために、天からの特別な助けが必要であることを感じていた。

 ユダヤ民族は、旧約聖書にあるとおり、他の全ての民族よりも先に、天からのこの声を聞くようになっていたが、この声に逆らい、そのたびに堕落していった。

 文化人を誇っていた当時の芸術家、また、古典的傑作といわれる著者たちを眺めよう。
 人権を高く評価していたチチェロですら『奴隷は、人間の声を持つ動物に過ぎない』と冷然と断言している。また、皇帝たちが当然のことのようにそのしもべたちに許していた放縦な生活と残酷な行ないを思い起こそう。


 しかし、どうして過去のことを持ち出す必要があろう?
 現代の世界もまた、幾多の悲惨な、愚かしい光景を見せている。
 多くの現代人は、わがまま勝手で、自然法を守らないのみか、弱い自然法の実行を助けるために天から降った神の御声に、注意も、心も向けようとしない。
 神は私たちに向かって、『子よ、あなたは自分ひとりでは何も出来ない』と仰せになっているようである。

 神はまた仰せられる。

 『子よ、あなたにもこのことがわかるはずである。
 しかし、どうすることも出来ない。
 だが私の場合、全てをまことの愛によって豊かにされ、包まれているので、善い実を結ぶのである。

 私はあなたを愛している。だからこそ、あなたに話したい。

 あなたが自分の中に持っている善の小さな炎、ひと吹きの風にも消されてしまうその炎を、私は消そうと望まない。
 それを、初めてあなたのうちに灯したのは、私だからである。

 もし、天から降る私の神としての言葉をもって、あなたの中にあるこの小さな炎を大きくし、強くし、ますます光り輝くものとして、その光に従って生活するなら、あなたは聖なるもの、完全を目指すものとなるだろう。
 あなたは人類の大恩人となり、人類の中に、偉大な足跡を残すだろう。

 子よ、私の言葉を聞きなさい!』



1920 10.4



 主は傷ついた聖心をお示しになり、仰せられました。

          『忠実でない霊魂が、聖心をどんな有様にするかをごらん。
      彼らは、私がどれほど愛しているかを知らない。だからこそ、私を見捨てるのだ。
          せめてお前だけは、私の意思を行ないたいと思ってくれるか?』


 私は黙っていました。
 けれど、私自身の全てが、『否』と答えていました。

 主は見えなくなりました。
 私は主のお気に障ったと感じました。
 まるで稲妻のようにお消えになったのですから。





1920 10.5



 聖母が来られて仰せになりました。

 『もしあなたが、我が子の御旨を拒むなら、聖心を傷つけるのは、あなたです。
  主がお求めになることは、全てお受けなさい。
  でも、どんなことも自分の手柄としないようになさい。
  私の娘ヨゼファよ、謙遜になりなさい』


 聖母は、深い憐れみを込めたまなざしで、私をみつめられてからお消えになりました。





1920 10.8


 聖母は仰せになりました。

 『わたしの娘ヨゼファよ、あなたは次のように、主に祈りなさい。

      「御父よ、私があなたの最も聖なる御旨を果たすにふさわしくなりますように。
                私はあなたのものだからです」

  神の聖心はそれに反対されることはありません。
  これほど善い御父の御手の中にあるのですから、これ以上何を望みえるでしょうか?』



 私は聖母に向かって、私の奉献を受け取りになられて、それをイエズス様にお伝えくださるようお願いいたしました。


使徒聖パウロの書簡


ガラテア6.7~10


7 Nolite errare: Deus non irridetur. 
Quae enim seminaverit homo, haec et metet; 

  思い誤ってはならない。神を侮ってはならない。
  実に、人は自分で蒔いたものを、自分で刈り取ることになる。

8 quoniam, qui seminat in carne sua, de carne metet corruptionem; 
qui autem seminat in Spiritu, de Spiritu metet vitam aeternam. 

  自分の肉欲のうちに蒔く者は、肉から腐敗を刈り取ることになる。
  一方、聖霊の望みのうちに蒔く者は、聖霊から永遠の生命を収穫することになる。


9 Bonum autem facientes infatigabiles, 
tempore enim suo metemus non deficientes. 

  たゆまず善を行ない続けるならば、
  時が来て、必ずやその朽ち果てることのない実りを収穫することができる。

10 Ergo dum tempus habemus, 
operemur bonum ad omnes,

  それ故、私たちにとってまだ時間のあるうちに、
  全ての人に向けて、善を行なうことに努めてゆこう。





Quae enim seminaverit homo, haec et metet!

義の富について




         Ubi est thesaurus tuus, ibi erit et cor tuum,
      「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マテオ6.25)

 人間の富とは、その実りの集約、働きの収穫でなくてなんでしょうか?

          Quod enim quis seminaverit, hoc et metet.
    「実に、人は、自分の蒔いたものを、刈り取ることになる」(ガラツィア6.7)

 地上のものではなく、上にあつものに心のまなざしを注ぎ、滅びゆくものではなく、永遠のものを追求する人は、主において朽ちない財宝を持っています。

 その主について、預言者は言っています。

             『私たちの富と救いがやって来た。
             主から与えられる知恵と知識と慈善、
               これこそ、義の富である』


 神の恵みに助けられて、この義の富によって、地上的な財でさえ、天上の富へと変えられます。
 それは、多くの人々が正当な遺産として受け継いだ財産か、もしくは他の方法により取得した財産を、慈善のために使うときのことです。

 その人々は、余ったものを施して貧者を養う時、決して失われることのない財産を、自自分のために積み重ねることになるのです。

 彼らが施しとして手放したものが、何らかの事件で失われることは、決してありません。
 彼らの場合、まさに自分の富のあるところ(天)に、その心もあるからです。


 このような天上の富を殖やそうと努めることは、実に幸いです。
 その富が失われることを恐れる必要などないからです。



旧約聖書の教訓書から


集会(シラ)7.28~30


28 In toto corde tuo 
29 honora patrem tuum
et gemitus matris tuae ne obliviscaris.

  あなたの心を尽くして、
  あなたの父親を敬いなさい。
  あなたの母親の苦しみのうめきを忘れてはならない。

  
30 Memento quoniam, 
nisi per illos, natus non fuisses;
et quid retribues illis, 
quomodo et illi tibi?

  思い起こしなさい。
  彼らによらなければ、あなたは生まれていなかったことを。
  あなたは彼らに何をもって報いるつもりなのか?
  また、あなたにしてくれたことについて、彼らにどのようにして報いるつもりなのか?




    Honora patrem tuum et gemitus matris tuae ne obliviscaris!

2.内的法律(前回の続き)



 この良心の呵責は、しばしば人々に涙を流させ、ある人に、公にその罪を告白させたこともある。

 ある日、私は、断頭台にのぼってゆく一人の囚人が「正当な罰だ!」と叫ぶのを聞いた。
 誰が彼に、この言葉を言わせたのだろうか?それこそ、この最後の瞬間に、真理の勝利を要求していた、この良心でなくてなんであろう!

 もし良心がないなら、罪を犯しても恥ずかしいとも感じることなく、また良い行いをしても、楽しみを感じることもないだろう。


 良心とは、善を行なうための努力に次ぐ、喜びの広がりである。嘘が全てを散らした後に、真理を集めることである。

 なんの咎めもない良心こそ、真に微笑むことができる。
 良心は、私たちの行ないの善悪によって、報い、あるいは処罰する。


 全ての偽りの喜び・悪意・偽善・人を陥れるおしゃべり・偽りの上に、良心は立っている。
 もし人が、いつも良心の声に聞き従うなら、なんと幸いなことだろう!
 しかし、良心の声に従おうとしない人に対しても、良心はその威厳を保っている。



 彼らは人を欺くために、良心を引き合いに出す。彼らは言う。
 「私の人間としての良心にかけて誓う」「私はまったく良心的に言おう」と。
 彼らは、真理を話さないときにも、時分の言葉に値打ちをつけるために「良心」という言葉を使う。


 いにしえの賢者たちも、良心の現存と価値を認めていた。
 セネカは、自分の先生であるアテノドロスの次の言葉を引用する。

 「私たちの中に、ひとつの尊い霊が住んでいる。それは、私たちの善い考えや悪い考えを監督し、守るものである。
 あなたが正直な人として何かを行なう時、全ての人にそれを知られてもよいだろう。
 しかし、あなたが堕落する時、あなた自身がそれを知っているのなら、他の全ての人がそれを知らないからといって、それがなんの役に立つだろう?」



 主は仰せになりました。


 『私の手のうちにいるならば、何を恐れることがあろうか?
  聖心の善意と、お前に抱く愛を、決して疑ってはならない。

  お前に望むことは、私がお前を呼ぶ時はいつでも、
  私の聖心を慰めることができるよう、いつも心掛けておくことである。


  1人の忠実な霊魂から受ける慰めは、
  他の霊魂が私に加える多くの冷淡・無関心による悲しみを償うのである。

  お前はしばしば、私の心痛そのものを、心に感じるであろう。
  それはどれほど、私の苦しみを和らげてくれることか!

  恐れるな。私はお前と共にいる』



「3年の部分免償」とか「500日の部分免償」ってどういう事ですか?




 ありがとうございます♪

 まず『部分免償』については『過去のご質問の回答』書庫の 2006/9/25(月) 午前 6:59付け『☆罪の赦しをいただくためには☆』、そして2006/10/19(木) 午前 0:08付け『☆部分免償とは☆』をご覧くださいませ☆・゜:*:゜


『免償』それ自体は、罪の赦しではなく、すでに赦免された罪に関わる『罰の免除』を意味しています。


 教会の古い贖罪規定によれば、痛悔した罪人は一定期間、例えば「40日間」「300日間」あるいは数年にわたり一定期間、『痛悔者の階級(ordo poenitentium)』に加えられ、教会が定めた贖罪行為(典礼参加への制限・聖体拝領の制限・苦行の実行等)に服していました。


 それは次第に『祈り・断食・施し』といった善業による「償いの方法」や、「教会の代祷による免除」へと移行してゆき、贖罪期間も大幅に短縮されました。

 この『贖罪期間の短縮』こそ、教会の介入(教会の頭である主キリスト、キリストの神秘的体である諸聖人の功績の分配)による『免償』に他なりません。

 それ故「3年の部分免償」「500日の部分免償」とは、本来「3年間」あるいは「500日間」にわたり教会規定の贖罪行為に服役すべき期間を、受ける免償に応じて、罪の罰の償いを免除されること、を意味しているのです。


 「3年の部分免償」「500日の部分免償」という表示は、かつて免償をいただくためには、各々に表示されるような上限が設けられていました。

 そして、歴代の教皇聖下によって、次々と同じ祈り文に賦与される免償の上限が「100日」「300日」「500日」「3年」「5年」「7年」「10年」といった具合にUPしていきました。

 このため、教皇パウルス6世聖下は、1967年1月1日付け文書で『部分免償については、これから後については、日数や年数の上限を加えることはせずに、ただこの「部分免償」とのことばをもって表わす』と規定されました。


 これにより、現在は『本人の信頼の度合いに応じて、際限なく部分免償を受けることが出来る』ようになりました。


 このブログ内での「3年の部分免償」「500日の部分免償」の表示は、「~年の(日の)部分免償が付与されたことがあります。」としているように、『かつてこの祈りはこのような上限の免償が賦与された事実があります』との主旨でございます☆・゜:*:゜


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